Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

原稿を書いています。

2016-02-28 22:28:27 | days
今年は小説を書こうと思っていると、
年初だったか、ここで述べたと思いますが、
いまその真っ最中です。

1月に設定を決めました。
キャラ作りをして、ストーリーはほぼ決めていない状態ながら、
出だしだけおぼろげに頭の中にはある感じにしました。
劇中の鍵となる部分の設定は概要とともにちょっと細かいところも決めました。
これは物語の中で必ず使うものとは限りませんが、
裏設定みたいにもなりうるし、
見えないところで物語を支えることにもなりそうだと踏んでいました。

2月、執筆開始。
序盤の構築のむずかしさを感じながら、ちまちまと書いて、
それがだらだらに変化しながら、
でも、性急にやらないことで、
説明文的になって、いそいそとストーリーを急かしてしまうことは避けられています。
そして明日で短い二月のひと月が終わろうとしている中、
やっとストーリーの結末が見えてきました。
これでいこうと思うラストシーケンスがだいたい浮かんだんです。
ちなみに、毎日書いているわけじゃないですが、
15000字くらいです、今。
以前、16000字くらいのを1週間で仕上げた覚えがありますが、
長いのはどうやらかじ取りが大変なのかもしれない。
単純に、長いものの経験が足りないというのもあるでしょうね。

最終的には100枚から150枚くらいを予定しています。
機械的な単純計算で40000字から60000字となります。

となると、伸びても5月末には第一稿が完成するでしょう。

やっぱり、書くのはおもしろいです。
なかなか進みませんが、面白みがあります。

一年間、蓄えの為に眠っていたのが吉と出るか凶と出るか。
今のところは吉と出ていると思っています。
いい意味での主観と客観が持てているような気がしている。

出来あがったら2ヶ月、3ヶ月寝かせて、推敲、校正します。
しかし、ぼくは推敲と校正の違いがよくわかりません…。
そこはまあ、なるように直したりするということです。

そして、今年はもう一つ、短いものでもいいから書きたい。
二つ仕上げるのが目標です。

応援してくださったらうれしいです。

Comments (2)
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『オープンダイアローグとは何か』

2016-02-25 20:47:02 | 読書。
読書。
『オープンダイアローグとは何か』 斎藤環 著+訳
を読んだ。

フィンランドを中心に実践されている、
「オープンダイアローグ(開かれた対話)」と呼ばれる
おもに統合失調症の患者に対して行われる治療法を紹介する本です。

医師やセラピスト、看護師、
そして家族に患者本人がひと固まりとなったグループで、
何カ月あるいは何年も対話を重ねていくという治療法です。
急性期の患者だけではなく、慢性の患者にも効果があるらしいです。
向精神薬はケースに合わせて使用したりしなかったりで、
ほんとうに対話を重ねることで症状を改善してしく方法で、
実績があることにびっくりすると同時に、
うまくいくことに納得の気持ちも生まれました。

いろいろと、この『オープンダイアログ』が生まれた背景、
それはポストモダンの哲学者ジャック・デリダを引用していたり、
ラカン派の精神分析、コフートの心理学、
オートポイエーシスというシステム理論などにも言及されていました。

そして、ここがもっとも大事だと読めたのは、
「言葉」に対する考え方です。
まず、統合失調症を患っている人への禁忌事項として、
妄想的な訴えに対して、論理的に反駁したり説得を試みたりすることが、
さらりとあげらているのですが、そういうのはするべきじゃないことでした。
初めて言いますが、ぼくの母が統合失調症を患っていて、
最近などは幻聴によく左右されてしまうのです。
そんなときに、それは母自身の声なんだから自覚しようとか言ってしまうことがあって、
それはいけないなあと反省しました。
統合失調症関係の本はこっそり2,3冊読んでいましたが、
そういう記述があったかわからないくらいでした。

話を戻しますが、
「言葉」への考え方の中核部分は、
発病した経緯についてわかっていることを
言語化することが大事になるということでした。
つらい思いをしていて、この病気特有の孤独な世界観に放りこまれていることを
言葉で言いあらわすことに大きな治癒への効果があるみたいなのです。
ここで、自分でつらつらとノートやパソコンなんかに綴るという行為では
治癒の効果は認められないかもしれない。
そのことは、モノローグ(独白)として区別されていて、
あくまで、他者、この場合グループ内の複数の他者に対して
話すことに意味が認められている。
そしてそれがダイアローグ(対話)へと進展するのです。
患者自身が発した言葉、ともに苦しむ家族が発した言葉が、
専門家や看護師にも受け入れられて、同じ言葉を使って返ってくる。
そういう一連の行為に、どうやら秘密がありそうです。

また、話すことも大事ですが、どんな話でもその話の腰を折らずに、
深く傾聴することが大事だともされています。

カポーティじゃないですが、信頼を持って話し、共感を持って聴く、
そのことが肝要だと言っているかのようでした。

また、ごく個人的な感想ですが、
予後があかるい患者の場合と予後不良とされた患者の場合の
言葉の使い方の比較があるのです。
それは、対話でのもので、対話自体の性格を分析しているものなのですが、
予後があかるい患者の場合だと、
比喩的な言葉や象徴的な言葉が正常に、
3割から7割の間で言葉が構成されている。
それに対して、予後不良とされた患者の言葉にはそういった
比喩的なものや象徴的なものが2割前後くらいだったかな、
そのくらいなんです。

そこで思い出したのが、村上春樹さんが、
自分の本を読んでくれる人の中には、
統合失調症だとか精神の病を持っている人が多い、
と言っていたことでした。
村上春樹さんはご存知のように突き抜けた観すらある比喩の使い手で、
ものによっては、最初から最後まで比喩の文章で構成された短編もあります。
比喩だとか、象徴だとかが的確な使い方で構成された文章を読むことで、
たとえば精神の病を持つひとたちは
癒されたり共感したりするのではないでしょうか。
なにか、こういった病気をいやす一つのヒントが
ここにありそうな気配すらします。

それと、この本で知って検索したのですが、
コフートの心理学では、「共感」に注目するようですね。
ぼくも、共感は、無意識の意識化という性質を持っていて、
精神衛生上好ましいものだと考えていたので(ユングを読んでらですが)
ピーンときて、そうだろうそうだろう、という気持ちになりました。
ただ、こういうセラピーの類を統合失調症に用いるのはタブーですし、
いろいろある心理学の流派のそれぞれから
いろいろ矛盾も内包しつつ統一できるところを統一して、
実践的で効果的な治療の方法ってみつかると思うのです。
矛盾を内包するなんていうと、理論が破たんしているなんて
きっと言われますけれども、
理論をまたずに「効果があるんだ」とされるのは、
そういうものなんじゃないかといおう気がするのです。
危ないですか。
でも、統合失調症などに使われる治療には、
「なぜかわからないし、解明されてないけど効くからやっている」
という方法がちゃんとあります。

と、脱線しましたが、
本書では、前半に著者が、『オープンダイアローグ』の概観を説明し、
後半では、フィンランドのセイックラ教授の論文3本の翻訳を掲載しています。
前半と後半では、重複する箇所がありますが、
なかなか難しい内容でもあるので、
そのほうが理解を助ける形になっているように読み受けました。

日本では、北海道は浦河町にある「べてるの家」という統合失調症の患者の
グループホームみたいな形の、住んで働いてケアしてを提供する施設があって、
そこは「オープンダアイローグ」の考え方と似ているらしいです。

こういう治療は薬物投与で、
つまりパワーで病気を抑えるようなものと逆方向を向いているようにも見えます。
よって、精神医学が力を持つ日本では、
なかなか普及していくには時間がかかるだろうし、
そして、普及させていくために実績がいるだろうし、
大変でしょうが、志ある方たちでがんばっていってほしいなあと思いました。


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『超高齢社会の基礎知識』

2016-02-21 22:15:21 | 読書。
読書。
『超高齢社会の基礎知識』 鈴木隆雄
を読んだ。

2012年の本ですが、
そこから2030年や2055年の人口の推移とともに高齢化率を見ながら、
超高齢社会をさらに超えていく社会が必ず来るので、
覚悟して対策を練るために知っておきたいデータや知識がいろいろ載っていました。

ちなみに、高齢化社会というのは、人口の7%が65歳以上の高齢化率になる社会をいい、
高齢社会は高齢社会の2倍でる14%の高齢化率でそう呼ばれる。
さらに、7の倍数の21%で超高齢社会になるのだけれど、
この本が出たときのデータでは、
日本はすでに23%を超える高齢化率の超高齢社会になっています。
そして、たとえばぼくの住んでいる町は高齢化率が50%に届くほどなのですが、
50%までいくと限界集落と呼ばれ、活発に産業が育たないし、発展もしないし、
お金の流れも滞り、コミュニティの存続を危うくする状態だそうです。

もっとも興味を持って読めたのは、
やはり前期高齢者、後期高齢者の健康に関するところでした。
老化は足からくる、ということです。
だんだん歩けなくなるということが、
介護を受けてしまう方向への下り坂をあらわしている。

歩けなくなると、まず転倒の恐れがある。
転倒は高齢者にとっては、骨折してしまうことも多く、
そこから寝たきりになったり、
または転倒そのもので命を危うくするリスクがあります。

次に、歩けなくなると、尿失禁を防ぎにくくなる。
こうなると、オムツを履いたりすることになり、
尿がいつ漏れるかという怖れから、外に出ることが不安になって、
社会との関わりが薄くなっていき、それによって認知症のリスクが高まります。

続いて、歩けなくなると、認知機能の低下そのものの予防もできなくなる。
歩くこと、運動をすることで、認知機能を維持したり回復したりできることが、
実験からわかっているそうです。

最後に、歩けなくなると、筋肉量減少症(サルコペニア)を予防できない。
高齢者になると筋肉の量が減っていって、痩せていく人が多いそうです。
そうしていくと、認知機能の低下の可能性が高まる疑いがあるそうです。

これら、老化の負のスパイラルに陥らないためには、
歩くこと、運動すること、という自助努力、
そしてそれらを促す周囲からの助け(共助)もときに必要になるんです。
人間にとって歩くことって本当に大事なようですよ。
といいつつ、ネットのニュースで、
一日一万歩健康法のウソ、みたいな記事の見出しを見ましたが…。
まあそこは本書のほうを信じることとします。

それと、「食べこぼし」や「むせ」というものも危険だという話でした。
うちのおふくろは寝ながらでも薬の副作用でよだれがおおくでてしまって、
むせていくことが多いのですが、本書には、
<とくに危険なのが夜間・睡眠中の無意識の状態で発生する「むせ」である>
と書かれていて、はっとしたところです。
飲みこんだものが食道へいかずに気道に入ってしまうことを誤嚥と言いますが、
誤嚥性のものを含む肺炎は高齢者の死因の第4位だそうです。

それで、そんな高齢者のなかでも、介護が必要になってしまったら、
各市町村にある地域包括支援センターで相談できるそうです。
ケアマネージャー(介護支援専門員)、医師、看護師、理学療法士、作業療法士などが
それぞれに連携してささえるシステムというのが好ましいとされていました。
さらに、ヘルパーや介護福祉士もそこに加えて考えるものなのだと思います。

利用者の「生活の解決すべき問題」「目標」「達成までの期間」を明確にして、
チームメンバーで共有することが大事だとされる。

また、今って、病院で死を迎える人が多く九割がたは病院での逝去ですが、
これからの超高齢社会においては、在宅で死を迎えることへとシフトしていくように、
政府は考えているし、世の流れとしても好ましいということでした。
そもそも、ポックリといきなり死んでしまうのが理想とされますが、
急性のポックリ死って3~4%くらいの割合だそうです。あとの9割以上の人は、
だんだん弱っていって死んでしまう。
それで、病院にかかって、胃瘻(いろう)にまでかかると、もはや回復の見込みはなく、
ただただ延命のための措置にすぎなく、治療を受ける本人にしてみても、
それが希望通りなのかもわからないことになってきます。
著者は、欧州では延命措置をとること、胃瘻を使うことはほぼないことを示したうえで
(それは宗教観がおおいに影響しているのですが)、
尊厳を持って死を迎えることの大事さを訴えています。
そして、メメント・モリ(死を想え)の言葉をひきながら、
自分で自分の死の迎え方を考えること、死を考える教育が必要だとも述べていました。
くわしいことは、本書を手に取ってみてください。

ぼくの母は最近、要介護認定3になったのですが、
どうも介護サービスの受け方がわからなくて、
いっときヘルパーさんに来てもらっていたんですが、
母が嫌がるのでやめたという経緯があります。
この本を読みながら、親父と話をしてみると、
親父は介護にかかっている時間で精いっぱいで、
母がこれからもっと歩けなくなるとさらに症状が悪化して、
介護の負担が大きくなっていくことをわかっているのかいないのか、
とにかく今で精いっぱいで、介護サービスもよくわからない、
というような反応でした。

ぼくもこの介護サービスについて全然知らなくて、
きっとサービスがないんだろうと思っていたのですが、
どうやら地域包括支援センターに相談すると、
なにか適当なサービスが見つかるんじゃないかという気がしています。
さっきも書きましたが、「生活の解決すべき問題」「目標」を明確すると、
どんなサービスが良いのかがわかってきます。
これ以上歩けなくならないように、作業療法士についてほしい、
そして、目標は今よりも歩けるようになること、だとか
相談員に持ちかけられそうな言葉が浮かんできます。
母の場合は精神の病とその薬の副作用による痴呆様症状で要介護3までいっています。
そこがふつうと違って難しいところなのですが。

介護や高齢化についての本は、あと2冊、積読になっていますので、
近いうちにまた読んでみて考えようと思っています。

おまけとして、うちの地域の地域包括支援センターの支援内容の文言をコピペしておきます。

______________

地域包括支援センター
高齢者が、住み慣れた地域で、
いつまでも楽しく潤いのある生活を送れるようにすることを目的として、
保健師・主任介護支援専門員・社会福祉士などの資格を有する職員が、次の業務を行います。

1.総合相談について
相談を総合的に受け止めて、必要な制度やサービスの利用につなげるよう支援します。

2.介護予防サービスの調整
高齢者本人が、生活の中で実現したいことを目標にして、
出来る限り住み慣れた地域で自立して生活できるよう支援します。

3.包括的・継続的なサービスの調整
一人一人の状態にあわせ、地域のいろいろな資源を活用しながら
継続したサービスを受けられるように調整いたします。

4.権利擁護について
金銭の問題や虐待など、地域生活で問題を抱えた時に、
尊厳ある生活と人生を送れるように支援いたします。


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『イワン・デニーソヴィチの一日』

2016-02-18 23:30:37 | 読書。
読書。
『イワン・デニーソヴィチの一日』 ソルジェニーツィン 木村浩 訳
を読んだ。

ソビエト連邦時代の文学です。
作者のソルジェニーツィンはノーベル賞作家です。

酷寒の囚人労働施設の話。
酷い目に遭って働かされていても、
その世界を受容してなんとかそこでよりよい生活をしようとしている。
隠し持つずるさは生きるためのもの。
ずるく賢くじゃないと生き残れない。
丸見えの利己主義でも生き残れない。
そして、主人公のシューホフ(イワン・デニーソヴィチ)は、
そんななか、ときにやさしい心根をのぞかせる。
それは囚人とされた身であっても失われない人間性だった。
囚人といっても、スターリン下のソ連でのことだから、
ほぼ現在の世界では無実のようなくだらない罪状だとか、
思想犯だとかで過酷な労働施設へと連れて行かれるのでした。

『イワン・デニーソヴィチの一日』の中には、
人間の根源的な生命の火のようなものが描かれている。
あの、妙な温かさはその火のぬくもりだと思う。
ぼくも自分の小説で、稚拙ながらもそういう火を扱ったことがあるから
その火をまっさきに感じるのだろう。

死ぬか、生きるためにうまくふるまいながら狡猾さを発揮するか。
本書の世界での振る舞い方は、
ぼくの人生でいうと小学三年生の世界だった。
あのころの論理がそのまま磨かれて大人の世界でも適用されているという感覚。
ぼくは自分の小学三年生の世界では、
主人公のシューホフ的に、
ときにばれない程度に小ずるく振る舞って自分の立場を優位にしたり得したりしたと思う。
あのままの論理で生きていってしぶとい人間になることはなく、
あの論理から卒業したのか脱線したのかして今がある。

ぼくはわざわざさっぱりした人間になったタイプだ。
いやらしくしぶとく成功を掴んでいくタイプとして生きるのは
きっと向いていないと悟ったのだろう。
誰にも気づかれなくても、
うまいことやったことは神様には見られているとでも思ったのかもしれない。
そこから、誰にも知られないでうまくやれることはないという意味で限界を感じ、
さらにその非スマートさが嫌になった。
スマートに振る舞えないことで、
汚れても泥だらけでもうまくやっていこうとする
強い生命力を発揮する道から降りたのは、
ナイーヴすぎたんだろうなあ。
歳を重ねて、強い生命力を再獲得していこうとしているフシは少しある。

…と、自分の人生に重ねて考えてしまいましたが、
本書の面白みはそういうのとはべつにちゃんとあります。
淡々とした文章でもって、その内容の濃さでひっぱっていくような物語です。
しりすぼみにならずに、
クレシェンドのように物語が終わっていくように感じられもしました。
たった一日の話であり、就寝前のシーンだって、作家は気を抜いていないし、
実際に、あの場所は眠るまではいろいろある場所だったんだろうなと推察もできます。

ぼくは北海道の寒い内陸部に住んでいますし、今は二月です。
そんな季節にこのロシアの酷寒の時期・地域の物語を読んだので、
けっこうなリアリティを持って読めたなあという気持ちでした。

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Dance With ONION

2016-02-15 21:10:29 | Fish On The Boat
『玉ねぎ』


玉ねぎって、安くて好きさ。

そして、血液をサラサラにしてくれるっていうじゃなぁい?
たくさん食べたくなってくるよね。

たくさん食べても、安くて好きさ。

ちょっと辛いが生で食べるよ、
ツナと和えてね、マヨも混ぜてね、
ララララおいしい。

玉ねぎって、安くて好きさ。
たくさん食べても、安くて好きさ。





『玉ねぎ2』


玉ねぎって、何層?変装?軍曹?

むいてもむいてもきりがなさそう、
でも、あるよね、何層?

これって正体を隠すため、
何枚もまとっているわけ、変装?

あの辛さと目にしみる感じ、
将校による尋問みたいだね、軍曹?

玉ねぎって、何層?変装?軍曹?
(あっ、そう…)
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『人とのつながりとこころ』

2016-02-07 23:02:38 | 読書。
読書。
『人とのつながりとこころ』 今川民雄 山口司 渡辺舞 編著
を読んだ。

人とのつながりにおいてのこころの動きの研究・考察を、
わりあい平易な文章で紹介する本です。
編著者は3名、執筆者は15名。

まず本書の序盤にある、
ブログをやるようになった動機としての調査で、
まだウェブ日記と呼ばれていたころには
「自己表現の為」と答える人が過半数くらいいたのに対して、
それから10年後くらいの調査では「自己表現」派は10%強くらいになっている。
そして前者で2位だった「他人もやってるから」派が後者で1位に。

自覚をもってこそ自己表現に臨むような時代から、
それから10年くらいで無自覚に自己表現をする時代になったっていうことなんだろう。
意外に気付けていない変化。
しらーっとそういうふうに変わっていっている。
ツイッターやライン、FBなんかもそういうのに拍車をかけていますよね。

ぼくは古めかしく、「自己表現」派であるかな。
というか、表現力を鍛えたかったし、文章力も鍛えたかったし、
自己研鑽の意味合いが強かったです、はじめた当初から、今でもそうかなと思う。
同時に、楽しもう楽しませようともしているんだけれど。
なにかしら自分が世の中に波紋を広げられるかも、という思いもすこし。

変わって、おひとりさまと呼ばれる、ひとりきりの状態の調査。
おひとりさまには、「能動的なひとり(ポジティブ)」
「受動的なひとり(ネガティブ)」の2種類があるのはわかっているけれども、
あえてひとりになって自由を味わうような「能動的なひとり」よりも、
ぼっちの「受動的なひとり」のほうにみんな目が行き勝ちじゃないか。

ポジティブなひとりに対しても、
ネガティブさや落ち付かなさを感じるのが青年期らしい。
その感情的基準をいつまでもひきずったオトナだとか、
それこそ青年期真最中のひとだとかが
「おひとりさま」にぼっち的な意味付けをしてしまって、
どっちつかずのひともネガティブな「ぼっち」の意味合いに
引き寄せられるというのがありそう。

要は、「おひとりさま」って、
ネガティブなイメージがつきやすいということでしょうかね。
みんな、孤立だとか「受動的なひとり」に対する恐怖が強いんだと思った。

恋愛をしている人にはポジティブな特性があるとみなす「恋愛ポジティブ幻想」、
世の中の恋人がいる人の割合を実際よりも多く見積もる「恋愛普及幻想」。
これらによって、恋愛をしていないと、
自分はポジティブじゃない、自分は少数派だと勘違いして
自尊心を傷つけてしまうそうです。

昨今、おひとりさまが増えていることから、
そういった「幻想」によって傷ついた人も以前よりも多くなっていそうに思えます。
それで、そういった自尊心を傷つけて劣等感を持つようなことになると、
がんばれなくなるという精神状態になり悪循環を生む。
世の中の元気のなさの一つの理由がここにあるかも。

そしておひとりさまをひとりぼっちととらえて
ネガティブなイメージと恐怖心を持つ人が多い。
それでいて価値観の多様化などによって未婚者や恋人のいないひとり者が増えている。
そういうことが意味するのは、やはり劣等感の強まりなんじゃないか、
そしてそこから影響していく頑張れない精神状態を思うのです。

価値観の多様化によって、
人はひとりになりがちな状況に急に放りこまれた、
と言えるかもしれない。
あまりに急だったものだから、
あっぷあっぷしているのが現代なのかなあ、と思いもしました。

さてさて、編著者のひとり、山口司さんは、
ぼくの昔のバイト仲間です。
それで、新しい本書いたら買うよ、なんてメールで話していたら、
この新刊をプレゼントしてくれたのでした。

この場を借りてお礼を言います、ありがとう。
興味深いことばかりで、ひきこまれて読みました。
おもしろかった。


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『生田絵梨花 1st写真集 転調』

2016-02-03 19:42:32 | 読書。
読書。
『生田絵梨花 1st写真集 転調』 生田絵梨花 撮影:細井幸次郎
を眺めた。

この写真集により、
ぼく自身が興奮により転調してしまって、
前と違うキーの声になりました。

そんな声でもって、
生田絵梨花さんの1st写真集が、
この上もなく、最高だった、
という報告をしたいと思います。

『転調』というタイトルはたしか秋元康さんがつけた名前で、
いくちゃんが子どもから大人へと変化いしてくちょうどその時期である今をとらえて、
『転調』としたようです。
まあ、でも、写真集を眺めた感じ、
最近のいつものいくちゃんに出会えるといった感じ。
いくちゃんは以前、目が死んでいる、とスタッフの人に
けっこう言われてきたらしくて、
乃木坂メンバーの生駒ちゃんに相談したこともあったそうですが、
たしかに、今のいくちゃんのほうが瞳がいきいきしているように見えます。
ぼくが乃木坂のアルバムの最後のピアノについての歌を歌っているのは
どんな子だろうと調べて、やっと生田絵梨花という子だとわかって興味を持って
YouTubeで見てみたらときめいてしまったその頃にはもう、
いくちゃんの瞳はきらきらしていて、こんな素敵な子がいるのかあと思った。

いくちゃんの笑顔を見ていると、こっちまで幸せで嬉しくてほっこりしてしまう。
そういう子って、ぼくはこれまで生きてきた中でも、
数えるほどしか見たことがないような気がする。
もっと言うと、その見てて元気になれる、
幸せな気分になるという度合いの強さは、ダントツで一番です。
ぼく史上、もっともかわいい。

もう一回言わせて。

生田絵梨花さんは、
ぼく史上、もっともかわいい。

そしてそして、
いくちゃん初披露の水着姿もあるのですよ。
可憐な水着姿で、きゅんとしてしまいました。

もしもそんな水着姿のいくちゃんが目の前に立つシチュエーションになったら、
「お、おぅ、きたか・・・」とか言って、
そんないくちゃんを直視できないでドギマギしてしまうことでしょう。
ぼくはそんなタイプじゃないかな。

今までいろいろな人の写真集をみてきたけれど、
いくちゃんの写真集『転調』が一番になりました。
きっと、ぼくがいくちゃんに要求しているようなイメージと、
写真集のイメージが一致しているんです。
しっかりといくちゃんの顔や姿が映っているのが多いしね。
よくあるような、奇をてらった感じもないです。
いくちゃんが後ろを向いてたりする場面もあるのですが、
なんとなく自然だなあと見てとれるような仕上がりでした。

あー、いいもの手に入れてしまった。
いくちゃんの出生地のドイツでの初写真集は、
すばらしくてすばらしくて、強い言葉でもっと褒めたいのだけれど、
そうすると陳腐になってしまうから控えている、
という状態です。

よかったねー、いくちゃんファンは。
こんな素敵な写真集を眺めることができて。
いくちゃん本人がほんとうにすてきだからなあ。

ああ、いっぱいのろけた。


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『君が降る日』

2016-02-02 22:32:22 | 読書。
読書。
『君が降る日』 島本理生
を読んだ。

作者の島本さんって高校生のときにデビューしていた人ですよね。
早熟の人なんだろうと思いながらも、
その早熟さから成長して今があるのだろう、
だからこそ、早熟のまま消えていかずに、
名のある作家になったのだろうと想像して、
興味を持っていたのですが、今回はじめてその作品を読みました。

表題作を含めて3作品収録されています。

『君が降る日』は恋人の死から始まる物語で、
ちょっと「喪の仕事」なんて言葉を知っていると、
どうやって癒されていくのか、
その過程を綴る話かなという気がしてきます。
しかし、この作品には、そういう面がありながらも、
それだけに終わらない、ある種めずらしい展開が待ち受けています。
そして、そこにこの物語の醍醐味がある。

二作目の『冬の動物園』はラブコメディで、
ぼくは三作の中でもっとも好きだった。
気のきいた、笑いの取れる男女の心理上のかけあい、
言葉でのかけあいが、
読んでいて実にセンスがいいと感じられた。
きっと、でこぼこの男女二人ではあっても、
深いところでの相性は抜群なのではないかと思えるほどです。
そして、そう考えてしまうほどこの物語には引き込まれてしまいました。

三作目の『野ばら』は、
ラストできゅっと締まって、その味わいが文学的だなあと感じられた。
そういえば、自分が中高生時代に味わっていた気持ちって、
このラストにあるようなものだったなあと思い出したりもして。
中盤はなんとなく、前二作にくらべて流れが遅いというか、
あまり核心を突いた心理描写ではないような気がしたのだけれど、
最後にはつじつまが合うような話でした。

島本理生さんはまだまだ代表作があるので、
そのうちに、そっちにも食指を伸ばすでしょう。

おもしろかったです。


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