Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

『男、そのブログ愛』(自作小説)

2023-03-31 12:16:45 | 自作小説18
 十二月の夜の外気が張り付いてきても、熱を帯びた頬は燃え盛り続けた。
 今日は散々な別れ方をした。だいたい史恵はきっちりしすぎだ。大学の講義やバイトの間の時間の使い方について、毎日おれの行動をあれこれ詮索するうえに、ちょっと連絡を忘れたくらいで、会った時には必ずむっすりふくれている。
 インスタント食の多かったおれの体を気遣って、炒め物なんかを作りに来てくれたり、自分の部屋で作った煮物なんかを持ってきてくれたり、史恵はほんとうにおれのことを考えてくれる人で感謝だってしてるし、会えば楽しいことは楽しいのだけど、最近、うっとうしいと思う瞬間も少々でてきた。
 二人の相性がぴったり合っていれば、付き合うための努力なんてそれほど要らないのかもしれない。もしくは、気が重くなるような種類の努力の要らないのが相性の良さというものなのかもしれない。お互いの心のなかにある剝き出しの感じやすい部分にばかり触れるがため、その抑制としての努力ばかりが要る関係ならしんどくてうまくいかないのはすぐわかる。トラウマ的なもの、コンプレックス、そういったものに高頻度で触れないといけない関係は、相性の良い関係とは言わない。それをも克服していける関係に対しては、帽子を脱いで頭を下げよう。尊敬する対象だ。
 さてと、気持ちを落ち着けたい。今夜もシャワーの前にお気に入りブログの巡回チェックをする。全部で十サイト登録している。気の合う仲間みたいな気すらしてくる、おれにとっての珠玉のブロガーたち。最初の三つのブログは更新がなかった。四つ目、泡雪という名のたぶん女性が書いているブログである<溶解の砂場>には詩が更新されていた。目の悪いおれはぐうっとスマホ画面を近づける。


* * * * * * *


「明るいうちに」

地面が乾いた、明るいうちに。
路地の低きに流れる茶虎と、しんと静かで尖ったその眼。
欠けた淡い月の、明るいうちに。
風に巻かれた楓の葉、その香ばしい音たち。
吐く息の湯気もくもく。
吸う息の冴えひりひり。
地面が受け止めたのは、そこに熱があるから。
宿している熱を、わたしはまるで感じもせず、
踏みしめて、踏みしめて、明るいうちに。
わたしはどこに向かっているのか。
帰るのか、行くのか、そのどちらでもないのか。
明るいうちに。
せめて、明るいうちに。



* * * * * * *


 二回読んで、三回読む。最後に全体を眺めて味わう。
 場面は夕暮れ前だろうけど、暗くなる前って、なんの暗喩なのだろう。どこに向かっているのかまるで見当のつかない自分自身を表現しているみたいだ。詩の読み解きは得意じゃないながら、おれにはこの詩から生きていることの当てのなさが感じられた。おれだって、そういう気分の時はある。
 続いて五つ目から九つ目のブログもまた更新はなく、最後にチェックした<Light my fire>というブログが更新されていたので読みにかかる。ブロガーはプロメテウスという名の、たぶん男性だ。気分は落ち着いてきていた。


* * * * * * *


考え事をしながら、僕は今朝、今シーズン初めての雪かきをした。(前回、もしかすると初積雪になりそうだと予告したけど、その通りになってしまった)
仕事前に、ゆっくりと雪をかく。急いだほうが絶対にいいのだけど。

僕はそのことにうんざりしたりはしないのだが、毎年毎年過ごすのは、同じサイクルの日々なのは間違いない。(とはいえ、気候変動のせいか、寒暖のレベルは毎年極端なほうへ変化してる)

ああ、今年も雪が積もりだした、ああ、また桜がつぼみを付けた、というように、だいたいは、同じサイクルが訪れて、僕らは生きている。みんな、どうやってそこに変化をつけているのだろう? 僕にはもうマンネリなのだ。

凡庸な僕が、季節の移り変わりを凡庸に受け止めて、凡庸に仕事をこなし、食べなれたものを凡庸に食べ、凡庸にテレビを見、凡庸に本を読み、凡庸に給料を使い、少しは貯めもするけど、やっぱり日々の流れに身を任せている。


雪かきしながらした考え事の本編は、自分の死についてだった。
きっとこのまま平凡に死んでいくのだとしか思えない。
凡庸に、凡庸に、この月並みな人生を、どこにも刻み付けることもなく、ただただ消え去っていくだけのものとして、終えていく。
その何が不満なのだろうか。
僕だけじゃない、大勢の人がそうなのだし、なによりも何も悪くなんかはない事なのに。

多少は、息がってみたいのだろうか、いや、そうじゃない。
何か、成果を残したいのだろうか、いや、それも違う。

僕はひとりだ。
家族がいてもひとり。
今は恋人がいないけれど、いた頃を想っても、やっぱり結局はひとりだった。

何が言いたいか。
さみしい?
ちょっと違う。
それに、甘えたいわけでもないんじゃないか。

なんだろうと考える。
雪かきの時にずっと考えていたけどわからなかった。
つぎの更新までにひとつ答えが出ているといいのだけど。



* * * * * * *


 北国の人なのはもともとわかっていた。書いている中身から、おれとはまったく違う生活の、その質感が感じられていたからだ。
 このプロメテウスさんは、孤独で寂しげなところがある。このブログを見つけてからずっとそういう感覚を受けている。それでも、ブログの場ではそのままの自分を文章に写し取るように公開している印象で、およそ、他人がそういったタイプの人の内面を知るにはこういうかたち以外無いんじゃないか、とおれは思う。
 凡庸な人生なんて考えたことがなかった。そりゃ、立ち止まって自分を見つめれば、凡庸な人生を生きているという感想を持つのかもしれないが、そうなったところで、おれなんかはすぐにどこかへ歩きだして忘れてしまうだろう。
 今夜の儀式もこれで終わりだ。二つのブログを読めたし、シャワーを浴びて眠ろう。タイミングが悪いときには、どのブログも更新されていないから、二つしか読めなくてもまずまずだ。頬の熱さも和らいでいた。


 朝は食べない。ミルクで薄めたインスタントコーヒーだけで済ます。古びた納屋を描いたようなデッサンがプリントしてあるマグカップは、一緒に行った雑貨屋で史恵が選んだものだ。低いテーブルの前の床に座り、テレビをつけず、静けさに同化しながら少しずつ、その温かでエッジの効いた香りとともに体内へと受け入れていく。
 昨晩は、お互いにお互いの気に入らないことを責めあって別れた。その別れの前にした約束で、今日の昼に学食で会うことになっていた。正直、今日はすっぽかしたい。用事ができたからとメッセージを送って、史恵と会うのを避けようかと考えている。だけど心のどこかでは、避けることはもっとまずいことのような気がしていた。頭の中がもう少し冷静になれたなら、たぶん、会って話をした方が二人の関係のためには良いことになる。
 どうしようか。まず、一時限目の社会思想史の講義にでないといけない。教室で講義を受けながら、もう少し考えたり気持ちを落ち着かせたりしてみよう。決めるのはそれからだ。
 おれは黒いカバンを手に取り、ふうっと一息気合を入れて、部屋を出た。


* * * * * * *


長く画面を読んでいた。
冷めてぬるくなった紅茶が熱い。
温まるように、少しだけブランデーを垂らしたから。

わけもなく泣きたい夜がある反対に、
わけがあるから眠れない夜がある。
悩み、悲しみ、驚き、喜び。
怒り、恋、妬み、心の傷。
様々なわけがある。

再びわずかに紅茶を啜る。
胸に灯がともった。
その灯が、長く読んでいる画面を照らす。

生を諦めるとき、書く人がいる。
わたしはそれを見つけてしまう時がしばしばある。

解決をみることはないような物事が頑丈な糸になり、
がんじがらめに行く手を阻んでしまい、
途方に暮れるよりほかない場面がそこにある。

出くわすわたしの中には、
悔しいとかやるせないとかあんまりだとか、
言葉と感情が次々に湧きおこってくる。
言い募れば薄まっていくものがあって、
それは無情ではあってもわたしの健全さを保つ仕組みとして無条件で発動してくるものだ。

生を諦めるときに書く人の多くは、
書いてはいても、書き募らない。

あなたは、
諦めるのでしょうか?
どうか、言い募るように書き募ってみて。


そして私はまた紅茶を啜った。


* * * * * * *


 泡雪さんの<溶解の砂場>が二日連続で更新されていた。淡雪さん、誰かのブログを読んだみたいだ。その淡雪さんなりの反応としての文章だと思う。誰かの文章の裏側に苦しみを見出したのかもしれない。そのような場面にもこれまでに何度か遭遇したことがあるふうだ。「言い募れば薄まっていくものがあって、」というのはわかる。言い訳したり愚痴ったりするのが激しいヤツのほうが、ぐっと無言で耐えているヤツよりもなんでもなかったりしがちだけど、それに近いような気がした。
 紅茶にブランデーを垂らすなんておれはしたことがない。大人の夜の過ごし方だなと思った。淡雪さんはいくつくらいの人なんだろうか。彼女の言葉使いや考え方が、俺はとても好きだったし、一方的にだけど相性だって悪くないような感じがしていた。

 史恵とは、今日は会わなかった。メッセージを送ることさえも躊躇したのだけど、そこは自分を奮い立たせて、短い文章で、ごめん用事ができた、と伝えた。早いうちに気持ちを整えないと。このままずっと会わなくなって気まずいまま自然消滅していく可能性が頭に浮かびだしている。

 <溶解の砂場>のあとに<Light my fire>を表示してみると、こちらも更新されていた。どれどれ、昨日の思索の続きかな。


* * * * * * *


今朝も雪かきだった。
豪雪地帯とまではいかないけど、けっこう積もるほうなのだ、僕の住む土地は。

そして、考え事は続いている。
自分の死についてと自分はひとりだということと。

まず、死だ。
いや、死についてのほうに、的を絞って考えてみよう。
怖いかと訊かれれば、やっぱり怖い。
痛い死に方や苦しい死に方が一番に思い浮かんでしまうからだ。
そして、死の瞬間という決定的場面を迎えての心の内がイメージできない。
いったいどうなるのか、さっぱりわからない。
このまま死ぬのだろうな、と考えて、その死の瞬間に不安のピークに至ったりしないのだろうか。
これってあり得そうなケースだと思うのだけど、でも死のまさにその瞬間にパニックになっていた人、という話は聞いたことがないから、死というものは、たぶんパニックとは毛色の違う事象なんだろうとは思う。
死って、エネルギーが消失していく現象だろうから、パニックになるのにはエネルギー不足なのかもしれない。

そういった、死の恐怖とは別に、「存在しても存在していなくてもどうやら同じだった」みたいに僕は死んでいくに違いないのだと想像すると、やっぱり引っかかってくるものがあるのだ。無為をすんなり受け入れられるほど、僕はできた人間ではない。

前回、死を想う時のその想いは、さみしいのとはちょっと違うと書いた。
ずっと考えていて、じゃあ何が違うのかというとそれは、誰かと話をしたい気持ちがあるということだ、とわかってきた。
すごくさみしいわけではないのだけど、誰かと話はしたいのだ。

自己分析してみてわかるのは、自分を満たすためだけに話をしたいのではなく、かといって、誰かに与えたいためだけに話をしたいのでもない、ということ。
おそらく、これらのどちらも半々ぐらいに混じり合った動機があると思われる。
それでも、まだ、考えが足りていないのはわかっている。

話をしたいには、まだ奥があるようだ。
それはまた次の更新で。



* * * * * * *


 重い一歩ずつなのかもしれないけど、歩いてるなプロメテウスさん。この記事の内容そのものの意味に促されたのではないのだけど、おれも史恵とはやっぱり話をしたほうが良さそうだ。「明日、午後の講義が終わった後、バイトが始まるまでの間に時間を作れないか、できれば話がしたい」と史恵にメッセージを入れた。もう午後11時をすぎていたが、すぐに返信が来た。「午後3時半から一時間くらいなら大丈夫だけど」とあった。大学から地下鉄の駅までの長い下り坂の途中にあるカフェで待ち合わせをした。


 カフェに二、三分遅れて到着してみると、史恵はとっくに席についていた。
「ごめん、待たせた」
 史恵はいつものような、ほころんだような笑顔ではなく、
「ううん。ちょっとだけ前だから、着いたの」
と口元だけの微笑みで応えた。史恵は紅茶を頼んだというので、僕はオリジナルブレンドのコーヒーを頼んだ。講義はどうだった、だとか、昼食は小さなパンしか食べてなくて、だとか、どちらからというわけではなく当たり障りの無い話題をぽつぽつと繋いでいった。先に運ばれてきた史恵の紅茶を、おれは頬杖をつきながら眺める。
「ブランデーをたらすと旨いんだってな」
 史恵は、一口啜るところで、目を丸くした。
「圭介の口から、そんなお洒落な雑学がでてくるの、初めてだね」
「意外と、知ってんのよ」
 小さな笑い声が史恵からもおれからも漏れだし、思わず長く尾を引いた。いつもの空気感に近くなった。そして、このタイミングでおれのコーヒーもテーブルに運ばれた。
「で、話って? まあわかるけどね」
「そう。その話なんだ」
 言いにくいけど、先にこっちから謝ったほうがいい。
「史恵、ごめん。悪かったよ。謝る。許して」
 史恵はおれの目をじっと見つめながら、ゆっくりとまた紅茶を一口含んだ。その動作に違和感めいた重々しい感じがさあっと漂い、おれは嫌な予感を覚えた。史恵がやっと口を開く。
「ごめん、って言うけど。じゃあ何が悪かったと思ってる?」
「わがまま言ったかな、って。言い合いになったときにさ、史恵の言ってることを理解しようともしなかった」
 手のひらが汗ばんできた。
「あのね、私だって、自分の言ったことややったことがすべて正しかったなんて思ってないよ」
「え、そうなの?」
「圭介、ほんとに考えたの? ただ謝ればいい、なんて安易に解決しようとしてない?」
 コーヒーカップを手に取る。熱くて苦くて、ほんのちょっとしか飲めなかった。史恵の言う通り、おれはただ謝ればいいのだろう、と考えてきた。この流れではどうやらそれだけじゃ解決しないことがわかりかけてきている。ヤバいかもしれない。史恵は続けた。
「こないだ圭介が言ったように、私はあれこれ圭介の領域に踏み込み過ぎている。あのあと反省したもの。だから節度っていうか、付き合ってる同士でも距離感って大切なんだなって痛感したのよ」
 そういう話か。だったら、史恵が反省したのだからおれが許せば二人の間の溝は埋まるのか。
「わかってくれて嬉しい。正直に言うと、けっこうイラつくようになってた。でも、そう考えてくれたなら、俺はもういいよ」
 よかった。おれは史恵と別れたいわけじゃないから。そう安堵していたおれに向けている史恵の目つきが、突然研ぎ澄まされた。またしても嫌な予感に襲われて、カップの取っ手を握る指が震えた。ソーサーがかたかたと小さく鳴るのが聴こえる。
「圭介のほうはどうなの、なにを反省したの? 私の言ってることを理解してなかったって言ったけど、私の言ってることを理解して受け止めるのなら、これまでのように私が圭介の領域にずかずか踏み込んでいってもいいってことになるんだけど」
 たぶん、何も反省していないことがバレてる。実にまずい展開に入り込んでいた。さらに史恵は言う。
「圭介。ねえ、私のこと好きじゃないの? 私のこと、嫌い?」
「いや、好きだよ」
「じゃあ、どういうところが好き?」
「健康に気を使ってくれるところだとか」
「それだけ? お母さんみたいにしてもらうのが嬉しかったの?」
「それだけじゃないよ」
 そうは言ったものの、手詰まりだった。具体的に出てこない。おれは史恵のどういうところが好きだったのだろう。あまりに考えていなかった。個体のようでも液体のようでもない、霧状に漂うような好意。自分でもつかみどころがなくて、答えられない。史恵の追求が続く。
「うそ。言えないじゃない。私のこと、ただのお母さんだとか家政婦だとか、そういうふうにしか見ていなかったんじゃない」
 史恵の声は抑制されていて普段の大きさのままなのだが、その速さは違った。連射だった。つまり、かなり怒っている。だが、このまま泣き出されたくない。それはまるっきり本意じゃない。おれは史恵が好きだ。ただ、これまであまりに無条件に甘えてしまったがゆえ、その好きなところが言葉にならないだけなのだ。把握する必要性すら感じていなかったから。でも、何か言わねば。泣き出されたくない。伝えられるものを絞り出さねば。
「おれは史恵が好きだよ。これは間違いない。絶対だ。気を使ってくれることには感謝している。でも、それだけじゃない。もっと好きな気持ちがある。でも、どうしてなのか、言葉にならないんだ。どこが好きかなんてフォーカスしなくても、好きなら好きだけで通用すると思ってたから。浅はかだと思うだろうけど、ごめん、ほんとうにそうなんだ。でも、好きだよ。史恵と一緒にいると楽しいし、史恵はかわいいし。今、全力で言葉にできるのはこれだけ。すまないけど、今はこれだけで全力」
 このあと史恵がどう理解してくれるかわからないけど、おれはなんとかこれだけを言った。おれの低いレベルでは、これがすべて。気が付けば、胸がしくしくと切なかった。


* * * * * * *


こだまでしょうか、という詩がある。
思い出すたびに気持ちが柔らかくなる好い詩で、
ご存じの方も多いでしょう。

呼びかけると必ず返ってくるなんて、信頼みたいなものがとても強くなりそう。

こないだ、わたしの書いたことのこだまではないのだけれど、
あなたは書き募ってくれました。
弱々しいわたしの願いが、
実際に届いただなんて爪の先ほどわずかにも思いはしませんが、
その通りになってくれていた。

人間と言う存在の命は、必ず散る宿命にある。
考えたってしょうがない。
100年時代と言いますが、25年でも30年でも長いはずなのに短くて。

もっと生きたいと強く願いながら邁進していく姿は美しい。
だけど、1000年も2000年も生きるセコイアの樹のように、
ほんとうにそこまでまっすぐ生きたいのだ、と願う人物はどうしてなのか、
わたしにとってはとても醜い。

人間は人間のやり方で、
その平均的な寿命の内で、
精一杯充実できる仕掛けの存在なのだから、
どうしても運と不運とはあるとしても、
あまり文句を言いたくないのがわたしの性質なのだ。

凡庸な人生。そうかもしれない。
でも、そうだとしても、あなたやわたしは受精という、
数限りない同士との競争に勝ちきって生じた奇跡なのだし、
さらに大きな視野で考えれば、身体全体を構成している無数の原子は、
宇宙のあちこちで星たちが爆発したときに生まれたものだったりする。
とってもスペシャルだと思わない?
もうその存在だけでね。

このわたしの散文は、こだまとなるでしょうか。
存在だけで奇跡であるようなわたしたちが、
それ以上の奇跡を望むなんて、
罰当たり甚だしいのかもしれません。

それでも、そっと握りしめるように、わたしは願います。



* * * * * * *


 三日連続で淡雪さんは更新してくれていた。それもなんだか意味深長な更新だ。というより、これってプロメテウスさんの<Light my fire>を読んでの反応じゃないだろうか。おれが<Light my fire>を読み始めたのはたしか、たまたま覗いた淡雪さんのブログフォロー欄に載っていたからだ。見つけてからまだ半年も経っていないと思う。プロメテウスさんのブログフォロー欄のほうには淡雪さんの<溶解の砂場>があるのかどうか、あとで確認してみよう。
 でも、素敵だな、と思った。こんなふうに言葉を使えるなんておれには無理だから。大切なことをきちんと言葉にすることは難しい。たとえば、好きだ、という気持ちをもっと的確に表現するのがそうだ。
 プロメテウスさんへのリプライだとすれば、こんな返し方をしてくれる淡雪さんって、おれだったら尊い。凡庸な人生と書いていたプロメテウスさんだったが、淡雪さんはそれをスペシャルな存在に変えてしまった。
 人って、こうやってカバーしあう美しさがある。淡雪さんの記事がプロメテウスさんに届いているといいのになと思ったけど、それはでも、実際は些末なことなのかもしれない。自らは知らないとしても、見ている人はいるんだっていう事実の存在こそが大きいような気がした。それを信じることのほうが、大事なことのような気がした。
 そして、そんな二人の有り様を外から眺めていられるおれ自身の経験も、とても有難いもののように感じられた。

 おれも、淡雪さんのやり方のように、史恵を想うことができたらいいのに。おれにとってはまだまだそこはレベルの高いスタンスになるけど、だとしても目指さなかったら今のままで終わってしまって成長しない。今日、カフェで史恵と会って話をして、好きだという気持ちすら、おれはなんら具体的に考えていないことが痛いほどわかり、とてももどかしい気持ちになり自分の幼稚さに元気を失くした。自分の気持ちを、自分の言葉にできるくらいまで知ること。おれはまだまだだ。それは、成人した一般の大人としてもまだまだだということだ。
 史恵は、おれが力の限り絞り出して言ったことを、それでも言葉が全然足りなかったにせよ、受け止めてくれた。「一応わかったけど、まだよく考えてみて。そして私に話して」と、史恵の方が逆にお願いするように言ってくれた。おれはよく考えようと思う。ノートにペンで書いて整理してみようと思う。そうやって、自分の言葉を探っていこう。

 <Light my fire>を表示する。今日の更新はなかった。ブログフォロー欄を調べてみたけど、<溶解の砂場>は登録されていなかった。

 その後、五日間、<溶解の砂場>も<Light my fire>も更新はされていない。おれは史恵に、今日食べたものの報告やおやすみのあいさつなどのメッセージを毎日送りつつ、毎晩ノート書きに力を注いだ。自分とはどういう人間なのか、好きなものは何か、嫌なことはどういうことか、そして史恵をどう思っているか。考えながら書きだし、そしてまた考える。自分ってこういう人間だったのか、と客観的にイメージできるようになってきた。それは、他人から見た自分の姿というものが、いくらかわかってくるということでもあった。
 思ってたよりずぼらで、なのに神経質なところがあるのがわかった。他人と一緒にいるよりも、ひとりで過ごすほうが落ち着くのはわかっていたけど、その度合いはたぶん、友人知人たちのなかでもトップクラスにあるかもしれない、と思うようになった。
 自分がくっきりとしてくる。自分のことなのに、書くことで様々なものを見つけた。ブログやネットの記事を読むのは好きなのに、書くことってこれまでほとんどしてこなかった。おれも、淡雪さんやプロメテウスさんのように、ブログを始めてみてもいいのかも、とちょっとドキドキしながら、自分がブログを持つさまを想った。まあ別に、ブログじゃなくても、SNSでもよかった。これまでそういったサービスに触れてこなかったのだけど、周囲のみんながよくSNSを身近なものとして使いこなしているその何が面白いのか、文章を書くという行為についてだけは、おれにもわかってきたのかもしれない。


 六日目の朝、いつものルーティンではないけど、なんとなしにブログチェックをした。<Light my fire>が更新されていた。更新時刻は夜中の3時過ぎ。格闘したのだろうか。あの思索記事の続き。画面に迫って読む。


* * * * * * *


なんと、雪が溶けた。積雪ゼロになった。
急に暖かくなってびっくりした。これも気候変動の影響なのだろう。

さて。
「話をしたい」ということがテーマの話の続きをしたい。
さみしいがゆえというのとはちょっと違う、この「話をしたい」という衝動のようなものについて考え続けていると、自分を満たすにしても、与えるにしても、実は自己顕示欲から来ているものなのではないか、という疑いが生まれ出てきた。
つまり、自分のその小ささに耐えきれないから、話をしたいのではないだろうか、ということになる。
それはそれで、ひとつの答えかもしれないし、あるひとつの答えとしてはきっと合っている。

ただ、何かの物事や事象、人間心理にしても、その答えは無数の面から成り立っていて、たとえばその中でのふたつの面は、互いに矛盾すること同士なのに悪戯っぽく平然と隣り合っていたりすることがある。
だから、自己顕示欲というひとつの答えにとらわれ過ぎずに、少し切実に「話をしたい」ことのまた別の面をなしている答えを探ってみたい。

話すってなんだろう。内容がしっかりしていないと話してもつまらないから話さない、という人がいる。
合理的な人だろう。情報の伝達手段としての話すこと、という位置付けだ。これも一つの面だけど、僕の動機はこれには合致していない。

しっかり話すと今のままの関係が壊れてしまうかもしれないから、大事なことを隠したまま話す、という人もいる。例として片想いの人がそうだ。
これはどうやら僕の動機に近いだろう。

大事にしている内容を隠してまでなぜ話をするのだろう。
見つめ合うということに近いのかもしれない。
話したい相手は、ずっと見続けていたい相手なのだ。
その存在を感じていたい相手なのだ。

他にも、挨拶するという話し方がある。
あまり意味のない記号のような言葉を交わすだけで、その存在を確認し合い、お互いの応答を得ることで安心を得る効果があるように考えられる。

まだまだ「話をしたい」にはいろいろな面があるだろうけど、ここらで僕の動機を再考したい。
情報をもらい、与え、その相手の存在を愛で、不安を消しあう。
全部かき混ぜて考えると、つまるところなんとも情報量の多い創造的な行為に見えてきやしないだろうか。
話をすることって、ぐるんぐるん弧を描いて上昇していくかけ算みたいな創造的行為だと言えるのではないか。
かけ算どころか、平方かもしれない。

自分では気づいていなかったけど、僕の「話をしたい」動機はどうやらそこにありそうだ。意識の底にある、シンプルに、創りたい、という衝動。

創造。

クリエイション。

これじゃないか。


思いがけず、おもしろい答えが出た。
話をしたい、イコール、創りたい。

ずっと忘れないでいたい答えが生み出せると嬉しいものだ。

ネットに綴っているのだから当然だけど、読んだくださった方にこの考察を共有します。
役立つならば、嬉しいです。



* * * * * * *


 プロメテウスさんは見事、自分なりの答えを見つけ出したようだ。おれもなんだかうれしくなった。淡雪さんの願いが通じた。
 それにしても、「話をしたい」ことの源が創造の欲求にあるなんて、独特といえるような答えだ。
 きっと淡雪さんはこの後、この記事への反応としての記事を書くだろう。なんていうか、俺にとってこの二人は、天空の織姫や彦星のようだ。手の届かない天空世界に住む人々のうちの二人だという感覚がする。おれの手の届かない天空の高く高くあるようなところで、繊細な想いを投げあったりしている。実際は天空でというより、サイバー空間の片隅でということなんだけど、それだと風情がない。
 おれも、そういう人になってみたくて、近々ブログを作成することに決めた。SNSでもいいのかな、と考えていたけど、やっぱりブログのほうがしっくりくる気がする。
 ブログ愛。いつしかおれにはそう呼ぶべきものが宿っていた。そうか、これが愛ならば、史恵のことを好きだという気持ちも、同じ気持ちの持ち方で「愛だ」ときちんと言えるくらいはっきり掴みとれるのではないか。

 これからバイトに行く。帰ったらまたブログをチェックしよう。淡雪さんが更新しているかもしれない。
 おれは史恵にもこの二つのブログを教えようと思う。そして、おれがこれから始めるブログをうまく更新し続けられるようなら、いつか史恵にも読んでもらいたく思っている。天空の住人としてのもう一つのおれの姿が、そこにできあがっていることを願う。


 地下鉄の駅へと歩く。よかったな、プロメテウスさん。
 おれもまた、歩き出す。創造したいのは、プロメテウスさんだけじゃないのだから。


* * * * * * *


「もたらされた灯」

その灯は、ついにもたらされた。
うずくまってばかりの世界に打ち立てられた道標。

降りしきる暗黒の粒子たちの勢いは、
止まるところを知らぬままでありはする。
だとしても、照らすものがもたらされた。
寄る辺ない世界に打ち込まれた小さなくさび。

わたしの輪郭すら認めさせない暗黒の、
知恵を遠ざける魔術が消え去ることはけして無い。
であろうとも、言葉である灯はもたらされた。
幻惑の世界を薙ぎ払う鍛えられた一本の剣。

闇が包んだ喧噪の、粘つく死の眠りの息よりも、
中心の眩いばかりの静寂の声は、低く、低く、頼もしい。
灯によって、わたしは見える。
言葉によって、わたしは見える。
その眩さに誘われた涙が、丸く弾けて、語りを始めるのが。



* * * * * * *

(了)


Comment
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『コンプレックス』

2023-03-22 18:20:45 | 読書。
読書。
『コンプレックス』 河合隼雄
を読んだ。

1971年発刊の名著。ユング派に属する心理療法者・河合隼雄さんによるコンプレックスに対する解説。

はじめにはっきり申しますが、すごい本です。中身が濃く、圧倒されもするのですが、なかなかこれだけの本には巡り合うことはありません。読みだしこそ、「怖い」と思いました。「こうなったら異常!」というトラップ的なテストが張り巡らされているような気がしてです。でも、そんな低い次元での話ではなく、もっと底の方からえぐるように未知のもの(それは人間心理のこと)を考察したものを、こちらも同じ目線でくらいつき、かみ砕いて知るべく読み進めるような読書になりました。

序盤ではこういった例が紹介されていました。父親がよく棒きれで自分を打ったこと、父親がわけもなく自分を打った後で、急に親切にするので戸惑ったことなどを語った言語連想テストの被験者がでも、「父親が死ねばいいとなどとは、決して思ったことはない」というのです。でも、テストの結果からは憎しみや恨みを抱いていることがわかる。

コンプレックスっていうのは、言動や行動がスムーズに行えなくなるその原因の心理複合体という意味だそうです。僕は単純に劣等感のことかと思っていたのだけれど違いました。それは数あるコンプレックスのなかの一つの種類である劣等感コンプレックスに過ぎないのでした。言語連想では、連想につまづいたり、予期せぬ深い連想が出てきたりしたとき、これを「主体性を損なっている」と見るのでした。主体性だけがあればすいすいすらすらとできることが、心理複合体によって主体性が阻害されて、時間がかかったりできなくなったりする。対人恐怖などで頭が真っ白になるなんていうのも、主体性が阻害されていることという理解になる。こういうところだけを読むと、怖くなりますよね。それにたぶん僕はこういうのをすごく抱えているので、なおそういう気持ちになります。

本書には精神分析や心理療法の分野は広大だということを痛感させられます。というか、人間の精神面がものっすごい広くて深いからこの本もこれほどまでにびりびりとひりつくような内容になっているのでしょう。著者が語るところは氷山の一角。でも、海面下の氷山本体とでもいえるそのばかでかさを示唆する語りですから、読んでいると神経がまいってくる。

論説本を読むことは、海面上の氷山を知りつつ、まだ見ぬ海面下にも意識を向かわせるのが一般的だと経験上思うのだけれど、その海面下のものは海面と同等か、これから成長していくだろう大きさかだったりするものが多いように思います。本書のようにもうすでにこんなに本体のばかでかい状態なものなんてなかなかないんです。本書はそこに挑む。視覚的にも聴覚的にも触覚的にも触れられない、モノ(人間の心理)の輪郭とその中身をとらえようと試みていく。そしてその読むことによる探求は、読者自身や読者の知人友人などの内部深くにまでいたり、結果として読者は、消耗のみならず打撃や刃先によるような傷までも負いかねないことになる(まあ、身構えは必要ということです、不用意でなければちゃんと読めます)。

自我でコンプレックスを受け入れていくことで自我は強く成長していくといいます。そして、その過程であるコンプレックスと自我との「対決」は命を落としかねないほどの戦いでありとても大変なのだとあります。僕は、本書を読むことでも、それにちょっとだけ近い体験をすることになると言いたい、少なくとも僕はそういう体験をしました。また、こういう達人(著者)って漫画とかじゃなくて実際にいるんだなあ、と居住まいを正したい気持ちになりました。大げさかもしれないですが、完成された宮本武蔵の本気の果し合いを観た、みたいな凄みが本書にはあります。ほんとうに濃い本なのです。

感情だとか、人間心理って魔物みたいなところがあります。無視したり抑えたりしていると強大になっていき、それが自我を脅かしていくことになっていく。コンプレックスが酷くなると、極めつけのひとつとして二重人格がでてくるともありました。ドッペルゲンガーなんていうものもコンプレックス由来の現象だと説明されています。

これ、たぶん、二重人格やドッペルゲンガーじゃなくても、二面性が強い人、なにかにつけすぐに我を忘れてしまい別人格的になってしまう人も、コンプレックスが強大に育ってしまったためなのだと思えます。自分と向かいあわないと、コンプレックスはどんどん強くなるみたいです。かといって、それなりに自我が強く成長している段階じゃないと、強いコンプレックスに向かい合ってそれを克服はできない。自我が育つまで待つ手段として僕が考えるのは、自分を責めず内容だけ吟味する「さらっとした反省」の仕方がベターじゃないだろうかということ。

とくに若い時分なんて反省という行為に感情が繋がっていて、また反省するごとにさらに後悔までをも呼び寄せてしまい、メンタルが持たなくなる人もいると思います。そういう人は、耐えうるくらいまで自我が育つまで、なんとかやり過ごすような「さらっとした反省」をやるといいのではないでしょうか。『スター・ウォーズ』に喩えれば、オビワン・ケノービのように、ジェダイが劣勢になってからは身を隠し、ルークを見守るというように、時が来るのを待つ姿勢でいるといいでしょう。でも、気を抜かずに。休息は別としてだけれど。

と、ここまで書いてきましたが、書いてあることを要約しようにも、書かれてある中身の枝葉ですらどれにも深い意味があって、なかなか端折れる部分がわからなくなります。幹も大事だけれども、枝葉に実践的な理解が望めるところがあり、こうやってまとめるように感想を書くのは僕にはちょっと難しいです。

最後、三点ほど、メモのように記して終わりにします。

その1。コンプレックスを抱えた者同士では、無意識の内にそのコンプレックスを感じ合って、お互いに感情が乱れたりする。これはいっしょに住む家族間など、距離の近さが引き金になっているようです。

その2。下に引用になりますが、「この人、ずいぶん、がんばるけれど、苦しんでいるな」というタイプの人に当てはまると思います。
_________

コンプレックスと同一化するとき(つまり、自我の力が弱いとき)、その人の勢は強い。それに、元型的な要素が背景において作用すると、その強さは当たるべからざる勢となって、偽の英雄ができあがる。換言すれば、これは自我の弱さのために、英雄的行為をとらされているにすぎない。(p211)
_________

その3。私たちはふだん、どのようにコンプレックスをまぎらしているか。他人に自分のコンプレックスを投影したり転嫁したりして、責め立てたりする。または、ノイローゼになるなど、があります。

以上です。これまで河合隼雄さんやユング、フロイトに興味がおありで、すこし齧ったことがある方へならば、つよくお薦めしたい本でした。そうではないなあという方にもモチベーションが強めならば、ぜひに。

はーっ、読んでよかったー。


Comment
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

父性と母性から始まる思索。

2023-03-21 18:43:13 | 考えの切れ端
大人になれば、父性も母性も自分の中にあるようになる。言うことを聞くなら愛するという条件付きで愛する父性、無条件で愛する母性。どちらも丁度良くそこにあれば、人の成長を促し助けます。

大人になっても母性を求めるなら幼少期に足りなかったのだろうし、父性を求めるならそれも足りなかったりいびつだったりしたのです。母性が足りなくても父性が足りなくても優劣はつけるものではないし、自らの中に母性・父性がちゃんとあってもマウント条件ではありません。必要であればなんとかしたらよいだけなのではないでしょうか。

そこに優越や、優劣の差をつける見方は、社会構造や文化状況の影響で生まれるんだと思います。つまり、「ところ変われば品変わる」の言葉通りのようなもの。普遍的なものじゃないんです。

生活していて、家族にしても外部からにしても、無条件に父性を強いられたりすることがあるのですが、およそそういったときは、思い込みと決めつけが「てこの原理」のように働いていたりするなあと感じます。父性は強くなければいけない、だとか、自分の信じる秩序にたいして保守的になるタイプの人がいる。それはそれで、安定が手に入ったりなど良い面があるでしょう。でも、「ふたつ良いことさてないものよ」で、その反面、偏見や差別といったものは、堅牢な秩序に沿わないことで生まれたりするのではないでしょうか。僕は後者のほうこそ気がかりなタイプなので、受け付けないんです。

受け付けない、といえば、「力」や「暴力」もそう。これまで、過度な「力」や「暴力」はないほうが良いという立場で生きてきました。でも、河合隼雄さんの『コンプレックス』を読むと、コンプレックスの解消には、そういった過度な「力」や「暴力」の範囲内におさまるような力が「爆発」の形を取って必要になるらしいことがわかる。では、「力」を行使しなくてもいいように、そもそもコンプレックスを持たないようにするといい、と考えてみても、コンプレックスをもたない状態はありえない。解消しきれるものでもないだろうし、それ以前にコンプレックスは自我のエネルギーでもあるのでした。また、ちょっとまどろっこしいですけども、コンプレックス解消によってコンプレックスを自我に取り込めると自我が強くなりもします。

考えちゃいますね。過度な「力」や「暴力」なんてものは、自己コントロールの範囲外だからそういった形になるのだけれども、それらを抑えつけたり生じないように心掛けたりすることって、実は理に反するのかもしれない。そう考えると、「力に抗えないというこのことが人間の業の大きな一つということか」だとか、なんだか原罪的なイメージを持ってしまう。

結局、人間って未完成でアンバランスな存在で。でも、思ったよりうまくやるし、優しかったりもするし。そういうものなんでしょうね。権力といった「力」、「暴力」を全否定するのは、偏った完璧主義なのかもしれません。難しいものです。
Comment
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『さくら』

2023-03-18 00:38:38 | 読書。
読書。
『さくら』 西加奈子
を読んだ。

西加奈子さんの作品は直木賞受賞作の『サラバ!』の印象が強いのです。『さくら』とは順序が逆ですが、本作の作風はその『サラバ!』に近いと感じました。家族の物語なのもいっしょです。

子ども時代だとか、まだ言語化がうまくないじゃないですか。その頃の空気感や感じたこと、そして出来事なんかは、たとえされても淡い言語化くらいで済んでしまって、それから日々を過ごしていくうちに記憶の果てへと少しずつ退場していくもの。本作品を読んでて思うのは、西加奈子さんという作家はそういった、言語化が淡いまま過ぎ去っていったあれこれを眼前によみがえらせながらその時期の感性を損なわない形で柔らかくなんだけどある程度しっかり再言語化して軟弱な意識の基盤みたいなものの強度をあげてくれるかのようだということ。

自分自身の物語じゃないのに、読者は西さんの作品を読むことで、自分の内深くに眠っている、過去に淡く言語化したのちに心の押し入れの奥深くで忘れ去られたような記憶を「再定義」とまで堅苦しくはないけれど、その質感をありありと「再体験」できて意識の地盤が豊かに戻る経験ができる感じがする。言語化がうまくなかった稚拙な頃は、でも感性では受け取っていたあれやこれやの豊かさの土壌を踏みしめて生きていた頃でもあって、西加奈子さんの作品は、その生命力みたいなものを復活させて、言語に長けるようになった大人の自分とをつなぐみたいな力があるなあと思いました。

以下、ネタバレあり。



フェラーリとあだ名された、近所の公園にいつもいる精神障害があるふうな人物を、子どもの頃に主人公と兄はバカにしていて、のちに兄は自分がフェラーリと同じように差別される人間になったことを悟る。そして、そのあと時を経ずして兄がギブアップしてしまう原因をつくったのが、兄を愛してしまった美しい妹・ミキ。彼女は、兄と離ればなれになった兄の恋人から届く数多の手紙を隠し続け、仲を引き裂いていた。こういうところの、稚拙な頃に犯してしまう罪のどうしようもなさの描き方が僕にとっていちばんの物語の深みであり、刃先のようにぐっとささってくるところでした。

ラストはちょっとどたばたしていて、そのどたばたの仕方があまり好みではなかったのですけれども、それでも、出だしからずっと生命力が湧きで続けるかのような、心のどこかを良い意味で共振させられる作品でした。ストーリー展開のおもしろさもあるのですが、それよりも豊かな感性による語り方とでも言った方がよいものがこの物語の強みのような気がします。

他にも西加奈子さんの作られた小説はいっぱいありますから、またちょっと間をあけてから手に取りたいです。

Comment
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『入門 組織開発』

2023-03-14 19:01:29 | 読書。
読書。
『入門 組織開発』 中村和彦
を読んだ。

組織には二つの側面がある。ハードな側面とソフトな側面がそれ。ハードな側面は部門・部署、制度・規律、職務内容と手順などの明文化されたもの。一方、ソフトな側面は、意識・モチベーション、コミュニケーション、信頼関係・影響関係など可視化されていない心理的側面。

ハードな側面のほうはバブル崩壊後に大規模な変革が行われて今に至るそう。一方、ソフトな側面のほうは軽視している経営者が多いのではないか、とある。でも、このソフトな側面は重要なのです、というのが本書の出だしなのでした。

組織開発とは、大きく、このハード面とソフト面を変革して、より合理的に利益を得ていけるようにすることと、働く人たちがより無駄なストレスなく活き活きと働くことができるようにすることを推し進めていくものです。

組織開発はアメリカで1950年代終盤に生まれた概念で、1960年代には日本にも入ってきています。ただ、日本では人事異動の際に組織開発に携わっていた人たちが、うまく次の担当者へと引き継ぎができない構造になっていて、そのノウハウは早くも70年代には失われていったそうです。しかしながら、近年再注目されてきていて、本家アメリカでは70年間の歴史の中で受け継がれ発展してきた分野でありますから、アメリカに学ぶ形でまた日本も再導入しようという先駆けのひとりなのが、著者なのでした。著者はアメリカでプログラムを受けており、その知見をこうしてもたらしてくれているのです。

マネジメント観には「X理論」と「Y理論」と呼ばれるものがあるといいます。「X理論」を持つマネージャーは、人は生まれつき仕事が嫌いで、したがって人には監督と命令が必要とします。そして、目標に達成しない場合は罰則を与えるべきだとします。一方、「Y理論」を持つマネージャーは、人は自ら実現したい目標のために自己統制を発揮し、個人と企業の目標が一致すれば、人は自発的に自分の能力を高め、創意工夫をし、自発的に行動すると考えます。

「X理論」のマネージャーは指示命令的で、その結果、部下は受動的になりやすくなります。「Y理論」のマネージャーは部下に適切な目標と責任を与え、部下の力を引き出すような関わりをし、その結果、部下は主体的になっていきます。

著者は、現代日本が抱える問題として、本書刊行当時(2015年)に50代以上の上司が上意下達で育ってきた人たちであるため、「X理論」の考え方を持つ人が多いことを挙げています。現在の現場の社員などは、主体的に考えて動くことが必要とされているのに、上司は自らの「X理論」に基づいてふるまうことで、若い社員の主体性が育むことを阻んでいることを指摘しているのでした。

どんなチームや職場、組織を作っていきたいかといったことには、経営層や上司のマネジメント観が密接に関係してきますから、若い社員の成長や働きがいなどのためには、上層部の意識の変化が必須ということになります。

昨今さまざまな本が出ている「コーチング」や「ファシリテーション」といった手法にしてみても、組織を活発にするものなのは間違いないものだとしたって、その手法を行使する者のマネジメント観が「X理論」であるならば、あまり意味をなさなくなるというようなことも書いてありましたし、なるほどそうなるだろうな、と納得がいきました。

「コンテント」と「プロセス」という言葉が出てきます。「コンテント」とは、WHATの側面で、つまりは何が話されていて、何が取り組まれているかという、話題・課題・仕事の内容的な側面になります。一方、「プロセス」はHOWの側面で、関係的過程、つまり「いま、どのような気持ちか」「どのように参加しているか」「どのようにコミュニケーションがなされているか」「どのように課題や仕事が進められているか」「どのように決められているか」「お互いの間にどのような影響があるか」といったところを見ていきます。「プロセス」は人間関係的な部分に踏み込む視点だと言えると思います。だからこそ、企業の風土や現場の空気のマイナス面に光を当てることができ、言語化し意識化を進めることでそれまでマイナスだったところをゼロに戻す努力をしていくことができるようになる。

他方、ゼロからプラスに転じていく手法もあります。AI(アプリシェイティブ・インクワイアリー:真価の探求)がそれにあたるもので、組織や個人の潜在力・強みに着目し、それらがさらに発揮される未来を描いてアプローチしていく、という道筋をたどります。

他にもさまざまな手法を、紙幅の関係かとは思いますが、その骨子とでもいうべきところを手短に説明していくような体裁で、組織開発というジャンルに触れられる仕組みになっています。これって、職場のハラスメントを無くすための根本的アプローチになっているので、経営層のみならず人事担当者などもまずこれらを知っておき、それから自分の内にインストールするかのようになじませていくと、その企業・会社の発展ひいては社員や職員の活気やパフォーマンス向上に繋がっていくのだと思います。そしてそれらを経て、企業イメージ向上があとからついてくるものだと思われます。

最後に、「マネジアル・グリッド」という言葉と考え方を付記します。グリッドというくらいですから座標でその職場環境の様子をあらわします。「1.9型 社交クラブ型(人や関係性を重視する)」「9.1型 専制型(業績最優先で人の関係性は考えない)」「1.1型 伝達型/消極型(業績も人との関係も最低限)」「5.5型 妥協・中間型(業績と人との関係の両立は無理なので両者のバランスをとるあり方)」。また、「9.9型 理想型(業績と人の両立。組織目標と個人目標の統合)」という本当にかつては理想とされたタイプがあるのですが、まず組織開発で組織のソフトな側面を改革していくことによって、達成が見えてくるものだと思われます。本書でも、この理想型を目指すことの大切さが説かれています。

というところですが、たとえば実践してみたとすると、非協力的な従業員などが絶対にでてきますよね。目に浮かびますからねえ。でもそこに負けずに、ぐいぐいと、働きやすくて働きがいのある職場にするために、この組織開発、それもソフトな側面についての開発は、どこの組織や会社でもやっていってほしいなあと願うところなのでした。


Comment
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『ソクラテスと朝食を 日常生活を哲学する』

2023-03-09 21:40:05 | 読書。
読書。
『ソクラテスと朝食を 日常生活を哲学する』 ロバート・ロウランド・スミス 鈴木晶 訳
を読んだ。

朝起きて、身支度をして通勤し仕事をして昼食を食べてサボって……などという一日の起床から就寝までを18の章に分けて日常レベルの哲学をする本。その都度さまざまな学者を引用しますが、堅苦しさはありません。ちょっと難しいところはありますが、それでも平易な言葉遣いと分かりやすい論理で展開していくエッセイです。

ただ今回は第2章の身支度の章でひっかかってしまうところがありました。朝、完璧に身支度しておく、また、前もってしておく、だとかは、自由度を下げるからよくない、と説いているのです。自由がないということは、悪くなる自由がないことでもあるけれども、良くなる自由もないということだから、と。でも、僕はおかしいと首を傾げたのです。朝の身支度って、自由云々よりもマストじゃないか、と。忘れ物をしないようにするのは、前もってやろうが出立の時間前にやろうが、同じことをやるのだから前もってやったほうがいいものではないだろうか。そこに自由度などない。問うべきは、システム。自由度のないシステムに組み込まれているからこそ、身支度をいつどのくらいするかで自由度が変わるのではなく、身支度を包み込んでいる生活のシステム自体に自由度を下げないなにかが必要なのではないのだろうか。

と、序盤でこうなったので、少しばかり懐疑の目でもって読み進めていくことになってしまいました。ですが、それぞれの章でよくぞここまでの切り口で力強く分析しかつ哲学するなあと感心する場面が多く、繰るページが増えていくのに順じて「こりゃ、やるもんだなあ」と讃えたくなってくる。一度疑い始めた読書は苦しいものになりがちですが、著者の仕事ぶりの良さが、どんどんとある種の僕個人の信用のようなものを勝ち得ていってくれました。

さて。「これは!」と唸りながらメモったのは、第13章のテレビを見る時間についてのところです。
_________

「また、テレビ画面のなかの人びとから反撃されることも、野次を浴びせられることもなく、自分の意見にだれも反対しないという自己満足に浸ることができる。(中略)テレビではそれが許される、いやむしろ奨励される。」(p207ー208)
_________

お客様は神様です的な部分です。テレビを見る習慣が人々に気づかれずにすうっと人間の意識の裏に影響を与えるとすると、そのひとつがこの、いくらいちゃもんをつけようが反論はされないので自己満足に浸れる、というところなのではないでしょうか。クレーマーとかモンスターとかが生まれる背景の一部にはこういったことが関係してるのかもしれなくはないでしょうか。まあそれでも、意見を主張できるようになるという良いきっかけを作るところはあると思います。意見を持ち、発するということの初期段階での助けになってそうではないですか。それが、馴れてしまって、そこに自己満足になることへの「ためらい」と意見そのものの確かさに対する「ためらい」が薄れることに、問題が生起し、良い部分と表裏一体のものとしてでてくるのではないか。どこまで自由にモノを言っていいのか。そういうところって、クレーマー的なふるまいのみならず、愚痴とかもそうであって難しいですね。どれも、悪いところと良いところが表裏一体で、文脈などによってどちらが前面に出てくるかが変わってきます。

次に印象的なのが、第14章の「夕食を作って食べる」に書かれている、オルトラン(ホオジロの一種)という鳥の料理と調理、そして食べ方にいたるまでの方法があまりに残酷でびっくりでした。スズメほどの大きさのオルトランを生け捕りにするとまず両目を潰し、窓の無い箱に閉じ込めイチジクのみを食べさせ、四倍にまで無理やり太らせたら、ブランデーの中に生きたまま入れて溺死させる。それから羽根をむしってローストして出来上がりなのだけれど、食べ方もまたすごい。頭だけはかじりとって、あとは肉も内臓も骨をむしゃしゃ食べるのだそう。これがあまりに残酷なので、食べる者はナプキンを頭からかぶり、他人の目から、そして神の目からもその行為を隠すのだと。ちなみに、元フランス大統領のミッテランが最後の晩餐に食べたのが、この料理だと書いてありました。美食にしてもなんにしても、それが「道」となって追求されていくと、その「道」の純粋性が増していきます。「道」の純粋性さえよければ他は構うものか、となるのかもしれない。このオルトランの逸話からそう感じたのでした(たとえば戦争にしたって同じようなところがありますよね)。

その他、膝を打った代表的なところは、愛されることと憎まれることはともに、対象から深い関心を得るというところでは一緒とのところ。そして、
__________

もし友情にたったひとつの定義しか許されないとしたら、それはアリストテレスが述べている定義になるだろう。すなわち、友情においてはけっして相手より上に立たない、というものだ。(p232)
__________

などでした。

こういう種類の本は、頭のウォーキングになるというか、ちょっとした頭の運動、体操になる本という感があります。それだけではなく、しっかりと残っていくものもあり、上っ面だけの本ではありませんでした。著者はフリーの経営コンサルタントで、なおかつジャック・デリダに「俊逸!」と言わせたそうです。鍛えられた、良き頭脳による哲学の一般書なのでした。


Comment
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

憎まれる意味。

2023-03-06 21:28:04 | 考えの切れ端
自分が誰からも関心を持たれていない状態、つまり無関心にさらされた状態は、人間にとってそうとう危機的なものらしく、無関心にさらされていることを脳が察知すると被害妄想を作り上げるという話があります。そうまでして、無関心から逃れないといけないのです。(これは、イギリス在住のアメリカ人カウンセラーが書いたエッセイにでてきた話です)

この、「無関心にさらされることは人にとってかなりヤバい状況」を踏まえながらなんですが、愛と憎しみは表裏一体なんてよく言われますよね、なぜかというと愛も憎しみもその人に深い関心を持つという点が一緒だからという理解の仕方がひとつあります。

憎まれる人はどうしてそうなるのか。人にどうしても愛され得ないと感じた人が、自分の性格の中での「他者からの憎しみを買いやすいであろう部分」を強調していって、憎まれっ子的な人物になっていく、なぜなら関心を持たれたいから。というのはあるのではないでしょうか。無関心でいられるよりマシ、と。

脳が「無関心にさらされていてとてもヤバい状況」ととらえて被害妄想を作り上げるまでの前段階での予防策が、愛されるか憎まれるかという状況を作ること。それで、おそらく憎まれるほうが素早く達成できる種類のものだから、それを無意識的に選ぶ、なんていう心理があるかもしれない。理屈ではそうだし、誰彼と思い浮かぶところもあります、個人的に。

とにかく、人間って自分に関心をもって欲しいのです。じゃないと病的になってしまうから。承認欲求だって似たようなものだと思います。関心を持ってほしい、という欲求ということですよね。ということは、その承認欲求の程度によっては、それを跳ね除けることって非ケア的であり、いじめや排除であるかもしれない。

そりゃ、なんでもかんでもこっちを見て見て君だとか、肥大した承認欲求だとか、そういうのはこれまで書いたこととは他になんらかの心理的原因があると思います。それはそれで別のケアが要る。そうじゃないならば、お互いに承認し合って、お互いの盲点的危機を浄化させるのが個人としても社会としても健全でしょう。

あいさつしてあいさつを返すだとか、とくに内容の無い会話であっても言葉を交わし合うだとか、考えてみるとこれらは無関心状態の危機を招かないための手段として機能しているものなのではないのかしらん。

というところで、最後に引用を。

「話の内容というのはさして大切なものではないんです。大切なのは、信頼をもって話し、共感を抱いてそれを聞く、そこにあるんですよ」 カポーティ『草の竪琴』(ただ、まあ、『草の竪琴』には「人は、誰かが自分のことを気にかけていると思うと、怯えてしまうものじゃなくて?」というセリフもあるのですが。)
Comment
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする