Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

曲解していたこと

2022-05-29 21:01:47 | days
量子コンピュータに関する量子アニーリングについての本を読んだとき、内容をよく理解できませんでした。その流れで、量子コンピュータの0と1の重ね合わせの理論を、0と1の間の組み合わせのようなものを無限に解析できるということを混ぜてしまっていたなあと、気づきました。

0と1の重ね合わせは重ね合わせであって、0と1の間のグラデーションではないんですね。量子アニーリングはアナログ的だとあったので、曲解したようです。

いろいろと間違ったまま話をすすめたことがあったはずですが、間違いのタネをばらまいてしまい申し訳ありません。

(近作『春の妻』は「重ね合わせ」でした。そこは曲解が挟まらずに済んでいます)
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『日本人のための世界史入門』

2022-05-29 12:07:04 | 読書。
読書。
『日本人のための世界史入門』 小谷野敦
を読んだ。

西洋では古代ギリシャ、東洋では三皇五帝、といった紀元前の時代から現代までを一気呵成に通貫した世界史読本。

著者の印象は、いわゆる「むずかしい人」とされるタイプなのではないのかなあ、と読み始めからちょっと感じました。これはダメ、あれは良い、と端々で仕訳が始まるのですが、その判断基準の統一性がよくわからず「むずかしい」のでした。それでも歴史の要約の仕方が巧みで、語り口もおもしろいので、著者のクセさえ認められたならばあれよあれよと読めてしまうでしょう。

世界史のアウトラインを辿っていくような感覚です。270ページに世界史を詰めこんでいるぶん、かなりのスピードで一時代が過ぎ去っていきます。でも要諦をつかんで書かれていますし、生煮えの知識を出してくるわけではありませんから、かゆいところに手が届くような心地よいわかりやすさがあり、そして面白みがある。

歴史の流れを追っていく中で、たびたびの豆知識やちょこちょこ脱線する箇所がでてきます。しかしそれが、ただただ歴史の流れを追っていくならばずっと平面図を見ているような感覚でいるだろうところを、世界史勉強に起伏のようなものを感じることができる仕掛けになっている。といっても、著者にそういった意図があったかどうかはわからないですが。しかしながら、ほんとうに博識だからこそ成せる書き方ではあります。

英国の王家ってドイツやフランスなど各国から連れてきていて、現在の王家はドイツ系なんだなあだとか、モンゴル帝国の版図の広げ方のすさまじさを改めて感じたりだとか、フランスの死刑執行人は代々サンソン家だった(漫画作品がありましたね)などのフランス革命の周辺知識だとか、京都を米軍が空襲しなかったのは、文化遺産を尊重したというのは日本人の誤解をGHQが利用しただけで、原爆投下の候補地のひとつだったからその効果を後で検証するべくそのままにしておいただとか、この本ひとつでも、雑談を咲かせるネタが豊富です。

こうやってまず概観してから世界史の気になるところを知っていくのは方法として良さそう。著者は最後に述べています。学者でもない一般人は、「だいだい」知っていればいいのだ、と。何も知らないのでは困るけれど、でも「だいたい」でいい、ほどほどでいいんだよ、と言ってくれていました。気張らずに学べることって、ふつうの人には良いことです。


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『饗宴』

2022-05-23 22:02:57 | 読書。
読書。
『饗宴』 プラトン 中澤務 訳
を読んだ。

古代ギリシャの哲学者・プラトンによる、師匠であるソクラテスの物語のひとつで、エロス論です。

舞台となるのは詩人・アガトン邸での饗宴(飲み会の一種)の席。アガトンが大勢の大衆を前に見事な詩を披露して優勝したお祝いの饗宴です。そこに出席した者たちが順々にエロスについて語っていきます。途中、演説の順番が来たアリストファネスのしゃっくりがとまらず、次の順番をひとつ飛ばしてもらうアクシデントがありますが、これはこの哲学議論物語にユーモアで彩ったアクセントなのかもしれません。

まずはじめのパイドロスの話からもうおもしろかった。
「自分がなにか恥ずべき状態に置かれている状態を愛する者に見られるとき、最も恥ずかしいと感じるのです」
つまり、臆病な振る舞い、醜いふるまい、そういったことをしなくなるために、エロスが働いていると説いているのです。これは僕個人にも思い当たるものです。思春期になったときに、それまではふつうに感じられていた周囲の友人たちの汚い言葉や言動そして行動と、それらに溶け込んでいた自分というものに疑問と嫌悪を感じるようになりました。そのことについて、僕は自分がただ好い格好をしたいだけであって、そういった醜いふるまいを避けるようになったのだろうと、やや自嘲気味に考えていたのですが、パイドロスの説に照らしてみると、きちんと言えることが出てきます。すなわち、次のようなことになる。愛する人と釣り合うため、相手からの尊敬を勝ち取るためには、醜いふるまいを捨てねばならない。そうしない振る舞いは、愛に背くことになる、と。古代ギリシャの時点で答えが出ていたんですね。そのあたりがはっきりしないまま僕は成人しましたし、ある程度見切りをつけるまでにもそれからかなりの時間を要しました。

解説によると、口火を切ったパイドロスの議論はレベルの高いものだとは言えないとされていました。確かに、他の者たちの議論に比べると、話が短く、奥行きだってそれほどではないかもしれない。でも、本書をこのあと堪能するための基点として、見事な視点をまず与えてくれていると言えるでしょう。きれいなスタートのきり方に感じられました。

そうしてパウサニアス、エリュクシマコス、アリストファネスの議論を経て、詩人・アガトンは彼の議論のなかで言います、エロスは「最も美しく、最もよき指導者」。醜さから逃れさせるのがエロスであり、美しいふるまいをさせるのがエロスだからだというパイドロスの議論から繋がる言葉でした。

そしてクライマックスとなるソクラテスの議論がはじまります。ソクラテスがディオティマという名前の女性から「エロスとはなにか」について教えを受けている場面を、ソクラテスが回想するかたちで議論を進めていきます。これまでの5人のよる議論よりも高次で力強い議論が展開されていくのでした。

そのなかでソクラテスが、あたかも0と1の間のものの話ととれる内容を話していて恐れ入りました。エロスは自分に欠けているものを求めているのだし、美しさを求めているのだから、ではエロスは醜いのか、という論理展開に対して、いや、美しさと醜さの中間に位置する精霊(ダイモン)なのだ、という答えがそれです。それでもって、精霊が、両極を繋ぐ役割を持つという議論にも結び付いていく。このあたりを類推して考えると、昨今の二分法的な考え方に大きく一石を投じる内容だと思えるのです。0と1だけじゃなく、白と黒だけでもない、量子論的なそれらの間の部分に着目する考えです。

さて、ソクラテスの議論は、エロスの究極の形にまで行きつきます。個別の肉体的な美への愛から、すべての肉体的美の共通性への愛へと目覚め、それから精神性の美に目覚めて心を愛するようになり、そこから発展して人間と社会のならわしのあいだにある美に気づくようになる。次には知識の美しさへの愛に進み、知恵を求めるはてしない愛の旅の中で、思想や言葉を生んでいく、その境地が愛の最終地点なのでした。これらは「美の梯子」と呼ばれ、有名な理論なのだそうです。

また、「美の梯子」の前には、子を産むことが愛の目的であることも明かされていました。永遠を求めるのがエロスであり、子孫を残すことは人間という種の永続のための行為です。また、生命というかたちではなく、ソクラテスが言うには「知恵をはじめとするさまざまな徳」を生むこともエロスによることだとされている。つまりは創作すること、クリエイトすることも、エロスが関係することなのだ、というのです。予期していないところで創作論にも結び付いて、わくわくしました。愛、知的好奇心、創作はみなエロスでつながっているものなのかもしれません。

というところですが、読みやすい翻訳でしたし内容もつよく興味を惹くものでした。

今読んでも新しい古代ギリシャ。紀元前の知が、2000年以上を超えて、現在を新たに照らしくれます。


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『王国』

2022-05-18 21:08:52 | 読書。
読書。
『王国』 中村文則
を読んだ。

『掏摸(スリ)』の兄妹編に位置する犯罪小説で、今回の主人公・ユリカもまたあの「巨大な悪」である木崎と対峙することになります。哲学的だったり思想的だったりする部分では十分に考え抜かれているし、そういった思弁的色合い一色にならないように、参考文献を用いて補強した知識を咀嚼してちりばめてあるし、ストーリーの起伏・緩急は巧みでぐいぐい読ませるエンタメ性もあるし、背後にはいくつかのテーマが配してあるようですし(木崎が自ら語る部分以外、僕には拾えていないと思います)、著者一流の馬力をフルに発揮して作り上げた作品といった感じは、『掏摸』と同じくらいあります。

ただ、ここまで野蛮で、強烈な悪の領域に踏み込んで書いていて、著者はその執筆中にまともな生活を送れていたのだろうかが気になる、というのはありましたね。家庭とか会社とか、そういったものに属する日常がある者には書けないような気がするのです。少なくとも、僕がもしもこういった種類の小説を書こうとするなら、日常から逸脱してアパートの一室で誰ともコミュニケーションを取らずに過ごす日々の中で書く、だとかになりそうです。堅気では無理なんじゃないかな? と思えてしまう。

児童養護施設出身のユリカは、女であることのセクシャリティを武器に、裏の世界に足を踏み入れている。ホテルに派遣され、その現場で相手の男の弱みになる写真を撮るべく、薬を盛るなどしてうまく仕事をこなしていく。そこにあの木崎との接触が生じることで、物語は大きく暗転していくのでした。

木崎の述べる「闇の哲学」とでも仮に呼んだらよいようなものの説得力と引力が、『掏摸』同様に読者を揺さぶります。価値観や世界観といった、根幹部分に迫ってくる内容だからです。特に、「人間の苦しみと健気な善行という相反する二つの感情を自分の中で混ぜ合わせ、その神は幾千年も悶えながら陶酔し続けているんだ。」という神観と、それを自ら体現する木崎の考え方や行動に、なんだこれは、と揺れるのです。これらの部分での著者の筆致からしても、著者の重心が偽りなく木崎の立ち位置にあることが感じられもして、さきほども書きましたが、日常生活できていたのか、と気になってしまうのです(俗っぽいですね)。

さて。男性作家が描く若い女性の一人称小説で、驚くほど文章がなじんでいるように感じるのだけれど、第4章では男性目線が前面に押し出ているように感じられました。珍しく読んでいて違和感に取りつかれましたが、それはそこまでの章で一度区切ってから再び読んだせいであるかもしれませんし、また、若い女性を違和感なく描けるような器用な男性作家だろうか? という疑いの先入観のせいなのかもしれません。その後はふつうに読めましたから、よくわからなくはあるんですけれども。

下世話かもしれませんが、『掏摸』『王国』を読んだ後、読みたいなと思うのは、最終決戦的な物語です。ここまでいくんだ、っていうくらい遠くまで読者を放ってくるような最終決戦を欲してしまいます。まあそれだけ、この二作を楽しんで味わったということなんでしょうかねえ。


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『小説の読み方、書き方、訳し方』

2022-05-17 12:02:04 | 読書。
読書。
『小説の読み方、書き方、訳し方』 柴田元幸 高橋源一郎
を読んだ。

翻訳家・柴田元幸さんと作家・高橋源一郎さんの対談本です。

柴田元幸さんの翻訳のお仕事に触れたのは、オースターのニューヨーク三部作とミルハウザーをひとつ、といったくらいです。印象としては、「透明な触媒」としての翻訳、です。翻訳者の癖というか、翻訳者自体の声や匂い色、もっというと人となりって、どうしても翻訳された作品からかすかにではあっても感じられがちだと僕は思っていて。それが柴田さんの翻訳だと、翻訳者は薄いフィルターとしてだけあって、外国人の作者のほうを大きく、そして近く感じるんです。翻訳者の存在が、無色無臭っぽい。

柴田さんは翻訳を、原文が自分の中を通り抜けていく通過時間がゼロに近ければ近いほどいい、という考え方を本書で明らかにします。なるほど、体現なさっているなあとしっかり感じさせられるのでした。そして、村上春樹さんとお仕事仲間です。このあたりは、同志、と表現しても良いのかもしれません。

いっぽう、僕にとって高橋源一郎さんのイメージは「競馬に詳しい人で、どうやら作家だ」というところからスタートしています。高校生の頃に日本テレビの深夜番組に出てらっしゃって、その頃の僕は現代作家にうとかったですし、ネットもなかったですから、彼がどういう人なのか知る由がなかった。なので、先入観として、作家の仕事は二の次の人なのかなあと見えてしまっていました。それが、だんだん年月の経過とともに、競馬に詳しい人、というよりも、作家、としての色合いのほうが僕の目には濃くなっていきました。

本書を読むと、序章こそ言わんとしているものがよく伝わってきませんでしたが(序章は、文庫へ版を変えたときに最終章の位置から移したものなので、全体を踏まえて抽象的に述べられている言葉だからはっきり飲み込みづらかったのかもしれません)、エンジンがかかってからは明晰な眼力で「小説」を透徹して見ていることに、読んでいてびりびりくるくらいです。小説のコードに従う従わないか、コードを全否定するのは原理主義であり自爆テロみたいなもの(理想主義で、なおかつ完璧主義なのを原理主義というのですね)、近代文学において強い敵と戦うのが文学のテーマだったがある時期から戦う相手である「権威」が無くなってしまった、自他の分別をはっきりした非対称性の文学とその反対の対称性の文学(対称性の文学のほうが現代日本の文壇で勢いが増してきたのですが、そもそもアメリカ文学のほうでは対称性の性格が強い文学が主流)、リーダーフレンドリーの良さと悪さ……などなど。

しかしながら、これほど厳しい美的感覚で「小説」をとらえてしまうと、自己規制や禁止条項だらけになってきて、書けるものの範囲が狭まりそうです。高橋さんの論理は筋が通っているし、ひとつの立場として見事な高さにまで築き上げられている(そこにはかなりの労力がかけられているでしょう)。だからこそ、オーソリティを持った意見として受け取りやすい。そして、そう無条件に受け入れてしまうと、高橋さんと同じ苦しみを背負ってしまうことになります。

だから、読者は(そして書き手でもあるならば)彼のような見事な論理と美意識も、単にひとつの視座にすぎない、と踏まえたほうがいいと思うのです。本書で語られた、ほとんど隙のない文学論も、文学へ一方向か二方向から強い照明を当てたに過ぎないと言えるかもしれない。上手な光の当て方であっても、自分は自分として、また違った光を文学へ当てて眺めていいのではないでしょうか。高橋さんは、綿矢りささんの短編に非常に感銘を受けたと述べていますが、その感想は、これまでの彼の視座からは見えなかったものが世に出てきたことへの驚きを多く含んでいました。

つまりは、彼を驚かすためには、彼の視座を忠実にトレースしててはいけない。というか、書き手は自分なりに自由であっていい部分はあるので、反論の言葉が見つからないといって、飲み込まなくてよいのです。

といった前提で読む、高橋さんによる大江健三郎論がおもしろい。「言語のセンスがとても変わっている」のは、僕もはじめて読んだときに、文章を追えなくてなんだこれはと思ったから、つよく頷いたものでした。大きい狂気を抱えている人、というのもなるほどと。理知的な人というようなイメージで見られがちですが、高橋さんによれば、無意識のほうがずっと強い人だということでした。

僕はまだ、高橋源一郎さんの小説作品に触れたことがありません。でも、好奇心はつよく持っていますから、そのうち何か手に取ると思います。柴田元幸さんの翻訳作品ではブコウスキーの『パルプ』が積読なので、こちらも楽しみなところなのでした。


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『小倉昌男 祈りと経営』

2022-05-12 23:26:48 | 読書。
読書。
『小倉昌男 祈りと経営』 森健
を読んだ。

クロネコヤマトが有名なヤマト運輸の二代目経営者・小倉昌男。彼は「サービスが先、収益(利益)が後」などの経営哲学でビジネスの分野で著名だった人です。「宅急便」をスタートし、当時、無意味だったり非合理だったりした各規制に異を唱え、行政と激しく闘った人でもあります。また、ヤマトを退職した後には福祉財団を立ち上げ、福祉の世界に経営の手法を持ち込んでいきます。そして、当時一万円がやっとだった障がい者賃金を十万円にまであげていくという目標を掲げ、実際に財団の力でパン屋を立ち上げてその目標を実現させて、モデルケースを作った人でもあります。

ただ本書では、そういったビジネス面での小倉昌男を追う分量よりも、妻の玲子、娘の真理、晩年に親密だった遠野久子(仮名)といった女性たちとの関係の内実を浮かび上がらせていく分量のほうが多いです。彼女たちが、ある意味でのカギなのです。そのカギを用いて、巷間のイメージとしてある小倉昌男のA面部分だけではなく、月の裏側を照らしてみるかのように、彼のB面部分ともとれる隠れたその人間像を追っていくようなノンフィクションだと言うことができます。

どうしてヤマト運輸会長退任後に福祉財団を立ち上げることになったのか。妻の玲子や娘の真理との関係から、それがもしもはっきりと小倉昌男の内にあったとするならばですが、語られることのなかったその真相、どうやらそこにアプローチしていくことができる細い道を、著者とともに読者は見いだしていくようになっていきます。

本書中盤でのこと。娘の真理がその当時としては奔放な生き方をしていて、わがままだと評されている。暴言などがひどく、家族はとても困ったそうです(後半、彼女は境界性パーソナリティー障害だと明かされます)。小倉昌男夫妻には親戚などからの批判もあり心労となっていた。ただ、育て方や環境が真理の成長のネックになっていたでしょうから、僕には真理への無理解や誤解が痛かった。

「学者」と呼ばれることすらあったという小倉昌男は、経営者として整然とした論理でスマートに人や物事に対処したようです。そのうえ、不公正や無駄な規制に対しては熱く向き合った。東大卒、頭のいい人ですから、ぽんぽんぽんと割り切ってしまえたのでしょう。

それが、家庭のこと、それも娘を相手にすると、彼は、たとえば経営者・小倉昌男を見てきた人にとっては、信じられないくらい非論理的な態度を見せたそうです。割り切れない娘、それは取り戻せない過去の重みとともにあり、そのため、対応の姿勢が定まらなかったのかもしれない。

中盤まで小倉昌男と妻の玲子を中心に書かれている本書ですが、小倉のアキレス腱との扱いで娘の真理が登場するのです。僕にはそこに、先述のように無理解や誤解に気づかずに話を進めてしまっているなと感じられ、疲れてきてしばし本を閉じたりもしました。「大事に育てられすぎた娘さん自身が犠牲者なのかもしれないんですよね。」と語る関係者がいるのだけれども、やっとそこで触れるべきほんとうの部分の表面に触れたに過ぎません。それも、軽くそっとなでた程度だと思う。

しかしながら、本書の後半部まで行きつくと、真理本人へのインタビューなどから、ぐぐっと掘り下げた内容が展開されはじめ納得がいきだします。そこまできてようやく、本書が、小倉昌男にとっても玲子にとっても真理にとってもおそらく「救われる理解」にたどり着くのです。それは、読んでのお楽しみ。

家族の精神の病気を小倉昌男は背負っていた。そして、福祉財団の立ち上げ____。精神障害施設の視察・見学の際には、より熱心に小倉は話を聞いていたそうです。

……と、まあ人生いろいろあるものなんですよね。名経営者として名をはせた一廉の人物に、本書を読んで、なんだかとても親近感と敬意を持つことになりました。

著者の構成の仕方や文体がすっきりと読みやすいそのなかに、体温のしっかりある小倉昌男が穏やかに、そして苦悩を見せながら生きている、そのような本だと思いました。

読んでよかったです。


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『ハーモニー』

2022-05-10 20:17:25 | 読書。
読書。
『ハーモニー』 伊藤計劃
を読んだ。

「大災禍」を経た21世紀後半。成人した大人たちは、WatchMeという微小な医療分子機械を体内にインストールすることが義務付けられている。それが、大多数の国家が政府ならぬ生府という統治機構へと移行した未来世界のシステム。WatchMeによって健康状態を管理されることで、人類は病の大半を克服した。人間存在は社会のリソースとして、この上なく尊重されるものとされる。究極の健康ファーストの価値観が共有され、健康に悪い食物や嗜好品は忌避されている。健康倫理のセミナーも盛んで、人々の健康意識や人命尊重意識はこのうえなく高く、安定している。

そんな管理社会に、自らの死をもって自らを尊重しよう、自分は自分なのだからとする考えで自死を試みた3人の少女。イデオローグ的な存在としてその行動を先導した御冷ミァハと、彼女の影響を強く受けた主人公・霧慧トァン、ミァハに選ばれたもうひとりの少女・零下堂キアン。しかし、自死を遂げずにトァンとキアンは生き延びた。そして13年後、世界は大きく動きだし、WHOの螺旋監察官となったトァンが、大きな事件の中心を突き進むことになる。

この物語世界にさらりと触れたくらいならば、それは、健康を保ち続けるべく各々が「自律的」に生きている世界だと読解するかもしれない。健康意識、生命を尊重する倫理観、そういったものを自発的に求め、自律的な行動で獲得する。ぱっと見には「自律性」による世界がそこにあるでしょう。しかし、そこに義務めいたものがある時点で、「自律性」を疑う必要があります。つまりは「自律性」を暗に強要する「他律性」がある。

ちょっと話が逸れます。以前、僕が考えを重ねてたどりついた「幸福感を得るための方法」の主軸となるひとつに、「他律性から逃れること」があります。本作において生命主義の下で病気の大半を克服した人類が、それなのに自殺者の数が多いというパラドックスを抱えています。生きづらさって「他律性」が関係していると僕は考えるのですが、この虚構世界の設定のなかで、それが証明されているように感じられて、考えが強化されたような想いがしました。著者による綿密な思考実験的な世界でのことですから、なおのことです。

福祉がもっと進んだらいいのに、と考える僕であっても、この小説を読んでいる最中、そこで描かれている生命主義(福祉社会の発展型)による、テクノロジーを駆使した万人による万人への慈しみや優しさの義務みたいなものへは「それは違うぞ」と感じました。良いのだけど良くない、みたいな感覚で、です。生命尊重にしたって程々にしないとこうなるのか、と、作者がつきつめて考え得た「ひとつの可能性としての世界のヴィジョン」に居心地の悪さを感じるのでした。

棲み分けだとか、他者に干渉することへ自問的であることだとかや、他者にとって他律的にすぎると思えばブレーキをかけられることだとかがまず、福祉ファーストの生命主義社会に進むのに先んじて必要ではないのかなと思いました、大真面目に現実に落とし込むように考えてみてです。ある意味で、傷つけられたり傷つけてしまったりは避けられないんだっていう前提で打開策・回避策を考えたほうがよいのかもしれない。それが、この物語の世界観への違和感との、僕なりの向き合い方なのでした。

『ハーモニー』の世界観って、実は人権への考え方がちょっと辺鄙で狭隘なところにて停止した世界なんです。そこに至るには、過去の「大災禍」からの人類全体の反省とトラウマが原動力となっていることが明かされますが、現実の世界でも、何か大きな出来事があったりするとその揺れ戻しで、反対のほうへと極端なくらいみんなの意識が傾きがちですから、フィクションとして構築された『ハーモニー』の世界だってそうなのだろうと考えなおしてみると、なにも不可解ではないな、と納得してしまえるのです。論理的な整合性がしっかり感じられてしまうくらい精密な思索とイメージのなかに、『ハーモニー』は作られている。(そんな『ハーモニー』には、『風の谷のナウシカ』へのちょっとしたオマージュも。)

作者の深く広い知識と論理力でぐいぐい物語を進めていくその牽引力には非凡なほど卓越したものがあります。社会ってどういうものなんだろう、と考えたことがある方ならば、本作の、思想的というよりも生物としての人間観に則った実際的な社会観による、演繹法によってできあがった未来世界に、時を忘れるほど没入することができるでしょう。おもしろかったです。


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