Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

『ポイントオブビュー 忠告のち、世界』後半(自作小説)

2020-08-24 12:30:16 | 自作小説11
 元は作戦行動終了後、真っすぐ会社へ向かっていた。事務室の入り口で出迎えた掛川は、
「お疲れ様でした。あとは他のチームにまかせて。今日はもう大丈夫だから。」
と元を家に帰した。
 それから数日、元はそわそわと浮ついた気持ちのまま毎日を過ごした。会社で会う美希ですら、普段よりも苛立ちを感じさせる表情をしていて、席についていてもたまに不安げに宙を見つめているときもあるのだった。
 昼休みになると、元は美希にそれとなく庄司のことを尋ねたのだが、何も情報が無い、と三日間、同じ返答をされた。
 あの日、元と荒木が麹町をうろうろしていた頃、庄司はひとり別働隊になって、どこかを歩いていた。そのときの足どりはわかっていないが、美希とは幾度かにわたって連絡を交わしていたのだという。美希が言うところでは、元と荒木が後方待機して出動の時を待つ役割にいたなかで、最前線の美希たちとの中間領域での警戒に庄司はあたっていたようだ。美希たちよりもいくらか広い視野で周囲を眺め、怪しい動きがないか気を配り、接触行動に移る際には速やかに援護するつもりだったらしい。
「『シジミチョウ』がマンションから出てきて私たちが尾行を開始したときにはまだ庄司は彼自身だった。でも、しばらくしてショートメールの言葉遣いがぞんざいになったのよ。おかしいと思って電話しても彼は出なかった。それでもショートメールはこっちへと送信され続けるの。この作戦には何名参加していたんだった? なんて書いてあったりね。おかしすぎるでしょ。だから私は独断で作戦をストップした。」
「『シジミチョウ』は知っていたんでしょうか。それで、向こうの組織にどうにかして連絡を……。そうそう、あのとき話していたんですよ。通信をハッキングできるといったって、手紙だとか落書きだとか、ローテクな手段を暗号でやられたらお手上げじゃないのかって。」
「でしょうね。『シジミチョウ』は私たちに勘付かれずに組織に助けを求めることに成功した。それどころか、私たちは逆襲されたわけだけど。あのとき、尾行を中止して引きあげるとき、前を歩いていた『シジミチョウ』はこっちを振り向いていたわ。確かよ。ちょっと笑っているように見えて、心臓に冷たいものを感じたわ。あなたたちにまで被害が無いことを祈ってショートメールを打ったの。庄司は途中から、ブラックバタフライズの人間のなりすましになっていたから。」
「俺がすぐに電話をよこして安心しましたか。」
「まあね。」
「そのわりにすぐ、電話を切ってくれましたね。」
「だから助かったんじゃない。」
 二人は軽く笑った。やっとのことで、それまでのモノトーンの世界に何色かのパステル色が加わったみたいな空気になった。
 その日の夕方、退勤時間の少し前に掛川から声をかけられ向かった会議室で元と美希は、あの日の深夜、庄司が丸尾町内で発見されていたことを知らされた。庄司には作戦中の記憶が無く、確保してからずっと保護下に置きながらさまざまなテストを行ったのだという。その結果、いくらかまとまった期間、施設で過ごしてもらうことになった、ということだった。
「じゃあ、俺たちはどうなるんですか?」
 眉をひそめながら聞いてくる元に、腕組みをして立つ背の高い掛川は二人を正面から見下ろしながら言った。
「忘れるなかれ。君たちは人材派遣会社の社員なんだからね。がんばって。しばらく没頭してみてよ。あとは心配するな。野村さんは、週三日の午前中はスーパー七福屋の仕事もだったね。忙しくなるよ。がんばってください。」
 一週間後、スーパー七福屋に新しい店長が着任した。美希によると、庄司は依願退職届を受理されていたそうだ。
 
 元と美希の二人のホワイトドラゴンフライズ内活動については、しばらくのあいだ待機とする、とされたまま数カ月が経つ。クリスマスや正月が過ぎていき、もう元が住むアパートの隣家の庭では梅が咲き始めている。元は人材派遣会社の仕事のみをずっとこなした。意味のわからないデータ処理の仕事を回されることは一度もなかった。
 ホワイトドラゴンフライズからは一度だけ、従来の半分の額ということで報酬がでた。あの作戦は失敗に終わったが、一応、機密情報を守り、危険を冒して追加の任務にもついたので、成功報酬を抜いた分だけ出たのだ。元はその額面にびっくりした。人材派遣会社の基本給のおよそ2.5倍もあったのだから。元はその金でスマホを最新機種の上位モデルへと買い替え、残りは口座に預けたままにした。
 いつまた組織からプロジェクト参加の声がかかるかわからなかったが、たぶん、しばらくはないだろうと、元はなんとなく思うようになった。招集への心構えも緊張感も日に日に薄れていった。
 ほとんど無駄遣いをしない元だったから、スーパー七福屋で働いていた時とは比較にならないほど生活は楽になったし、貯蓄の面でもこれからしばらくのあいだの安泰を保証できる上昇軌道に乗り始めた。実家からの仕送りは辞退することにしたし、それまで受け取っていた仕送りの分は、一部ではあるがいくらかのまとまった額として返す計画も立てていた。
 暮らし向きに余裕が出てきたことで気持ちにもゆとりが生まれてきた。たまに飲む缶チューハイが缶ビールになった。昼飯も、会社でコンビニ弁当やカップ麺だったものが、近所のカフェでランチを取る日が多くなった。そして、そんなカフェランチの時間に、最近そこで働きはじめた若い女性スタッフと少しずつ懇意になっていったのだった。それが、元の気持ちのゆとりをさらに潤いあるものへと変えた。
 若い女性スタッフの名前は南美といった。目鼻立ちのくっきりした細身の美人で、元は南美を遠くの席から眺めているだけで身体がほのかに熱くなるくらい初めから気になって仕方がなかった。短い会話だったとしても南美とコミュニケーションをすると、心を満たしている透明な自然水が炭酸水へと瞬時に変貌し、ふつふつと喜びの細粒を底の方から際限なく湧き立だせ続けるかのように活気づいてくるのだった。
 あの作戦の失敗と、そこから切り離せない庄司の施設行き。そのショックによる鈍く澱んだ気持ちが、南美によってやっと再生しつつあった。元は内心そのことで南美に感謝していた。落ちついた物腰で率直かつ明るく接してくれることもあって、会えば会うほど惹かれる想いを強くしていた。
「キーマカレーセット、お願い。」
「大盛にしなくていいの?」
 南美は元からの注文を書き込んでいる手を止めてそう聞いた。明るめの髪を後ろに束ね、いつも通りの茶色の長エプロン姿がよく似合っている。
「実はさっき会社で差しいれの串団子を食べちゃってね。ぺこぺこでもないんだ。」
「あらら。ちょっと詰め込むっていうだけのお昼ご飯なのかな。残念だなあ。」
「いや、キーマカレーが今日のランチメニューに載っていたのを見たらけっこうテンション上がったんだ。前に食べたときにすっごい旨かったから。さっきの団子が恨めしいわ。」
「ふふ。うちの、超絶美味しいですからね。気持ち、わかる。」
「南美ちゃんも食べたんだ。」
「うん。まかないで出してくれたの。感激のキーマカレーだったあ。」
 瞳の輝きが増した。南美の、ほのかに影を感じさせる顔立ちの表情に、こうして自分との会話のなかでぱっと花が咲くのを見るたびに、元は明確な達成感と言ってもいいような手ごたえをしっかりと得るのだった。よし! やったぞ! と心の裡でこっそり快哉の叫びをあげるのと同時に安らかな気分にもなる、それでいて、毎度、なぜだかいくらか背中が丸まってしまう。そしてこれ以降、元は時間の経過がわからなくなる。状況への没入が始まるのだ。そして、いつも店を出てしばらく経ってから思う、幸福感って間違いなくこれだよな、と。
 元はなんでもない毎日が特別に思えるくらい楽しくなってきた。人材派遣会社の仕事にはそれほどストレスもない。組織のほうから声がかからない今だからこそと思い、南美をデートに誘おうとそのプランを夢想するようになった。
 公園でゆっくり話をしたり、遊歩道をそぞろ歩きするのもいい。映画も良いな、今どんなジャンルのものを上映しているんだっけ。電車に乗って動物園に行くのもいいけど、一日がかりになってしまうか。食事は気取らないものがいいだろうか。あ、嫌いな食べものってなんだったっけ。南美の休みの曜日を聞いて日取りを決めて、このあいだ取得したばかりの有給休暇を使って、だな。
 南美は若くて美人だから、男性客から多くの視線を集める存在。でも、俺は誰よりもあれこれ彼女としゃべる頻度が高い。それもいつからか、南美はタメ口で俺に接してくれている。親密度では誰よりもリードしている、といっていいだろう。大丈夫だ、きっとデートの誘いにオーケーしてくれる。南美はLINEをやっていない、と言っていた。今どき珍しかった。デートにオッケーしてくれたら、そのときに電話番号を聞こうと考えていた。
 元はこのような段階から、自分はとても幸運な男だ、とのぼせた。もう楽しくてしょうがなかった。会社のパソコンで文書を作成中にも、知らず空想のほうへ頭を使いがちで、いけね、と気づいてディスプレイに注意を戻すことがたびたびという有り様だった。だから、美希から久しぶりに声をかけられた時にはぎょっとした。いつも通りですけど、という態度を取りつくろうのに少しの間どたどたと表情が騒いだ。
 ちょっといい? と元は空いている部屋に誘われた。
「何か、組織から働きかけがありましたか?」
 美希は会社では珍しく、黒ぶち眼鏡をかけていた。午前中、スーパー七福屋で勤務してからの出社日で、なんとなくそのままにしたのかもしれない。
「いいえ。参加要請はないわ。あなたもないままでしょ。」
「もう三カ月以上ないですよ。このままずっと部活の幽霊部員みたいになったらなったで構わないんですけどね。ははははは。」
 短く、軽く、小気味のいい笑い声が空間に刻まれた。そして、すぐさまその場のもともとの沈黙に吸い込まれていった。無音に戻ったのを確かめるように間をひとつ置いて、美希がどこかで仕入れてきた話をしだした。
「あのね、私たちの存在が留保されて放っておかれている間にも、いくつものプロジェクトが立ちあがって遂行されていってるのは想像がつくわよね。なかにはあのときの私たちみたいにミスってしまった作戦もあるのでしょうけど、そういうものも含めてどんどん時間は流れていった。時間の流れは幾多の作戦を押し流していったの。要するに、戦況はめまぐるしく変わっていってるのよ。この町とこの会社に匿われた組織の重要性、低かった被探知性、それらが変化してる。かといって、ひとつの大事な拠点なんだから、もしも撤退することになったにしても、それを知った相手方が乗り込んできて相手の拠点にされるのはよくない。それで、ちょっと耳にしたんだけど。あのね、最近立ちあがったプロジェクトがあるの。名前は『キタテハ』。この作戦はこの町のなかで遂行されるらしいのよ。ブラックバタフライズは音もなくしれっとこの町に飛来してたみたいってわけ。これ、けっこうやばいわよね、喉元に切っ先をつきつけられているみたいで。」
「作戦実行は近いんですか?」
「まもなく、だそう。私には二、三日のあいだ仕事以外は自宅待機しろって通達が来てる。」
「俺にはないな。」
「それも実はちょっと知ってるのよ。だから、まさかとは思うけど危ない目に遭わせたくないからこうやって注意するためにここに連れ込んだのよ。この件は内緒だからね。」
「俺はもうノーマークでいいポジションだから、そんな話がこなかったんじゃないんですか。」
「そうだといいけどね。でも、万が一ってこともあるから、気をつけて。」
「はーい、了解しましたっ。」元が右手で敬礼の仕草をしておどけるので、美希は細い眉を寄せて睨んだ。「冗談ですよ。」
 元は一応の礼を言ってその部屋を出ると、事務室に戻るまでの廊下の途中でまたもやデートの空想に心を浸し、おめでたく頬をゆるゆるにゆるめていた。組織の動向よりも、南美とのデートのほうが優先度がずっと高いのだ。元は短い口笛まで鳴らしてから事務室に入った。その様子を見送っていた美希の表情は薄暗く、そのまましばらく扉の前に立ち止まっていたが、そのうち気分を切り替えたのか、表情から不必要な力みが抜けると、何事もなかったように階段を上っていった。
 翌日。南美が非番なのを聞いていたから、元はカフェには行かず、会社の机でコンビニ弁当を食べて昼休みを過ごした。その次の日、呼吸が慌ただしいくらい胸の中を期待でいっぱいにしながらカフェの重い扉を開けた。カランカランとドア付きの鈴が鳴る。わざわざ作ってみせるでもなく、自然とそうなる晴れやかな表情。見渡した店内にちらほら先客がいたが、忙しくメニューを聞いて回っているのは主人だけだった。
「あのー、南美ちゃんは今日も休みでしたか?」
 主人は元を一瞥すると、
「今も昔も、若い女の子ってのはねえ……。」
と曇った表情で苦笑いした。南美はこの町を出ていったのだという。
 別れの言葉も交わしあえず、突然に断絶させられることになった南美との関係に、元は言葉を無くした。昼飯を注文したものの、食べたものの味がよくわからなかった。夜、自室に帰ると、何を食べたのかも思い出せなくなっていた。
 南美にはなんの伝手ももっていないことにため息が何度も出た。こんなに未練のある気持ちになったのは、元にとって初めてのことだった。胸がしくしくきしむ。気持ちはまるで酸欠のように満たされない。まさか……、と『キタテハ』が脳裏をかすめる。いや、でも……。打ち消すほうが勝るのだった。
 外では肌を刺すような冷たい風が強く吹き、空きペットボトルかなにかが転がる音がやがて小さく遠ざかっていった。
 
 それから数カ月が経った。
 ある日、元の部屋を美希が訪れた。南美がこの町からいなくなるやいなや心にぽっかり開いた暗い穴を埋めてくれるかのように、その頃から美希からの声掛けが増え、ふたりは少しずつ親密になっていったのだ。美希の存在感が際立ってきたおかげで、元は少しずつ元気を取り戻していった。
 それは静かで、くつろいだ夜だった。
 ふたりはベッドを背に隣合って床に座り、小さな声で話をしていた。
「七福屋を辞めることになってから、もう一年近いよ。なんだかだいぶ変わったな、俺の人生。」
 体育座りの美希が、反らせた両足の爪先を動かしながらそれを見つめている。
「元がいた頃と1/3くらいスタッフが変わったわよ。あそこも今、なんだかそういう時期なのよね。」
「庄司さんはどうしてるかなあ。」
「そうね。元気だといいけど。」
 美希がそう言ってから、ふたりとも自然としばらく沈黙した。冷たい静寂がふたりの半そでの肌に等しく貼りついてくる。外を車が走り抜ける音がやけに大きく聞こえた。
「本当に俺たちの組織は秩序を守っているんだろうか?」
 元もそれまでの美希と同じように前を向いたまま、声だけで話しかけた。
「世の中の無秩序化は少なくとも進んでいないように見えるわ。」
「でも、ホワイトドラゴンフライズがブラックバタフライズに出し抜かれたことだって無いわけじゃないんだろ?」
「ちょっとやられてもね、再秩序化の主導権をブラックバタフライズに握られなければなんとかなるのよ。」
「ふうん。俺には何が正しいのかわかりかねてる。難しすぎてわかんない。」
 元は天井を仰いでため息をついた。
「わたしはね、表の世界と裏の世界、それぞれを人の意識と無意識のイメージに重ねて見ているところがある。無意識ばかりに気を取られていると生きていけないように、世界の裏側ばかりに浸っているとおかしくなる。」
「じゃ、俺たちは危ないじゃない。」
「無意識って相当の深さがあるのよ。ぱっと想像してみる以上にね。むやみに奥まで進んでいくと戻ってこられないこともある。」
「詳しいね。」
「本当は進学して心理学を勉強したかったから。今でもそういう本を手に取ったりする。」
「そうなんだ。美希は物知りだもんな。」
 横を向くと、美希は目を伏せていた。白くつるりとした頬が、心なしかいつにも増して透き通って見える。このまま見つめ続けていると、彼女の裸の気持ちにまで辿りつけるような気がした。
「意識には意識の秩序があって、無意識には無意識の秩序があるんだと思ってる。両者はそれぞれに違う方法論で秩序を成り立たせていて、それぞれのやり方でそれを保ってるのよ。そして、意識上の何かが無意識に落ちていって無意識に影響を与えたり、無意識のものがふいに意識上に現れて意識に大きな影響を生むこともある。というか、そういうことの果てしない連続で私たちは前に進むようにして生きているんだと思う。」
「なんでそういう構造なんだろうね。」
「さあ。そのほうがダイナミックに考えたり思ったりできるのかもしれないし。もしくは、心っていうものの実感がよりリアルになるからなのかもしれない。」
「無意識っていや、偶然のつながりだとか、虫の知らせだとか、そういった不可思議なことが起こる世界なんじゃないの?」
「いいとこに気付いたわね。さっきも言ったけど、無意識ってほんとに深いから、予期できないような領域で、それこそ虫の知らせなんかが起こる。で、そんな無意識は意識と対になっているように思えたりするけど、意識を下で支えているのが無意識っていう捉え方のほうがあってるんだと思う。そして、意識の領域よりも無意識の領域の方がずっと広い。でね、たまに考えるの。無意識を完全に意識化する試みがあったとして、それを実際にやった人間は耐えられるのかって。同じように、裏の世界を表の世界の考え方で固めるために、ブラックバタフライズみたいな無意識の権化のような存在を滅ぼすことは、裏の世界を表の世界にすることになるんじゃないのか、それに世界は耐えられるのかって。」
「やっぱり難しいや。……そうだな、無意識が無くなったら意識ってすぐ壊れてしまうんじゃないかな? 下支えしているのが無意識ならば土台が傾いちゃうからね。逆に、意識が壊れても無意識がしっかりしていたら再生できそうじゃない?」
「そうかもしれない。そして、無意識といったら混沌としたもの。意識の世界での常識が通じない独特の秩序でできあがっているから、無意識の意識化は無意識を破壊してしまうわよね。とするなら、そのあとに出てくる答えは、破綻。」
「要するに、表の世界と同様の秩序に支配された裏の世界もそのために破壊されるし、行きつく先は両方の破滅、ってことになるね。」
「元と話していてまた一歩、見るべきものに近づけた感じがする。」
「怖ろしい真実。」
 言葉とは裏腹に、元の表情はにこやかだ。内容にリアルを見出せていないからだろう。
「あのさ、美希。『自由の時には、秩序を思いやれ。秩序を守るときには、自由を思いやれ。』」
「誰の言葉?」
「俺のだよ。名言じゃない? 前にけっこう考えたんだよ。自由ってさ、自由だけで生きていけるものじゃないでしょ。自由って実際には責任が伴うもので、それは自分に対する責任もあれば、社会の秩序をたもつ社会的責任もある。」
「うん。」
「つい最近まではさ、自由とはもっと解放されてて翼を広げて大空を飛びまわるようなことだ、ってずっと思ってたんだ。でも、どうやら人間に与えられている自由はそういうものではないんじゃないかな。まあでも別に、自由と秩序のどっちかに決めなくてはならない、ということではないんだよな。ただ、本音や自由が幅をきかせすぎているきらいって今の社会にはある。かといって、強すぎる秩序が自由を窮屈にするべきではない。つけ加えて言えばさ、自由から出てくる本音には、悪い秩序を壊して新しい秩序を立てるという役割を持っている。そしてその秩序は、しばらく経ってみると古くなっていたり間違いに気付かされたりして、新しい時代が必要とした新しい本音に壊されていく。その繰り返しで、たとえば現代が成り立っていることは間違いないと思うんだ。そこで気をつけた方がいいのが、あまりに無自覚にやってるってこと。」
「うんうん。それで『自由の時には、秩序を思いやれ。秩序を守るときには、自由を思いやれ。』なのね。よく考えたわね。」
「ありがとう。つまり、思いをね、自由と秩序の間を往ったり来たりし続けることがベターで、そうやっていくために少しは自覚的になったらいいんじゃないかって思ったんだよ。でさ、さっきの美希の言っていた無意識と意識、裏の世界と表の世界の話。意識と無意識のあいだでいろいろやりとりがあって、それぞれに影響を与えあうって言ってたよね。」
「……元。今日はちょっと冴えてる。」
「俺が言いたいこと、わかったよね?」
「意識だけが自己ではなく、無意識だけが自己でもない。無意識と意識のあいだを往き来する振り子こそがほんとうの自己なのではないか、ってことでしょ。同じく、自由と秩序を往復し続ける振り子こそ、ほんとうの人間なんじゃないかってことでしょ?」
「そうだよ。つまり、振り子を止めてはいけないんだ。そのためには自覚すること。」
「その通りね。」
 美希の表情も元のようににこやかになった。だがそれは、元とは違い、現実の奥、それも質感をもったままの姿にいくらか触れられた気がしたことによるものだ。
「元。あなた、良いことを言ったからご褒美にひとつ問題をあげるわ。考えてみなさい。」
「せっかくちょっとすっきりしたのに。またしばらく悩まないといけないのか。参っちゃうな。」
「まあいいから聞いて。問題のシェアよ。」
「わかりましたよ。」
「さっきの元の話ね。本音が新しい秩序をつくって、古くなったらそのときにまた新しい本音がもっと新しい秩序をつくる、ってことだったよね。」
「そうだね。そして秩序を守るのは、建前だったりするんだよ。つまり、本音が開拓して広げた土地、そしてそんな新しい土地を守り、保つものが秩序だし建前だったりする。時代はそうやって蛇行しながら流れていく。」
「そこでなのよ。本音が壊す秩序って、社会の大きな秩序だけじゃなくて本人のごく個人的な生活の秩序の場合もあるし、本人を本人たらしめている秩序の場合もあるじゃない? 本音を言いたいと思っても、その本音を言ってみてうまく通らなかったときに、自分を自分たらしめている秩序が壊されないとも限らないでしょう。そんな勝手なことを言うのか、なんて逆襲されてコテンパンにされちゃうことはある。その恐怖心で建前を使い、現状の秩序を守っちゃう人ってたくさんいる気がしない? わたし自身、そういうときってこれまでかなりあったと思うわよ。」
「俺もあるわ。考えてみると、たいていはそうだったかもしれない。」
「ここはどう解決したらいいと思う? 振り子だなんて言っていられないじゃない。自分を壊されないために個人的な秩序を守ること一択しか選択肢がなかったりしない?」
「そうだね。困ったところだね。」
「世の中の風通しが良い、だとか、公平さが行きわたってる、だとかが前提だったらまた違うのかもしれないけど。」
「やっぱ、この件でも無自覚はよくないんだよ。自分自身という秩序を守るために建前を使ったんだ、って自覚することで、本音を頭の隅っこでだったとしてもキープしていられるんじゃないかな。そんでさ、本音を失くさないことは、自由を失くさないことになるから。」
「だけれど、現実には無自覚な姿勢ってすぐに無くならないでしょ。仮に、元の言ったような、みんなが自覚的に振り子のようでいられる世界が将来実現したとしても、それまでのあいだの私たちはどうする? 一時、自由のかけらをどこかに落としてしまった人たちに、自覚的になれ、って唱えているだけ? 過渡期にもっと効果的な処方箋はないの?」
「美希はなんだと思う?」
「そのためのルールや法律なんだろうね。建前っていう自己努力で守られる秩序は局限的というか瞬間的というかで、そうじゃなくてきっちりした枠組みで世の中をくくってしまってしっかり守るのはルールのほうよ。法の下の自由。」
「じゃ、建前なんてほんとうは必要ないのか。」
「ううん、法やルールがあったとしても、建前や我慢によって秩序を守ろうとする努力は必要じゃないかな。法やルールの下で生活するならばあとは自由で良いのだ、としてしまうと、自制心が薄くなるのよ。自分で考えて判断する力も弱くなると思う。そうすると、内なる欲望が強くなっていきそう。そしてその結果、強くなりすぎた欲望に動かされる存在に人間はなっていくように思えるわ。」
「内なる欲望か。人間は欲深いからね。」
「『わたしたちは、彼らの博愛心にではなく、彼らの自己愛に訴えるのである』」
「それは誰の名言? もしかして美希の考えた名言?」
「アダム・スミスよ。自己愛という本音を肯定することこそが、経済を世界の中心に据える今の資本主義世界のテーゼよね。お金への欲望、要するにお金への本音が正統化されて空気のようにまでなったから、秩序への意識が希薄になっているのかもしれない。人間たちは秩序なんて考えなくていい、本音で生きていれば自然と秩序は出来あがってくる、って経済学者たちは考えたのだけれど、そうやってできあがっていく秩序も人間も、最善ではないように思えるのよ。疑問に思っちゃう。」
「だからか。今のこの世界で、秩序なんて誰も考えていないのかもしれない。ホワイトドラゴンフライズじゃなきゃ、俺だって秩序について考えもしなかったし。」
「でもね、みんなが建前を振りかざしすぎて、建前こそが普通っていう安定状態になってしまったら、それはそれで大きな問題があるのよ。それはね、次第に建前が染み込んでいくために自分の本音がわからなくなっちゃうってこと。そのうち自分の本音も、自分が大事にするものも忘れちゃう。つまりはさっき元が言ったように、本音と自由を失くしてしまう状態がこれなんだけれど、そうなったらもう、人はだんだん思考が浅くなってしまうし、最後には考えること自体を止めてしまう。そうやって、強欲でずる賢い一部の人たちに支配されるだけの存在になり下がるわ。強力な社会思想に席巻されてそうなった過去を実際に人類は持ってるから。」
「ふうん。」
「自由も秩序もね、どちらかに傾くと危険。わかった? 結局、その意味は何かっていう思考の癖を、できるだけ真摯に持つ姿勢でいることよ。」
「もうわかんなくなってきた。ギブアップしていいかな。」
「元のそういう頭の悪いところがいちばん好き。」
「いじわるだな。」
 元は美希が皮肉をあまりに屈託なく言うので笑いだした。
「元が、振り子のように揺れ続けることだ、って言ったのは素晴らしかった。わたしは人の自制心に賭けたい。現代の自由な人々の自制心の成長にこそ賭けたい。」
 美希はずっと本音を話し続けていたに過ぎなかった。
 外はいつからか雨模様で、ぽつぽつと湿った雨音が室内にも入り込んできていた。涼しすぎるな、と元は呟いた。
 
 それから数週間が経ち、いまだ、美希へは組織から次のプロジェクトへの参加要請はなかったが、元にはついに新しいプロジェクトからの招集がきていた。
 元と美希は半同棲するようになっていた。話をすればするほど、気が合うことがわかったのだ。
 いってきます、と部屋を出た元は、しばらくしてスーパー七福屋で使う会員カードを持ちっぱなしだったことに気付き、それは美希と共有しているものだったので、買い物当番だった美希に渡すべく、通勤途中で引き返し、小走りでアパートの階段を駆け上がっていく。
 そのとき、組織から持たされている不審通信センサーが反応を示しバイブレーションした。不思議に思いながらそっとそれをオフにして、静かに部屋の前まできて鍵を差し込みドアを少し開けると、美希の話し声が聞こえた。
「……この町のホワイトドラゴンフライズはこれで片付きます。」
 耳を疑った元は心底驚きながらも、逡巡の末に思い切って勢いよく自室のドアを開けた。
「なんの話だ? 美希。」
「なに? どうしたの? 会社は?」
 美希の視線が宙をふらついている。
「今、はっきりと聞いてしまったよ。君がブラックバタフライズだったとはね。スパイをしてたのか。」
 美希は苦笑する。
「ブラックバタフライズじゃないわよ。でも、わたしはヘマをしたようね。」
「じゃ、なんなんだ? ふつうに警察か何かなのか?」
「そんなわけないじゃない。」
 美希の表情が金属のような生気のないものに変わり、得体のしれなさを感じた元は怖くなって部屋を後ずさる。
「元、待って。話を聞いて。お願い。」
 迷った。しかし、美希の声音にいつもの温度を感じもし、元は歩みを止めた。
「秩序を守るのも、無秩序を作りだすのも、やっているのは裏の世界。前に話しあったわよね、意識と無意識についても。このせめぎあいは、すべて無意識の内で行われているようなものにすぎないのよ。あなたもわかっているとおりだけど、ホワイトドラゴンフライズは秩序を守りたがっている。ブラックバタフライズは一見、秩序を壊そうとしているけれど、そのあとに新秩序を作りだすのがねらい。わたしたち、そう、わたしたちはね、裏の世界を本来の無秩序の状態、誰かのコントロールの及ばない状態に帰すことが目的なの。それが自然だからよ。誰かが支配するべきものじゃない。元、あなたが言ってたことだって、表の世界で堂々とやるべきことなの。わかる? 表の世界でやるべきなの。」
「ホワイトドラゴンフライズの反乱軍ってわけか。」
「あのね、細かい話だけど、レジスタンスっていって欲しいな。あと、ホワイトドラゴンフライズだけじゃない。こっちにはブラックバタフライズからだっているわ。わたしたちはね、カメレオンズと呼びあってる。」
 そのとき、元は背後から何者かによって羽交い絞めにされ、みるみる目の前を暗くした。気を失い、糸を切られた操り人形のようにだらりとなる。
「元。あなたはこの町をでたほうがよかったんだよ、ほんとうに。」
 どうする? と元を床に寝かせながら顔をあげたのは丸刈りの男だった。
 私に任せて。何かあったらすぐ呼ぶから大丈夫。でも、と男が怪訝そうに返すと、大丈夫、と美希は力強く会話を断ち切った。
 姿勢を仰向けにされ、意識を失ったままの元に、美希は毛布をかけてあげた。足を崩して傍らに座り、元の頭を撫でる。細めた目と長い睫毛。そこからまっすぐな眼差しを元の無表情になった顔に据えて小さな声でゆっくりと言った。
「すべての始まりなのよ。これは、始まり。」
 
【了】

参考:『つながる脳』藤井直敬 新潮文庫
   『会社はこれからどうなるのか』岩井克人 平凡社
   『一〇〇分de名著ヴァーツラフ・ハヴェル『力なき者たちの力』 二〇二〇年 二月』Eテレ

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『ポイントオブビュー 忠告のち、世界』前半(自作小説)

2020-08-24 12:27:06 | 自作小説11
今年応募した「オール讀物新人賞」のための作品は、
予選を通過せず、でした。
しかしながら、本ブログに公開して読んでいただこうと思います。
_____


「あなたはこの町をでたほうがいい。」
 静かに幸福感を感じさせる淡い黄色の便箋。しかし、その第一行目のこの一文によって、掴みかけた幸福感は瞬く間に散った。それどころか、先の見えない不安が喉元でふくらみ、つかえて動かない。
 亀田元にとって、郵便で配達された自分宛ての手書きの手紙が来るなんて初めてのことだった。手紙を郵便受けからつまみとったときには内容を楽しみにする期待感が確かにあった。だが、読んでみるとその期待感は模造品だったかのように価値を失った。亀田元は心理空間の狭くて暗い辺境に放りこまれたのだ。
 差出人の名前は無い。でも送り主は、アルバイト四年目になる元がクビになったスーパーの内情を知っている。その事件についても。
「きっと言葉にしようの無い孤独感に見舞われているでしょう。ただの気休めにもならないかもしれません。でも、あえて書きます。あなたが犯人じゃないことは、スタッフのうち何名かはわかっています。ただ、どうしても口に出せないだけ。口に出したならとても酷いことになるから。口に出した者も、あなたも。」
 元の左頬がぴくぴくと引き攣った。とても酷いこと? 今より酷いことなんてあるだろうか?
 結局、事実上のクビではあったが、退職願いを提出して自己都合の体裁でスーパーチェーン七福屋・丸尾店のアルバイトを辞めることになった。その原因となったあの事件からいい加減もう気持ちを離れさせようと決めて、ようやく気分が上向いてきたというのに、四十名ほどのスタッフのうち何名かは自分の無実を知っているだって? では、俺はなんのために陥れられたのか。元は回らない頭をかきむしった。
 元は、売上金及びレジ金を盗んだ疑いを向けられたのだ。19万6000円足りなかった、と三週間前のあの朝、29歳にして生え際の寂しい庄司店長がその鋭い目つきで朝礼に集まった従業員たちをぐるりとねめ回した。心当たりのあるものは私を訪ねてくるように、今日はずっと事務室にいるから。きっぱりした口調でそう告げた庄司店長の表情はどこか不敵だった。内心せせら笑っているような気配を、目の奥や口許に感じた。
 昼前にデイリー担当の野村美希がいつものように暗い目をして元に、
「店長が事務室に来てくれ、と……。」
と独り言をこぼすかのような寂しい声でことづてを伝えた。野村美希は元の一つ年上の23歳で、後ろにまとめた長い黒髪と大きめの黒ぶち眼鏡をして、あまり目立たない雰囲気を漂わせている。つまり存在感が希薄なのだ。彼女にじいっと見られていたとしても、しばらく時間が流れるまで気付く人はほぼいないほどだ。ただ、その視線に気づいたときには、たいていの人はあっと驚く同時に、心の柔肌に冷たいものが触れたようにゾッとする。そのときも事務室へ向かう元の後ろ姿がコーナーに消えるまで、野村美希は誰に気づかれることもなく、じいっとその背中を見送っていた。
 庄司店長から元が言われたことは、昨日の退勤時刻が一番遅かったのは君だった、ということから始まり、その直前に防犯カメラの電源が落ちていた事実について、と続いた。そして最後に、認めたらどうだ、と自白を迫ってきた。元は脚をわずかに震わせながら否定の小さな叫びをあげた。急激に耳と頬が熱くなり、額や鼻の下から汗を噴き出させた。庄司店長は元のその狼狽ぶりを都合のよいように解釈する。低い声で強めに発せられた、図星のようだね、の一言がそれだ。そしてその言葉は、元の心を深くえぐる刃となった。
 過呼吸気味になりながらも元は、店長だっていましたよね? と追い詰められた小動物が否応なく牙を見せるように遮二無二ちからを振り絞り、言ってのけた。庄司店長は間をおかずに返す。
「私がたかだか20万円ほどを盗むだって? そんなの動機があると思うかい。それにくらべてどうだ、売上をちょろまかす動機としては君のほうがしっくりくるじゃないか。君はいつもお金が無いと漏らしているからな。常に金銭面で苦労しているんだろ? 君の方が断然、動機はあるんじゃないかな。」
 庄司店長の薄い唇から余裕を持って投げかけられるむごたらしい言葉の刃のひと振りふた振りに、元は絶命するも同然の深手をいくつもこころに負い、大量出血の気分だった。
 何も言い返せなくなったノックアウト状態の元に庄司店長は急に手のひらを返すように、情けをかけるから、とこの事件を内々に処理する約束を提示した。そのためその後、警察沙汰にはならなかったが、そのかわり元は気に入っていたせっかくの職を失い、仲間でもあった同僚たちとの人間関係を失い、自尊心をズタズタにされた。
 それが、あなたが犯人ではないことはスタッフのうち何名かはわかっています、口に出すと酷い目にあう、だって? 自分を取り巻いている状況がいったいどういうものでどうなっているのか、元にはさっぱりわからなかった。
 外ではアパートの屋根と近くの電線にとまっている数羽のカラスたちが、まるで会話をするように鳴き交わしている。
 手紙を読み終えた元には、どう理解したらいいのか、思考の糸口すら見つからない。ええと……、これは……、だから……、どういうことだ……。
 室内に響いてくるガアガアとかけ合うテンポが速まり、鳴き声自体もトゲトゲしく変化して口論のようになり始めた。
やかましさに掻き乱されて、元はフローリングに仰向けになり目を閉じた。なにもかもが、やかましい。カラスたちよりも、手紙が。手紙に書いてある事実が。事実に呼び覚まされた記憶が、最悪なほどやかましかった。
 
 職を失って以来、町内をぶらついていると、誰かれの視線にやましさを感じるようになってしまった。亀田元がまだ次の働き口を見つけられていないことが近隣の住民の間で周知のことになっているように、彼らの挙動から見てとれたのだ。小さな町だ。元がいつまで経っても昼間から外をぶらぶらしているのだからしょうがない話なのだが。
 コンビニに向かう元を横目で見ながら、ひそひそと話し合う二人の奥さんたち。元は横を歩きすぎていくその背中で、「売上金」と「着服」という単語を聴いた。背筋につうっと冷たい汗が流れた。うそだろ。でも、振り返れない。問いただすことなんてもってのほか。飛び出そうとするより先に、尻ごみする気持ち。
 不意に、あの一文を思い出した。
「あなたはこの町をでたほうがいい。」
 この町に、本当に住んでいられないかもしれない。だからといって、引っ越しをするとしたってそう簡単にはいかない。第一、経済力が無いのだから。
 ちょっと距離が離れてはいるが同じ町内に元の実家はあった。とりあえず、実家に戻るしかないのか、と思案する。どうやら八方ふさがりになりつつある。
 夜になってから実家に電話した。最初は母が出たが、父が話したいそうだといい、すぐに電話を替わった。父は、元の失職をどこかで聞いていたようで、本当だったか、と嘆息したところから会話がはじまった。元は父が知っていたことに対して反射的にたいそう驚いたが、ぐっとこらえて平静を保つのに努めた。父のほうでは、その理由は「女性問題のこじれ」が原因になっていて、元は言下に否定したのだが、父の頭には「女性問題のこじれ」が鍋の焦げのようにこびりついているらしく、ずっとすっきりしないままの会話になってしまった。途中から元は、いま頑なに否定し続けるよりここは時間の流れに任せてほとぼりが冷めるのを待つほうがよさそうだ、と考えて言葉を選ぶことにした。誤解を解こうと躍起になってもたぶん今は火に油を注ぐだけになる。
 実家へ電話をした目的は当初、「実家に戻る話をするため」だったが、しかし、父と話しているうちに、実家に戻る計画は言いだせなくなった。理由はどうあれ電話口の父親はまだ退職を受けとめてくれている様子ではあるが、たぶん母親はその感じやすい性格からいって彼と面と向かって会えば泣いて取り乱すに違いないし、その後の日常でもかなり精神面への影響がでるのではないかと推測できたからだ。だから咄嗟に、電話した目的を「金を借りるため」に変更した。実のところそれまでも元は、アルバイトをしながら実家から仕送りで援助をしてもらっていた。スーパー七福屋で正社員になる、あるいは別の正社員の仕事を見つける、それまでの間だとしての約束を父はしてくれていたのだった。父親からは金の融通がつき、電話を切った後、元は感謝の思いでそっと両手を合わせた。
 女性問題のこじれだって? おもしろがって嘘をまき散らしているヤツがいるんだな。それとも、伝言ゲームの要領で話の内容が変わっていったのだろうか。いずれにせよ、ややこしい話になってきている。元はこの町を出るという選択肢をはじめてじっくりと考え始めた。まずは近隣の求人をあたっていこう、そう決意すると、あの手紙を読んで以来やすらげぬ気持ちだったのが、このままではいけないという気がしてきて、すぐには眠りにつけなくてもいいからと早めにベッドに入ってみた。話が妙なほうに膨らみ、そしてこの先、もっと入りくんでいくような謎めいた気配を元はうっすらと感じていた。

 思ったとおり寝つきが悪く、遅く起きた翌朝、歯を磨いているとチャイムが鳴り、ドア越しに、庄司店長の紹介でやってまいりました、とはきはき喋る男性の声が聞こえてきた。庄司の名前を聞いて鼓動が速くなる。すいませんが開けて頂けますか、と続ける声自体の印象は、悪くは無いどころか軽やかかつ人好きのする印象を与えるもので、亀田元はそのためもあってほとんど咄嗟に、躊躇もせずドアを開けてしまった。そこには、ひょろっと背の高い短髪のセールスマン風の男が微笑みを浮かべて立っていた。年は30歳前後に見える。べっこう縁の眼鏡がよく顔になじんでいる。
「さきほど申しました通り、スーパー七福屋・丸尾店の庄司店長様より依頼されてまいりました、わたくし人材派遣会社マルチパーソンの掛川です。」
 元は、はあ、としか言えないまま名刺を受取り1Kの部屋の中に掛川を通した。では、失礼します、と愛想の好い笑顔を元に向けながら上がり込むと、掛川はテーブルの片側にあぐらをかいて座った。黒いビジネス鞄からなにやら書類をとりだしテーブル上に広げはじめる。元もそそくさと掛川の向かいに移り、正座しようかとちょっとためらったあと、でん、とあぐらをかいた。
「就職先の斡旋ですか。」何枚かの写真入りカラー書類を眺める。どうしても気になる。気にならないわけがない。「どうして庄司店長が俺の就職先の心配をするんでしょう。」
「庄司様は、亀田様が非常に優秀に仕事をこなされていたことを高く評価されていました。また、今回は御病気で退職されたこともうかがっております。もうお加減はよろしくなられましたか? さらにはですね、亀田様がスーパー七福屋のアルバイト職からステップアップされたい意向があったこともお聞きしております。庄司様も、亀田様ならばあと少し経験を積まれたならすぐにサービス業で正社員の職につけるだろうと見ておられたそうですよ。」
 今度は病気が理由になっているのか、と元はうんざりした気持ちになった。情をかけるから、と警察沙汰にしなかった庄司だったが、あの件は庄司にハメられたものだと元は確信していたのだから、就職先の斡旋で人をよこしたのにはきっと周囲の目をよりうまく欺く目的のためなのではないか、と推測できた。庄司が自身をよく見せるため、そしてあの件をもっと巧妙に偽装するため、そして元を懐柔してよりうまくコトを隠蔽するために掛川をよこしたのだろう、と。
 そのうえで、この斡旋に乗っていいものかについても考え始めた。ハローワークでも求人誌でも、これといった求人は見つけていない。そんななかで、給与面や待遇、仕事内容がそこそこ良ければその求人に乗っかっていきたい気持ちもなくはない。自分でもゲンキンだと思う。だが、本音では庄司を恨んでいる。だから、彼からの甘い話を受けてしまうと、あの卑劣な行為を許してしまうことになるのだから、これは避けるのがベターだろうというところまで頭を整理した。
「せっかくなんですが、」そう言いかけたが掛川に手で制された。
「庄司様からの推薦は、この職なんですがね。サービス業です。スーパー七福屋のライバルチェーンでもありますがここは隣町の店舗で、ずっと求人を出していても求職者がなかなか来ないところでしてね。過疎化が進んでいる町ですから、もともと人手不足なんですよ。そこに、うちの会社を通してまず派遣という形でどうでしょうか、というものなんですね。」
 掛川はそう話す流れで、テーブルの書類の一番上のものを元の正面に突きだした。社会保険完備、勤務の時間や時間帯は相談に乗ります、と太い字体で目立つように書かれている。時給額はスーパー七福屋とほぼ同じだった。元は一応それらに目を通しながらも、
「いや、あのですね、」と断るつもりで口をはさんだが、またもや掛川が強く手で制した。
「実は、私どもからの職業紹介もあるんですよ。こちらは庄司様とはまったく関係なく、こちらでご用意させていただいたものです。」
 掛川はまたテーブル上の書類の中から一枚取り出し、わりあい文章量の多い体裁の書類を元に差しだしてきた。それは飲食業のスタッフの求人だった。時給額はさきほどのものよりも100円近く高かった。
「ここはスタッフみんながチームとしてまとまりつつやってるみたいな、結束力をいちばん大切にして仕事をしている現場なんです。派遣から、……つまりうちから行って働いてみて、うまくいけば正社員に登用してもらえるんですよ。そうなれば、時給ではなくて日給月給制になりますし、言うまでもなく手取り額もかなりアップしますよ。何年か頑張ってから独立という選択肢もあります。」
 なるほど、飲食業に職を変えるのもいいのかもしれないが、と元はあらたなビジョンをうっすら頭に描いて顎をさすった。庄司からの求人ではないとなれば、受けても良いような気がした。だが、飲食業は続けていくのがほんとうに難しい商売だと聞いたことがあった。経営の手腕と、料理の腕。それらがどちらも水準以上じゃないと長くやっていけないのではないだろうか。経験を力に変えていって、はたしてそこまで自分は成長していけるのか、自信が無かった。
「でも、こういう商売ってむずか……、」
 そこで掛川は、わかったわかったというように両方の手のひらを元に向けて突きだし、前後に何度も小さく動かした。表情はそれまでよりもずっと柔和な笑顔へと崩れていた。
「やっぱり、亀田様にはこれかなあ。」
 テーブル上で最後に残った書類を指差しながら説明する。
「実は今、うちの会社でも人を募集するところなんですよ。まだ求人を出してはいないんですけどね、亀田様には特別に、先にお見せしちゃいます。」
 株式会社マルチパーソン一般事務職正社員を一名募集。パソコン入力、電話応対、接客業務等。事務仕事が初めての方にも丁寧にご指導致します。但し、試用期間は三カ月。
 給与面は、それまでの二つに比べて群を抜いて良かった。掛川にはできるだけすぐに引き取ってもらうつもりだった元の喉から、断りの言葉が行方をくらました。
「私も総務課ですから、亀田様がもしその気をお持ちになるようで弊社の面接を受け、めでたく入社されたならば私と同僚ということになりますよ。大丈夫、事務仕事に慣れるまでは私がサポートします。面倒見はいいほうなんですから。」
 そう目を細めて、掛川は短く爽やかな笑い声をあげた。
 どうやら元の気持ちは傾きつつある。動くはずの無いシーソーを動かすだけの重りとしての力が、掛川からの提示には余りあった。
「いや、今ここで返答をしなくて構いませんよ。最後の求人、つまり我が社の求人を含めて、受けるか受けないか、今週いっぱいにでも電話連絡してください。就職を決めるのは人生の大事な選択ですからねえ、じっくり考える時間は欲しいですよね。」
 掛川は黒い鞄のファスナーを締めながら親しみを込めた口調でそう言うと立ちあがり、ではご検討ください、失礼いたします、と頭を下げたかと思えば風のように部屋を去っていった。僅かな残り香すら、暑い日のアスファルトに垂れ落ちた一滴の汗の粒の蒸発みたいに数秒の後に消え失せた。
 
 それからひと月後。元は株式会社マルチパーソンの総務課で忙しくしていた。会社は住んでいる町の中にあった。どうやらこの町を出なくても済んだようだ。
 採用が決まったとき、元は安堵した。採用の通知をもらうまでの間、意識することはなかったが、ずっと気を張って生活していたことにはっきり気付いたほど肩や首の力みの解消を認めた。
 しかしリラックスできたのも、そのときまでだった。会社に通ってみてわかりはじめたことがある。それも重要な部分で。残念ながら、ここには元にリラックスを許さない不審点が露骨に存在したのだった。
 株式会社マルチパーソンに対して、最初は単なる人材派遣業だと思っていた。おもに掛川から振られて処理する作業はすべてそういった種類の仕事だったのだし。掛川が元の部屋を訪れたときに携えていた書類と同じようなものを作成したり、派遣採用者へのさらに詳しい書類の作成や電話連絡などといった仕事があった。
 三週間目くらいからだろうか、掛川から振られる仕事は何のための仕事なのかよく掴めないものが混じりはじめた。作業としてはなんなくこなせるのだが、その作業がどんな仕事の一部なのかがはっきりわからないのだ。とくにデータ入力やデータを精査する作業では、略されたアルファベットで記された項目と数値がずらっと並んでいて、これはなんなのか、と疑問を持ったが、掛川にそれとなく訊ねても、ああそれねえ、大したことない仕事でしょ? できない? なんて返されてこちらの質問にかみ合った答えは返ってこない。
 そのうえ、なんと社内の別の部署で、あの庄司を見かけることが何度かあった。それも、どういうわけかスーパー七福屋の求人に関する来社ではないようなのだ。というか、元の見立てでは「来社」ではなかった。彼は「出社」していると思われた。スーパー七福屋では見なかったスーツ姿で、マルチパーソンの社員と打ち合わせのような話をしているのを元はドアの隙間から目撃していた。
 庄司の表情は店長業のときよりも厳しげだった。いつも鋭い目で店員を見回してはいたが、それとはひとつ次元が違うような締まりある表情だった。スーパーの店員との接し方よりも、ここの社員との接し方のほうがくだけていて忌憚ない話しぶりのようなのだが、まるで真剣勝負のような甘さの無いやり取りをしているようにも感じられた。スーパー七福屋で仕事をしているときよりも、前のめりになって仕事に臨んでいる風なのだ。
 そして、入社からひと月後の今日、掛川からこう告げられた。
「亀田君。そろそろ君も、我が社が行っている数々のプロジェクトのうちのひとつに参加してもらおうと思うんですよ。だいたい会社のこともわかってきただろうしね。」
 掛川は、毎日が楽しいし、こうやって元に話しかけるときなんてそれに輪をかけて楽しいのですよ、と言外に語るかのように目を細めながら、自分のデスクの横に立つ元を見上げている。
「午後イチでその会議がはじまるから、出席してください。プロジェクト名は『シジミチョウ』っていうんだ。第一会議室ね。中身は行けばどんなものかわかるから。」
 そうですか、と元は小声でひとこと返事をして自分のデスクに戻った。自分が居るこの場所はなんなのか、いったい何をさせられているのか。色濃くなった不安の色が眉間の皺にあらわれた。
 会議室には先に庄司が座っていた。元を認めるなり片手をあげ、よお、と声をかけてきた。なにが、よお、だとの憤りと、二人を引き合わす行為は普通とはいえない感覚だろう、という会社のやり方への驚きと憤怒の入り混じった気持ち、今なにが起ころうとしているのか予測がつかない感じが、元の胸中をざらつかせた。そして、飛びかかってやりたい衝動と、一刻も早くこの場から去ってしまいたい衝動とが取っ組みあいを始める。
 庄司の向かいには女性が一人、窓のほうを向いて頬づえをついていた。
「揃ったね。始めようか。」
 庄司がプロジェクトリーダーということになる。女性が正面を向き、それまで頬を支えていた両手の指が机の上で組みあわさる。きっと会議のスタートに気持ちを備えたのだ。女性はかつての先輩、野村美希だった。あの地味な、黒ぶちの眼鏡はかけていなかった。
 元は口を挟まずにはいられない。
「これはどういうことですか? 言っている意味はわかりますよね? どういうことですか?」
 声の調子が不安定に波立ってしまった。
「君は役に立つ人間になると見越してのことだ。……というかだね、組織にロックオンされたらね、もうどうにもならないんだよ。受け入れるしかない。それに正直にいうと仕事は厳しいが、やりがいはすごくあると思うよ。あまり難しく考えるんじゃない。状況に対して自ら歩み寄っていくイメージでいなさい。そうすれば気持ちだって定まってくるし、間違いなく居心地もよくなるだろう。」
「俺の人生を勝手に決めないでください!」
 美希が机から身を乗り出す。
「亀田君、どうか落ちついて。私たちだって初めはあなたと同じだったのよ。わけもわからずに取り込まれて、それからおおまかな事情を教えられるの。」
「じゃあ、あなたがたは、その事情とやらを聞いて納得したっていうんですか?」
 庄司と美希は少しのあいだ顔を見合わせてから元のほうを向いて、そうだ、そうです、とそれぞれにきっぱりと言い切った。二人の目に嘘は感じられない。
「そんなのおかしい! 自由を……、自由を奪われているじゃないか……。」
「でもね、こうなったほうがある意味では前よりも自由になってると思うの。よく考えてみて。この競争社会、資本主義社会でどれだけ個人の自由が持てていたと思ってる? おまけに格差社会での私たちって下層にあるでしょう? 金銭的な制約があって、そこを乗り越えようと思っても学歴的な制約があって、さらに同調圧力が手かせ足かせとしてあるし、がんばって抜けだそうと力んでみても周りから足を引っ張られもする。そんな窮屈なこの世界の現実で、あなたの言うような自由って、取るに足らないとてもちっぽけなものだとは思わない?」
 美希がさらに身体を乗りだしながらそうなだめた。腕組みをした庄司が美希のあとを続ける。
「この組織に加わったならば、表向きはそれまでと変わらないように振る舞わなければならないが、別のかたちの自由を感じられるようになるぞ。そりゃあ、こうやってプロジェクトを遂行していかなくてはならないし、指令といったらいいのか、断れない種類の仕事をこなさなくてはならなくなるけどな。そのぶん、世の中を保っているのは自分たちだっていう自負を持てるようになるんだよ。表のルールに縛られずに裏の世界で行動して、裏の世界での成果によって表の世界の秩序を保つんだ。この組織の意志に自分の意志が重なりえたとき、表の世界にだけいたときよりも、はるかに自由の実感を感じるようになるよ。そこは受け合おう。」
 美希が引きとる。
「あなたはそんな組織の目に適ったのよ。幸運だった、ってきっと思えるようになるから。」
 元は、それじゃなくてもここのところ会社への不安や疑念に混沌とした気持ちを持ち始めていたし、スーパー七福屋での事件以来、精神的にすごく疲労していたから、庄司と美希にここまで筋の通った説明で説き伏せてこられるとそれらを跳ね返す論理も元気さも働いてこないのだった。やけくそになるのは当然といえた。
「……わかりましたよ。納得がいったわけじゃないけど。とりあえず、受け入れることにしようか……。」
 そう独り言のように返答すると、しょぼくれたように肩を落とし、美希の横の椅子を引き、どさっと腰かけた。
「では、始めよう。」
 庄司の声音からそれまでの温厚さが剥がれ落ちた。スーパー七福屋で見なれていたはずの庄司の鋭い目からは、見たことのないほどの強い光が発せられているように感じられた。この人が生きいきとするとこんなふうになるのか、と元はプロジェクトの内容を聞きながら、人間ってわからないものだな、とぼんやり思いもしたが、そのうちに信じられないような言葉が耳に飛び込み始めたので、話に引きつけられ集中せざるを得なくなった。体温が急上昇しだす。ほんとかよ、と何度も胸の裡に呟きながら、話に聞き入っていった。
 
 秋にしては蒸し暑かった日の深夜。町内のとある一軒家の居間を元はひとり、ぐるぐる動き回っている。ソファに座って待とうと思っても、お尻や太ももがなんとなくそわそわしてしまう。歩いているほうが断然に落ち着いた。
 テーブルに置かれた小さなモバイルパソコンのモニターには、まったく動きはない。庄司から、ケータイを使わずにこれを、といわれて渡されたコンパクトな通信機器にも反応はない。
 夕方から、プロジェクト「シジミチョウ」の本作戦が実行されているはずだ。庄司と美希が実行部隊で、元はベースキャンプ代わりのこの一軒家で待機。彼らはそろそろやってくるはずだ。成果を携えて。
 水のペットボトルの二本目を開けるカチッという音が部屋に大きく響いた。喉の渇きがひどい。今日はこの家に来る前からずっと、口の中がほのかに酸っぱい。ガブッと口に含んだ水を軽く口内で回すようにして飲みこんだ。
 そこで通信機器に反応があり、応答すると庄司の声がした。上首尾だ、四十五分後になる、とだけ言うとすぐに不通になった。
 モバイルパソコンのモニターにはなおも動きはない。よしよし、そのまま。元はひとつ長い息を吐く。モニター上に立ちあがっている黒いウィンドウは、一軒家とその周囲の警備状況について、リアルタイムレポートを表示している。
 庄司の通信から、きっかり四十五分後の午前二時過ぎ、一軒家の前に静かに車が寄せられた。ドアを閉める音にも気を使っている。
 元はモニターを見つめ、それが庄司たちの到着であることを確認すると、玄関に駆けていってドアを開け、彼らが家に上がるのを待つ。庄司と美希は、小柄な女性をあいだに挟み、身体を支えている。その水色のワンピースを着た女性は泥酔者のように朦朧として、地面に崩れ落ちそうな足の運びだった。
 玄関のドアを閉めると、やっと庄司が口を開く。ささやくような小さな声で話しだしたので、元は、聞き逃すまい、と耳を凝らした。
「うまくいった。『シジミチョウ』はまだしばらくこのままだろう。ソファに寝かせるから手伝ってくれ。」
 元は無言で頷くと、その女性の関節が無理な角度に曲がらないよう気を配りながら仰向けに姿勢を整えてやった。女性は華奢で、年齢は見たところ30歳前後だと判断できた。プロジェクト会議の時の情報と一致する。
「抜きとられたばかりの機密情報がスマホから見つかったよ。最高のタイミングだったな。」
 黒の革手袋をした手で庄司は鼻の下の汗を拭った。昼間に負けず蒸した夜だった。元はリモコンを手に取り、エアコンを強める。
 プロジェクト会議では、この女性がブラックバタフライズと呼ばれる自分たちの対抗組織のメンバーであり、防衛省の官僚と不倫関係を作って機密を入手する作戦を実行する工作員であることが庄司から説明されていた。
 ブラックバタフライズは、主に女性工作員を使って世の中の均衡を少しずつ崩していく。ブラックバタフライズは世の中の秩序を揺るがすことを目的としているが、それは新世界を夢見ているがための、現存の秩序を再構築する目的での破壊であるらしい。スクラップ&ビルドだ。
 会議ではブラックバタフライズの新秩序がどんなものなのかについての庄司からの解説はなかったので、会議終了間際に美希に尋ねてみたのだが、はっきりとした情報は今のところ無い、あるいは下っ端の自分たちにまでは降りてこないため、個人的な見解ではあるけれど、としながら、選民思想や優生思想なんじゃないかな、とのヴィジョンを教えてくれた。相手方をブラックバタフライズなんて呼び方をしているが、本当の名前はわかっていないのか美希に尋ねてみると、いろいろ名前が変わるみたいなのよね、だからこっちからは一律にブラックバタフライズと呼んでいる、ちなみに私たちはホワイトドラゴンフライズって呼びあっているから覚えておいて、とのことだった。
 元は、工作員がスマホから、あるいは特別な通信手段で機密情報をどこかに送信していないだろうか気になり、庄司にそう訊いてみた。
「問題ない。監視中にも、機密盗難の後にも、不審通信センサーのアラームは作動しなかった。もちろん、ここに到着するまでも。」
 ホワイトドラゴンフライズは、ハッキングされない特殊通信をも検知してしまう装置を密かに開発している。
 元は「シジミチョウ」のスマホからデータをパソコンに移しながら再びソファに寝かされている「シジミチョウ」、つまり工作員を眺めた。朦朧として、ほのかに苦悶の表情を浮かべているが、その顔のつくりは「工作員」というよりも、よく街中を歩いているふつうの綺麗なお姉さんだった。いや、だからこそ、機密情報を抜きとる作戦を十全にやってのけるためには適していたのだろう、プロジェクト「シジミチョウ」のターゲットとしてホワイトドラゴンフライズに捕獲されはしたが。
 「シジミチョウ」が所持していた白いバッグの内側の皮革に、USBメモリが応急処置的に縫いつけられて偽装されていた。美希はカッターナイフで袋状のその部分に切れ目を入れ、指を突っ込むとUSBメモリを抜き出した。もうひとつ確保した、という一言に、元は喜びと安堵の気分になる。そのため自然と頬がほころんでくるのだが無理やり抑えた。そのためおかしな表情になっているのが自分でもわかるため、表情が戻るまで何気なさを装って横を向いた。庄司と美希は目元だけがいくぶん緩んだようだ。
「あとは、『シジミチョウ』をどうするかだ。」
 うっすら無精ひげが生えた顎をさすりながら、庄司は美希と元を交互に見た。会議の段階では、ホワイトドラゴンフライズの矯正施設に連れていくことになっていた。そのために、わざわざホワイトドラゴンフライズに有利な、ある意味で根城のひとつであるこの町にいったん運んで来たのだ。矯正施設はブラックバタフライズからの保護施設としても機能する。
「予定を変えるの?」
 美希はさっきまでの無表情に戻って訊いた。
「奴らに大きな打撃を与えるチャンスとして『シジミチョウ』は使える。危険だが、実はさっきからアタックをかけるための増援の手配をもうしているんだ。非常勤のメンバーを何人か借りうけている。こっちのプランで行けるようなら行きたいと考えていたんだ。」
「手柄を立てて、組織の中でのし上がりたいのね。」
 美希は上目遣いで庄司をわずかに睨むようにした
「まあね。いつまでも実行部隊にいようとは思わないんだ。それにブラックバタフライズに大打撃を与えられそうじゃないか。目の前に無防備に花の蜜を吸い回っている蝶々たちがいるってことだろう。腹をすかした捕食者が黙って通りすぎてどうする。戴けるときは遠慮なく戴く。情けをかける理由なんてあるかな?」
 庄司は口許だけで小さく笑う。眼の光に勝ち誇った感があった。
 元は、庄司の言う「こっちのプラン」の内容を掴みかねていた。元にしてみれば唐突に話が変わってきたわけだが、きっと自分もそのプランに参加しなくちゃならないのだろうな、と憂鬱な気分になる。その気分が湿気の多い夜の空気にまとわりつかれ、ささくれ立つものへと変化していった。
「上からは許可が下りている。そういうわけだから。じゃあ、虫かごから『シジミチョウ』を解き放つとしよう。」
 庄司はどこからか注射器を取りだしていて、薬剤のパックをズボンのポケットから抜きだすとすぐさまそれを注射器に装填し、風邪を引いたときの皮下注射と同じ要領で「シジミチョウ」の上腕部に処置をした。そして、この家に入ってきたときとは逆に、今度は「シジミチョウ」を車へ運んだ。
「君はもういいよ。ひとまずお疲れさま。あとはこっち、二人でやるから、君はあれを頼む。」
 玄関から再び居間に戻った元は、組織で教育された通り、渡されたUSBメモリに妙なプログラムが仕込まれていないかをテストし、問題が無いことを確認してからモバイルパソコンに中身をバックアップのためにコピーした。サーバーに残ることを考慮して、ファイルのネット送信はしない。かなり遅い時間帯だったが、帰宅する前に会社に寄ることになっている。
 一軒家の戸締りをして、今回の作戦のためにあてがわれた軽自動車に乗り込みエンジンをかけると、すっとアクセルを踏み込んだ。不安と緊張の長かった夜が、やっと去っていくところだった。
 
 あくる朝、株式会社マルチパーソンの事務室では、掛川がホワイトボードに「亀田:出張中」とマジックで弾むように書き込んでいた。実際、元は早朝から東京へ向かった。眠気覚ましのカフェインドリンクを飲み、二時間半あまりの運転。庄司からの連絡で麹町を指定されている。
 「シジミチョウ」は彼女のマンションへ戻され、ホワイトドラゴンフライズからのさらに厳しい監視を受け始めている。「シジミチョウ」はすぐにブラックバタフライズの仲間と連絡を取る、あるいは仲間からの接触を受けるはずなので、そこを叩くのが庄司主導の作戦だった。
 元が、庄司ならびに今回招集された非常勤の男と、彼らが待つ麹町の路上で合流したときにはまだ動きは無く、庄司は元と荒木という名の非常勤の男をそこに残し、ひとりポイントを変えるためその場を離れていった。
 「シジミチョウ」からどこかへ連絡した形跡も誰かから連絡を受けた形跡も、不審通信センサーでの探知を含めて何もなかった。
「ローテクな手段。つまり、会話だとか手紙だとか。もしかすると落書きを使うなんていう手段もあるかもしれないが、今の状況だとそうする可能性がなくもないな。」
 荒木が飴を舐めながらそう言うので、元は美味しそうなレモンの匂いを嗅いだ。荒木は四十歳を過ぎているように見える。彼は元が到着するずっと前から長い時間ここで待ちぼうけしていたため、ついに集中力を切らしてきたらしい。糖分補給だといって舐めはじめて、これで立てつづけに三個目になる。梅味もあるぞ、とひとつ勧められたが元はやんわりと断った。
「それを暗号でやられたら堪りませんね。」
「そうさな。これは楽な仕事じゃない。食ってやるか逃げられるかの緊張感を……、まあお互いにだがな。ガブッと捕食できたら大収穫。俺らはおなかいっぱいになって幸せいっぱいにもなる。ただ、大捕り物とはいかない。わかるよな。ちょっとでも、事が荒立ったらすぐに撤退しなければいけない。そこが難しいところだな。警察とは違うから。」
 四丁目付近を往ったり来たりしながら、二人は時折立ち止まって言葉を交わすのだった。
「ほんとうに、このあたりをぶらぶらしていていいんでしょうか。」
 美希の他に二人のメンバーが「シジミチョウ」のマンション前を張っているようだ。
「こうしてんのが一番いい。」
 口の中の飴玉が歯にぶつかるコンコンという硬い響きを混じらせながら、荒木は続けた。
「そういや、君はこっちに引き込まれたのを知ったとき、自由が奪われた、って叫んだんだって? わかるよ。いきなり組織に引き込まれて、心穏やかだったヤツなんかいない。」
 荒木が初めて笑顔を見せた。愛想よくしているパグ犬みたいな顔になった、と元は思った。肉厚の額に刻まれたくちゃっとした皺から連想したのだ。
「こっちにいるほうが、表の世界にいるよりも自由だ、と言われたんですけど、そんな実感はまったくないですね。」
 ははは、と荒木は短く笑う。
「やりがいを感じるようになると変わるさ。世の秩序を守っているのは自分なんだ、ってわかってくると違うぜ。それに、後からついてくるモノなわけだが、組織からの報酬もけっこうな額だぞ。まだ知らんだろうがな。そういうのをひっくるめると、表の世界であくせくして、上下関係や人間関係に悩みながら働いて、生活も四苦八苦してるのには辟易としてくるな。」
「秩序、秩序、って、組織のみんな、よく言ってますけど、自由より大事なんでしょうか。どう思います?」
 元は荒木の顔を覗きこむように身体をねじる。荒木の視線は真っすぐ、遠くを見据えるようにしたままだ。
「秩序あっての自由だろう。自由だけだったら世界は無法地帯になると思わないか? 自由を手にしたヤツらがみんなモラルを持っているとは限らない。それどころか、モラルを貫き通せるようなのはごく一部の限られた人間だし、それに、得てしてモラルの高い人間はモラルの低い人間に駆逐されていくものなんだよ。手段を選ばないヤツのほうが、手段を選ぶモラリストよりも攻撃の選択肢は広いし、迷いが無いぶん攻撃のスピードも速い。つまり攻撃力が段違いに高い。よく言われはするけどさ、正義の味方が勝つものだってのは勧善懲悪が好きなマジョリティのための虚構でね、実際は悪の味方のほうが強いだろう。この場合の正義とは、モラルが高いという意味だけでのものだよ。主義主張が正しいだとかの正義はまた別。そっちはまたちょっと複雑だな。」
「俺は、自由がまずあって、その悪い部分を抑えるために秩序があるんじゃないかって考えついたんですよ。この間からずっと考えていて、ここのところに行きついてみたらちょっとすっきりしました。」
「うん、その考えも悪くはない。」と荒木は右の人差し指で鼻の下をこすった。「社会性とは抑制であるってのを聞いたことはあるか? 自分を抑える、我慢する、そうすることが社会性なんだって、サルを使った実験で見えてきたものなんだとさ。社会性ってのは秩序を保つことだとも言い換えられるだろ? それを踏まえるとこう言えるんだ。本音をぶちまけたら秩序って壊れるし、秩序は建前が作っていたりもする。でな、建前ってのはたいてい、メイド・フロム・我慢なんだ。」
「建前が秩序を作る、ですか。本音は秩序を破壊する、か。」
「そう。簡単に言い表わすとそういう構造になる。単純だろう? ただ、間違った秩序があって、そんな間違った秩序を守っている建前だってあるんだ。世の中を見回してみれば無数にあるって気付く。反対に、守るべき秩序を壊すための間違った本音もある。」
「でも、どれが間違ってるかなんて、主義思想の問題だから人それぞれで、どうしてもかち合うし、どっちの神様が正統か、みたいなことと変わらなくなるんじゃないですか?」
「それでだ。俺たち、ホワイトドラゴンフライズが守る秩序は正しいだろうか、誤りだろうか。君に判断がつくか?」
「……そんなのわかりません。だって、何をしているのかもよくわかっていないし。」
「でも、組織には従っているよな。それでいい。組織の守ろうとしている秩序は正しいと信じろ。そういうことは俺らより頭の切れる連中が深いところまで考えて判断しているから。ただ本音を言えば、本当はな、森羅万象の秩序に従うのが一番だと思ってる。古代ギリシャの人たちなんかが考えていた宇宙のロゴス。」
 そのとき、スマホが小さく震えた。美希からのショートメール。千鳥ケ淵方向へ、と。荒木にそのままの画面を見せて読ませると表情が引き締まった。それまでの会話はまったく無かったかのように瞬間的に気持ちは切り変えられていて、遅れるなよ、と言うなり、今までとは段違いの速さでずんずんと先を歩いていった。元は慌てて後を追う。
 荒木はそのけっこうな速度を落とさずにずっと進んでいく。それでいて、姿勢にも歩様にもまったく無理がない。元はやっとのことで荒木の後ろ姿を見失わずにいたが、そのぶん駆け足がかった早歩きになった。早歩きの不自然な歩き方は誤魔化し切れるものではなく、通りをすれ違う者のなかには、怪訝な顔で元を振り返る者もいた。
 再びスマホが震える。書かれているのは、ストップの一言。元は歩くのを諦めて走りだし、荒木に伝える。
「ストップ、って来ました。いったん止まれ、なんですかね。それとも中止なんですかね。」
 息が切れ、言葉をつかえさせながら喋っている。一方、荒木の呼吸は驚くほど穏やかだ。
「場所が中途半端だ。ちょっと戻るか。来い。」
 荒木の歩くスピードが、やっと常人並みに変わった。元は内心、ほっとしていた。
 コンビニで小休止を取ることになり、荒木を外に待たせたまま元は缶コーヒーをレジに持っていこうとした。そのとき、またスマホが震え、すぐさま画面を確認する。電話を三分以内に、と書かれている。元は冷蔵用ショーケースに缶を戻し店を出て荒木に手で合図すると、駐車場の隅に移った。幸い、人通りが無い。美希はすぐに応答した。
「いま、どこなの?」
 コンビニの住所を、荒木に尋ねながら答えた。
「そう、わかった。では、撤退よ。気をつけて。」
「もう終わったんですか。」
「知られていたわ。失敗。」
 えっ、と言葉を詰まらせた元の横で、荒木は事態をほとんど察しているのか、もういい、早く切れ、と小さく落ちついた声で行動を促してくる。
「そっちは大丈夫な……」と言いかけて通話が切られた。荒木は歩き始めている。
 退避の時間は遠足の帰り道のときのように短く感じられた。息を切らせた元が駐車場に着き、車を出すのを確認すると、荒木は運転席の彼に向かってひとつ頷いて見せ、あっという間にどこかへ歩き去っていった。
 その後、丸尾町への帰路の途中、庄司が行方不明になっている、という知らせを受けとった。
 
【続】
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