Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

『微笑みのプレリュード』最終話

2016-09-28 07:00:00 | 自作小説4
7

「……なるほど、そうだったんですか」
とハナが言うのを聴きながら、クニヒロも、そうだったのかとこころの裡で呟いた。
 『フラエ』には、現実社会の世知辛さ、辛辣さなどへのカウンターという意味を込めたという。世間のこすっ辛さに対して、このRPGの世界があるというようにしたかったらしい。また、制作した二〇〇二年から二〇〇三年にかけての時期からも窺えるように、二〇〇一年の9・11テロとそこから続くアメリカによるアフガン攻撃や、イラク戦争にも影響を受けているという。イスラム原理主義とキリスト原理主義の間の戦いから感じられる善とは何か、悪とは何かというテーマ。それについても考えつつ作ったのだが、ちゃんと昇華できたかはわからない、いや、全体を通しても丸ごとちゃんと昇華できたのかもわからないかなといって、ケンゴはあたまを掻いた。しかし、
「つたないながらも、ひとのこころと密接につながるような内容にはなったと自負しているよ」
と穏やかに言った。そして
「だって、ハナさんやクニヒロくんみたいにこのゲームを今でも好きだって言ってくれる人たちがいるんだから」
と続けた。
 クニヒロは、ケンゴが『フラエ』というゲームを作り世の中に放ったことは、殺戮や破壊などを行わない手段での社会への温かなテロと言えるかもしれない、と思った。少なくとも、クニヒロとハナはその放たれた温かさに包まれて、今日まで生きてきたのだった。うまくいくかどうかもわからずに一心不乱にケンゴが『フラエ』を作っていた姿をクニヒロは想像すると、その格好良さにしびれる思いがした。
 ケンゴが
「でも、金銭的なリターンがまったくなかったからなあ。貧乏ひま無しでくたびれ儲けだったよ」
と笑ったのをうけて、クニヒロの表情も少しやわらいだ。ハナも興味深くケンゴの話に耳を傾けている様子で、話に引き込まれている証拠のように、そこですぐさま笑顔を見せた。
 クニヒロはハナを最初にみたときにはその美しさに動揺したのだったが、今この笑顔をみたとき、ハナに儚い感じを覚えた。儚く、色がなくて、そのまま透きとおって消えてしまいそうな気配すらした。そんなハナという存在をきちんと現実のほうへ手繰り寄せないといけないのではないかという使命感に近いようなものを、このときクニヒロは抱いたのだった。
 ケンゴへの質問が続いていく。クニヒロに
「いい?」
と了解をもらったうえで、ハナがさらに質問をした。
「ミカに与えられた四つの試練には何か隠された意味はあるんですか?」
「一つ目が聖なる泉で身を浄める試練。二つ目が廃墟の教会の闇の中で悪魔の誘いに屈しないで跳ね返す試練。三つ目が神学を学んで、法王の試験を合格する試練。四つ目が強欲な人間を一人改心させる試練だったね、知っての通りだと思うけど。ここで善とされるものと悪とされるものとが交互に出現してるのがわかるでしょ。わしはさ、そうやって、ミカに善と悪を往復させて、プレイヤーともども学ばせるというか、経験させるというかそういうスタイルにしたんだよ。そうやって最後の試練をクリアした後、ミカが出す答えにつなげたんだよね」
「……最後にミカは人間になった」
とクニヒロはようやく小さな声を出した。
「そう、そこなんだよ。人間なんて善と悪のこんがらかった存在でしょ。性善説とか性悪説とかあるけどね、わしは性善とか性悪も峻別できないのが人間という生きものだと思ってる。業が深いといえば深いし、反対に素晴らしいこともする。善と悪を往復しながらバランスをとって生きざるを得ないのが人間で、その原因って人間が高い知性をもって社会をつくる生きものだというところにあると思ってる。たとえば人間がトラのように単独で狩りをして生きていく存在で知性もそんなに高くなければ、生きるための善だけで生きていくように思うんだよ。悪って概念はね、やっぱり知性が関係しているし、他者の存在があってその利害のために生まれると思うんだ。自分の利益を考えるだけなら悪じゃないけれど、そこで他者に損害が与えられてそれを知性が悪だと判断して悪になるわけだよね」
 さらにケンゴは続ける。
「社会の中で自分をよくしたいという欲望や欲求の通りに行動して社会に働きかけたとき、そのおかげでどこかの誰かが泣いているわけだ。つまり、そこに悪という概念が生じる。そりゃ、しょうもない悪もあるけどね。利己的すぎる悪なんてものもある。殺人だとか盗みだとかそうだろうね。だけど、さっきも言ったように、人間の知性が低くて社会という群れもなければ、それぞれの個体のふるまいは生きるための善なんだよ。野生には人間からみれば残酷な行いもある。でも、そうは見えても実のところ野生に悪はないんだ。損害を受けた個体も損害を受けただけで、そこには善悪というよりか勝ち負けしかないかもしれない。生きるための善なんだ、シンプルに。知性の低い野生動物的なモラルってあるでしょ、余計な殺生はしない、というような。知性は生物の欲望を拡大してしまうんだ。そこで公平さっていうものが求められることになるけれど、公平さが隅々までいきわたる世界なんて絵空事だとわしは思うんだよね。話は戻るけれど、ミカが人間になったのは、天上界という世界をフラットな目でみれば、低い知性の野生動物的で牧歌的な世界だと気づいたからなんだよ。そりゃあ、人間を裁く地位にはあるけれど、善の一点張りにはあまり高い知性は感じられない。それでミカは高い知性の可能性を慮って、そしてそこに賭けて善と悪の混じり合った乱雑な人間界に生まれ直したんだよ。それがほんとうなんだと考えて」
とケンゴが一気に話したのを聴いたとき、ハナが
「……それだけのことを二十代のときに考えていたんですか?」
とややかしこまった眼差しをケンゴに向けた。ケンゴは
「いやいや、制作時はもっとぼやっとしたイメージだけで、言葉になんかあんまりなってなかったです」
と言葉の上では控えたようだが、その顔はまさにドヤ顔と呼ばれるものだったのをクニヒロは真正面から見てこころの中で苦笑いしていた。
 ハナがそんなケンゴに再び
「でも、『フラエ』は難しい感じのゲームではなくて、温かいRPGでしたよ。随所にキュンとくるようなセリフだとかシーンだとかありましたし」
と簡単な感想を述べると
「制作者のくせにイメージで言うんだけどね、『フラエ』は世間の世知辛さってものを自覚してなおかつ包み込んでしまいながら生きていこうっていうのがテーマなんだと思う。良い所や悪い所の片方ばかりを見ずにどっちも認めて自覚して、それでも前を向いて生きていこうっていうテーマかなあ。だからとげとげしくはならなかった」
とケンゴがアゴを手でさすりながら言った。
 それを聴いて、クニヒロには、だからこのゲームが今になっても大事な思い出になってるんだなとわかった気がした。そのとき
「……だから、私、生きていけてるんだな」
とハナがぼそっと言うのがクニヒロに聴こえた。ケンゴもそれを聴き逃さずに
「生きてると辛いことはたくさんあるけれど、楽しめるものと生きる上での芯みたいなものがあればなんとかなったりするよね」
と目じりに皺を寄せた優しい表情でハナを見つめたのをクニヒロは眺めつつ、自分も何かを言いたかったのだが、適当な言葉が出てこないため、黙っていた。
 ハナが静かに告白を始める。
「わたし、二年くらい前に交通事故に遭って、あと少しタイミングがずれていたら死んでいたかもしれなくて。それで、その日以来、なんだか生きている実感が希薄で、なんで生きているんだろうって考えちゃうんです。他人からみて影が薄く映りもするようだし、ほんとはそのことにだって反発したいんだけど、湧いてくるエネルギーがないの。昼間でも、夢見心地のようにふわっとした気持ちで過ごしている時が多いんです。このままじゃ、時間の流れに流されるまま、ずっと生きていっちゃうって思ってました。自分で時間の流れを漕いでいく、泳いでいくっていうやり方をあの時失くしてしまったんじゃないかなって思ってました。そして、そんな、失くしたやり方を無意識に探そうとしていたんだと思うの。だからふわっとしちゃって。……なんて重たい話だけれど、それでもなんとか生きていけてるのはきっと『フラエ』の世界を経験したおかげだって、今わかった気がします。なぜなら、あのゲームも喪失と再生がテーマだから。ケンゴさんが今おっしゃったような人間の世界の善と悪の入り混じった在り様を、正面から見つめることができなくて逃げていたのがわたしなんです。でも、そんなわたしでも『フラエ』のことはずっとこころのどこかに残っていました。わたしはわたしが自分の重みを持って生きていくためのよすがとしてのものが『フラエ』なんだということを感覚的にわかっていたのかもしれない。……今日、お話できてほんとによかったです。『フラエ』にその答えがあるように思うんです」
 そして、その瞬間、三人はお互いを見やりながら、温かな微笑みを浮かべた。『フラッピング・オブ・エンジェル』の世界を知る者にとっては、その世界を思い出すことが微笑みにつながる。いわば、『フラッピング・オブ・エンジェル』を想起することは、微笑みのプレリュード(前触れ)だった。
「嬉しいです」
とケンゴが真っすぐな視線でハナを見ている。
 そしてハナの告白につられるように、思いもかけずクニヒロは二人に向けてとつとつと語り出した。
「ぼくの話をしていいですか。……おわかりかと思いますが、ぼくは緊張しいで人見知りで口下手です。子どもの頃はもっと喋れたんですが、中学生くらいからこうなんです……。何故だろうといつも考えてたんですが……。でも、お二人の前なら、いつもより喋れるような気がしています。……『フラエ』が橋渡ししてくれるから話しやすいっていうか」
すると、ハナが
「『フラエ』のことを好きなひと同士って、なにかを共有できているんだと思う。だからわたしも話せたし。クニヒロくんも気にしないで話してくれれば、わたしはちゃんと聞くよ」
と言った。
 それを受けて、クニヒロは
「……ハナさん、ありがとうございます。話すのが苦手なのは、緊張する自分が自分からみてもバカみたいに見えるっていうのがあるのかもしれないです。自分でもバカに見えるんだから、他人にはなおさらバカに見えるなあって感じている部分があって、それで話をしたくないのかもしれない」
 そこでケンゴが
「そこまで自己分析できてるのなら、話は早いよ。クニヒロくんは、小さい頃、クラスの発表かなにかで緊張して話す友だちを見ていて、バカにしてたフシはないかい?わしには、クニヒロくんがかつての自分のように他人が内心自分をバカにして笑うのではないかと気になってしゃべれなくなったように思えるんだけどなあ。厳しく言えば、そういうところはクニヒロくんの落ち度であり、若気の至りなんだけどさ。でも、世の中バカにする人ばかりではないから。そうじゃない人との付き合いを深めていくことで、話すことにもなれていくんじゃないのかな。わしは気にしないよ」
と微笑むと、
「わたしも」
とハナも微笑む。
 そんな二人をみて、照れながらクニヒロも小さく微笑んだ。そうかもしれないな、とクニヒロは思った。
 さらにケンゴは
「自分を開いて相手にみせる。それって大事だと思うんだよね。自分を表現できなかったり、隠していることが多かったりすると、ひとって息苦しくなるじゃない?自分のことをひとに話すって精神衛生上いいことだと思うし、他人にしたって、正確に相手のことがわかるほうが、困ったときの助けになってあげやすい。最初は勇気がいるだろうけれど、自分を開いていこう」
とクニヒロを励ましてくれたのだった。
 アドバイスをくれたり、『フラエ』という言うなればヴィジョンを見せてくれたりしたケンゴは、まるでラミエルのようだとクニヒロは思った。
「ケンゴさんはラミエルのようです」
と率直に伝えると、ハナも
「そうそう、わたしもそう思ってた」
と賛意を示し、ケンゴが
「ラミエルが見せた幻視みたいかな、『フラエ』って。アドバイスもしちゃったりして。そうかそうか、わしがラミエルみたいなもんか」
とそこでまた自信たっぷりな表情を見せたのだった。

 喫茶店を後にして、焼き肉でも食べようということになり、三人は地上へ出てしばらく歩き、焼き肉店ののれんをくぐった。
 掘りごたつの個室に案内してもらい、飲み物や肉が来るまでの短い間になにげなくハナがスマホをいじっていると、彼女はツイッターになんと炎の王子からのリプライが来ていたことに気付いて、
「『フラエ』コミュサイトの閉鎖、おめでとう!しかし、こんなところでまでまだつるんでいるとはけしからんな。燃やし尽くしてやる!覚悟するように」
という内容のそれをクニヒロとケンゴにも見せた。クニヒロは
「なんてしつこい」
と嫌な顔をした。
ハナはブロックしようかどうか迷っている様子だ。
「炎の王子って、寂しい奴かもしれない」
とケンゴが、なによりも自分自身が寂しそうな顔をして小さく独りごちたのを、クニヒロは横で確かに聞いた。
どうしようか、というもやもやした雰囲気が部屋に生まれ、飲み物を手に引き戸を開けた店員の
「お待たせしました!」
という威勢のいい声すらくぐもって聞こえた。

8

 ハナのなかに、モノや場や関係というものは、作るのは大変で壊すのは簡単な尊いものだという意識が生まれた。『フラエ』のファンサイトが荒しによって閉鎖に追い込まれ、その荒しが今度はハナとクニヒロとケンゴの関係にまで触手を伸ばしてきたことに起因していた。
 ケンゴが
「受けて立つことにするかな」
と明るい表情を見せる。
 炎の王子のプロフィールを開いてみると、フォロワー数は4521人で、フォロー数は56人だった。クニヒロが
「随分、支持のある荒しなんですね。どんなツイートをしてきてるんですか?ぼく、ガラケーなんでツイッターを開くのはちょっと面倒なんです」
と恥ずかしそうな顔をする。
 ハナは炎の王子のTLを開いて二人に見せた。
「サービス残業に文句を言う輩は自分が能力不足であることを承知していない。能力があれば残業になどならないはずだ。それを残業にまで引き延ばして超過の賃金をもらおうなんて、図々しいったらありゃしないな!」
「ニートなんて豚は、抹殺されてそれこそ家畜のエサにでもなるべき。他人より劣等感を多く抱えた存在だと?劣等感という名のぬいぐるみを抱いてスヤスヤおねんねしてるんだろ!抹殺しかないな!」
「我々はアジア唯一の王者にならなければならない。くだらん娯楽にうつつをぬかしている暇があるなら、そんなことに時間を使わず働くことだ!じゃないと社会から締め出すぞ、コラ」
などなど気の滅入るツイートが続き、「ハタ迷惑」「足を引っ張るな」などの言葉が多く目につく。そして、あの「燃やし尽くしてやる」のセリフもまた見られた。フォロワー数が多いのは、支持者がいるのかもしれないし、おもしろがられているだけなのかもしれない。ハナにはよく判断がつかなかった。
 ケンゴが言った。
「たぶん、こいつはネット弁慶なんだと思うよ。ネットによる自己肥大」
 クニヒロが
「……それならぼくもネットでならよくしゃべるし炎の王子に近いのかもしれないな」
と弱々しくつぶやいた。
 そこをまたケンゴが
「いや、クニヒロ君とは違って炎の王子はダークサイドに堕ちちゃってる。彼はある意味、堕天使だね」
と言った。ハナは
「どうします?ブロックしようと思ってたんだけど、ほんとうに相手にするんですか?」
とあまり乗り気ではない。
「相手のツイートをそのまま表記させる引用ツイートで返信してみよう。わしが思うに、炎の王子のツイートは一般的なひとたちの目には耐えられないような、そんなに力のあるツイートじゃないよ」
とのケンゴの提案に、でも、とハナは言う。
「わたしのフォロワーさんって60人かそこらだから、影響力はないんじゃないかな……」
「じゃ、ぼくのアカウントから返してみましょうか?絡んだことのないひとばかりだけれど、300人はフォロワーがいるんです」
とクニヒロが勇気を見せる。それを受けてケンゴは、
「三人で彼からのハナさん宛てツイートを引用返信してみよう。わしのフォロワーは500人くらいいるかな。でも、二人ともわかってると思うけど、彼にケンカを売るような返し方をしちゃいけないよ。それじゃ、同じ土俵にあがってしまうことになるからね。ミイラ取りがミイラになってしまうと思う。落ち着いて返そう」
とまとめ、ハナとクニヒロは同意した。
「そら、どんどん肉を焼いて食べよう。わしはもう腹が減りすぎて倒れそーだー…」
とケンゴが上体をふらふらさせておどけた。ハナは笑って
「そうですね、この件はひとまずここまでですね」
と言い、クニヒロにも微笑みかけた。そこでクニヒロが照れの混じったさわやかな微笑みを浮かべたのをハナは見て、はじめて彼に愛おしさを感じたのだった。

 部屋に戻って上着をハンガーにかけて、ハナはすぐさまスマホからツイッターを読み込んだ。あの後、炎の王子からのアクションはなかった。しかし、ケンゴはもう行動を起こしていた。クニヒロのほうはまだ帰路の途中なのはわかっていた。
 ケンゴの炎の王子への引用返信には、
「横から失礼します。私は『フラエ』をつくったお邪魔店長です。あなたはコミュニティサイトを閉鎖に追い込んでおいて、まだ物足りないのですか?なんの恨みがあるのでしょう?」
と書かれていた。きっと彼はケンゴに噛みついてくるだろう、とハナは思った。
 彼女はオーディオスピーカーからアコースティック系のポップスを小さく流れさせ、こころを落ち着かせながら彼への返信を考えた。ほんとうなら強い口調で文句を言ってやりたいのだけれど、そんなのただのネット上のケンカになってしまうし……。
 ハナのこころが西を向き東を向き、上を向き下を向いて、疲れてきたところで、こう悟った。引用返信にこそ意味があるのだから、静かに短く文句を言わせてもらおう、文句は言わないと……。
「わたしたちに関わらないでください。大事な場所を壊して、まだ満足できないんですか?というか、こういうことをして影で喜んでいるあなたはちょっとオカシイと思います」
と書きこんだ。
 するとハナは、これでどうなるだろう、という先が読めない不安に急に襲われて穏やかではない気持ちになってしまった。イヤだ……とツイッターを閉じてスマホをテーブルに置いた。そして、思い返したのはクニヒロとケンゴに会っていた時間のことだった。
 クニヒロには当初、彼の強い緊張感のため打ち解けるのが難しいかと思っていたが、彼女と彼それぞれの告白ののち、何故かお互いの気持ちは雨の後の虹のような必然性をもって、カラフルな架け橋でつながったように感じられるようになっていた。たまに投げかけられる伏し目がちだったクニヒロからの視線には、何度か強い引力のようなものをハナは感じていた。それもやさしく、あたたかい、包み込んでくれそうな予感のする引力だった。
 そしてそこからハナに生じた感情は、中学三年生のころ好きだった、あのラミエルと重なって見えた男子に感じた嬉しさによく似ていた。そのときの気持ちを思い出しながら、ハナは今までのスタイルである、できるだけ人との付き合いを少なくして、一日の密度のようなものを薄くして生きてきた日々を想った。
「まだ、生きろ」と聴こえた気がしたあの声は、きっと自分の内なる声なのだという気がし始めていた。わたしは、自分の生の力に気付けていないし、気づこうともしていなかった……。そうハナはこころの中でつぶやいた。
 躍動する生を渇望する欲求を多かれ少なかれ人は誰でも持っているものだが、彼女はその欲求に気付けていなかったし、目をそむけていたことにいまやっと気づいたのだった。
 ハナの頬に熱い涙が一筋、流れた。
 きっと正面を向いて生きていく方がいいんだ。きっとわたしは変われる……。
 ソファに座ったハナのこころの熱が、両手でかかえていた格子柄でピンク色のクッションにも移っていく。彼女は力の限り、そのクッションを抱きしめた。ぎゅうっと、ぎゅうっと。それでも、彼女のこころから溢れでるエネルギーは止まらず、どんどんピンク色のクッションに注がれていく。
 ハナのこころは生きるほうへ向かって喜びの叫びをあげていた。

9

 中古の軽自動車を快調に運転し、深夜零時近くにクニヒロは帰宅した。
 ノートパソコンを開いてツイッターをチェックしてみると、すでにハナとケンゴが炎の王子へツイートを返していることがわかり、その中身を慎重に吟味しながら読んだ。一時間五〇分ほどの運転中に、何度となく炎の王子への返信内容を考えていたクニヒロだったから、いざツイートする段になっても、あまり考えずにすらすらと言葉が浮かんできた。
「炎の王子さん、もうやめませんか、他人の楽しみを奪うのは。あなたにもきっと生きる上での楽しみってあるでしょう?まさか荒しをすることが一番の楽しみではないですよね?『フラエ』談議はぼくらのささやかな楽しみなんです。理解してくださいますよう」
 明日も休日であることを確認するかのように思い出して、クニヒロは二人との会合を思い起こしつつ布団に入った。悪くない一日だった。

 ぐっすりと長く心地よく眠った。自然に覚めた眼で時計を見ると午前一〇時少し前だった。熱いシャワーを浴びてから、下着姿でピーチジャムを乗せたパンをかじる。不意に、炎の王子に三人でツイートを返したことを思い出し、どんな反応が起こったかが気になり、確認するために急いでノートパソコンの起動ボタンを押した。
 炎上していた。炎の王子以外の、彼の取り巻きか便乗する者か、とにかくいろいろなひとからの罵倒まがいの返信がクニヒロ宛てに殺到していた。この分だと、ハナやケンゴも同じような目に遭っているだろう。ひどいものだ、とクニヒロは悲しくなった。『フラッピング・オブ・エンジェル』が好きなだけで、どうして多数の知らない人間から叩かれたり、クズ呼ばわりされたりしなければいけないのだろう、そう無常感を感じた。
 ハナとケンゴのTLを開いてみると、各一度だけ、それから炎の王子宛てに反論する引用返信ツイートをしていた。それでも、そんな抵抗を嘲笑うように、炎上は続いていた。クニヒロは彼もまた二人と同様に覚悟して、炎の王子へツイートを引用する返信をした。
「みなさん、このツイートを見てください。こんな誹謗中傷って許されるものでしょうか?ある昔の真っ当なオンラインRPGを好きなだけで、そのファンであるぼくらを叩きつぶそうとしてる」
 さらに、通常のツイートで、
「リツイートしたこの炎の王子というひとは、件のオンラインRPG『フラッピング・オブ・エンジェル』のファンサイトを閉鎖に追い込んでもいます。傲慢なエゴイストが、卑劣な手段で破壊を楽しんでいるんです。どうですか、みなさんどう思いますか?」
とフォロワーに訴えたのだった。その後、すぐには動きがなかった。しかし、ちらほらとクニヒロのツイートがリツイートされる通知が届き始めた。そのうち、同情する返信が届き始め、その返信をリツイートしてクニヒロはさらにフォロワーに訴えかけた。すると、ハナとケンゴもその動きに気付いたようで、クニヒロが最後にした引用返信とツイートの二つをリツイートしたのだった。
 そうして数時間が経過した。
 炎の王子は炎上していた。
「おまえ、やりたい放題なんだってな。人目につかないと思って強気なんだろうけど、そうはいかないぞ」
というツイート、
「おれも『フラエ』やったことあるわ。別におかしなゲームじゃなかったぞ?何に根を持ったんだ?」
というツイート、
「なにいい気になってんだよ、てめえ、カスだな。ちゃんと謝罪しろ」
というツイートなどなどが次々と炎の王子宛てに押し寄せていた。
 逆炎上。
 こうなっては炎の王子のハンドルネーム自体が皮肉なものだ、とクニヒロは喜びと興奮と哀れみの混ざった複雑な感情で、勝負がついたことを理解した。
 その日のうちに、炎の王子のTLは表示されなくなった。きっと、アカウントを削除する手続きを行ったのだ、とクニヒロは判断した。

 クニヒロの住む町は、天使の街ではないし、悪魔の街でもないが、その穏やかさゆえに天上界めいているとも感じられたし、経済が冷え込み町の財政も厳しく、高齢化しても公的なものや私的なもののどちらにしても福祉は手薄く、公共サービスの住民負担度も高く、地獄めいているとも感じられた。それに農業でも製造業でも観光業でも打開策がなかった。
 そんな夕張という街に安住していては、クニヒロは天使もどきで悪魔もどきなんじゃないか、人間的な人間としての生活をできていないのではないかと考え始めた。
 ようやく暖かな季節が到来し、乾いた心地よい風に頬を撫でられながら、クニヒロは食品工場への道を歩いていく。
 かつてここに住まっていた多くの人たちのように、離れてしまえば楽になるのだろうか。離れてしまうといっても、見捨てたのだなどという慙愧の念に捉われてしまうとすれば、それは違うと思った。エゴという意味ではなくて、人はそれぞれ、自身が幸福になる努力をするのが最優先事項だとクニヒロは考えていた。いろいろな考え方があるだろうが、自己犠牲で全うする人生には疑問を持っていた。たとえそれを誰かが悪だと捉えたとしても。他人をなるべく貶めた目で見ず、できれば関わる人みんなに敬意を持つくらいの気持ちで、それでいて自分を大事に考える生き方が望ましいのではないか、そう自答した。
 ……と、あたまで考える分にはそうなるのだが、その考えはクニヒロの血や肉とはなっておらず、残念ながら砂上の楼閣のような危うさだった。それでも、先日、ケンゴに言われた、自分を開いて生きていくことについては重きを置いて考えていて、ゆるい決意ではあったが、そんな開いた自分に変わろうという気分はずっと続いていた。
 食品工場の入り口近くで、パート仲間の佐々木さんに後ろから声をかけられた。
「おはようございます。今日はナポリタンですかね?ミスらないといいけど」
とクニヒロは慣れない笑顔を精一杯作って返した。その表情を見て、佐々木さんはぐうっと口角をあげたいつもよりも嬉しそうな顔を見せてくれた。
「そうね、たぶんナポリタンじゃないかしら。大丈夫、ミスしても大したことないんだって考えてれば、ミスしないものよぉ」
「そうですよね、大きな声では言えないですが、ほんとにミスしても大したことのない持ち場にいますし」
 佐々木さんはそれを聞いて、
「今日はなかなか言うわねえ」
と笑った。
 そして、そんな佐々木さんの目に映ったクニヒロの笑顔は柔らかくてほんものにしか出ない輝きを放っていた。

10

 ハナはサエと一緒に、またあの居酒屋にいた。あの夜以来、ハナには「まだ、生きろ」という言葉は聞こえなくなっていた。
「……それでね、逆に向こうが炎上してそのままいなくなっちゃった。また現れないとは限らないけれど、とりあえず助かったのよ」
「そっかあ、ハナもなかなか大変な目に遭うもんだわ」
 もずくをちゅるちゅると口の中に流し込みながら、サエがうなずく。そして顔を上げてこんなことを言った。
「それにしてもだよ、ハナさあ、なんか生き生きしてるのね、今日。ちょっと見違えて見えるんだけどなんでだろう。ツイッターの仲間たちと会って、荒しを追い払ったことがやっぱり大きかった?」
「うん。ツイッターの人たちとの話がよかったんだ。なんかね、わたし、生まれ変われるっていう気になってるの」
 ハナの瞳には、いつにない真っすぐな光が宿っていた。
「ええっ?そんな、いい意味でショック!ってくらいの話合いだったの?言っちゃ悪いけど、ハナがそんなに活力を持って見えるのって初めてだよ。興味あるなあ、その会合……」
「じゃ、今度サエもいっしょに行こうよ。わたし、あの二人に紹介するから」
「いいの?あたし、『フラエ』知らないよ?」
 そう嬉しそうに戸惑うサエに、
「平気。ちゃんとあらすじを教えてあげるから。けっこう考えさせられる内容だからこころしてね」
 そう言って、ぐい、とサエは残ったカルピスサワーを飲みほした。積極的に会話をひっぱるサエも珍しかった。続けて、
「実はね、閉鎖しちゃった『フラエ』のサイトが再オープンされるのよ。サエはそこにアクセスすること。そうすれば、いろいろとわかるだろうし、ツイッターの二人との集まりに気楽に参加できて、もっと楽しめるよ」
とサエに勧めてみた。
「あたし、ほんっとゲームってわかんないんだけど、この際、騙されたと思って勉強してみるか」
 サエはいい飲みっぷりでビールを飲みほし、それからハナに飲み物の注文を訊いて、ふたたび自分のビールとともに注文した。間をおかず、今度はサエからハナに話しかける。
「でさ、前にも言った仲良くなりたい彼の話なんだけどね、いいかな?こいつが鈍くて鈍くて……」

 店を出て、楽しげな二人の笑い声が、軽やかに夜空に駆け上っていった。それはまるで天上界へ届けと言わんばかりに。これまでの数週間、ハナにはあっという間でありながら、いつまでも忘れることができないような数週間だった。
 ほんわりとした酔いを感じながらも、強さを増した脈動はしっかりとつなぎとめてくれている。
 また、二人は他愛のない話で笑いの花を咲かせた。二人の笑い声は夜空の奥のほうへまぎれていき、そのまま静けさに溶け込んで、やがて輪郭の残影だけが輝いて優しくハナを照らしたのだった。

【終】



引用:『幸福論』 アラン 村井章子訳 日経BP社
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『微笑みのプレリュード』第二話

2016-09-27 07:00:00 | 自作小説4
4

 なんで、生きてるんだろう。
 最近、特によくこうなるのだが、ハナは自分の生に確かな質感のようなものを感じきれていない状態になる。
 今もそんなふわんとした心地で職場に立ち郵便物を仕分けていた。
 そのまま営業部の分を届けようと歩いていくと、先輩の宮越スミカが仲良しの上野ケイコとひそひそ話をしながらこちらへ向かってきているところで、かするめる程度だがそんなハナとぶつかってしまった。ハナのボブヘアが乱れる。
 誰とぶつかったのかもわからないまま、咄嗟に
「すいませんでした」
とハナは体を硬く縮めるようにあたまを下げると、宮越は
「気をつけてねえ」
と怒った様子でもなく、左手を一度ひらりとさせて上野と歩いていった。しかし、去り際、上野に宮越が「あの人、影薄いから」と言って、二人で小声で短く笑ったのを聴き逃さなかった。
 殺風景な事務室の壁をみつめていた目を足下に戻して、ハナは、言われちゃうな、と貼られたレッテルはほんとうに言い得ているかどうか吟味しつつ、また営業部へと歩いていった。
 彼氏がいたことがない。引っ込み思案で、たまに言い寄られることがあっても、逃げ続けてきた。いまや友だちと呼べる相手は学生時代のゼミからの付き合いである森野サエひとりしかいない。サエとだけはなぜか気があい、友だちになれた。
 ハナは雑多な人間関係が性に合わず、そういった広い交友関係にかかずらうと、もっている以上のエネルギーを消費するような徒労感に襲われて、活動停止に陥ってしまう。大学一年生のときには、自分にはそういうかたちの人との付き合い方は向いていない、と決めてしまって、以来、おとなしく、ハナのハナらしい等身大のハナから背伸びすることなく、できれば目立たないようにいままでやってきた。それじゃ、やっぱり影が薄いか、と癪に触りながらも認めてしまう。
 そういった性質は事故にあう前も後も変わらないものだった。でも、事故によって、いっそう影が薄くなったかもしれない気はした。
 影が薄くなると、濃い闇が忍び寄ってきて飲みこまれてしまうような予感がして不安になった。闇にごくんと一飲みされてしまいそうになったら、走ってそこから離れなくてはいけないのだが、そのための脚力には自信はなかった。
 しかし、影が薄く見られても、生きている心地があまりしなくても、それなりに充実感のある生活はしていた。本を読むこと。ゲームをすること。散歩をすること。ひとりで映画を見ること。たまにサエとおいしいものを食べに行ったりカフェでおしゃべりをすること。それでよかった。幸せは小さくても、ちゃんと感じられている、生きていく足取りが多少ふわふわしていても。

 今夜はサエと居酒屋で飲む約束をしていた。
 七時に現地集合だったため一時間で残業を切り上げ、余裕を持って会社を出た。六時五〇分にお店の前に着いてみるとまだサエの姿はなかったが、のれんをくぐって中に入り、「あとでもう一人きます」と言って小上がり席に案内してもらった。LINEでもう店に着いたことをサエに報告し、梅サワーを注文する。サエは約束から一四、五分遅れてやってきた。
「ごめん、ごめん」
いつものことで、まあ、許容範囲だった。
「宇宙人に会ってね、アンドロメダへの帰り道をきかれてたの」
返答に困る言い訳をする。
「わかるわけないってね、あはは」
茶色で長く、ゆるいウェーブのかかった髪を後ろへはねのけながら、サエは人懐こい笑顔だ。
そのうちに、焼き鳥が運ばれてきて、待ってました、と二人ですぐさまほおばった。サエはビールを勢いよく飲んでいる。ハナは、昼間に先輩が自分のことを影が薄いと漏らしたことをサエに話した。
「わたし、やっぱり影が薄いタイプなのかな。誰かの視界に入っていてもそのひとから見えていないタイプ」
「いやいや、サエは影が薄いっていうより、なんていうかなあ。見てて切ない気持ちになっちゃうっていうかさ、オトコが見たらキュンとしちゃってほうっておけなくなるんじゃないかっていうような雰囲気に見えるよねえ。ちょっと独特っていえばちょっと独特か」
「なにそれ。哀れみを買うタイプってこと?」
「哀れみとは違う違う。そこは牛乳と豆乳みたいに違うね。わかりにくいかな。あなたはね、女性特有のかよわさの化身みたいなものよ。哀れでほうっておけなくなるのとは違って、守ってあげなきゃって根っこからの気持ちで思われちゃうように見えますが、いかが?」
「いままでそんな風に言われたりしたことないけど」
唇をとがらすと、
「それ以前に、薄くバリア張るからね、あなたは」
とサエは愉快そうだ。そうなのだ、深い付き合いになる前にハナは距離を置いたり逃げたりする。怖いような、うっとうしいような、とにかく自分が自分でいられなくなり混乱してしまう予感がして、避けてしまうのだ。
この性質については、直そうだとか直さないだとかと考えてそう出来るような意識にのぼっている性質ではなくて、無意識の領域に沈み込んでいて手が出せないような、なぜかそうなってしまう、という難しい種類の特性だった。自分のことなのに、ひとりでジタバタしたところでなんの解決にもならないのは強く感じていた。
オニオンスライスの乗った冷や奴が運ばれてくる。ポン酢とマヨネーズがかけられていて、ハナとサエは七味も振りかけた。
「でもさ、ハナって自分は影が薄いのはイヤだって思うひとだったんだね。あたしはさ、あなたはそういうことを全然気にしないひとなんだと思ってたのよ。逆に、みんなに気づかれないようにして生きてるんじゃないかとすら見てたところもあったのよ」
「わたしだって、関わる人には一人前の人間にみられたい。サエはどうなの?わたしをちゃんと一人前の人間として見てくれてる?」
「そりゃ、見てるよ」
「……ほんとかな?」
二杯目のライムサワーを飲みながらハナはサエにじゃれつくように軽く言葉でつつく。
「あたしはあなたを親友だと思ってる。これはほんとうによ。でも、ずっと付き合っててもどこか距離が縮まってこないような気もしてる。でも、その距離感でいい、それで気分よく付き合えて楽しいしってさ、そう思うようになってる。つまり、もはや、そういうハナらしさがあたしには気持ちよくもあるわけですよ、うん」
「……うれしい。ありがとう」
今夜のお酒はおいしくなった。サエもにこにこしながら冷や奴を崩している。
もういいか、たとえ会社の人に影が薄く見られても、ちゃんとわたしの存在をそのままで見てくれるサエがいてくれれば。そうハナの気持ちが安定してきたところで、
「でもね、ハナは最近、なんかふわふわしてる」
と眼つきがいくぶん鋭くなったサエが遠慮なく言う。
えっ、と声に出る。
「なにかに気持ちが向いていて、こころここにあらずっていうか。そういう気配をさせながら、たとえばあたしと喋ってる」
ハナは、最近、生きている実感が薄らいできていることをサエに言うべきか迷ったが、今回は言わないことにして、『フラッピング・オブ・エンジェル』のコミュニティサイトを見つけて、それが気になってはいるけど、とかわすことにした。察しのいいサエならば、それがほんとうのところを隠しているのがすぐにわかるだろう。しかし、懐の深いサエだから、追い詰めたりしないし、わかっていてもそっとしておいてくれる。
「『フラッピング・オブ・エンジェル』ってなんだったっけ?」
「もう一〇年以上前にあったオンラインRPGだよ。フリーのゲームでね、作者のサイトで遊べたの。なかなか人気があったのよ」
「全然知らない。昔からあんまりネットに時間使わないからね、あたしは。ゲームもあんまりしないし。一〇年以上前っていえば、バンドやってた頃だ。懐かしいな。それでその『フラッピング・オブ・エンジェル』のサイトがどうしたの?」
「これがねえ、荒れてるんだよ、掲示板が。せっかく懐かしくて楽しい気持ちになってたのに、台無しにされたような気分でさあ」
「荒しって無くならないもんだねえ」
サエは荒しをするヤツを思って、呆れたような顔をした。つられてハナもへなへなした疲れたような笑顔になった。
「でもね、ツイッターでたまたまその『フラエ』のサイトの常連さんをみつけて、フォローしあっちゃった。それから、仲のいいフォロワーさん同士になってるんだ、そのひとと。おはようとかおやすみとかまで言い合うくらいだよ?札幌の近くに住んでるっていうし、同じ道産子同士で話も広がるの」
「へえ、そうなんだ。それは珍しい縁だね。『フラッピング・オブ・エンジェル』ですら珍しいのに、住んでるところも近いなんて」
「だからね、『フラエ』のことを考えると元気になれないんだけど、ツイッターでのやりとりは楽しいの。最近はそんな日々かな」
「なんにしても、楽しみがあるならまあいいじゃない。それに比べてあたしときたら、例の彼とうまくいかなくてねえ……」
「誰と?宇宙人と?」
誰が宇宙人じゃ、とサエが低い声で貫録のあるツッコミをする。ハナは口元を押さえながら笑い転げている。そこから話はサエが意中の人へアプローチしている話へ移っていった。
 店内の明るすぎないオレンジ色の照明は温かく、その夜遅くまで二人を包み続けた。

5

 朝早くからhanaのツイートをみかけた。あんずジャムを塗った食パンにかじりつきながらクニヒロは、「おはよう!」とリプライを送った。ノートパソコンの画面を見つめている。hanaとは日ごとに親密になっていた。
 彼女は札幌に住んでいて、クニヒロは札幌中心部まで車で二時間弱の地域に住んでいた。そのため、『フラッピング・オブ・エンジェル』に限らず、ローカルな話題でも絡みやすく、何度もリプライを返し合って話をすることが多くなっていった。
 しかし、そんなツイッター上での好状況の進展と反比例するかのように、『フラエ』コミュニティサイトの掲示板の状況はますます悪くなっていった。
 荒しも遂に大詰めを迎えたのか、その荒し方としてはレベルの低い、卑猥なネタを用いたアスキーアートによるものが増え、書き込みの頻度も高くなっていた。荒しの主は、勝負は決したのだ、と見極めているかのような攻め方をしていた。

 諸君、またやって来たぞ。予想に反してお前等は総じてなかなか賢かったと見える。なにせ、この掲示板から離れていったものが多いからな!それでいい。それでいい。離れた奴らは褒めてやろう。なにが、フラッピング・オブ・エンジェル、天使の羽ばたき、だ。こんなゲーム、ユーザーにとっては本質的にフラッピング・オブ・デビルだろ。なんだよ、あのラミエルって脆弱な性格の野郎は。主人公にヴィジョンをいろいろ見せましたー、アドバイスをしましたー、って幻覚を見せてるだけじゃねえか。あいつの持ってるパワーは、相手の脳に悪さして精神的不調にさせてるだけなんじゃねーの(嘲)嫌なもんだ、あんな子供騙しのゲーム。そんなものにいつまでも浸ってんじゃねーよ。それこそ、精神的不調になってるんだろ、お前等?まあ、それも自己責任だけどな。だけど、そうやって社会の生産性を落としてくれるなよ。お前等は社会のお荷物になるんだから、いっそのこと自己責任として切り捨てられちまえ(嘲)

 最新の書き込みはこんなだった。クニヒロのあたまは朝からいっぱいになった。荒しの言う通り、もともと少ない人数の集まりではあったが、『フラエ』コミュニティサイトに集まる人は激減した。アクセスカウンターは日に一〇前後しか動いていない。何故こういう嫌がらせをするのか、みんなの微笑みの出所なのに、とクニヒロは眉根を寄せる彫像のように静かに憤る。
 こういう気持ちはもう何度目だろうか。撥ね退けたくても撥ね退けられない浸食。荒しは炎の王子というハンドルネームだった。よく、「燃やし尽くしてやる」という言葉を使う。まったくふざけている、とクニヒロは思った。芸風まで持ちやがって、いい気なものだ。
 出勤の時間が迫ってきたため、彼はノートパソコンを閉じ、ダウンを着て外に出た。最近はこの時間帯でもプラス気温の日が続いていて、今朝もそうだった。太陽が昇る時間も早くなってきた。なかなかやってこない億劫がりの北国の春が、やっと、しかし確実に近づいてきているのを実感した。

 夕方、仕事から帰ってきてストーブの点火ボタンを押し、続けざまにノートパソコンのスイッチを入れる。それから薬缶に水を注いで火にかけ、マグカップに細粒のコーヒーの素をスプーン二杯、砂糖を一杯いれて薬缶が沸騰するのを待った。
 今日はミスのない仕事ぶりだった。残業も無く、清々しい気持ちで帰宅した。
 『フラエ』のサイトがあたまをよぎる。こんな気持ちの晴れやかな日などには悪いことは何も起きないものなんだと思いつつも、しかし掲示板の動きが多少知りたくなるのだった。なにかよい進展があったかもしれないというかすかな希望があたまをもたげたためだ。
 ストーブの点火より先にノートパソコンの起動完了のほうが早かったが、薬缶がぷんぷん言い出したため、クニヒロはガス台のほうへ立つ。ほどなくしてコーヒーの豊かな香りが部屋中に膨らんだ。
 マグカップからコーヒーを啜りながら、まずメールのチェックをすると、ツイッターでお邪魔店長というひとからのリプライがあるという通知が来ていて、目が行った。それは、クニヒロとhana両者に向けてのリプライで、
「はじめまして!お邪魔店長といいます。いやあ、あなたたちのツイートが嬉しくて嬉しくて。見つけたときは、まさか!と思いました。何を隠そう、私は『フラエ』の制作者なんですよ。よかったらこれから仲良くしませんか」
という驚くべき内容だった。
 急いてくる気持ちを抑えながら、お邪魔店長のプロフィールを覗く。書かれていたのは、
「居住地は札幌。雇われコンビニ店長。男性。バイトのみんなから何かにつけて、ほら、邪魔ですよ!と怒られ続けるお邪魔店長。何がどういけないのか?どうして邪魔になるのか?気づいた時には名前を変えます。昔、そこそこ人気のオンラインRPGを作ったことがあるのは内緒の話」
という文言だった。そこそこ人気のオンラインRPGを作ったことがある、と公言しているうえに、リプライに『フラエ』の制作者と書いて寄こした。間違いなさそうにも思えた。hanaはどう思っているだろう?hanaのタイムラインを見ても、反応はまだない。
 クニヒロはどう返答しようか考えた。ほんとうに『フラエ』の制作者なのか、一〇〇%信じられないからだ。彼のそんな気持ちには、『フラエ』コミュニティサイトが荒されていたことが関係していた。卑怯な炎の王子、もしくは炎の王子の威を借るようなアンチ『フラエ』の輩が、『フラエ』というゲームを大事に思い、その世界観を愛するクニヒロとhanaに一杯食わすつもりじゃないのか、と勘ぐる気持ちが少々あったのだ。
 そこで、クニヒロはお邪魔店長へのリプライには、このゲームの最後までを知らないと答えられない質問を書くことにした。
「お邪魔店長さん、はじめまして!ツイートをありがとうございます。制作者の方なんですか?びっくりして信じられないくらいです。
信じられないついでに質問をしていいですか?ミカは最後の試練をくぐりぬけてどうなったでしょう?」
 ミカは最終的に人間の世界に生まれ直すことになった。天界の記憶を消されて人間になったのだ。
 すぐには返信が来るものとは限らないし、実際それから少しの間ツイッターに繋いだままにしていたのだが動きはない。クニヒロはパソコンの前から離れて夕食を作ることにした。
 故郷でもあるこの土地で、わざわざ親元から離れてひとり暮らしをはじめてから二年が経つ。パート労働をしながらでもなんとか暮らしていけるのは、家賃が安いおかげだった。冬場は灯油代がかさむが、少しばかり親からの援助もあった。彼は感謝していた。二十五歳になって自立しきれていなくても、親から厭味や文句を言われたことがない。だからといって、過保護というほどではないと彼は引いた視点で自分を見てそう思っていた。時世が時世だった。過疎地であり高齢化率が五〇%近い限界集落間際の街でもあったのだが、彼はできればこの街を離れたくはなかった。住み慣れた町に居続けたい。食品工場でのパートの仕事に就けたことはそんな彼にとっては幸運以外の何ものでもなかった。正社員への登用もあるという工場だったから、クニヒロはそういう道もあるかな、と薄曇りの月みたいにぼんやり考えてはいた。
 夕食は、鮭を焼いて小松菜をお浸しにしたものと煮つけたかぼちゃに椎茸ととろろ昆布の味噌汁だった。出来あいのものを買ってきて食べることをできるだけしないのは、料理するのが好きだったからだ。いろいろとその日のことを振り返って気にしていたことも、料理している間は忘れられる。気分転換になった。好きに勝るものなし。ここでも、彼の性格の脆い部分を補うような好ましい性質があった。
 小さなテーブルに料理の入った食器を並べ、テレビでニュースを見ながら食べはじめた。九州のあたりではもう桜が開花しているという。こっちはまだ雪景色なのに、と日本は南北に長い国であることを強く実感する季節だった。
 雪に半年近く辺りを閉ざされる地域もあれば、年中自転車で移動できる地域もある。都会もあれば田舎もある。自分の好みに合わせて住む場所を選んで暮らせばいい。しかし、現実には、生まれおちたその土地への愛着があり、反対にその土地への憎悪があり、地縁というものがしがらみになったり排他性になったり影響を及ぼし、なかなか気候の趣味だけでは決められない。
 クニヒロは自分の住む町の雪深さには辟易していた。それ以外にも、買い物に不便だったし大きな病院も無いのには苦労したのだが、
 朝も夜も町全体が穏やかで静かで、安心して暮らしていられる土地だったことが、彼が住み続けるひとつの大きな要因になっていた。
 都会よりも、過ぎていく時間のスピードは遅かったが、その代償として時間の流れ方が重かった。そうやって、スピードが速くて軽い時間が流れる都会の在り様と乖離せずに、田舎であるクニヒロの街と都会は釣り合いをとり、総じて等価な時間の流れになっていた。都会だから若いままだとか、田舎だから早く歳を取るだとかいったことが起きないのはそのためだった。
 急かされることなく、田舎らしいゆったりした気持ちで、クニヒロは食事をすべて平らげた。米や鮭といっしょに時間をも咀嚼したかのような満ち足りた食事だった。
 一息ついてから食器を洗って風呂に入った。湯上りに、冷蔵庫から取り出したペットボトルのお茶で喉を潤す。ドライヤーをかけて、ほほの火照りの収まらぬまま椅子にもたれ、机の上のノートパソコンを再び起動した。
 ツイッターにお邪魔店長からのリプライがあって、こう書かれていた。
「そうですね、信じられないかもしれません!コンビニ店長のおっさんがかつての『フラエ』制作者だなんてね。でもね、ほんとうなんですよ。ミカは人間になりました」
そして連投で、
「どうして人間になることを選んだのか?悪魔ほどではなくてもわざわざ汚れた存在になることを希望したのか?そのことについては、実際にあななたちと会ったときにお話したいです」
さらに続けて
「ってね、あなたたちと会ったときに、なんて書いたけど、会いましょうよ。あなたたちのツイートを遡って読んだのだけども、私も道民。札幌に住んでるんですよ。ね?会いましょうよ、そのうち」
と書いていた。
 『フラエ』の制作者が札幌にいる、そのことでクニヒロの心臓は高鳴った。

6

 やり取りをしていたjamjamさんの本名は青木クニヒロといい、突然あらわれた『フラッピング・オブ・エンジェル』の制作者お邪魔店長の本名は末松ケンゴといった。ツイッターのメッセージ機能を使って名乗り合ったのだ。もちろん、彼女も納田ハナという本名を名乗った。それは自然な成り行きだった。
ケンゴはさすが制作者らしく、『フラエ』の隅から隅までを覚えていたし、加えて裏設定の話までちらりとすることもあり、ハナは喜びの鳥肌を立てながらスマホ画面に見入る夜の時間が長くなった。十数年の時を経てこんなに『フラエ』話に夢中になる日が来るなんて、予想だにしていなかった。
 ハナがケンゴにもっとも聞きたかったことは、どうしてラミエルをキャスティングしたのか。そして、ああいう隠者のようなキャラクターにしたのかだった。ケンゴが言うには、天使悪魔事典のような本をパラパラめくってなんとなしに決めただけだし、キャラクターについては現代風の男子をまずイメージしてそこからいじっていったのだということだった。ハナは拍子抜けしてしまった。
「要するに、適当に決めたってこと?笑」
 と幻滅へ傾きつつある気持ちのままリプライすると、ケンゴから
「現代風の男子ったっていろいろあるからね。そこはイメージを膨らませてオリジナリティのあるラミエルをクリエイトしました。かなり気を使った部分だよ」
と適当ではないという答えが返ってきて、彼女はぎりぎりのところで夢の世界から転がり落ちずに済んだ。
 そこでクニヒロが
「お邪魔店長さん、ぼくらヘビーなファンでもありますから、夢を壊さない程度に相手してくださいw」
と絡んでくれて、ハナはクニヒロにとってもケンゴのリプライには危ういまでもの素っ気なさを感じたのだなとわかった。
 なんでもかんでも軽く受け答えして、そこにいっさいの努力の影を見せないという話し方は、たぶんゲームクリエイターという人種の特質で、それがケンゴにもあることを、ハナは忖度した。

 そんな折、ケンゴから実際に三人で会ってみないかと持ちかけられた。
 やり取りをし始めた当初から、ケンゴは「会ってみようよ」とネット世界の細いつながりを幾分強くしようとしていた。ハナにしてみれば、ネット世界の希薄なつながりこそが肩の凝らない付き合いで気楽だった。やり取りしあう相手にしても、粘着するタイプ、前しか見えないタイプのひとは避けていて、クニヒロもケンゴもそうではなかったから仲良くしていた。でも、リアルで会うとなると、ぎくしゃくしそうで不安だった。自分のつれない性格が際立って表に出て、二人を嫌な気分にさせないかどうかも怖かった。
「考えてみるけど、どうだろうなあ。わたしはあんまり人づきあいの得意な方じゃないんだよね」
とツイートすると、ケンゴは
「いやいや、一度会ってみようというだけなんだし、気張らなくたっていいんですよ。ほら、ツイッター上のやりとりみたくゆるくさ、まったりさ、顔合わせみたいにどうかな。楽しいと思うけど」
とフランクにいこうという方針を伝えてくる。クニヒロも
「ぼくは三人で会いたいな。『フラエ』話を中心にけっこう打ち解けられそうじゃない?」
とケンゴの案に賛同のようだ。
 彼女はスマホの前で、うーんと唸ってしまった。とりあえず、明晩まで返事は保留してもらうことにした。
 確かに、ケンゴの言う通り、その会合には楽しそうなイメージが浮かんだ。サエとのように気兼ねなく、面倒な駆け引きなどなく話ができそうに思えた。
 jamjamさんにお邪魔店長さん……、ハナは彼らとのこれまでのやりとりを思い返すのと、可能性の未来としての彼らとの会合の様子をイメージするのとを交互に繰り返していった。記憶と想像がまざりあい、可能性の未来のイメージが現実感を増していった。そして、未来のイメージに浸透していった現実の記憶からのイメージがついに平衡状態になったとき、つまり、記憶とイメージのやりとりが収束したとき、彼女にとってそれはとくに悪い気のするものではなかったのがわかった。それに一度だけでいいんだし、と割り切れる会合でもあったのが、気持ちを平安にした。
 スマホを閉じ、ホットミルクを飲みながらそこまで考える。返事を保留してもらっているし、一晩持ちこした後、気持ちがぶれないようならオーケーをしようと決めた。深夜零時を前に彼女はベッドの中に滑りこみ、すぐに無意識へと吸い込まれるように眠った。
 次の日の夜、ハナはこころを決めて、クニヒロとケンゴに
「決心しました。三人で会いましょう」
と短いツイートをした。
 彼らは喜んで、お礼のツイートを返してきた。ケンゴは矢継ぎ早に二人の都合を訊ねながら会合の暫定の日付を指定する。以降はケンゴが仕切り、メッセージ機能を使って日取りを調整して決めたのだった。四月中旬の土曜日に決まった。
 そこまで決まってから、クニヒロが
「実はぼくって、人見知りで口下手なんですが、よろしくお願いします」
なんて言い出したのを読んで、ハナはその日はケンゴの独壇場になるのかな、とふふふと笑った。

 『フラエ』コミュニティサイトは、炎の王子の思惑に負けて、三月の下旬に閉鎖されてしまった。掲示板にはもはや荒しの書き込み以外のものは見当たらない状態だった。完全敗北。
 ハナは大事なものがひとつ奪い取られたような喪失感を感じていた。大事にしていた宝石を泥で汚されてその泥を洗い流すことが許されないような虚無感も感じていた。
 ハナは、クニヒロやケンゴとは今後もつながり続けることができるけれど、その他の同志とも言える『フラエ』ファンとはもうつながり合えないことを想うと寂しくなった。茫洋としたネット世界で、依る場所を失くしてちりぢりになってしまったのだから。
 それでも、サイトが閉鎖されたことによって、あの二人とつながりを保てていることが、不思議と自分は孤独ではないことを、逆にはっきりとさせた。そして、ハナとクニヒロとケンゴは、それぞれがそれぞれの存在を貴重なものとして、よりお互いのパーソナリティを際立たせて意識するようになった。つまり、お互いへの敬意が強くなったのだ。彼らとの縁が、ハナには日ごとに大事に感じられるようになっていった。

 それから数週間がたち、まだ肌寒い春の中、その日がやってきた。札幌の大通地下街の喫茶店入り口前での待ち合わせ。午後三時現地集合。
 緑色の薄手のダウンを着たハナは早めに街中に繰り出し、地下街の本屋に寄って女性誌や文庫本をぱらぱらと立ち読みし、待ち合わせ時間の間際まで過ごした。
 彼女もそうだが、通りすぎる人々はまだ本格的な春の装いではない。この時期でもスプリングコートがまだ少し寒く感じるような今年の気候だった。暖かくなったりまた寒くなったりと、はっきりしない春だった。
 待ち合わせの五分前に喫茶店前に着いてみると、そこに二人の男性が立っていた。若いほうの一人はぎこちなげに片方の足を前後に動かしながら下を向き、もう一人の黒ぶち眼鏡で背の低い小太りのほうはブルゾンのポケットに両手を入れ、眼鏡の奥から、空虚さとは無縁なはっきりした視線を通路を挟んだ向かいの洋服屋へ投げかけている。
 ハナはすぐに、クニヒロとケンゴだとわかった。ハナが二人に視点を合わせたまま柔らかい表情で近づいていくと、二人もハナだと気付いたようで、嬉しそうながらもちょっと疑問をかかえたような表情で彼女のほうに視線を投げかけ続け、ついに、年輩のほうの男が、
「ハナさんですか?」
と声をかけてきた。
「すぐわかりましたよ。ケンゴさん、クニヒロさん、今日はよろしくお願いします」
とハナは柔らかく微笑えみかけた。
クニヒロはかすれた声で
「よろしくお願いします」
と返したものの、顔をあげたままにしておけない様子で、下を向いたり横を向いたりしていて、緊張しているんだなとハナは見てとった。
「じゃ、中に入ろうか」
とケンゴが目じりにしわを寄せたやさしい表情で言う。彼女は後をついていった。
 奥のテーブル席につくと、ハナはケンゴと、クニヒロが車で二時間近くかけて札幌まできたことをねぎらい、最近の寒い春の天候についてなどの雑談を交わし、コーヒーが運ばれてきてから改めて名乗る程度の自己紹介をした。
 ハナの目には、ケンゴは自信に満ち溢れているやり手の男に見えた。眼鏡の奥に見える眼には理知的な印象を受けたし、話しぶりも落ち着いていながらも抑揚に富み表情豊かなもので、すぐに好感を持った。ただ、自分のことを〝ぼく〟でも、〝おれ〟でも、ツイッターでのように〝私〟でもなく〝わし〟というのには違和感を感じた。
 〝わし〟という歳でもないだろうと思って、ハナは
「ケンゴさんって、失礼ですがおいくつなんですか。〝わし〟って
ご自分のことを言うから気になって」
と訊くと
「四十一歳。厄年です。いやんなるね、『フラエ』のサイトが荒されるのも厄年と関係あるのかなあ。〝わし〟っていうのもね、もう十年くらいは言ってるんだよ。最初はふざけてたはずなんだけど、癖になっちゃってね」
とやっぱり見た目と同じくらいの歳かと納得したし、〝わし〟についても妙ではあったが、変な理由でも無くて安心した。
 クニヒロのほうを見ると、彼は最初と同じように伏し目がちにしていて、なかなか会話に口を挟めてこない。幾分、頬が紅潮しても見えた。もしかしてコミュ障なのかな、とハナは思った。ケンゴはそんなクニヒロの緊張した様子を早くから気遣うように、ねえ、だとか、なあ、だとか話しかけて会話に誘っていた。
しばらくツイッターでのやり取りをなぞるような話が続いたが、ケンゴのほうから
「じゃ、そろそろ『フラエ』についての込み入った質問を受け付けるよ。でもわしにわかるかなあ」
と最後はおどけたことを言いつつも自信に溢れた顔をして、この会合の一番の意義ある話題へと持っていってくれた。ハナはツイッター上では答えてもらえなかった質問をいくつか覚えていて、まず 
「どうして『フラエ』を作ろうと思ったんですか?」
という質問をした。
 ケンゴの理性的な眼に、情熱の炎がほのかに宿ったように見えた。

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『微笑みのプレリュード』第一話

2016-09-26 07:00:00 | 自作小説4
微笑みほどすばやく快く効く薬は、どんな名医も持ち合わせていない……『幸福論』アラン

1

 まんじりともしないまま、ピピピピピ……という電子音を聴いてしまった。まただ、とクニヒロはこころの裡でつぶやく。溜め息をついた。気持ちがどんよりと重い。寝不足なまま一日が始まってしまうんだという暗澹たる気持ちのために、布団の中で血の気の引く思いをした。いや、血の気の引く音さえ聴こえた気がした。
意を決して、あたまの上で鳴りつづける目覚まし時計をとめて起き上がり、窓を開けて、まだまだ肌を刺す三月初旬の朝の冴えた空気を部屋の中に取り込みながら、布団をたたんだ。啼く鳥さえいない北海道の晩冬の早朝だ。
 最近、こういう日が多い。眠れない理由はわかっている。まだ子どもだった頃に遊んで好きだったオンラインRPG『フラッピング・オブ・エンジェル』のファンが集まるコミュニティサイトの掲示板に荒しが来るからだ。荒しの形跡が残っていて、その内容が酷いときほど腹立たしくて眠れなくなる。荒しはたいてい『フラエ』の非難や、難癖、中傷を含んだ、いやみったらしい文章で書かれ、書きこみの時間は夕方から深夜にかけての時間帯にかたよっている。たとえば昨夜はこのようなものだった。

諸君また来てやったぞ。さて、繰り返し書くが、『フラッピング・オブ・エンジェル』の様な、プレイヤーを「糞」たらしむるゲームのリリースから一〇年以上も経た現在に於いてもこれを賛美し郷愁に浸るお前等の気が知れない。例えばミカは天上界から地上へと堕とされた後、まず最初の試練で聖なる泉を目指す事になるが、その設定こそ糞だと思わないで有り難がってプレイしたお前等の姿を思い浮かべると涙すら浮かぶ。なんだよ、聖なる泉って。俺は盗泉を連想した。「渇しても盗泉の水は飲まず」って言うが、ミカは聖泉だろうが盗泉だろうが、泉の水を構わず飲んだじゃないか(嘲)。と言ってもお前等のような低能屑には何の事か理解できんだろうから説明してやると、「渇しても盗泉の水は飲まず」とはな、困っても不正に手を出そうとしない事を言うんだよ。聖人はそういう者だ。だが、ミカは困ったら何にでも手を出す奴だよな(嘲)泉の水を盗み飲んだのだぞ(嘲)。全く、このゲームは噴飯物だ!
 だから、勧告してやる。こんな糞ゲーを礼賛している暇があるならば、もっと稼いでもっと消費して経済を回せ。その方がずっと世の為人の為になることが理解できないか?
 掲示板を閉鎖するんだ。もう此処に寄りつく人数も随分減ったじゃないか。此処を燃やし尽くしてやるぞ。そんなシーンを見たくないのなら、此処に来るな此処に来るな此処に来るな此処に来るな此処に来るな!閉鎖しろ閉鎖しろ閉鎖しろ閉鎖しろ閉鎖しろ閉鎖しろ閉鎖しろ閉鎖しろ、いいな!

 なんだよ、この言い草は、とクニヒロは当たり前だが承服する気になどまったくならなかった。しかし、デタラメで難癖をつける書き込みだと一読してわかるものであっても、流すことができず何か胸につかえてくる。この荒しがコテハンで、堂々としているところも癇にさわった。
 眠れなかったのとイライラしたのとで、静かに活動を始めた火山のマグマみたいに胃がムカムカして、朝食に用意したブルーベリージャムをのせたパンのひとくちでさえ胸やけを起こした。あわてて冷蔵庫から牛乳を取り出してコップに注ぎ、流し込むことにした。冷たい牛乳が、食道から胃にかけてのもやもやとした感覚を一掃していって、まもなくシャキッとさせる。
 一応落ち着いて、残りのパンを食べ終えた後、クニヒロは座椅子の後方に体重をかけて、座椅子ごとぐらりと体を傾けながら天井を仰いだ。『フラエ』掲示板にどうしたら前のような和気あいあいとした雰囲気が戻ってくるだろうと考えてみるが、何人かの『フラエ』ファンたちによる反論はこれまで効果はなく、それを上回る暴言や屁理屈で言いくるめてくるコテハンのあいつを撃退するような名案は残念ながら浮かんでこなかった。
 クニヒロはしょうがなく、無視するのが一番の良策なのかもしれない、という残りもののような考えに目をつけた。時間はかかるだろうけれど、みんなで無視してあの掲示板から荒しが居なくなるのを待てばいい。あそこのアクセスカウンターの一日の増加量はかなり減った。でも、一度リセットのように静かにして、それから折を見て少しずつ集まり直せばいいんじゃないのかな、という考えだった。ただ、クニヒロがこれまで見てきたネット掲示板などのコミュニティやSNSでのトラブルでは、そういった、踏まれた雑草が自らの力だけで元通りに持ち直すようなサイトの復活の仕方などは見たことがなかった。言うまでもなく、望みの薄い選択肢のひとつだった。このままにしておくとチェックメイトしてしまうという危機感すらある。
 時間になった。『フラエ』コミュニティサイトのことは一旦あたまの隅へ追いやり、一晩中つけっぱなしだったストーブを消し、気が乗らないながらも、パジャマから黒のジャージに着替えて薄いカーキ色のダウンを羽織り、出勤の用意をする。眠れていないため、やっぱり昨日の疲れが抜けきっていないし、なによりも午後になれば重い睡魔に襲われそうな遠い予感がして、目ざましが鳴ったときのようにまたよどんだ気持ちになった。それでも、毎日立ちっぱなしの流れ作業には大分慣れてきていたし、第一、他人とそれほど口をきかなくてもいい仕事なのはクニヒロにとって大きな救いでもあった。
 外に出ると、まるで彼のこころ模様を描き出したかのようなどんよりとした曇り空だった。きっとあとで雪になる天気だった。

 毎日歩いて向かう工場の敷地に入ると、先輩たちが何人か、車から降りて入口に向かっているところだった。おはようございまーす、と掛け合う声があちこちで跳ね返り合って、自分の所にもやってきた。
「おはようございます」
くぐもった声ではにかみながらクニヒロは挨拶をした。
 いつもこんな調子だ。クニヒロは喋ることが得意ではない。WEB上で書き言葉を使ってコミュニケーションをとるのが得意ではあってもだ。その苦手意識は羞恥心を内包していて、でもクニヒロは、自分にはそんな苦手などないのだ、と見せかけたくて、そのことを隠すため、自分は他人に興味などない個人主義者の一匹狼なのです、という姿勢を気取ろうとしたこともあったのだけれど、あまりにほんとうの自分のキャラクターとかけ離れているために、実行せずにやめたことがあった。クニヒロにとって喋ることは間違いなくコンプレックスだった。声を出しても、もごもごした声質の上に、うまく文章にならないような、言いたいことが言葉にならないような、言葉に内容が宿らないようなまとまらない話をしてしまう。たいていそんなときは、相手に察して欲しいという、眉をハの字に寄せた困った表情をして、相手が会話を引き取ってくれるのを待つのだった。
 しかし、この食品工場で働く人たちは淡泊な人が多い。淡泊で、人間関係の希薄な職場なのだ。だから、会話も少なく、クニヒロにとっては比較的、コンプレックスを刺激されずに働ける好条件の職場だった。
「おはよう、青木くん。あらぁ、今日もパンなの?」
とその体に似てまるく、よく通る高い声が聞こえた。
「わたし、パンってすぐお腹が空いちゃうんだけどねえ。ちゃんと夜までもつの?」
昨夜のうちに買っておいた菓子パンの入ったコンビニ袋を下げた彼の後ろから聞こえてきた声の主は、ここのパート仲間のおばさん、佐々木さんだ。
「ぼく、パン好きなんです」
振り向きざまにもぐもぐとクニヒロは応えたが、佐々木さんはいつものように陽気そうな笑顔で、そうなの、好きなんだパン、と彼の隣まで小走りで駆け寄り、
「ほら、ジャージの襟がめくれてるわよ」
とさっとクニヒロの首元に手を伸ばして、ダウンの中から見えたジャージの襟の乱れを直してくれた。
「すいません」
恥ずかしそうに小声で言うクニヒロを、佐々木さんはまるで親戚の子どもでも見るかのように、優しい目で見つめるのだった。
「もう、青木くんったら、いくつになるのさ。まだまだねえ」
と笑う。
「二十五歳なんですけど、こんなもんです」
視線を落したまま答えた。
 佐々木さんは、ここで唯一といってもいい、淡泊さとは真逆の温かいコミュニケーションをする人で、なぜかクニヒロを気に入ってくれている。クニヒロのほうでも佐々木さんに対しては、不思議と悪い気はしていない。むしろ彼女のふるまいには、ありがたい気持ちすら抱いていた。佐々木さんがいなければ、クニヒロはもっと寂しい気持ちで毎日働いていただろう。
 更衣室で作業用の白衣を着て、消毒などをして朝礼に向かった。班長が、みんな集まったのを見計らって、きょうはミートドリアでーす、と告げる声がその姿を確認するよりも先に聞こえた。
 また一日が始まる。しっかりやらないと、という想いのため、掲示板の書き込みのことはもうあたまに無くなっていた。

2

 「まだ、生きろ」
不意にあの時のことがあたまの中に甦ったとき、ハナは誰かにそう言われたように感じた。
 日曜日の朝早くから、図書館へ向かう路面電車の車内。まばらな乗客はそれぞれが独りきりで、それぞれの目的を持って腰かけていた。
あれはまったくの唐突な事故だった。あの時、運よく軽い打撲と挫傷だけですんだことを思い返すたび、もしもブレーキのタイミングがほんの少しでもずれていたら、と今そのときの心臓の脈動が奇跡であるかのように、生き長らえているのが偶然のように感じられて、鼓動が深くなった。
 赤信号を見誤って右から突進してきたトラックの前方部が彼女の座る運転席に激突していた可能性だって十分あった。ほんの少しだけの運命のズレによって、ハナは生きている。
 名のある人にも名のない人にも死の訪れには公平に乱暴さが宿っているのだ、とハナは考えていた。永遠に生きる人間がいない以上、その命の灯りは必ず消える運命で、その、この世からの命の灯りの消され方が乱暴で、まるで掠めとられていくように感じられる場合が多くあるのだ。なにかの間違いのように、その命を掠めとる手からある程度の期間逃れることができて長寿を迎える人もたくさんいるのだけれど、どんどん人間たちは、生を授かっていく中で、まるでなかば事務的にそして計画的に間引きされていくようになっている。それも人間からすると怖いくらいアットランダムに。人の生き死には「天使のゲーム」なのかもしれない、とハナは思った。
 あの世なのだか天上界なのだかなんでもいいのだけれど、天使たちがその場所で人間の運命のバランス取りを懸命に考えて、仕事をしている。人間風情に感知されず、口出しもされず、淡々と仕事をこなす天使たち。
 だから、ハナに聴こえた気がした「まだ、生きろ」という言葉は天使からのメッセージなのかもしれないと思った。まだ死ぬべき時じゃない。
 生きていていいのだ、という安堵と喜びは自分を肯定する感覚を生む。許されている気だってした。だからといって、もろ手を挙げて大笑いするようでは罰があたるような、そこは粛々とした気持ちでいるのがほんとうのような気がした。
 そして、何かの使命を背負ってこの世に生まれたから生かされているのかもしれないという思いもうっすらしていた。だから「まだ、生きろ」と、そう聴こえたのだろうか。その言葉が投げかけられたのだろうか。だとすれば、それは彼女にとっては重荷としか考えられなかった。

 ハナは紺色のコートを羽織り灰色のマフラーを巻き、中には濃い青の地に黒のチェックの入ったシャツを着て、ジーンズを履いていた。足下はブーツだ。
 この時期にしては暖かい日が続いたため、路面電車を降りて歩いた地面は雪や氷から生身をさらけだしている。
コツコツコツと鳴る靴音と振動を心地よく感じながら、吸い込まれるように図書館の玄関をくぐると、途端に靴底の硬さが絨毯の軟らかさに受けとめられて、またそれが合図のように図書館に通有の静寂が彼女を包みこんだ。
 なんとなく気になって借りた二冊の犬の習性や育成の仕方についての本を返却し、昨晩から借りようと考えていた本を求めて宗教関連の棚へ向かう。『ブッダの言葉とその教え』、『ネイティブ・アメリカンの信仰心』、『移り変わる神学』、など彼女の興味をそそる本が目に入るが、今日は悪いけど違うのよ、とひとめ惚れに似た好奇心を振り払いながら背伸びしたり腰を曲げたりして目的の本を探し続ける。
 やっとそれっぽい棚に辿りついた。キリスト教世界の天使についての本が少数だが並べられた一角だった。難しそうな本も多いなか、ハナは比較的読みやすそうで新しそうな一冊を選んだ。それは『天使たちの履歴書』というタイトルだった。図書館に来るまでに「天使のゲーム」などと考えたのも、借りようとしていた本の種類が天使についてのものだったし、きっと借りようとした動機そのものから連想した思いつきだったのだろう。

 アパートの部屋に戻ったハナは、コートをハンガーにかけてすぐ電気ポットから急須に熱い湯を注ぎ煎茶を淹れ、帰りに寄ったコンビニで買ったおにぎりを食べた。お腹を満たして、『天使たちの履歴書』に取りかかる。
 彼女が一番知りたかったのは天使ラミエルのことだったのだが、どうせならこの機会にいろいろな天使についても知っておこうと思い、図書館で読まずに、ゆっくりくつろいで読める自室へと本を招き入れたのである。
 目次を見てみると思っていた以上に、履歴のある天使は多くいるのがわかった。ラミエルが載っているのは現場で確認していたのだけれど、サンダルフォン、ケルビエル、アズラエル、オファニエルらハナにはその多くがはじめてお目にかかる天使ばかりだった。とはいうものの、ラミエル以外に知っていたのは大天使のミカエルくらいという程度の知識だったのだが。その他、仏教世界の阿修羅や弁財天らについてもキリスト教世界の天使と同じくらいの紙幅が割かれて紹介されていた。
挿絵のラミエルは中性的なイケメン青年として描かれていて、ハナはその顔を見て、女を釣って騙すタイプで煩悩の強そうな顔をしているなあ、と思っていたら、人間の女性と姦通したかどによって堕天使となった経歴があることが書かれていた。ずいぶん人間くさく男くさい天使だったのね、と笑ってしまった。
 ハナの脳裡には昔好きだったオンラインRPG『フラッピング・オブ・エンジェル』の主人公ミカが四つの試練をクリアした後に、ラストのところで神との面談を行う前にアドバイザーとしてでてきたラミエルのイメージがあった。あのラミエルは理知的で物静かで穏やかで、まさか人間の女性と性交渉を積極的に持つなんていう野生的なイメージは感じられなかった。良くも悪くも、あのゲームのラミエルの個性はオリジナルだったのだな、と気づく。
 ゲームのラミエルは、口数少なく人目を避けて隠者のように暮らす、天使なのか堕天使なのかわからないような存在だった。何も話さずにいても、ただ寄りそっているだけでほのかな幸せを味わわせてくれそうなタイプのキャラクターで、そういうところが好きだったことを、つい一週間ほど前にみつけた『フラエ』コミュニティサイトで何年かぶりに思い出したのだった。
 飲食店関係のことを検索していてなぜかこのサイトを見つけたときには、懐かしさで肩に力が入りスマホの画面ににじりよるようにして眼を近づけてしまったほどだ。そうやって長い時間、食い入るようにサイトのいろいろなコーナーにアクセスし、味わうように掲示板のコメントを読んだ。そのため、次の日には酷い肩凝りが原因の頭痛がして職場でひとり苦しんだくらいだ。
 現実にも、中学三年生の頃に気になっていたクラスメートの男子がいて、彼はわあわあ言ってふざけあっている連中を横目で眺めて、ひとり物静かに微笑んでいる、ゲームのラミエルに近いような人で、一度同じ班になったときに、もちろんわざとなのだけれど、消しゴムを貸してもらったり、数学の問題の解き方を教えてもらったりし、距離を縮める努力をした。
 中学三年生の時期は、奇しくもその彼とラミエルが共存していた時期だった。『フラエ』はその頃のゲームである。
 声をかけて一瞬目が合うと、ハナは胸の奥がキュンとし、あっという間に頬に血の気が差してきて、それを隠すためにすぐ顔を伏せたり前の席から振り向いていた姿勢を直したりした。付き合って欲しいとまでは思わなかったのだけれど、一緒にいるとすごく嬉しくて華やかな気持ちになるのだから、きっとこれは恋なんだ、と自認していた。
 彼とはそんな一年間だけ同じ教室で過ごし、それからは進路が別々になって、高校以後の消息はよくわからない。ハナは中学の同窓会には出たことがなく、それというのも、きっとあれもイジメだったのだが、女子を仕切っていたグループの子たちが、ハナに対して無視を決めこんだり、休み時間にトイレに行っている隙に机の中の教科書を隠したり、制服に陰毛がついていたとかいう噂をたてて笑いものにしたことがあったからだ。
 そんなグループの彼女らが、同窓会の案内の電話やはがきを寄こす。猫なで声で、懐かしいね、なんて言われたって、すました字で、元気かな?なんて書かれたって、行く気になんてなれなかった。
 とりあえず、キリスト教世界の天使の章だけ読み終えて一息つく。加湿器に水を足して、ビタミンC入りののど飴を口の中に放り込んだ。レモンの甘酸っぱさがおいしい。
 ハナはスマホからツイッターを開く。そしてなんとなしに「フラエ ラミエル」と検索をかけてみた。はたして今時、十三年も前のオンラインゲームについてツイートしているヤツなんているかな…………いた。
 そのツイートは
「なんでフラエのサイト荒れてるんだろう?なんにでも難癖つけている荒らしがいるけどさ、ああいう輩にこそラミエルなんかにばしっと説教して欲しいよねw っつーか、今頃フラエの話しているぼくってレアな存在かも!」
という十四時間前のものだった。ぱぱぱっと画面をタッチして、彼女はリプライを送った。

3

 新しい歯ブラシの歯磨き達成度はやっぱり高い。くたくたの歯ブラシよりもしっかり磨けているのがはっきりわかる。とくに右下の奥歯の裏側の箇所が、ブラッシングによってエナメル質のつるつるした感じをちゃんと取り戻すのが嬉しい。
 クニヒロは大いに満足して歯磨きを終えた。前の歯ブラシは半年も使ったため、ブラシの毛が放射状に広がってしまっていた。こんな、ブラシの花が咲いたような状態だと、磨くのに余分な力が入ってしまうわりに磨き残しが多くなる。
 彼は今度から歯ブラシを取りかえるのは一月に一遍にしようと気分よく決めたが、一月後にこの決意を覚えている保証などはない。きっと忘れるんだよなあ、という気がしていた。
 キッチン兼用の洗面所からわずか四歩ほどで居間に戻る。彼のアパートの部屋は十畳一間だ。寝転がって、今日の勤務中にしたミスについて思いを巡らし、歯ブラシの件から気分は一転した。
 今日は、寝不足だったためか、原材料や製造者などが印刷されたシールをカップに貼る作業中、全部で四回、カップを床に転がしてしまった。落としたカップは使用できない。シールには製造番号が振ってあって、製造量とぴったり合うように印刷されてあるため、シールだけはきれいに剥がして消毒して、新しいカップに貼り直すことになる。
 それだけのことではあるのだけれど、カッコーン、という人目を引く落下音を響かせて注目を四回も集めたことは、クニヒロにとっては気持ちも体も縮みあがるような思いだった。
 気にしない人は気にしない。パート仲間のおばさんの佐々木さんならば、ミスはミスだがどうってことはない、と捉えただろうか。きっと、そうだろう。帰りしなに、佐々木さんは
「お疲れさま、また明日ね」
といつもと変わらぬ笑顔と言動で彼に接して退勤していった。
 クニヒロは、自分は何かあればすぐ気にする性質で、自らを強く責めてしまうんだよなと、天井を仰ぎながらその性格を憂いた。もっと精神的にタフになりたい。できれば人と自由に気兼ねなく話だってしたい。話をすれば晴れるものもあるだろう。抱え込んでしまって押し潰されそうになるのも彼の特徴のひとつだ。この性格、直んねえかなあ、と彼は悶々としてくるのだった。
 夢の中では、すらすらと他人と話すことができた。現実だと恥ずかしくて苦手なはずの、とびきりの美人や美少女が相手でも談笑することができた。もともと小学生の五年生くらいまではよくしゃべる子どもだったのだ。ポテンシャルとしては人と話をする能力はあった、話す能力そのものが欠落しているわけではない、ただ何かが足を引っ張って障害となっている、そう自分で分析しているのだが、その何かがわからなかったし、わかったところで処方箋が見つかるものとも限らないと思っていた。
 カタコトで喋って意味を拾ってもらうような他力本願の会話になりがちだから、周囲に気を使わせるし、そのために、気を使わせたことを気にして溜めこみ、その結果もっと喋るのが嫌になって、さらに周囲に気を使わせたり、あきれられたりし、また溜めこみ…という負のスパイラル。
 唐突に、あれは面白かったよな、と、いままで落ち込んでいた気持ちが、底を打って反転するように『フラッピング・オブ・エンジェル』の記憶へと飛んで行った。
 天使ミカはとある一時だけの考えで、ある人間を助けて運命を変えてしまったため堕天使となり、また天使の地位に戻るために人間界をさまよう。ミカは自らの短絡的な考えからの間違った行いによる挫折感をもち、その挫折感の内からどうにか這い上がろうとする強い意志を持って、一歩一歩、復位の道を歩いていった。
 襲いかかる誘惑や試練を、プレイヤーはミカと同化する気持ちでともに克服していく。そのテーマがクニヒロをひきつけのめりこませたのはもちろんだが、集中させるくらいの緊張をさせながらプレイヤーの感情をゆさぶり、感覚をゲームの世界と同期させてしまう優れたRPGだったことも、今も愛着を感じる懐かしさとともに『フラエ』を覚えている理由でもある。
 彼は、あのころミカとなってプレイした回想に浸ってうっとりしている。ラスボスにあたる最後の試練の前にラミエルからヴィジョンをみせられ、そこからアドバイスされたことすら、自分のことのように感じたことを覚えていた。それは、未来のミカが天上界で天使に復帰して働く様子のヴィジョンなどだった。
 しかし、ミカは、はたして天使、天上界という存在がほんとうに正しいのかという問いを、ゲームを進めていくうちにプレイヤーとともに強くしていくことになっていった。正しさとは何か、善とは何か、はたまた、神とはなんなのか。そこまで考えさせられながら進み、ゲームは終わっていった。
 ほんとうにそうだ、とクニヒロは我に帰りながら考えた。戦争だって、みんな正しいと思う主義や思想が元になって起こってるじゃないか。正しさと正しさ、善と善のぶつかりあいで、最悪の場合には人が殺されてしまう事態になる。唯一の正しさというものはきっと存在しないのだけれど、人はそういう絶対的なものを探すし、見つけたと錯覚するし、その錯覚したものを信じこんでしまう。そして、多くの人間の持つ正しさや善のイメージは神に集約される。
 きっとミカもそのように考えて、天上の世界に疑問を持ったのだろう、とクニヒロは独り得心した。

『フラエ』のコミュニティサイトにアクセスしようとノートパソコンを立ち上げると、ツイッターで誰かから返信がきていたことを告げるメールが届いていた。すぐさまそちらのほうへとアクセスし確認を急いだ。
 見てみるとhanaという人からの
「いまどき『フラエ』についてツイートしている方がいるなんて、びっくりを通り越して嬉しくなりました。わたしも『フラエ』好きだったんだー。よかったら、これからも絡ませてください!」
というツイートだった。
 わあ、女性だ、とクニヒロはどきりとしながらも、『フラエ』を愛好するひとがツイッターにもいてくれたことに感激していた。いてもたってもいられないのをガマンして、長いことその感激にうち震え続けた。こんなに単純に筋肉がこわばるくらい嬉しいなんて、ちょっと自分はアホなんじゃないかとほんのり笑った。
 そして返信する。
「リプライありがとうでした。フォローもしてくれたんですね!リフォローしました。こちらこそよろしくお願いします。『フラエ』のサイトはご存知ですよね?少人数ながらヘビーユーザーがいますよ。僕もそのひとりかなっ」
 送信ボタンを押して、しばしその余韻に浸った。
 『フラエ』コミュニティサイト上では、そこに集まる何人かとその場で話をするのだが、みんなその場だけの希薄なつながりだったから、SNSにまでつながったためしはなかった。
 メッセージのやりとりならツイッターのほうがやりやすい。さらに言えば、少人数が集まる掲示板は、書いたことを誰かれ構わずに読ませてしまう性格なのに興味によってアクセスが限られるという閉鎖性があるのに対して、ツイッターは基本的にフォロワーのなかでの発信・受信という閉鎖性がありながらも、趣味や興味を共にしない人たちにも届く一般性も強い。したがって、荒しのように下手な罵詈雑言を吐く人は目立つから、炎上したりバカ認定されたりして抑制されやすかった。
 クニヒロのあたまにはもはや昼間の仕事のことはなかった。気にする性質なのに引きずりすぎないのは、好奇心を持ちやすくそれに没頭しやすい性格だからだろう。そういうところで、彼はなんとかバランスがとれている。
 『フラエ』コミュニティサイトの荒しに対しては今朝考えたように無視を決め込んだ。
 あそこの管理人は最近不在なのか、取り締まってもくれない。管理人なら荒しをアクセス禁止にもできるだろう。そうしてくれないかなあ、という淡い期待もしている。でも、頼りにはならないかもしれない。なぜなら、全部を見ていて静観しているかもしれないからだ。管理者の権力を使って、気に入らない人を強硬に排除するという考え方を持たない人かもしれない。そういうタイプの人は、みんなで話しあってうまく解決してみよう、と考えている。ただ、その考えは、感情的にならずに建設的に議論しようという人たちの間にだけ通用するものなのだけれど。また、クニヒロと同じように、無視を決め込んで自然に収まるのを待っていることだって考えられる。あてにはならないかな、と管理人の存在については諦めることにした。

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