Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

『モネのあしあと』

2023-01-21 20:10:32 | 読書。
読書。
『モネのあしあと』 原田マハ
を読んだ。

印象派の画家・モネやゴッホをテーマにしたアート小説の評価が高い原田マハさんによるモネ解説本。

印象派が生まれたその時代についての説明や、印象派の画風に影響を与えた日本の浮世絵の存在についての解説などからはじまり、画家・モネのたどった足跡と、現代の私たちがモネをたずねる観光のその行程の提案、著者によるモネを描いた小説『ジヴェルニーの食卓』をどう書いたかの概説などで構成されています。モノクロながらも図版が多数掲載されており、たとえばひとつの絵についてのトピックがでてきたときには、すぐにページを繰って参照可能なつくりになっているが親切でした。

繊細で穏やかな感覚をもつ絵を描いている画家であっても、従来の古風なアカデミーに与するような軟派な人ではなかったようです。だからこそ、印象派というそれまでからすると異端な画風の絵を描いているわけで。というか、印象派のような絵を描いているから、きっとおとなしそうだとか、たぶん自己主張が弱そうだとかと考えるのはステレオタイプなんですよね。

原田マハさんは言います、
__________

モネの作品は美しく、取り込まれるような魅力に満ちています。しかしその背景には、血のにじむような思いや、血反吐を吐くような経験が潜んでいます。
(p117)
__________

実際にどうかはわからないですが、モネは自分の内面をできるだけ制御していて、自分のなかにある苦しみによって他人に当たり散らしたりはあまりしなかった人なのではないのでしょうか。作品には悲しみや苦しみの痕跡を残さない人で、人知れず、なんとか乗り越えつつ絵を描いていたようなのです。また、パリを離れて郊外で暮らしていたモネは、よく屋外に出て自然のなかで風景をキャンバスに写し取るタイプの画家でしたから、自然のなかにいることでストレスが軽減したり脳がプラスの方向へ活性化したり、健康に良かったのかもしれません。長生きでしたし(でも、白内障を患います)。

晩年、ジヴェルニーにて家と庭を買い、そこで造園を続けながら睡蓮の絵を何枚も何枚も描き残したのは有名な話ですが、このジヴェルニーの邸宅はモネの死後、廃屋になっていたものを80年代に再建し、いまや観光地になっています(僕はテレビ番組でみたことがあります)。著者はここを訪れ、キッチンでいろいろな妄想をしつつそれをストックして帰り、モネの小説の執筆に活かしたそうです。

というところですが、モネの絵が好きだけど画家についてはよくしらない初心者という人から、モネが大好きで誰かとこの気持ちを共有しながら話をしてみたい、という方まで、幅広く対応している、本書はいわば「モネ・ファンブック」です。品が好く和気あいあいに交際できる世間を隔てたような秘密のサロンのなかで、一時、話を聞いているかのような、安穏に包まれた幸福感があります。その安穏さは、まるでモネの絵筆が作り上げた柔らかな陽光を、実際に浴びるようなのかもしれません。

いうなれば、おそらく、モネ好きの方々が世間を忘れて、ほっこりとする時間を過ごせる本、なのでした。


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『美しい星』

2023-01-20 00:22:30 | 読書。
読書。
『美しい星』 三島由紀夫
を読んだ。

三島由紀夫が37歳の時に書き上げたSF的純文学作品。近年、現代版にアレンジされて映画化されてもいます。

東西冷戦の60年代。ソ連による大気圏での核実験で放射性物質が日本にも舞い降りる時代。自分たち家族4人が自分たちの本来の属性は宇宙人だと気が付くのでした。父・大杉重一郎は火星人、母・伊代子は木星人、長男・一雄は水星人、長女・曉子は金星人。それぞれ、空飛ぶ円盤を見ることで覚醒するのです。重一郎はこの核の脅威によって人類が滅びてしまうことを、宇宙人として救おうとし、ソ連の書記長・フルシチョフに宛てた手紙を送付するなどの行動を起こし始めます。中盤からは、重一郎たちと対立する三人の、これまた空飛ぶ円盤との邂逅によって自分たちが宇宙人であることに目覚めた(あるいは思いだした)のですが、彼らの登場によって、一気に思想色が濃くなります。

泰然としてつよく自信をもっている書きっぷりのように感じました。そして出だしからとても「シュール」なのでした。まるで漫画家・和田ラヂヲ先生が繰り広げる世界のようです。茶化すことも、ふざけることも、笑いを取ることもなく、一家の奇妙な精神性がそのままに反映された日常が描かれます。そういった「シュール」な表現というかあり方があまりに巧み(というか、迷いのなさがあって)ですごいんです、ナンセンスな「シュール」さが大好物の僕にとってはたまらない快感を得るくらいに。とても心地の良い笑いが生じてくる。

なんというか、もはや「天然」の領域に立っているのかというくらいの出来映えなのです。三島由紀夫って、鋭さと繊細さと力強さを兼ね備えた才能だけじゃなくて「天然」も色濃く持ち合わせていて、両方が分かちがたく結びついている作家なのではないか、という考えが浮かんでくるほどなのでした。

「シュール」さでいえば、でも、とくに後半にはいってから、「真剣」さがど真ん中に打ち出されてきます。思想や哲学の部分でです。そこがこの作品の二面性になっているかといえば実はそうでもないとも言えて、大体、「シュール」な感覚というものは、「真剣」に「ナンセンス」をやることだったりするだろうものなので、やはり、両者は地続きなのだろうと思えもするのでした。

全10章のなかで、第9章の読みごたえに特に満足と興奮をおぼえました。主人公側は人類を救おうとし、悪役側は滅ぼすことこそが救いだとする。その対決の場面です。この作品はわかりやすい悪役の三人が出てきたところでこれまたわかりやすく対立が生まれたのだけれど、その対立と衝突の肉付けが最高なんです。この論争の部分は作者・三島由紀夫が血みどろになりながら、自分同士で戦っている場面なのかもしれません。重一郎と羽黒という対立する二人が論争していきますが、この論争劇って作者としては弁証法的に厚みを重ねていったのではないでしょうか。登場人物の二人が協力する場面はないのだけれど、弁証法的に得た知見を二人に割りふって論争のシーンとして作り上げた、というように僕には考えられるのでした。

部分部分では文章が冴えていますし、ストーリーのほうでは余分なたるみもないように読み受けました。くわえて構成も話の深みも、ラストの落とし方も、意気盛んかつ手練れである作家だからこそ作り上げることができたものなのだと思います。

当代一流の才能の熱と光にあふれています。毒気として受け止めるか、学びとして糧とするか、はたまた触発されるものとするか。読み手によって感じ方は異なるでしょうけれども、かなりの強い力を宿した佳作なのではないでしょうか。また別の三島作品に触れたくなりました。

最後に引用を。
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人間の政治、いつも未来を女の太腿のように猥褻にちらつかせ、夢や希望や『よりよいもの』への餌を、馬の鼻面に人参をぶらさげるやり方でぶらさげておき、未来の暗黒へ向って鞭打ちながら、自分は現在の薄明の中に止まろうとするあの政治、……あれをしばらく陶酔のうちに静止させなくてはならん。(p287)
__________

慧眼ですよね。いつの時代も政治ってこうなんだなあ、と気づかされます。

また、引用はしませんが、p290では人間の中の虚無についてのとらえ方がすばらしい。人間の中の虚無こそが、支配を逃れる希望というコペルニクス的転回で論じてくるのです。電車のなかでふと虚空を眺める人などの、その瞬間は社会的支配を逃れているわけで、そこに突破口を見出しているなんて、すごい眼力をしていますよね。


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『これを知らずに働けますか?』

2023-01-12 13:56:02 | 読書。
読書。
『これを知らずに働けますか?』 竹信三恵子
を読んだ。

元新聞記者で大学教授の著者が、労働関連に対する学生からの質問をもとにした30の疑問に答える本。ちくまプリマー新書ですから中高生や大学生らバイトをしていたりこれから社会に出ていくことになる人たちが主だって想定されている読者ですが、若い働き手や非正規就業の中高年の人たちまで、労働問題に詳しい知り合いを得たかのように知見を得られる内容になっています。

根拠のない希望的観測のようなものはまったくありません。労働法などの理想通りにはコトが運んでいない労働の現実の姿から現況をあぶりだし、それにどう対処するかの方法を提示してくれています。
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「労働法などを知ってしまうと、現実との落差に暗い気持ちになる」「知るのがコワイ」という言葉を、若い人から聞くことがありますが、知っていることは力です。(p218)
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それだけ現実の社会は、法律違反や法律の目をかいくぐるような論理の使い方が少なくなく、そして法律が整備される前の資本家が支配する搾取するやり方の名残の残る世界なのだといえるでしょう。

労働組合さえ、テレビの影響などで「悪者」なのだと理解する若い人たちがいるといいます。テレビはスポンサーが会社ですから、スポンサーの意向だったり、忖度したりなどして、会社が舞台のテレビドラマなどで労働組合をよくない組織として描いてきたことがあるそうです。会社と労働者の立場は不均衡で、労働組合がなければ、もともと強い会社の立場に異を唱えられる者がいなくなる、……いやそうではないですね、いなくなりはしないでしょうけれども、会社に立ち向かえるほどの力を労働者が発揮する機会を奪われるわけです。そうすると、法律が形だけの様相を呈しがちな現況において、ますます会社側が力を強め、自らに有利な規則や空気で労働者をしばり、搾取を厳しくしていくことになっていきます。そればかりか、パワハラやセクハラなどのいじめへの対処もままならずもみ消されてしまう傾向も強くなるでしょう。

また、以下のような言葉もありました。

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「味方」がいると思えないと、人間はなかなか権利を使えません。人間は社会的な存在なので、独りぼっちだと思うと権利を使う気力が湧いてこないのです。(p127)
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ですよねえ? 労働組合もそうですがそれ以前に、人と人とのつながり、紐帯といったものが大切なのはこういうところからもわかりますよね。

ちょっと話は脱線するのですが、アーティストの話を。パトロンが付くと、パトロンの心情を汲んでおもねるアーティストなんかも珍しくないのだろうと思います。パトロンなんていうのはたとえば会社を持っていて、要するに会社側の人間なのだから労働者を搾取する立場。アーティストが一般の労働者に不利益な言説を述べるようになったら、そういうことなんだと思うのです。パトロンがつくことで認知が歪む。パトロンに離れられたら困るという不安によっても認知が歪むのかもしれません。

閑話休題。
本書を読むと、ほんとうに現況として、会社ってブラックのほうがメジャーなのではないか、と思えてきます、自分の経験もまじえると。先に話した労働組合にしても、たとえばアメリカのように各セクションの労働組合が団結することで、たとえば同じ職種の会社であれば、A社もB社もC社も同一労働同一賃金が成立していて、転職した際に同じ職種でぐっと賃金が減ることはないといいます。これが日本だと、同一労働同一賃金は同じ会社内だけの話のようになっていたりしないでしょうか。このあたりの話、ぜんぜん詳しくないのではっきりとは言えませんが、雇用の流動化をすすめるならば、そういったところの仕組みをちゃんとすることが必要です。さまざまな労働組合が横に繋がって力を発揮できるといいのかもしれません。

あと、会社は賃金をくれるのだから会社を優先して自分を犠牲にしないといけないというマインドがあります。ですが、会社との雇用契約において、会社が個人の労働力を購入しているということなのであり、つまりは奉仕に対してのお返しの賃金というよりも、これだけの賃金をくれるという約束で労働力をこちらから提供している、というふうにとらえたほうがまだほんとうです。会社のほうが力がずっと強いのは変わりませんが、契約上は対等に契約していることは忘れないほうがよいと思います。これを、文言をこねくりまわすことで巧妙に「雇われているあなたは立場が弱い」と暗に、そして余計に刷り込まされるようなところはあるのではないでしょうか。

それと、職場が合わなかったり何かあったりしたら転職すればいいと簡単に言われることがありますが、なかなか転職だって難しいのですよ、という実際面についても解説があり、なるほどな、と納得しました。とくに非正規の人だとか、急に仕事を辞めたり解雇になったら、暮らすのが大変ですし、だからといってすぐには職が見つかるものでもないですから。

というとこころで、各章のタイトルだけ記しておきます。興味を持たれた方はぜひ。

第一章:仕事選びの常識が通じなくなった
第二章:「働きやすい」ってどういうこと?
第三章:働き手にとって賃金って何なの
第四章:働き手にも見方は要るんですね
第五章:心と体を壊さないために
第六章:仕事がなくなったらどうすればいいの

の全六章プラス「おわりに」の章で構成されています。こういった入門書的に読みやすいタイプの本で、誰もが避けられない「労働」への現状認識ができるのってすばらしいことです。みんなが読めばいいのになあ、と思える良書でした。こういう本は「義」です。


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『邪悪なものの鎮め方』

2023-01-06 12:38:59 | 読書。
読書。
『邪悪なものの鎮め方』 内田樹
を読んだ。

論考エッセイ集です。

この人の考察は物事のかみ砕き方が見事だなと思った。思ったのだけれど、歴史主義について否定的でそれは歴史に法則性を当てはめるからとあって、かのE・H・カーの歴史論と同じでありながらも、そのことを踏まえた良識あるような歴史学者はみたことがない、と著者は言ってしまう。

E・H・カーの『歴史とは何か』を読んでないわけじゃないと思うのです。だとすれば、法則性を否定する歴史学者は見たことがないというふうに、まるでE・H・カーの存在を隠匿するかのような論説の仕方が演技的に見えてしまうのでした。そういう意味では知に対して少しばかり誠実ではないのかもしれない(まあ、『歴史とは何か』を読んでいなくて、それゆえにちょっと浅い論考になったのかもしれません)。というか、全体を通してですが、庶民的で実践的な知の使いかたをする人なのかなあと思った。渡世の知の象限にある印象を持つ論考が多かった。

ただ、以上の歴史学のような箇所にひっかかると、いくつもある他の短い論考エッセイについても「これも似たようなケースなのではないのかな」と疑いの気持ちが生まれてくる。なかには見事なものもあるのだけど、それでもいつでもこちらは逃げられる態勢をとるような読書になります。よいとこだけ貰おう、というような。(読み終えてみると、一定の距離を取りつつ読むとおもしろい本だとわかります。一定の距離を取りながら、というのは、一般に、知らない人や親しくはない人との距離感の取り方だと思うので、特段におかしなことではないです)

さて。「情報と情報化」と「原則と無原則」の仕訳のしかたに僕にとっての学びがありました。言葉にして論理だててもらったという感覚がつよいという意味での学びです。

まず「情報と情報化」。
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「情報」を重視する人々は「x日までに大福をy個、原価z円で納品する」というようなことに熱中する。彼らが興味をもつのは、「納期」や「個数」や「コスト」や「粗利」や「競合商品との価額の差」など、要するに数値である。それに対して、「情報化」というのは「なまものから製品を作り出すダイナミックな工程」である。情報化にかかわる人々の関心はつねに「具体的なもの」に向かう。(p183)
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これって、観念と実感の違いともいえると思うのです。「情報」という数値は観念的で、「情報化」であつかう具体的なものは実感的です。気がつくと、ちかごろ世の中はネット世界もふくめてやたら観念的です。10月の『100分de名著』の録画を昨日見ていて司会の伊集院さんがおっしゃっていましたが、自分の目で見た景色が素晴らしいのにインスタにあげる写真にしてみたら案外で、その案外な方が正解ととらえて残念がってしまう。これって、観念的ですよね。

つぎに「原則と無原則」。原則というのは、筋が通っているがためにいかなるときもそうやりなさいとされるものです。無原則は以下に引用を。
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例えば、親は子どもに対して原則的に対応しなければならない。無原則や親は子どもにとってたいへん迷惑な存在だからである。あるふるまいを昨日は叱り、今日はほめ、明日は無視するというふうな態度を続けると、子どもは社会性の獲得に支障を来す(統合失調の素因になるとベイトソンは論じている)。子どもに対しては原則的に対応した方が、子どもは成長しやすい。そういう親の方が「乗り越えやすい」からである。親の立てる原則の無根拠や理不尽をひとつだけ指摘すれば、もう親を乗り越えた気になれる。それでよいのである(p261)
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ここで言われる「無原則」による影響は、認知的不協和といわれるものと同じだと思います。こころに良くないのです。だからといって原則的にばかりしゃちこばっているのもよくありません。どういう割合で配分して、さらに配慮もしながら生きていきたいところだと僕は思います。

それと、能力主義について言及したところで僕がビビビッと反応して考えたことも付記しておきます。

収入は努力と能力に相関するという能力主義。これが行き過ぎると、怠慢で無能力な人は社会的地位が低いのが本当だとなる。勝った者が獲得し負けた者が失うのは当然だとする。これって狭い考え方で、たとえばギャンブルに適用される有り方。でも社会はギャンブルではない。社会の仕組みも各々の人生も、……つまり、生まれ持った才能や傾向、育つ環境、社会の景気や風潮の影響などがそれぞれ違い複雑。事情の相違というものがある。加えて思想や価値観も違うなかで、それなのにギャンブルのルールで社会を切り取る感覚が強い。競馬だとか好きな人は多いけれども、ギャンブル思考が社会にも適用されてしまうのは、気づかずにそれらに飲み込まれているからなのかもしれない。あるいは元々の国民性なのだろうか。自戒を含めて言うのだけど、ギャンブルはギャンブル。割り切りが必要。競争社会だ! と言い切れる人に、ここで言ったようなギャンブル思考は多いような。もっと広くソフトに考えたいところです。

最後に、各章についたタイトルの中で、よい言葉だなと思った一言を。

「隗より始めよ」
(世界のなかでの遠くの問題や大きな問題に取り組もうとするより、身近なところから始めていこうよ、そのほうがうまくいくよ)


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謹賀新年 2023

2023-01-02 10:55:46 | days
あけましておめでとうございます。
僕の住む北海道の町は、いつもよりも少しばかり雪の少ない正月になりました。このまま春まで……と小さな願望をもってしまうのですけど、99%そうはいきませんからね。雪と寒さは苦手な方です。

僕自身のほうはまだ、なかなか活力が湧いてこない状態にあります。どうも精神的な疲れのようです。パワハラや社内いじめ、家庭の精神的暴力のダメージが抜けきらないです。それでも、年末の紅白歌合戦を観ながら気になった曲を数曲をDL購入し(まだまだサブスクはやっていません)、12月上旬にCDで購入した乃木坂46の『ここにはないもの』をまじえて聴きながら、楽しんだりしんみりしたりいています。こうやって音楽を楽しむことって、健康的なこころの体操だなと感じます。

さて。昨年は北海道新聞文学賞への応募作(86枚)、カクヨムWEB短編小説賞へ二編(25枚&16枚)の三作を書きました。反省としては、前者はまわりくどいところと、文体へのこだわりが弱かったところでしょうか。くわえて、どちらかというと「骨ばかりで身が少ない魚」的だったかもしれません。後者の二作は、今年また少し長めの短編を書くにあたってのたたき台としての位置づけではあったのですが、それでもちゃんと考えて書いていますから、ほとんど反響がなかったのにはちょっと考えさせられました。技術的には以前に比べてすらすら書けるのですが、そのぶん、ひとつの作品への踏み込みが足りないような気もしています。

今年はおそらく純文学の短編を書きます。エンタメも好きなので探りつつ短いものを書く可能性はありますが、主たる目標は純文学。昨年書いた三作からの反省点や書いてみた技術的な感覚をふまえて、さらに日ごろの読書で学んだところを忘れずに、ぶつけていきたいです。テーマはいくつかストックはありますが、そういったアイデアももっと貯めていきたいです。

ブログはこれまで通りの平常営業になると思います。読書の感想や内容紹介、考察などを今まで通り書いていきます。それらから本や読書に興味を持ってくださったり、なにか発見やインスピレーションを得てもらえると書き手としてはうれしいですね。noteやカクヨムにはほぼ創作のみをあげるかたちで。これもいつもと変わりません。

そういった感じなのですが、健康には気を付けつつ、かつ自分を犠牲にすることで自分のやることをおろそかにしないようにしつつ、励んでまいります。

みなさまにとってもよき年となりますように。といいますか、ともに、主体的によき年にしていきたいですね。

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