Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

『マーケット感覚を身につけよう』

2021-04-28 19:48:38 | 読書。
読書。
『マーケット感覚を身につけよう』 ちきりん
を読んだ。

サブタイトルは『「これから何が売れるのか?」わかる人になる5つの方法』です。帯には「論理思考と対になる力を教えます!」とあります。有名ブロガーである著者には、本書発刊の前に論理思考についての著書があったということでした。

これだけの情報だと、現在の「グローバル化」し「情報化」が進み20世紀とは様変わりした世界で商売をばりばり行って、一頭地を抜く存在になるための教本のように思えるかもしれないです。ですが、読んでみると、そのための知識をつける本というものともちょっと違います。より根本の、「やわらかな頭を持つための、やわらかな頭とは何なのかそしてなぜ大切なのかの解説とやわらかな頭のための体操の仕方」を教えてくれる本といったほうが的の中心に近そうです。

ここで登場する「マーケット感覚」とは、マーケティングのことではありません。ここで本書での例をあげますが、たとえば航空会社の競合会社は他の航空会社だけだろうか? という問いを考えるとわかりやすいです。飛行機には出張や旅をする人を運ぶのはもちろんのこと、それだけではなく、貨物としての性質だってあります。列車やバス、運送業も競合会社になります。さらに、全国各地、ひいては世界各地の支店長を本社にあつめて会議をしたい、となったとき、それだったらリモートのほうが便利だし安上がりだし時間も節約になる、となれば、IT会社や通信会社が航空会社の競合にもなっている、となります。

というように、現実感覚と現場感覚、そして想像力によって論理思考より広くそして地に足をついた感覚でものごとを把握する感覚がマーケット感覚なのでした。

昨今では、就活も婚活も市場化された、と著者は述べますし、大学のありかたも今後どんどんマーケット感覚でもって運営していかないと淘汰されていくというようなことも述べています。おもしろかったのは、都市部よりも地方のほうが市場化によってチャンスとなるものが潜在的に多く、町おこしをそういった目でみるとまだまだ地方は捨てたものではなさそうだ、というところでした。都市部で暮らした人のほうが、市場としての性質の高い生活を強制的に送らされているのでマーケット感覚が培われる人が多いです。なので、都会でマーケット感覚を知った若者が地方にやってきたり、Uターンして地元に戻ったりして上手に商売をするだとかが今も起こっていることですし、これからもそういうことが起こり続けるのだろう、と本書から教えられます。そこで自らがそこに関われたならばすごくいいでしょうね。

読んでいると、人間理解をちゃんとやることが大きいぞ、と読めもするんですよ。マーケット感覚を育めたなら、たぶん小説を書くことも上手になりそうだし、書く前段階での読者ターゲット設定やテーマ設定、そしてキャラクター設定もずっと無理なくできそうな気がします。そういった仕事が、小手先じゃなくなるでしょう。

でもですね、僕なんかはこういう商売が最前面にでてくる世界観には寂しさを感じもするのです。拝金主義に陥りやすそうだなあだとか、世知辛くなりそうだなあだとか思えますから。そういった点についても、そうならないように感覚を働かせるのも、ある種のマーケット感覚ではありましょう。基盤設計といいますか、社会のあり方みたいなものに働きかけるときにも、応用が効く感覚だと思いました。つまり人間を中心に据えて考えてみること、です。お金がとても重要でありはしても、人間を差し置いてまで重要ではないでしょうから。僕個人としては、そういった感覚を捨てずにいながら、マーケット感覚をもっと養いたいところでした。


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『月の上の観覧車』

2021-04-23 00:13:26 | 読書。
読書。
『月の上の観覧車』 荻原浩
を読んだ。

全8篇の短篇集。そのどれにも別れや死などの「喪失」があります。そしてそのすべてに中高年以上の人物が主人公だったり重要人物だったりして、彼らが過去を振り返りながら(あるいは、彼らの過去を振り返りながら)喪失と彼らの関係を自身や関係者が確かめたり受けとめたりしていきます。現実と過去との交錯の仕方が特徴的な短篇集でした。

過去の社会状況。それも田舎町や地方都市、都会、それぞれによって違いがあります。さらに、人それぞれにその状況下での個人的な体験や経験がありますし、関わってきた大勢の人たちからの影響を受けたり、逆に彼らに善い影響や悪い影響を与えたりして生きている(そんな個人の集まりが社会をつくり、その社会がまた個人をつくります)。

ひとりの人間を形作っているのは、そういった個別の経験や運命です。たいがい人は、他者の個別性の、ほんの外側のうっすらとした膜だけしか見えていなかったりします。その他者が家族や恋人や友人であったら、もうちょっと深く視線が届くかもしれません。でもそんな近しい彼らが対象であっても、個人まるごとを理解するくらい深く見通すことはできないのだと思います。

だから世間には、他人への誤解、見誤っている判断が生まれがちです。でも、たとえばモノを盗んだ人、恋人をむげに扱う人、家族を大事にしない人などなど、傍から見れば関わりたくないし、よくない人だと決めてかかられてしまう人たちがいますが、そういう人たちだって、そうなってしまうまでの個別の過程・経緯があり、彼らにとってそれはほんとうの人生の、ほんとうの選択の積み重ねでできあがっていったがゆえの個別性なのです。そして、その個別性はむやみに否定されるべきものではありません。

本書は、そういったところに関心を寄せるような経験を、読者に体験させる作品群だと思いました。善か悪かではない、と二元論を否定する意見は世間にしっかりありますし、それは肯定されるべき意見だと僕なんかでも思うのですが、その否定の論説はどれも抽象的だったりします。ですが、そこに具体性を感じることはとても大切なことです。そのためには本書のようなフィクションの手を借りるとよいのでしょう。

本書は年齢を重ねたひとが読むとより胸に沁み込む読書になるような、ちょっと玄人好みっぽい作品かもしれません。でも、先述の個別性の話のように、他者への想像の仕方のとっかかりを教えてくれるような作品たちとして読むことだってできるエンタメです。

しっかりした語り口で作られていますし、安心して小説世界にひたれます。派手ではないですが、それが却って「いいねえ」と思う読書でした。短篇をひとつひとつ読了して新しいのを読むたびに、なんだか気持ちが豊かになっていくような気持ちにもなれました。


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『人生論ノート』

2021-04-19 23:24:24 | 読書。
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『人生論ノート』 三木清
を読んだ。

戦前から戦中期の哲学者・三木清による23章の哲学エッセー。

「不確実なものが根源であり、確実なものは目的である。」(「懐疑について」より)。やっぱり、人の基本部分って「ゆらぎ」であるということを言っていると思いましたた。僕もずっとそう考えています。どこかひとつの位置に安住するものではない。できるだけ物事をしっかり見つめ、捉えていたいのならば、そうなのです。

懐疑には節度が必要である、と三木清は言う。手順を踏まず、工程を飛ばした懐疑は節度がない、といえると思います。節度のない懐疑は、独断であり、宗教化に陥り、そして情念に基づいて働く、と著者は続ける。また「真の懐疑家は論理を追求する。しかるに独断家はまったく論証しないか、ただ形式的に論証するのみである。」とあります。こういう、ある種のつよさを持って世の中に懐疑をはさむ(意見する)のがベターなんでしょう。

次に「幸福について」のところで、「愛するもののために死んだ故に彼らは幸福であったのではなく、彼らは幸福であった故に愛するもののために死ぬる力を有したのである。」とあります。こうやって逆転して見てみたがための見抜きは素晴らしいと思いました。そうかもしれないなぁ、なんて思いませんか。幸福は人格である、とゲーテを引いて三木清は断言しています。これは、他律性に縛られないことが生きやすさに大切だ、という僕の考えと重なっているものです。自律性という捉え方と、人格(肉体・精神・活動の総合)っていう捉え方ですから、僕の頭の中のイメージとしては符合するんです。

というように、自分の考えの証左を得られるようなところも少しあって、勇気が湧いてくるような読書にもなりました。

また、今日「非認知スキル」と言われているものを「習慣」という言葉で説明し、ベストセラー『サピエンス全史』の要諦である「虚構」についても、「人間の生活はフィクショナルなものである」として明らかにしていました。世代が変わるたびに忘れていくことだから、おんなじようなことを人間はくりかえしくりかえし、再度論じる人が出てくるということなのかなあ。伝承されるにしても人口に膾炙するにしても、情報量が多いし濃いからなのかもしれないです。

こういうのもありました。「自分が優越を示そうとすればするほど相手は更に軽蔑されたのを感じ、その怒は募る。ほんとに自信のある者は自分の優越を示そうなどとはしないであろう」(p63-64) これは現在でいうマウンティングに通じる話。マウンティングは、いまや若者にとってメジャーな行為ですよね。それはたとえば僕らの世代が若者のときにそういった波に席巻されていたなら、やはりマウンティングは定着していたと思うモノ。若者ってのはたいてい自信のない存在だろうから、無理してでも優越を欲しがってマウンティングが始まるということになります。つまり、「マウンティング」≠「自信がないことの告白」。あと、「自慢」っていう優越がありますけれども、マウンティングほど他者を組み伏せようとする力は持っていないのだと思います。発散的というか放出的という感じで。まあ、ノーマルな自慢もあれば、マウンティング的自慢もありそうですが。そして、マウンティングがはびこると、ただの「自慢」やただの「事実」すら、受け取り手によって被マウンティング化されてしまいがち。そんなつもりはないのに、相手が「マウンティングされたぞ!」という表情なり反応なりするというアレ。そして、それがマウンティングではないことが理解されない。そういう人に出合うことはふつうにあるので、それゆえマウンティングの袋小路感があります。だから、これを回避するにはみんなが自信を持つことなのだから少しずつ実力をつけていくといいのになぁと思います。そして実力を褒め合えて認め合えるといいのになぁと。せっかくついた実力を種にマウンティングせずに。再度言いいますけど「マウンティング」≠「自信がないことの告白」です。「君をほめたいから、とにかく少しでも実力をつけてみて!」っていう脱マウンティングにつながるスタンスの拡散を希望しますねえ。マウンティングによってみんな要らないちょっとした怒りを自然に抱えあうのはどうかなぁ、ですから。

他、利己主義者は自意識が強くそして想像力がない、と定義されていたりなど、響いてきてこちらの思索を活発にしてくれるような言葉が多々ありました。以下にいくつか興味深かったものを引用します。


「感傷は、なにについて感傷するにしても、結局自分自身に止まっているのであって、物の中に入ってゆかない。批評といい、懐疑というも、物の中に入ってゆかない限り、一個の感傷に過ぎぬ。」

「感傷は矛盾を知らない。人は愛と憎みとに心が分裂するという。しかしそれが感傷になると、愛も憎みもひとつに解け合う。」

「あらゆる徳が本来自己におけるものであるように、あらゆる悪徳もまた本来自己におけるものである。その自己を忘れて、ただ他の人間、社会のみ相手に考えるところから偽善者というものが生じる。」

「『善く隠れる者は善く生きる』という言葉には、生活における深い智慧が含まれている。隠れるというのは偽善でも偽悪でもない、却って自然のままに生きることである。自然のままに生きることが隠れるということであるほど、世の中は虚栄的にであるということをしっかりと見抜いて生きることである。」

「生活と娯楽とは区別されながら一つのものである。(中略)娯楽が生活になり生活が娯楽にならなければならない。(中略)生活を楽しむということ、従って幸福というものがその際根本の観念でなければならぬ。」


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『アサーション入門』

2021-04-14 22:26:08 | 読書。
読書。
『アサーション入門』 平木典子
を読んだ。

副題は「自分も相手も大切にする自己表現法」です。そういったコミュニケーションの取り方を解説する入門書なのでした。

本書では、「アサーション」「アサーティブ」という聞き慣れない言葉が随所にでてきます。著者による翻訳では「自他尊重の自己表現」となっていました。この、心理学ヒントに行われるコミュニケーションのやり方を実践すれば、日常のやり取りに変化と充実感が得られるでしょう、とあります。さらに、人のこころの奥深さを知り、自分らしい生き方の道を拓くもするのだ、と。

まず、自己表現の三つのパターンを解説する章から始まります。三つとは、「非主張的自己表現」「攻撃的自己表現」「アサーティブな自己表現」。

「非主張的自己表現」は、自分の意見や気持ちを言わない・言い損なう・言っても伝わりにくいタイプです。そこには根本に、どうせ伝わらないのだ、という諦めのある人も多い。また、相手から理解されにくく、相手を優先して自分を後回しにするので、結果として相手の言いなりになってしまうこともある、と。そして、自分の意見を言わないために、理解されなかったり、無視されたり、同意したものだと誤解されたりしやすい。このタイプの人は反論しないため、周囲から「いい人」と思われるけれども、「都合のいい人」ともみなされがち。「攻撃的自己表現」の人との組み合わせで、メンタルヘルス被害に遭うことにもなりかねないのだそう。このタイプは、相手を立ててトラブルや葛藤を起こさないように配慮しているところがありますが、自分をないがしろにしているために、そのうち自分でも何が言いたいのかわからなくなるし、自分で決められなくなったり言い方がわからなくなったりするようです。
それらが積み重なって、結果、自分にも他人にも無責任になるし、理解されないという弧絶感や恨みを抱えてしまうこともある。欲求不満が急に爆発して、いわゆる「キレる」状態になるのはこの「非主張的自己表現」タイプが追い詰められた時なのです。つまりは、自分を大切にしない自己表現法なのでした。そこには、社会的・文化的背景から影響を受けてそうなってしまう例が多いみたいです。

「攻撃的自己表現」はイメージしやすそうに思えるのですが、パワハラやモラハラなどをやるタイプです。自分の言い分や気持ちを押し通そうとします。「言い放しにする」「押し付ける」「言い負かす」「命令する」「操作する」「大声で怒鳴る」などがこのタイプにあたります。また、ハキハキと表情豊かに自分の意見を述べているように見えるとき、丁寧でやさしい言葉や態度でおだてたり甘えたりしているときでも、自分の思い通りに操作しようとしていたなら、「攻撃的自己表現」にあたるそうです。いつなんどきでも自分は正しく、だからこそ自分に従わねばならない、という空気で相手とコミュニケーションするのがこのタイプですから、嫌われますし孤立もします。どんな人がこうなりやすいかといえば、権力や権威をもつ立場の人、知識や経験が豊富な人、役割や年齢が上の人、「地位や年齢差、権威などによって人権は左右されるものではない」と理解していない人、常に自分が優先されるべきだと考える人、自分の思い通りに人を動かしたい人などだそう。この中でも、自分の思い通りに人を動かしたい人なんていうのは、その根本に強大な不安がある場合もあります。自分で考えてやらないと不安なので、人を支配してでも自分の思い通りにして、それで不安がやわらぐタイプです。こういったタイプの人たちは、他人を大切にしない自己表現法なのでした。

そして「アサーティブな自己表現法」はこれらの中間にあり、自分の考えや気持ちを伝えそのフィードバック、つまり相手の反応をきちんと受け止めようとする姿勢のことを言います。「話す」も「聴く」もしっかりするタイプです。自分と意見があわなくても関心を寄せ、理屈や論理で理解するだけではなく、気持ちが通じるような支え合いもする。いわば、建設的なありかたなのでした。そして当然ですが、このタイプこそが、本書で理想としている。アサーティブになるにはまず、自分の気持ちを確かめる習慣をつけることから始まります。そして言語化してみる。これが第一歩となります。

ただまあ、筋が一本通っているようでいて、これはほころんでいるんじゃないのかなぁ、という論旨も見受けられるのです。たとえば、アサーティブなありかたには、自分たちはみなそれぞれ自分らしくあってよい、というのがあります。個性や自分らしさを大切にすることで、それは利己的なことではない、と。他の人もその人らしくあってよいのだ、とします。でも、他の人が「非主張的自己表現」「攻撃的自己表現」だった場合、それをどうにかたしなめてアサーティブな方向へ誘いたいと思うのが人情というものではないでしょうか。本書の終盤でも、こういう質問があると著者が紹介しているのものがあります。「相手もアサーションを知っていればいいけれど、自分だけがアサーションをわかっていても、うまくやり取りができないのではないか」と。たしかに、本書ででてくる様々な例は、登場人物たちがみなシンプルな性質で、難癖もつけないしゴネもしないしわがままも言わないし相手を陥れようともしません。でも、現実世界のコミュニケーションでは、ストレスが溜まったせいもあって、そういった悪いことを考え、態度に表わす人もいますよね。

著者のこの質問への返しは、これは「アサーションへの誤解」というものでした。アサーションは他者を変える方法ではない、と。アサーションは、まずそれを知っている自分が変わってみようとすることに意味があり、自分にとって心地よいコミュニケーションを試みることで、相手との関係がどうなるか、そこから初めてみようとするものだ、と言っています。まず、自分がアサーティブになって自分が気持ち良くなる体験をしましょう、そして、自分の想いを率直に伝えるとどんなことが起こるかフォローを続けましょう、そのようなことを続ける中で自分の望みを伝えながら相手にも配慮していくやり取りが生まれるでしょう、と続きました。このあたりって、自分本位・利己的と個人主義・自己満足のあいだのような気がしてくるのですが、どう思うでしょうか? 他者を好い方向へ変えるのではないのだけど配慮はするのだ、という姿勢ってやっぱりちょっと気持ちよく理解できないところが僕にはあります。

だからといってちょっと雑な感じでアサーションをしてしまうと、その理論が崩れそうです。僕なんかはこういうとき、アサーションという優れていて素晴らしい立場・姿勢であってもそこに安住せず、その両端を揺らぎながら在ることが実は一番ほんとうなのではないかと思うほうです。それは不完全ではあっても、ほんとうに近いような気がするのです。

閑話休題。
とはいえ、いろいろな角度からの思索の上に成り立つ方法なので、ヒントが盛りだくさんです。たとえば「人は過ちや間違いをし、それに責任を取ってよい」という姿勢。「攻撃的自己表現」の人だったら、ミスに対して「許さない!」というメッセージを込めた強い言葉で相手を責め立てます。しかし、そういった環境に育った子供だったならば、萎縮し緊張するようになり、のびのび行動したり、失敗の恐れのある「試行錯誤」という行動をとらなくなってしまう。完全主義にとらわれ、チャレンジをしなくなるのです。大人になっても、職場などのルールに縛られ、周囲に萎縮し、まじめに頑張るものの自発性や創造性は発揮できなくなる。依存的で非主張的な人間になるおそれがあるということでした。あるいは、攻撃的になってミスなどを責め立てる側の人間へと再生産されてしまう。認知科学の方法論では、トライアンドエラーで習熟するのがセオリーです。また、「問題解決」そのものを専門に考える分野でも、失敗を恐れないことは第一条件のように述べられています。このことを鑑みても、アサーティブな立場でいることは、習熟にも問題解決にも有利でいられることを意味します。

というところですが、先に挙げた三つの自己表現タイプは、ひとりの人間のなかに全部あるといえるものです。そのパーセンテージの一番高いところから「攻撃的自己表現」の傾向が高いのが自分である、だとか、アサーティブであるだとか判断できもします。また、さまざまな場面によって自己表現のタイプは変わるので、「じゃあ、どんな場面でもアサーティブな自分が出やすくするぞ!」という目標をかかげて自分を律したり試行錯誤したりするのも、本書の論旨から考えると生きやすさに繋がることなのだと思います。

まあ、最初はむずかしく考えず触れていいような態度・姿勢なのがアサーションだと僕は思いました。本書はほんとうに入門編という体裁でしたから、興味のある方はぜひ。巻末には、本書を足がかりに、アサーションを深めたいひとに勧める読書案内もありました。

最後にもうひとつだけ。
人それぞれのものの見方や考え方は、経験や人間関係などそれぞれの生きてきたプロセスによってできあがったもの。だから、AさんとBさんの考え方が真逆だったからといって、必ずしもどちらかが「間違い」にはならない。「間違い」ではなく「違い」。……アサーションってこういうことを考える分野でもありました。


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『朝が来る』

2021-04-11 21:03:39 | 読書。
読書。
『朝が来る』 辻村深月
を読んだ。

特別養子縁組によって男の子を授かった40代の夫婦。その男の子が6歳のときのできごとにいたる、その夫婦(主に妻の視点)と生みの母親の物語。

不妊治療も特別養子縁組も、初潮を迎える前の妊娠も僕は知らなかったです。それらのことを知りながらでも、ちゃんとリアリティを持って読むことができました。

著者の幅の広い創作能力によって、登場人物それぞれの人生や人格に説得力がありました。高層マンションの高層階にすむ、お金に余裕がある層の夫婦の物語も、お金に困りながら、底辺といっていいところで懸命に生きる少女の物語も、ともにしっかり描けている。そして夫婦が少女の生きる世界を想像することも、少女が夫婦の生きる世界を想像することも、おそらくないだろう、と思える分断された生活圏が、この物語のなかでしっかり同居しています。きっとエンディングまで読んだ方は、その許容している範囲の広いドラマの結末にどっしりとした何かを得ることでしょう。

僕はやっぱり、多くの読者の人たちと同じだと思うのですが、片倉ひかりの物語にとくに引き込まれました。たどってきた人生も性別も違う、だけれど共感するところはたくさんあったし、自分と同じじゃないかと思うところもしばしばでした。不思議に思うのだけれど、これは読書へ向かう種類の人だからこそ感じることなのか、そうではないのか、よくわからないんですよね。

まあ、ちょっと引いた視点で考えてみれば、誰しも個人的なものだと思っている経験や体験、個人的な考え事や感じる事は、実はけっこうその内に一般性を宿しているぞ、ということなのかもしれない。人間ってそういうもので、古典を読んで昔の人たちの心情と現代に生きる自分の心情が重なる、っていうのも似たようなことだと言えそうです。古代の人たちも同じことを思っているなんてなぁ、ととても驚くものなのですが、言うなればそれって視野が狭くて視力もよくないからなんです。なぜなら、視野の外では実はみんな繋がっているのに、見えていないものだから弧絶していると誰もが信じてしまっているからです。この誰もが信じている弧絶感は負の連鎖を呼び、さらに人々を弧絶させるのだと思います。

小説家はその視野の狭さや視力を、想像力で補うことから始まって、そうやって想像力で「あたり」をつけたことがどうやら本当らしいぞ、と経験してさらに少しずつ開拓していった人たちがさらに文章技術もきたえて就く職業なのではないか、なんて頭に浮かんできました。たぶん、ちょっと言い得てますよ、これは。

閑話休題。読んでいて惹かれた片倉ひかりの物語に話は戻ります。ちょっとネタバレがありますので、お断りしておきます。

少女から大人の女性へ年を重ねていくなかで、自分の選択自体や選択によって呼び寄せてしまった・境遇・運命にうまく対処できず(それは当り前のように思えるのだけど)、屈折していったのが片倉ひかりです。著者の視点がこの女性の清濁をまるごと受け入れて書いているかのようで(というか、おそらくほんとうに受け入れ、そばに立つように書いているのではないかという気になる)、だからこの屈折が、きちんとした事情をもってのものなんだ、と読んでいて思えてくるのでした。

それどころか、読者である自分の心的経験と重ねて、この登場人物が自分の心と重なっていきます。読んで、その屈折が読者にわかるんです。遠くにある屈折でもなく、誰かの屈折でもない。無関係なはずなのに、とても自分と関係する屈折として立ち現われてくる。書くことの力だなぁ、と思いました。そして著者の書く力だなぁとも。

「一度転落するともう戻ってこられなくなる。ずるずるとどんどん転落していくんだよね」というように、客観的に、そして自分とは無関係にそういった運命を眺める姿勢ってあると思うのです。でも、そこで見捨てないというか、同じ温度で距離を保ち続けるというか、小説ってそれだよなぁってあらためて感じました。

力のある作家がした、すばらしい仕事でした。おもしろかった。


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『サピエンス全史 上・下』

2021-04-04 00:14:42 | 読書。
読書。
『サピエンス全史 上・下』 ユヴァル・ノア・ハラリ 柴田裕之 訳
を読んだ。

本書では、人類つまりホモ・サピエンスが経験してきた三つの躍進を、それぞれ「認知革命」「農業革命」「科学革命」と大別します。人類史の構造部分(といっても抽象的というよりも具体的に話は進んでいきます)をしっかり読み解いて、人間ひいては社会はなんぞやということを解き明かす大著でした。

読みどころの多い本です。序盤こそ、さまざまな研究を寄せ集めただけなのではないか? と舐めてかかっていました。ですが、寄せ集めにしてはその量は膨大でしたしそのすべてを十分に咀嚼して自分のものとしたうえで執筆しているのがわかるくらい中身があり読みやすい文章なのでした。

人類学や考古学や経済学やいろいろな学問分野を横断的に、そしてコンセプトに合わせてくっつけたものを掘り進んでいくかのような読まされ方をする感じです。様々な知見の集め方がまるでAIみたいだし、多くの知見の咀嚼力も本当に強力でそれらがシームレスに構成材料になっています。その集められた知見の量が量だけなこともあって、それらを繋ぐ糸がどう張り巡らされているかを著者が見ていくことで、読者が目にすることになる「今まで見たことのない図形」。そしてこの図形には隠れた本質が宿っているのをやがて知れるのです。

ここからは、数多くの関心をもったトピックのなかから、自分として引きつけられたところのうち何点かを。

「歴史の数少ない鉄則の一つに、贅沢品は必需品となり、新たな義務を生じさせる、というものがある」に深く肯きました。全自動洗濯機に冷蔵庫、パソコン、掃除機……、それらがなかった時代の身体的な仕事量と今の仕事量を比べたとしたらどうなんでしょう。家電化して浮くはずの時間が、あらたなコトに消費させられていきます。人はぼーっとしてはいられないんですよね。強迫観念的に、more…more…more……と時間と労力をつぎ込んでいく。浮いた時間でする遊びにだって、流行やらなにやらに強制される義務的な行動としての側面があるような気がしてきます。

また、矛盾や認知的不協和が文化の推進力になるっていうような話にはなるほどなと思いました。極端に針を振るんじゃなく、その間を揺れ動くことがエネルギーに。これは個人の場合でも似ていると思います。極端な場所に安住しては推進力は得られないという知見は、僕の考え方とも一致するんです。漫画『ドラゴンボール』でなぞらえるなら、矛盾や認知的不協和は、いわば「超神水」なんですよ。

と、いうところで、大著の感想の割にさっぱりしてしまいました。

要は、認知革命でサピエンスが駆使できるようになった創造力、それも虚構(これが重要なポイント)を創り共有できる能力がたぶん今日の繁栄のすべてで、それに積み重なるように農業革命があり、無知であることを自らわきまえたことで起きた科学革命が、現代への飛躍になっています。また、歴史を学ぶときに、それが苦しみや幸せにどうつながったのか、苦しみを生んだ歴史だったのか、幸せを生んだ歴史だったのかを吟味してこなかったのがこれまでの歴史学で、それを考えることに意義があるのではないか、という著者の主張・問いには肯きました。

歯に衣着せぬ、ズバリと本質をつく論考なので、気持ちのいい刺さり方もすれば、暗部をえぐられる刺さり方もします。それを受けとめる度量をもって、挑んでください。そういう本でしたし、しっかり読んだときに得られるモノはかなりのものだと思いました。




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