Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

『運命のボタン』

2017-10-31 21:48:58 | 読書。
読書。
『運命のボタン』 リチャード・マシスン:著 尾之上浩司:編 伊藤典夫・尾之上浩司:訳
を読んだ。

スティーブン・スピルバーグやスティーブン・キングなど、
一流の映像作家・作家たちにレジェンドとしてリスペクトされる巨匠が、
このリチャード・マシスンだそうです。
映像化作品が多数あり、傑作の多い、ホラーからSFまでを扱う作家です。
本書は、そんなリチャード・マシスンの短編を13作品収録しています。

表題作の「運命のボタン」は、
ある日突然、ボタンつきのよくわからない装置がある夫婦のもとに送られてきて、
このボタンを押すと、知らない誰かがどこかで死ぬ代わりに、
大金を得られると教えられる。
そんな究極の選択に葛藤して、最終的にどうなるのかは、ぜひ読んでみてください。

他にもつぶぞろいのホラー、サスペンス、SF、などのがそろっていて、
楽しい読書時間を過ごせます。
「声なき叫び」なんかは、前回のこのブログ記事でことばの限界を考えましたが、
まるで僕がこの短編を読んで、
ことばに対する考え方を盗んだかのように見えてしまうくらい、
同じような考えをもとにフィクションを構築しています。
(前回の記事はこれを読む前に書いています)

また、2011年の映画『リアル・スティール』の原作、
「四角い墓場」も収録されていました。

こういう、これぞエンタメ!という短編を読んでみるのは楽しくもあり、
書く身としては勉強にもなります。
先がわからない展開、読めないオチ、
そういったものを用意するのって大事なんですよね。


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はみだした絵の具---ことばの限界について

2017-10-26 23:01:55 | 考えの切れ端
ことばとは、そんなに万能なものなのでしょうか?
ことばですべてがまかなえるのでしょうか?

ちょっと、そうではないなと思えるので、
そのあたりについて、考えてみます。

ことばを使用することで、
人の「輪郭」が浮かびあがってくる。

語彙の豊富な人の「輪郭」があり、
言葉が苦手な人の「輪郭」がある。
そして、それぞれに、
「輪郭」を眺めてその人や自分を知ったようになり、安心する。
でも、待て。
よく見りゃ、その輪郭からずいぶん絵の具がはみでているじゃないか。
無視しがちなそこも見ていこうじゃないか。

ことばって、
区画整理、分節作業、そういう性格があって、
ことばにすることで、
もともとのまるごとのものごとから
漏れてしまうものってでてきますよね。
ことば以外のところをも意識したり、
無いことにしたりしないことで、
なんかよくわかんないけど展開・運命が変わり
豊かになることはあります。

そういう、「よくわかんないけど」の部分を、
なんとかしてことばに変換していこうと地道な努力を重ねて、
ことばの範疇を拡げていこうとする道もあれば、
「よくわかんないけど」をよくわかんないままとらえて、
ことば以外でなんとかできちゃう力をあげていく道があるでしょう?

前者の、ことばの範疇を拡げる道は、
よりはっきりした「輪郭」を、
もっと大きくしていこうという道です。
後者の、ことば以外でなんとかしちゃう力をあげる道は、
「輪郭」からはみでた絵の具の部分を大事にして、
絵の具の色を変えたり濃くしたり、
もっとはみださせたりしていく道です。

論理性重視の人は、後者の道では足がすくむでしょうし、
感覚性みたいなものを重視する人は、前者の道がまだろっこしいでしょう。
……と、いま、感覚性みたいなって言いましたが、
後者には、勘のような、直観に導かれるような、
そんな感じがあると思います。
もちろん、偶然性だって含まれていると思う。

はたして、人生がおもしろくなるのは、
「輪郭」を墨守していく意識なのか、
それとも、
「輪郭」からはみでた絵の具を大事にする意識なのか。

いわゆる超能力のイメージに近く見える種類の、
つまり、よくわかんないけどなんとかしちゃうという
絵の具の部分については、これ以上深入りせずに話を進めます。
ちょっとややこしいし、論理がこんがらかる恐れがあるからです。
ここからは、感受する部分を中心に、
絵の具の部分について考えていきます。

たとえば、
風が触れた感覚、花の匂い、猫の甘える鳴き声、甘味や塩気、夕焼けの色。
ことばにするとこぼれおちてしまう、
五感で感じる生鮮なモノってありますよね。
それも、いまあげたものはすべて、ライブな感覚です。
でもって「輪郭」からはみでていますよね。

たとえば、
わかりあえたときの気持ち、彼氏・彼女と笑いあったとき、悲しみ、寂しみ。
それらだって、やっぱりライブな感覚のもので、
「輪郭」からはみでている絵の具でしょう?

ことばは、便利です。
合理的です。
いろいろと端折って楽にする。
それは、ものごとの骨の部分であり、
別の角度からの言い方をすると、
やっぱり、「輪郭」ですね。
「輪郭」はものの影とでも言えるかもしれない。
肉がついてこそ、生き生きとした生命感のある、
影ではない実体になる。
それでもって、絵の具は、見方を変えれば肉でもあるんです。

そしてまた、ことばというものはライブな感覚ではないです。
プロの小説家は、ライブではない「ことば」を使って、
読み手のライブな感覚の記憶にうったえ、
それを利用しつつ、
フィクションに生々しさを宿らせることをする。
つまり、ライブな感覚のものではないツール(ことば)で、
ライブな感覚か、それに近いものを創ります。
読み手は、そういった生のモノを欲するから、
そうするんですよね。

そこまで考えが進めば、わかってきます。

出だしに書いた、
>ことばとは、そんなに万能なものなのでしょうか?
>ことばですべてがまかなえるのでしょうか?
は、まったくそうではない、となります。

ことばとは簡便さのための表現であり、
簡略化したことで、
論理が組み立てやすくなったり、
情報などを伝達しやすくなったのが、
その、すごいところ。

でも、すごいや!すごいや!と
そのすごさばかりに気をとられていると、
「輪郭」しか見えないようになってしまって、
それじゃあ、人生、おもしろくないし、
丸ごとを見ていないということで、
きっと、判断もアイデアも間違ってしまいます。
それは困りますよね。

だけれど、一方で、「輪郭」に捉われてしまうのは、
実は絵の具部分のけた違いの情報量から身を守る、
フィルター効果というものがあるとも思うのです。
情報量の多さや濃さの荒波にのみ込まれないために、です。

結局は使い分けなんでしょう。
あるいはどのくらいの比率で意識するか。
「輪郭」を見て生きていく道は安全かもしれない。
絵の具しか見ないような道はリスクが高いのかもしれない。

では、リスクを嫌い、極端な安全の姿勢をとって、
はみでた絵の具を見ないことにしますか?
いやいや、リスクはあっても、はみでた絵の具があることを
忘れないでいるスタンスって大切だろう、とぼくは思うのです。
この場合の、リスクをとらない生き方が、
ほんとうに幸せな生きかたでしょうか。
そのあたり、じっくり考えてみるのって、
とても大事なことなのではないでしょうか。

たぶん、このあたりの考察をすることで、
寛容さや他者への敬意を持つこと、
互恵関係がどんなかたちになっているかを感じること、
そして、生きずらさを解消する方向へ進むことに
つながっていくような気がします。

というわけで、本日はここまで。
長めの文章、読んで下さりありがとうございます。

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『田舎力 ヒト・夢・カネが集まる5つの法則』

2017-10-19 21:07:33 | 読書。
読書。
『田舎力 ヒト・夢・カネが集まる5つの法則』 金丸弘美
を読んだ。

食文化を中心に、
地方の山間地や離島、過疎地など、
とかく貧しく生きづらいように思われがちな田舎であっても、
豊かな生活をおくるための行動、
つまり、その逆転劇の間近な例を紹介しつつ、
田舎が自立・発展していくための5つの法則を教えてくれる本です。

5つの法則とは、
発見力、
ものづくり力、
ブランドデザイン力、
食文化力、
環境力の五つ。

もうちょっと詳しく言うと、

自分の住む田舎はすべてにおいて都会に劣っている、
などと卑屈にならずに、
「これ、いいんじゃない?」とう部分を、
都会の価値観とはまた別の視点から見つけていく発見力。

生産→加工→販売までやっていく第六次産業で、
生産物に付加価値をつけて、
ただ生産物を売るだけじゃ得られない利益を得るものづくり力。

田舎を丸ごとプロデュース、デザインして、
訴求力を高めるブランドデザイン力。

スローフードなど、食のホンモノを見つめなおし、
美味しさや健康、美容効果までを考えた食文化力。

近代の、大量生産重視で効率第一の、
環境を破壊していく経済にまず気づき、
そこから抜け出して持続可能な経済を支えるための
環境を大事にする環境力、となります。

この本はもう8年も前に出たもので、
うちの街を顧みても、とりあえずこういう例を勉強して、
実践に移せるところは移しているかなあと思えたりもし、
現在ではまた別の壁にあたっていたりして、
「ポスト田舎力」が求められているところなのかもしれないなあ
と感じもします。

それでも、本書に書いてあることは、
町おこしの基礎としてしっかりしていて、
まずここから頭をかためて、
整えていくために必要な事例だらけなのではないでしょうか。

うまくいかない土地はその土地なりに、
何も頑張っていないわけじゃないんだけれど、
他の土地よりも狭い、針の穴のような突破口しかなくて、
それもどこにあるか見つけるのも大変で、
っていうケースはあるかなあと思います。
他の土地の例、それも海外まで目を向けて、
視点を変え、価値観を揺さぶって、
やっと町おこしの糸口が見つかることもあるでしょう。

本書はそんな状態の硬直性を
まず最初にときほぐす役割を持っているかもしれないです。


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『人とミルクの1万年』

2017-10-13 22:16:30 | 読書。
読書。
『人とミルクの1万年』 平田昌弘
を読んだ。

ハズレの無い岩波ジュニア新書からです。

ひとはいつ人間以外の動物のミルクを
飲食に利用するようになったのでしょう。
考古学的な証拠から推測すると、
1万年近く前から、になるそうです。

そして、搾乳(乳しぼり)はどこで始まったのか。
それは、西アジアのシリアあたりが有力だそうです。

と、まあ、
そういった起源を明らかにしつつ、
乳文化について、その種類や系統を説明して、
ヨーロッパや北アジア、南アジアなど各地域での
乳利用や加工のいろいろについて紹介・説明してくれます。

やっぱり、「気候」がミルクの利用方法に大きく影響している。
乾燥地帯なのか冷涼湿潤なのか、などなど、
ミルクの発酵の仕方、保存の仕方、
もっといえば、搾乳時期なども関わってくるようです。

それで驚いたのは、
ミルクというものが血液からつくられるものだ
ということは知っていたのですが、
1リットルのミルクのために、
たとえばウシならばどのくらいの血液から作られているか、
というところ。
なんと、500リットルの血液から作られているそうです。
著者はだからこそ、大事に頂かねば、
という気持ちにさせられると述べています。

また、大人が牛乳をたくさん飲んだがために、
おなかがごろごろしてしまう原因についても書かれていました。
その犯人は乳糖なる成分。
乳糖を分解する酵素が、子どもにはあるのですが、
大人にはないんですって。
一部の地域では大人も乳糖を分解できるそうです。
しかし、日本人にはそれはないようですね。
そんな乳糖が多い馬のミルクを利用して、
モンゴルのひとたちは乳酒を作るのだそうです。

というように、
さまざまな乳文化にこの本を通してふれるだけで、
世界の広さを知るかのようです。
ミルクは完全食ともいえるもので、
多くの人間は、生き延びていくために大事に利用してきたんですねえ。
日本でも、貴族は室町時代くらいかその前くらいまで、
濃縮乳なるものを食していたそうです。

ミルクは、ぼくたちの身近な製品でありながら、
その化学的な部分も、歴史的な部分も、
実はよく知られていません。
ミルクにかかっている無知のベールを、
ぼくたち自らがはがして知ってみる機会を、
与えてくれる本になっています。


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『きみの家へ、遊びにいくよ。』 後編

2017-10-08 18:00:02 | 自作小説6
 早く楽しみな朝を迎えたいからもう寝てしまおうと布団に入ったのだが、リョウスケはやはりというべきか、なかなか寝付けない。
 モトヤ君が明日うちへ来ることのインパクトは、遠足や運動会の前夜のように気持ちも身体もふつふつと興奮させるくらいだった。血液が、酸素や栄養素といっしょに興奮まで体中にばらまき続けていた。
 最後に時計を見たのは午前二時過ぎで、それからほどなくして、ようやくリョウスケは眠りに落ちた。だから、いつもならばお母さんが起床する六時半にリョウスケも自然といっしょに起きるところを、お母さんが出勤する三十分前の七時半にお母さんから起こされるまで起きられず、寝坊してしまった。
「いい?モトヤ君はお昼くらいに着くようだから、そしたらさっき作っておいたチャーハンと昨日のコロッケをチンしていっしょに食べなさい。帰りのこともあるからあんまり長くはうちにいられないだろうけど、あんまり遅くなるようだったら、うちに泊っていってもらうよういいなさい」お母さんがここまでいってくれるのは初めてだった。というより、こういう状況が初めてだったから、こんなにお母さんの懐が深いなんてことは知りもしなかった、お母さんはいつだってやさしいのだけれど。
 いつも、リョウスケのほうから遠慮して、自分の融通を通そうとしないことが多かった。お母さんが週に六日フルタイムで働きながら、家事をこなし、自分の面倒をみてくれているのに、わがままなどいえなかったからだ。
「うん、ありがとう」リョウスケが幸せそうな顔をしてそういうと、お母さんはにっこりして彼の頭を撫でた。そして、八時過ぎに送迎バスに乗って工場へと向かっていった。
 家にひとりになったリョウスケは、あまりの自分の落ち着かない気分を前にして、落ちつけ、落ちつけ、と心の裡で自分を諭した。しかし、何の効果も得られない。お母さんにいわれたお昼ごはんを冷蔵庫の中に確認したり、机の上の整理をし始めたり、靴下やジャージに穴が開いていないか探したりしてしまう。まだモトヤ君が出発する予定の九時前の段階で手持無沙汰になってしまい、またもや昨日と同じように家の中をぐるぐる歩き回り始めた。モトヤ君が来る、自転車で来る、モトヤ君が来る、いっしょにゲームする。
 リョウスケもモトヤ君も、ケータイを持っていなかった。モトヤ君が道中、いまここにいるんだよ、と連絡してくることもないし、リョウスケが家の電話から、そこの坂を越えたらもう大きな坂がないから安心して、と励ますこともできなかった。
 そのかわり、リョウスケは、揺るぎなく、モトヤ君を信じた。太くて強靭な、約束の綱が、二人をしっかりつないでいることを無意識に確信していた。絶対に来るんだ、と。
 気がつけば、十時になるころだった。歩きまわっていたリョウスケは、さすがにこれはバカみたいだと思い、ソファに腰かける。急に歩くことを止めてみれば、いつしか呼吸が弾んでいたことがわかった。すこし荒い呼吸で自分の気持ちを確認しつつ、目を閉じて、今度こそ落ちつこう、と思う。モトヤ君は、新しいゲームとそれに対応するゲーム機を持っていくといっていた。モンスターがたくさんでてきて戦って仲間にできるゲームシリーズの最新版だった。
 リョウスケは、中古で買ったモノポリーのTVゲームが大のお気に入りで、モトヤ君にやり方を教えて対戦してみたかった。モノポリーはお母さんとも勝負するのだけれど、お母さんは甘っちょろくて、AIのプレイヤーよりもずっと弱い。ちょっとお母さんに不利な条件で物件のやり取りの交渉をしても、お母さんはその条件を飲んでしまうのだ。これでは、お母さんをダシにして、AIを蹴散らすだけのゲームになってしまうのだった。ときにまるで言葉が通じないかのように交渉に応じなくなるAIを相手にするのではなく、当たり前だけれど人間味のある、人間のプレイヤーたちと、張りのあるほんとうのモノポリーをいつかしてみたい、とリョウスケは願っていた。大丈夫かな、モトヤ君、モノポリーに興味をもってくれるかな。それに、モノポリーをする時間はあるかな。
 こうやって、いろいろ考え始めれば、期待と不安がないまぜだけれど、心苦しくも楽しい。モトヤ君を待っている間に、AI相手に一勝負して暇をつぶそうかな。リョウスケは、一瞬、そう考えたのだけれど、モトヤ君ががんばってペダルを漕いで長い道のりをやってきているのに、自分だけがへらへら遊んでいるのは申し訳ないような気がして、やめた。
 モトヤ君はいまどこだろう。出発から一時間ちょっとだから、まだまだ三分の一もこちらへ近づいていないのではないか。気が揉んだ。でも、待つしかない。
 窓から射しこむ日光が絨毯に陽だまりをつくっていた。それに気がついたリョウスケはなんとなく日光を浴びたくなり外に出て、外気を深く胸に吸い込んだ。秋晴れの快晴で、澄んだおいしい空気だったが、気温はそれほど高くなくて、日陰ではワニの目みたいに空気は冷たかった。
 国道の、学校方面へ下っていく方向を眺める。なだらかな下り坂。車が、一台、二台と走り抜けていき、何もいなくなりしんとしたころにまた一台、二台と下って行ったり上ってきたりする。道端には赤や黄色の落ち葉がふえた。国道を挟む山の木々の中には、もう裸になりかけているものもいる。
 ジャージ姿だったリョウスケは寒さでみるみる身体がこわばり、縮こまるような恰好になっていた。息が白くなるほどではなかったが、冴えた寒気はすうっとジャージの生地を通りぬけて肌に達してくる。
「さむさむさむさむ……」早口で呟いて、リョウスケは駆け足で家に戻った。思っていたよりずっと寒いな、モトヤ君は大変だぞ。お昼までにもっと気温が上がるといいんだけどなあ。ずずずと音を鳴らして洟をかみながらリョウスケはモトヤ君を慮るのだった。
 何をするでもなくモトヤ君を待ち続け、眺める時計の針は十二時を指した。出発から三時間経った予定時刻になった今もモトヤ君は到着しない。
 モトヤ君の家からリョウスケの家に来る道のりは上り坂が多い。きっと予想よりもハードな道のりになっているのだろう。自転車を降り、歩いて坂を上りながらこちらへ向かって、時間がかかっているのかもしれないし、バテてしまい何度も休憩しているのかもしれない。モトヤ君がケータイを持っていないのが実に残念だった。今、どこ?大丈夫疲れてない?ゆっくりでいいから頑張って!かけたい言葉が鮮明に浮かんでいた。
 リョウスケはでも、モトヤ君がまもなく到着する可能性も十分あるからと、お昼ごはんは食べずに待つことにした。せっかくなんだからいっしょに食べたい。モトヤ君だって、お腹をすかせながらこっちに向かってるんだ。自分だけ食べてしまうなんてできないよ。リョウスケは、冷蔵庫のコロッケが大好きだからって、その誘惑に負けたりはしなかった。モトヤ君もコロッケ好きかなあ?好きだといいなあ。お母さんのコロッケ、最高だから。あくまでいっしょに食べるんだ。その予定は崩れなかった。
 十二時半頃に電話が鳴った。お母さんが職場からかけてきたのだ。
「モトヤ君は着いた?」
「まだだよ」
「そう。大丈夫かしらね」
「上り坂が多いから、時間がかかってるんだよ」
「そうかもしれないね。あとでまた休憩のときに電話するから」
「うん、わかったよ」電話は切れた。
 そうだよなあ、お母さんも心配してるよなあ。もともと反対してたんだし。きっと一時までには着くよ。そうだよ、来るさ。
 しかし、一時になっても、モトヤ君はあらわれなかった。到着時間がどんどん遅れていくにつれて、リョウスケの期待も少しずつしぼみ始める。どんどん遊ぶ時間が減っていくからだ。
 モノポリーが無理だったら、モトヤ君のゲームを見せてもらって終わりになるかもしれない、と予定の修正を自然と始めていた。
 そして一時半になる。どうにも遅すぎる。いや、小学四年生の自転車ならまだ到着しなくても不思議じゃない。リョウスケの考えはせめぎ合いを始めていた。一時間以上前から、そろそろ着いてもおかしくないな、と構えていたのだ。それがとうとうぐらんぐらん揺れだしている。そのうち、ふと、ある思いが胸をよぎった。モトヤ君は、途中でくじけて引き返しているのではないか、と。20kmの道のりは無理だったのではないか、と。
 もはやリョウスケの期待感のほうがくじけてきていた。そわそわ、居ても立ってもいられなくなり、朝みたいに家の中をまたぐるぐる歩きまわりはじめるのだった。
 二時を回った頃、また電話が鳴った。お母さんかな、それとも引き返したモトヤ君から〝ごめん〟の電話かな。受話器を取ると、聞きなれた女の子の声がした。
「リョウスケ、何してた?」
「別に何も。アスミちゃんは?」
「わたしも何も。今日はずっと家にいるのよね」
 土曜日や日曜日には、たまにアスミちゃんが電話をくれる。リョウスケはたいてい家にいたし、なかなか暇だったりするんだ、とアスミちゃんに話していたから、四年生から六年生までの複式学級にリョウスケがあがって間もない今年のゴールデンウィークのとある日から電話をくれるようになった。
「リョウスケ、こないだ見てた図鑑、おもしろそうだったね」
 リョウスケは一昨日図書室で、恐竜や太古の絶滅した生きもの、それも造形のおもしろいタイプの生きものを紹介する図鑑を読んで夢中になっていたのだった。
「すんごいのがいたよ。口から剣が生えてるサーベルタイガーなんて強そうでとくにおもしろかったよ。あんなのが今も生きてたら怖くてしょうがないよね」
「あの本さ、ちらっと見えたんだけど、強そうですごく大きくて気持ちの悪い感じの虫も載ってたでしょ。絶滅した昔の生きものって、今のふつうの生きものと違って危険の度合いっていうのかな、そんなのが強いように感じてわたしは好きだな。ぞくぞくする。リョウスケは二回目になるだろうけど、来週、またいっしょに読んでみようよ」
「うん、いいよ。こないだ全部読み終わったわけじゃないしね」リョウスケは続けて、「話は変わるけど」とモトヤ君を待っていることをアスミちゃんに教えた。
「えっ?リョウスケの家、遠いじゃない。誰かに送ってもらうの?」
「いや、自転車で来てくれるんだよ。ほんとうは十二時到着予定だったんだけど、まだ着いてなくてさ、ちょっと心配なんだよ。もしかすると引き返しているかもしれない」
 そこで、アスミちゃんはしばらく沈黙した。どうしたのかな、とリョウスケは「アスミちゃん?」と問いかけると、
「このあいだ、クマがでたっていうの」落ちついた声が不穏な内容を語りはじめた。「雪が積もる前の時期、だんだん寒くなって紅葉が進んでいくと、クマたちは冬眠のために食いだめをするようになるのよ。シカを襲って食べたりもするけれど、いつもはクワの実やどんぐりなんかを食べているのよ。だけど、今年はどんぐりが不作でクマが人間の住んでいる区域までよく下りてきているってニュースでやってたの。それでね、やっぱりこのあいだ、農家のひとが国道付近でクマをみて役所に届け出を出したようなの」
 リョウスケだってこの街に長く住んでいるのだから、クマについての知識はすこしはあった。それでも、急に汗ばむのを感じながら、
「でも、クマって朝早くだとか夕方だとか、出てくるときって太陽の高い時間帯じゃないっていうよ?」と反論する。
 アスミちゃんは負けない。
「お腹をすかせたクマは、時間帯なんて気にしないの!」
 そのとき、電話のアスミちゃんの後ろから
「アスミ、誰と何を話してるの?」という大人の女のひとの早口でしゃべる声がして、
「あ、ママ、リョウスケだよ、なんでもな……」とアスミちゃんの答える声が途切れ、それから
「なんでもなくないでしょ!ちょっと代わりなさい。あ、リョウスケくん?いつもアスミと遊んでくれてありがとうね。アスミのママです。なんだかアスミがへんなことをいっていたようだけど、気にしないでね。アスミはたまにひと怖がらせる癖があるのよ。ちゃんといっておくから、本当にごめんなさいね。またアスミと仲良くしてあげてね、それじゃ、お母さんにもよろしくね」と一方的に話をされて電話は切れたのだったが、アスミちゃんのママの話した内容などリョウスケの耳には残っていなかった。
 リョウスケの頭の中は、クマでいっぱいだった。国道にクマがでただって?今だって、道路脇からクマが躍り出てもおかしくはないのだろうか……。
「ヤバイ」受話器を握った手が冷たくなっていた。
 いつものアスミちゃんの決め台詞である「だから、気をつけなさい」で締めくくられなかったせいもあって、リョウスケは呪縛にかかったままになっている。それから、ばくばくと心臓が高鳴りはじめた。
 リョウスケは、なんだかよくわからないけれど、とにかく外に出ようと、いつの間にかこわばってしまいうまく動いてくれない足をやっと動かして玄関に行く。すると、救急車がけたたましいサイレンを鳴らしてすごいスピードで家の前を走りぬけた。そして、救急車とクマがリョウスケの頭の中でひとつにつながっていくのだった。
 転びそうになりながらなんとか靴を履いて外に出た。生きた心地なんかしなかった。玄関先の石段に腰かけて、リョウスケは両膝の間の地面を眺めるように顔を落とした姿勢で、祈った。もしも、モトヤ君がクマに襲われて大けがをして、そこに救急車が駆けつけに行ったのだとしたら……。
 クマじゃなくても、交通事故だって有りうるじゃないか。どうしてぼくは、モトヤ君に遊びに行っていいかといわれたときに危ないからだめだと断れなかったのだろう。20kmの道のりだって、自分が自転車でいくんじゃないから、つまり他人のことだからって、深く考えもせずに大丈夫だろうとたかをくくってしまった。いや、それどころか、どうしても遊びたくて、その欲目に負けて、モトヤ君の命の危険など考えていなかったのだ。ぼくは馬鹿だ、ほんとうに馬鹿だ、と、自分を責めた。そして、モトヤ君は無事でありますように、と何度も祈るのだった。寂しかったのだ。あまり友だちと遊べず、休日には家にいることが多く、留守番だって多い。遊び相手を渇望していたのだ。近頃、その存在を疑りはじめるようになっていた神様に対してさえ、代わりに自分が不幸になってもいいからモトヤ君の命は助けて、とお願いした。
 そうこうしているうちに、国道の下り側からプーっと大きな警笛が聞こえてきた。何かを避けるようにしてダンプカーが走ってくる。顔をあげたリョウスケに、ママチャリを漕ぐちいさな人影が見えた。うあっ、と声にならない声が出た。急に現実感が薄らぎ、まるで願望をかなえてくれる種類の内容の夢を見ているかのような気分になった。
 あれは、たぶん……モトヤ君だ。いや、モトヤ君という名の英雄に違いない!瞬間、リョウスケはおーい!と大声を張り上げて両手を振っていた。
 英雄が、なだらかな上り坂を、ママチャリを漕いで、若干ふらつきながらも少しずつこちらへ近づいてくる。これはほんとうのことだ。やっとそのときがきたんだ。
 カチリと頭の中で音が鳴りでもしたかのように現実感のスイッチがはいったリョウスケは、自然とその体中に力がみなぎりだして、体育の授業で走るよりもずっと力強く、モトヤ君のほうへと駆け出していく。ダンプカーはリョウスケを避けるようにかわし、ブオーンという音と砂煙をまき散らして走り去っていった。
「モトヤ君!」それ以上の言葉は出てこなかったし、必要なかった。
「リョウスケ君!」しばらく、何度もお互いの名前を叫びあい、二人の距離が縮んでいく。
 モトヤ君は引き返していなかった!クマはただの悪い想像でしかなかった!約束通り、ちゃんとぼくの家へ来てくれた!そういった思いが絡み合い、リョウスケの胸はパンパンにふくらんでいた。
 大声を出さなくても話ができるぐらいの距離になってから、モトヤ君は息を切らしながらいった。
「思ってたより……、大変、だったんだよ。途中で、チェーンが、外れもしたんだ。ごめん……、遅くなって。ゲームは……、持ってきた」
「そうなんだ!無事でよかった!心配してたんだ。早く家に入ろうよ。休んで、休んで。ほら」目を潤ませながら、でも、涙はこぼすまいと必死にこらえるリョウスケだった。
 玄関前に自転車を止めたモトヤ君は、太ももを両手でさすって
「明日は、筋肉痛で、パンパンになりそうだなあ。今でも、なんか変な感じ」と息を整えつつこぼす。
 そりゃ、20kmくらいもがんばったんだもん、すごいよ、などとリョウスケは興奮冷めやらぬ口調で、英雄を讃え続けた。
 モトヤ君は、家に上がると、そのまま、疲れたー、と玄関先にどっしりと腰をおろした。前髪が汗で額にへばり付いている。リョウスケは、モトヤ君が到着してほんとうに嬉しかったのだけれど、もうすぐに遊びたくてうずうずしてしまい、そんなモトヤ君を休ませもせず部屋に連れていこうとする。
「ちょっと、待って。このまま、もう少し休ませて」ほんと、ごめん、と謝っているように苦い笑顔で、モトヤ君は懇願した。
 そこで気がついたリョウスケは、モトヤ君をそのままにして、遅いお昼ごはんの用意を始めた。
「お母さんがさあ、お昼ごはんにってチャーハンを作ってくれてたんだ。モトヤ君のぶんもあるから、落ちついたら食べようよ」
「そうなんだ、うん、ありがとう、でも、もう少し待って。……あのさ、水もらえない?」くたびれたままのモトヤ君が、土間に足をなげだした姿勢でいった。
 リョウスケはモトヤ君が喉をからからにしていることに気が回らなかったことを恥じて、急いでコップに水を汲んで玄関まで持っていった。はい、どうぞ、と喉の渇きに苦しむ英雄に水を渡す。喉を鳴らしてまたたく間に飲みほすその飲みっぷりがまた、事をなした英雄然としていて、眺めるリョウスケはなんだか、うれしくて誇らしい気持ちになるのだった。
 モトヤ君が落ちつくまでにしばらくかかった。リョウスケもいっしょに座ってじっくりと待った。モトヤ君が不意に、
「いま何時かな?」と尋ねた。
「二時五十分」
「もう、そんななのか、だめだ、帰らなきゃなんない」
「えっ、遊んでいけないのかい?」
「これだけ時間がかかったんだから、もう帰らないと帰れなくなる」モトヤ君の目には、すでに先ほどまでとは違う決意の光が宿っている。
「モトヤ君、ねえ、うちに泊ってったら?明日帰るってどう?うちのお母さんもそういってたんだ。あまり遅くなるようだったら泊っていってもらいなさいって」
 モトヤ君はリョウスケの言葉をしっかり聞き、それから一呼吸おいてその言葉をあたまで咀嚼したあとにいった。
「でも、家に母さんひとりになるからね。おれがいたほうが、防犯の意味でも安心なんだ。だから、帰らなきゃ」
 リョウスケは、モトヤ君が小学四年生ながら自分のお母さんを守る意識を持っていることに、自分よりずっと大人なんだなと少なからず驚くとともに尊敬の気持ちを覚えた。
「そっか。それならしょうがないか……。でも、せっかくだから、三十分でも二十分でもいいから、もう少しうちにいて欲しいな。だめかい?」胸に詰まった喜びと期待が、現実の針先であいた穴からしゅるしゅると音をたてて、空虚さの闇へと流れ出ていった。でも、そんなお願いが無理だとわかっていても、リョウスケにはそうせずにはいられなかった。
 しかし、そのお願いを聞いて、
「わかった。二十分だけだけど、いるよ。なにする?」とモトヤ君はいってくれた。たちまちリョウスケの胸の穴が塞がる。
「ほんとはね、モトヤ君とモノポリーがしたかったんだ。モノポリーって知ってる?」
「知らない。ゲームなの?」
「うん、ボードゲームなんだけど、ゲームソフトで持ってるんだよね。サイコロ投げてコマをすすめて、土地を買って建物立てて、あとでその土地のマスにとまるひとから利用料をもらってっていうような、簡単にいえばそういうゲームなんだよ。覚えるとおもしろい」
「難しくないの?それ」
「一度やってみれば覚えられるよ。時間があればさあ、二人で一度やってみて、それから次が本番だよってやれたんだけど。今日はできなくても、いつかやろうよ!」
「うん、いつかやろう。リョウスケ君がおもしろいっていうんだから、やってみたいな」言葉とは裏腹に、表情は冴えなかった。
「モトヤ君は、あのゲーム持ってきてくれたの?」
 あ、と気づいて、モトヤ君は傍らにおいたリュックサックに手を伸ばして中から携帯ゲーム機を取りだした。
「持ってきたんだよ。買ったばっかりだから、まだあんまり進んでない。見てみる?」
「うん、見たいな」
 それから二人は、ひとつの携帯ゲーム機の小さな画面に、顔を並べて見入るのだった。モトヤ君が操作しながら、いろいろと説明してくれる。リョウスケの中では、こうやって自分の家でモトヤ君と遊んでいるうれしさや楽しさと、まもなくモトヤ君が帰ってしまうさびしさがまぜこぜになり、せっかくのモトヤ君の説明もそんなフクザツな気持ちでは上の空だった。そのうち、モトヤ君が帰ることばかりが頭を埋めて、さびしいだけになった。条件反射的にモトヤ君の言葉に対して応答するのだけれど、まったく気持ちが乗っからない。それというより、気持ちの起伏が生じないのだった。かけがえのない、いっときの遊び時間が過ぎていった。
「さて、と。おれ、そろそろ帰るよ」モトヤ君は話したり遊んだりしていた玄関のその土間に立ちあがる。
「もう時間かあ。しょうがない、しょうがない」リョウスケは自分にいいきかせるようにつぶやいた。
 外は、まだ薄暗くはないが、秋の夕明りの時刻だった。外に出て、ママチャリにまたがり別れのあいさつをするだけになったモトヤ君がこっちを向いている。リョウスケは歩み寄り、
「今日はほんとうにありがとう。来てくれてうれしかったよ」とうつむく。
「おれもうれしかった。また月曜日だね」
 その声を聞いてリョウスケは、表情が崩れないように気をつけて顔をあげる。
「またね、気をつけて」気がつけば、右手を差しだしていた。
「うん、じゃあまた」モトヤ君はその手をつかみ、かたく握手をした。
「暗くなるから、ほんとに気をつけて。家に着いたら電話して」
「うん、わかったよ。それじゃ」離した手を頭上に振りながら、オレンジ色の光に包まれたモトヤ君は国道のなだらかな下り坂を走っていった。
「じゃあねー!」遠くなるモトヤ君に、リョウスケは声を張り上げる。
 モトヤ君が見えなくなると、リョウスケはやっぱり寂しくなった。またいつもと同じ土曜日に戻った気がしたのだけれど、でもそれは一時で、今まで味わったことのない不思議な充実感が心を満たしはじめていた。

 それから二日後の月曜日の朝。授業が始まる前の教室で、リョウスケはモトヤ君の登校をまだかまだかと待っていた。自転車通学のモトヤ君は、いつも始業時間の十分前くらいに教室に入ってくる。バス通学のリョウスケはそれよりずっと早く、教室に到着している。モトヤ君はたぶん、なんらいつもと変わらない時間に教室にはいってくるだろう。待ち焦がれるあまり、ずいぶん遅刻しているみたいに感じられた。それは、土曜日にモトヤ君を朝から待ち続けていたときにはなかったいらだちだった。自分の席に着き、机をごしごしこすってみたり、そうかと思うと立ちあがって窓の方へいき、とくに目的もなく外を眺めまわしたり、そんな所在なげなリョウスケを見て、アスミちゃんが声をかけた。
「どうしたの?もう帰りたいみたいな感じなの?今日は放課後に図書室であの図鑑をいっしょに見ようっていったでしょ?まさか早退しないでしょうね?」
「違うんだよ。バスの中でもいったけど、モトヤ君、土曜日にうちに来たんだ。ちゃんと来てくれたんだよ。だからさ、モトヤ君、まだかなあって」まだそわそわしながら、アスミちゃんの顔だってろくに見ずにリョウスケは応えた。
「なにが〝だからさ〟なのかよくわかんないけど、そんなに浮ついてたら、転んだりぶつかったりして怪我するんだから、気をつけなさい」
 そう注意を受けたところで、教室の戸が開き、モトヤ君がはいってきた。とくに機嫌よくニコニコなどしていないし、ぷりぷり怒ってもいない、いたってふつうの表情で。リョウスケはすぐさま
「モトヤ君、おはよう!」と手を振り、小走りで駆け寄ろうとするのだが、途中で腰を机の角にぶつけて定位置から大きくずらしてしまった。それを元に戻していると、 アスミちゃんがリョウスケのその動作を眺めて
「〝だから、気をつけなさい〟っていったじゃない」と、笑いそうになりながらつぶやく。そうこうしているうちに
「おはよう」とモトヤ君はリョウスケのところまでやってきて、笑顔になった。
「もうなに、見つめあってにやにやしてるの、二人とも。気持ち悪いじゃない!」腕組みをしたアスミちゃんが、見たくないものを我慢して見ているような目つきで二人を見まわした。
 そこへ、上級生のジョウ君もやってきて、そして、つられてやってきたタケシ君が「おまえたち、なんかあったの?」と質問したのだけれど、その質問でリョウスケとモトヤ君のにやにやが、ますます嬉しそうに、はっきりしたものとなる。
「ぼくら、親友なんだ。親友になったんだ」
「そうなんだ。ぼくら、親友になったんだ」
 二人はこれまででいちばん活きいきとした表情をして、瞳を輝かせていた。頬が紅潮しているのは、嬉しさとすこしの照れのためだろう。二人はまた視線を交わすと、かたく握手して、それから肩を組んでみせた。
「いいわね、男の子って」もう飽きた、とでもいうようにアスミちゃんは自分の席へと戻っていった。
 ジョウ君とタケシ君は目を丸くしたまま事の次第を聞きたがったのだが、そこへ先生が教室にはいってきたのでお開きになった。
 それからの一週間、その年初めての雪が降った日があったが、リョウスケには輝けるあたたかな日々だった。たとえ二言三言だけだったとしても、言葉を交わしあう行為がこんなに楽しいなんて知らなかった。お母さんとの関係とはまた違う対等な立場。お互いにとても興味をひかれあいながら、信頼しあうなかでのモトヤ君とのやりとりを、リョウスケは身体全体を使ってやっているかのようだった。
 モトヤ君の声が、言葉が、表情が、しぐさが、波紋のようにリョウスケの身体中を波打っていきわたり、リョウスケはそれらを身体全体で理解する。そして、今度は瞬間的に生まれでるモトヤ君への反応が、リョウスケの体中から、声、言葉、表情、しぐさへとごくわずかな時間で逆流し、すぐさま凝固して発現する。
 モトヤ君はモトヤ君で、リョウスケと親友になってからの付き合いは、体中に心地の良い電流のようなものが走りまくるようなものだと感じていた。それは、二人の心がぎゅっと近くなったがゆえ、いろいろな影響を与えあっている証左だった。

 二人が親友となって十日目のことだった。モトヤ君はいつもと違って伏し目がちで、リョウスケが話しかけても、あまり目を合わさない。二時間目の算数の授業が終わって休み時間にはいってすぐ、モトヤ君は席を立ち、そよ風のようにリョウスケに近づいた。
「あのさ、ちょっと、いいかな。ええと」言い淀んでいるのがすぐにわかる。
「どうしたの?」
「なあ、トイレ、付き合わない?」こんなに挙動のおかしいモトヤ君ははじめてだった。廊下を並んで歩いていると、おもむろにモトヤ君がいった。
「リョウスケ君、おれ、引っ越すんだ、札幌に」
 リョウスケの頭にこの言葉はガツンと響いた。
「えっ?いつ?どうして?」混乱が始まっている。
「再来週の土曜日に引っ越すっていわれてる。兄ちゃんがちょっと調子悪いんだ。それで札幌で部屋を借りてみんないっしょに住もうって。母さんの仕事が決まったから、再来週にはもうあっちへいく」
「いやあ、急だよ」リョウスケは頭が真っ白で、それ以上は何もいえなかった。
「ごめん」二人の間に沈黙が訪れた。そのまま押し黙った二人はぎこちなくトイレで小用を足し、教室への廊下を重い足どりでたどっている。そんなところでモトヤ君が切り出した。
「リョウスケ君、おれさ、自転車できみの家に行ったろ?あの日にはもう引っ越すってわかってたんだ。あの日の何日か前に母さんにいわれてたんだ」
「なあんだ。だから無理してわざわざ来てくれたのかい?」
「実はそうなんだ。ためらってたら雪が降ってしまう時期だったから。あの日はほとんど遊べなかったけど、行ってよかったってほんとうに思ってる」
「ぼくも来てくれてほんとうによかったって思ってるよ。でも、どうしてなんだい?どうして急にぼくなんかの家に?」
「……おれ、あんまりひとと遊ばなくてさ。でも、それなりに寂しいとは思ってたんだ」気がつけば、モトヤ君の目が潤んでいた。
「それは、ぼくも同じだよ」リョウスケはモトヤ君の潤んだ目には気づかないふりをして、正面に顔を戻した。
「やっぱりそうかい?リョウスケ君も寂しそうにみえてたんだ。いや、気を悪くしないで。でさ、おれたち同学年じゃ二人きりの男子だろ?決意してさ、家に行くっていったんだ。よくわかんないけど、この一歩は、ただの一歩じゃなくて、大きな一歩になる。そんな気がしたんだ」終いのほうは力強く、でも照れながらモトヤ君はいった。
「三年生までは、モトヤ君とはわりと教室でしゃべったりしてた。クラスが上がってからちょっと離れてたね」申し訳なくてリョウスケの声が小さくなる。
「いや、いいんだ。おれ、自分が悪いの、わかってるから」
そんなことない、悪くないよ、ごめん、と心の裡でリョウスケは謝るのだった。
「じゃ、お別れ会か。モトヤ君、みんなに別れのあいさつしなきゃだね。おもしろいあいさつじゃないとだめだよ」空元気でけしかけた。
「そんなのできないよ。寂しいです、って正直にいおうと思う」モトヤ君は指で目をぬぐう。
「……ぼくだってめちゃくちゃ寂しいよ」リョウスケの空元気はどこかへ吹き飛んでしまった。
 その日の帰りに、先生からモトヤ君が転校することがみんなに告げられた。アスミちゃんも、ジョウ君も、タケシ君も、ほかのクラスメイトも誰もがおどろき、残念がっていた。

 モトヤ君とお別れをする日。教室では、フルーツバスケットをしたり、ケーキを食べたり、習いたての合唱をしたりしたし、ジョウ君とタケシ君などはネタバレの憂き目にあってみんなに笑われながらもハンカチを消す手品を披露してくれて、モトヤ君はとても喜んでいた。
 最後に一言、と先生に促されてモトヤ君が短いあいさつをすると、気丈にふるまっていたリョウスケの目からも涙がこぼれた。君の残してくれた思い出は、絶対に忘れることはないだろう。タケシ君もジョウ君も泣いていた。モトヤ君は必死に涙に耐えていた。
 帰り際、元気でね、忘れないでね、とクラスメイトが最後の言葉をかけるのに、うん、ありがとう、とモトヤ君が応じている。リョウスケが寄っていくと、モトヤ君は、そのうち札幌に遊びに来いよ、といってくれた。目をきらきらさせているが、表情は晴れやかだ。手紙書くよ、とリョウスケはいう。ときどき、電話していいかい?とモトヤ君がいう。そこへアスミちゃんが
「あんたたち、最後なんだから、ハグしなさいよ。握手だけじゃさびしいじゃない。さあ」とうれしい提案をしてくれる。
 二人はがっちりとハグをして、また絶対会おうな、とそのときはもう笑顔で約束をした。
 こうして、モトヤ君は札幌に引っ越していった。

 二年後の秋、リョウスケは札幌のモトヤ君のアパートの部屋へ向かう車内にいる。モトヤ君がお兄ちゃんの中古の軽自動車で迎えに来てくれて、そのままモトヤ君の家に向かっているのだった。久しぶりに会うモトヤ君も、リョウスケも、あの頃よりもずっと背が伸びていて、リョウスケよりもすらりとしたモトヤ君のほうは、顔つきも大人びてどこか凛々しさを感じさせた。モトヤ君のお兄ちゃんは度の強いメガネをかけた、見るからに温和そうなひとだった。車中では、よくリョウスケを気づかってくれて、学校はどうだい?とか、好きな食べものは?とか、いろいろと質問をしてくれたり、電話や手紙じゃわからない、最近のモトヤ君の様子を教えてくれた。
 たまの電話でわかってはいたのだが、モトヤ君は声変わりしていた。リョウスケはまだ二年前のままの声だったので、低音のモトヤ君の声を実際に聞くと、リョウスケにとってはその〝大人を感じさせる響き〟が二人の距離を遠くするような心持ちがした。でも、なにせ、別れた頃から、ふたりの友情の熱は冷めていなかったから、その声の響きは、同時にモトヤ君との新たな関係の予感を感じさせもしたのだった。
 部屋に着いたときにはもう星空で、モトヤ君のお母さんが
「よく来てくれたね」とやさしい笑顔で迎えてくれた。おとなしそうだけれど、きれいなお母さんだった。
 すぐに夕飯になり、モトヤ君のお母さんは、餃子をたくさん焼いてくれた。かりかりに焼けた粒の大きめの餃子を箸でつまみ、酢醤油をつけてがぶりと噛むと、中から熱い肉汁が飛び出してくる。リョウスケは、はふはふと口の中で何度も転がしながら、テーブルを囲むみんなにそれぞれ「おいしい!」といい、口の中の熱さのために、そして団らんの温かさのために涙を浮かべた。
 その夜は、布団にはいってからも遅くまでモトヤ君とおしゃべりをつづけた。暗い部屋の中でずいぶん話が弾んだのだったが、明日は朝から動物園だからもう寝ようとお互いにいいあって、それから静寂に包まれるのだけれども、しばらくするとどちらともなくまた話を始めてしまう。ちゃんと寝付くまでそれを何回も繰り返してしまった。
 それでも、あくる日の動物園は、冴えた秋の空気に頬を撫でられっぱなしのためか、リョウスケはぜんぜん眠気を感じなかった。
 ハケでひいたような薄い雲がすうっと空に膜を張っている。するどい鳴き声を聞いてそばのサル山を振り向くと、すばやく走り回る数匹のサルが見える。ケモノの匂いが混じった冷たい空気を思いきり吸い込むと、今日は特別な日なんだなあという実感がわいた。近くに囲われているキリンたちの、木の葉を食むゆったりとして機嫌のよさそうな一連の動きは見ているだけで気持ちよかった。
 モトヤ君が行こうというので、エゾヒグマ館にはいった。たくさんのヒグマたちが、退屈そうにそこらに座ったり歩いたりしている。
 リョウスケは、モトヤ君を待ち続け、そして来てくれた日のことを思い出していた。
 なんとなしに見つめていたクマの一頭と目があったような気がして、視線をモトヤ君に向けた。リョウスケの視線を受けたモトヤ君の、なに?という表情を見て、
「……ほんと、クマはこわいね」とリョウスケはしょぼしょぼした苦笑いの顔を返したのだった。

【終】
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『きみの家へ、遊びにいくよ。』 前編

2017-10-07 18:00:02 | 自作小説6

「ありがとうございました」
 運転手さんに挨拶をして、リョウスケはただひとり、〝スクールバス〟とみんなが呼んでいるワゴン車から降りた。紅葉が深まる山間の、彼の家のある地区が終点だ。もとは化成工場の敷地だった空き地を、バスはぐるりと弧を描き、砂利をザザザッとタイヤで掻きならしながら、きらきらした夕明りの中、引き返していった。
 今日も放課後は図書室に長居した。六時間目の授業が終わると、クラスメイトの多くは待ってましたとばかりに一目散に下校していく。
「じゃあね、また明日」簡単な挨拶がクラス内で交わされる。
「なあ、これからおれの家に遊びにこいよ」と誰かが誘ってくれる日もある。そんな日は、友達のお父さんかお母さんが夜にリョウスケの家まで送ってくれる手はずが整っている日だ。
 たとえば、午前授業の日には、リョウスケは、ジョウ君やタケシ君がぼくを家に遊びに誘ってくれないかなと淡い期待を抱きつづける。誘ってもらえたときには、その喜びはあふれんばかりだが、その心の中身を表にさらすまいとした。我ながら、さもしく感じたからだ。遊びの誘いに飢えている。でも、自分から遊ぼうとはいえない。
 リョウスケには家族がお母さんしかいなくて、お母さんは夜遅くまで仕事をして、たいがい家にはいない。スクールバスを逃すと帰る手段がなかったのだ。つまり、友だちが自らの家にリョウスケを遊びに誘うことは、ちゃんと彼を家に送り届けることとセットだった。だから、たまに、はずみで
「ぼくもそのゲーム、やってみたいなあ」などと、秘めたままにするべきだった、遊びに行きたい、という気持ちが、暗に、表にあらわれることがあったときには、そんなの図々しいよな、という後ろ暗い思いがその裏にぴったり張り付いていないことはなかった。
 授業が終わってからスクールバスの発車時刻まで遊ぶにしても、それはそれで中途半端な長さの時間で、ちょうど遊びに気分が乗ってきたかなというところでサヨナラになるものだから歯がゆかった。だから、歯がゆい気分を味わうのがつらくなって、そういうことのないように、いつしか、図書室が放課後のお決まりの避難所になった。その避難所で、読書の合間に、いっこ上のアスミちゃんと声をひそめてあれやこれや話をする。たいていリョウスケは聞き手となって、アスミちゃんの得意なおっかない話を聞かされた。お化けの話、ひとさらいの話、ひとが地球に住めなくなる話、毒虫の話、殺人鬼の話などなど、アスミちゃんの話すおっかない話は、まるで百円回転寿司のメニューのようにバリエーション豊富だった。
 リョウスケは家でひとりでいるときが多いから、宇宙人がUFOに乗って人間を誘拐しにくる話を聞いたときには、その日からしばらくの間、帰宅しても、お母さんが帰ってくるまでカーテンを閉じ、暗い部屋の中で息を殺しつつ毛布にくるまってひとりの時間をやりすごすことしかできなくなった。
 アスミちゃんは、話の最後にはこちらの目をじっと見据え、能面とでも表現したくなるまっさらな表情になって「だから、気をつけなさい」といい、読みかけだった本の世界に戻っていく。
 でも、アスミちゃんの話は、リョウスケにはどう気をつけてよいのかわからないような話ばかりだった。たとえば、毒虫が家に出たら丸めた新聞で叩けばいいといえば、アスミちゃんは、毒虫は寝静まったころに出てくるの、といい、それじゃ、部屋全体をいぶすタイプの殺虫剤を使って、目の前に出てこなくてもそれでやっつければいい、とあらたなアイデアを投げかければ、その毒虫はどんな殺虫剤もきかないの、とどう返しても打ち消されてしまう。
 地球に人間が住めなくなる話では、環境汚染でオゾン層が無くなって有毒な殺人宇宙線が降ってくるの、とアスミちゃんはいい、まるで知識のないリョウスケは、でも、先生もお母さんもテレビにでてくる大人たちもそんなこといわないし、心配していないみたいだよ、といえば、大人はあきらめてるの、子どもをパニックにしないように子どもの前ではそんなことはいわないで、大人たちだけのときに本音を出しあって恐れてるの、と返してくる。そして、「だから、気をつけなさい」と締めくくるのだった。
 このように、アスミちゃんの話すおっかない話はつねに、とりつくろえない決定的な段階まで進んでいた。でも、気をつければ大丈夫なのかもしれない、という希望を感じさせる「だから、気をつけなさい」が毎度、話の最後にくっつけられることで、深刻さがかなり薄まったのは事実だった。
 リョウスケにとって「だから、気をつけなさい」は、その言葉上の意味を愚直に受けとめるというより、現実に戻るためのキーワードとしての役割を持っており、これがなければアスミちゃんを嫌いになっていたんじゃないかと思えたほどだった。

 四年生から六年生までをカバーする複式学級のクラスで、スクールバス組は四名だった。リョウスケは四年生でスクールバス組、ジョウ君とタケシ君は六年生で自転車通学組、アスミちゃんは五年生でスクールバス組。小学校からリョウスケの家までは20km近くあり、アスミちゃんの家は12kmくらいだった。
 リョウスケは、ワゴンの席でもアスミちゃんといつも同じ後列に座った。もう二人のスクールバス組はリョウスケたちよりも早く降りるため、中列に座った。低学年のスクールバス組の子たちは、リョウスケたちの便よりも早い便で帰るので、いっしょになることはまずなかった。一斉午前授業の日などは、スクールバスのほかに先生の車をつかって、子どもたちを一斉に帰すことがあった。
 他愛のない話のなかに、今日もアスミちゃんはおっかない話をひとつ盛り込んだのだったが、でも、リョウスケの気分は、いつもの、怖さで身が引き締まるものとはまったく違って、おっかない話だって上の空だった。なぜなら、お母さんへの、うきうきする報告があったからだ。そして、その報告後にお母さんからある許可をもらわなければならなかった。
 築四十年の平屋一戸建てがリョウスケの我が家だった。鍵をあけてするりと家の中に滑りこみすぐさま鍵をかけた。もう初雪が近い時期だったせいで、いくら日光の射しこみの良い家でも、日中、家を空けておくと外とあまり変わらないくらいの室温になっていた。指が引力を感じて吸いつけられるように、リョウスケはまっさきにストーブの点火ボタンを押した。上着はまだ脱げない。居間の隣に位置する自室の机の上にランドセルを置く。その瞬間にだって、明日が待ち遠しくてたまらなかった。
 明日は土曜日で、学校は休みだ。そして、はじめて友だちが家に遊びに来るかもしれない。今日の昼休みに同い年のモトヤ君が、
「明日、リョウスケ君の家へ遊びに行っていいかな?自転車で行くから」と突然いい放ったのだった。
 自転車通学組のモトヤ君は、リョウスケと同じくお父さんがいなかった。そのかわり年の離れたお兄ちゃんがいて、札幌の親戚の家に居候しながら高校へ通っているらしい。
 お兄ちゃんはすごく勉強ができるひとのようで、四年生にあがったころからモトヤ君はそれを自慢し始めた。まるでお兄ちゃんは日本一えらいひとであるかのように、モトヤ君はほめるところで語気を強めて、よく誇った。リョウスケもクラスのみんなも、初めのころは、へえすごいんだね、と素直に応えていた。でも、同じお兄ちゃん自慢を何度も聞かされるし、お兄ちゃんがすごいから自分もえらいんだといっているようにも聞こえて、それが、他にとくに嫌がられるところのないモトヤ君の性格の玉に瑕となっていた。それも可哀想にも少々深めの瑕だった。
 だんだん、モトヤ君はクラスメイトに話しかけられる機会が減っていき、リョウスケも、モトヤ君が嫌いになったわけではなかったのだけれども、少し面倒くさくなってしまって好んで話しかけはしなかった。モトヤ君は、そんな周囲の状況の変化に気づかなかったのか意に介さなかったのか、それからもそのまんま相変わらずで、クラスのみんなにはちょっと孤独に見えもしたのだった。
 そんな一匹狼めいてしまったモトヤ君が、放課後になるなりリョウスケのもとへやってきたのだ。モトヤ君は、学校から20kmほど遠くにあるリョウスケの家へ自転車で遊びに行っていいかというのだ。リョウスケは一瞬、なにをいわれているのかまったくわからなかった。まるで想定していない意外なことだったからだ。数秒後にやっと言葉の意味をちゃんと呑み込めたとき、悪い気持ちなどはまったく起きなかった。それどころか、来いよ!来いよ!とすぐさまウェルカムな気分になっていた。
 たとえ家に来たモトヤ君が、またおきまりのお兄ちゃん自慢を始めたとしたってかまわない。家に友だちが上がる状況を想像すると、頬や耳がほてり、わくわくした。部屋でモトヤ君と話をしたり、ゲームをして遊ぶことを考えると、全身に力がみなぎって、手足がちょっとふるえるほどだった。
 ただ、お母さんは土曜日も仕事で家にいないから、友だちを呼んでかまわないかどうか許可をもらわないといけなかった。きっと、いいよといってくれるだろうけれど。
「帰ってからさ、お母さんに訊いて、それから電話するから待ってて」リョウスケは、はやる気持ちを精一杯おさえてやっといった。そして
「お母さん、八時過ぎくらいに帰ってくるから。たぶん大丈夫だと思うけど」とつづけながら、手早く机の中からいつも入れっぱなしの、何かあったとき用のノートを取り出し、一番うしろのページを破って簡単な地図を書いて説明し、モトヤ君に手渡した。モトヤ君は、うんわかった、電話待ってる、と真っすぐな目で応え、じゃあとノートの切れ端をつかんだ手をあげて教室から去っていったのだった。
 お母さんが帰ってきて晩ごはんになるまで、まだけっこうな時間があるので、六時過ぎになるとリョウスケは台所に置いてあるちいさな市販のバターロールをひとつ食べた。
 いつもなら、ゲームをしたりアニメを見たり宿題をしたりしながら晩ごはんのメニューを夢想して過ごしているのだけれど、今日は帰宅してからずっと、モトヤ君が来る、モトヤ君が来る、と頭の中で繰り返しながら落ち着きなく家じゅうを歩きまわっていた。じっとしているなんてできないし、ましてやゲームやアニメや宿題に集中することだって無理だった。モトヤ君が来る、お母さんにいう、モトヤ君が来る、お母さんにいう。バターロールだって、放し飼いのニワトリみたいに居間をぐるぐると歩きながらかじった。
 リョウスケの想像の中では、お母さんは二つ返事で「遊びに来てもらっていいわよ」と許可をくれて、それが嬉しさに花を添えたのだった。
 つけっぱなしにしてしまっていたテレビの中では、リョウスケと同じくらいの背格好の子どもたち6人がひな壇に座り、王子様やお姫様を模した安っぽくてけばけばしい派手な衣装を身にまとって話合いをしていた。
 進行役のお兄さんが「ひとりでゲームをしているのと、友だちと外で遊ぶのと、どっちがいいかな?その理由も教えて」と質問をした。
 一番太った子どもがすばやく手をあげて、
「ぼくはゲームがいいです。お菓子を好きなだけ食べながら一日中ゲームできたらきっと幸せだからです」と答えた。続いてメガネをかけた肩までの髪の女の子も、
「わたしもゲームがいいです。お母さんにもうやめなさいっていわれずに、好きなだけゲームをしてみたい。それくらいゲームが好きです」といった。
 彼ら子どもたちのなかでは、ゲーム派は多かった。ゲームじゃなくて漫画を好きなだけ読みたい、という、もともとの質問の選択肢からそれた本音をこぼす子がいて笑いを誘った場面もあったが、友だちと外で遊ぶのがいいとした子はひとりだけだった。
 リョウスケは、ひとりでゲームするほうがいいなんてみんなわかってないな、それほどおもしろいものじゃないのに、と心の裡でつぶやき、テレビを消した。リョウスケは、そのテレビで、モトヤ君が遊びに来ることにちょっと水を差されたような気分になったが、モトヤ君といっしょに家でするゲームが、このたびの大きなプランのひとつだったから、明日はゲームもするし、友だちとも遊ぶし、良いとこどりだ、と気持ちをまとめて、やっぱり興奮した気持ちがくじかれることはなかった。
 八時をちょっと過ぎた頃に、食品工場からの小型送迎バスのエンジン音が家の前で止まり、お母さんが帰ってきた。玄関まで小走りででてきたリョウスケはいつものように、
「おかえりなさい」といったが、うわずった声で早口になってしまったのはいつもどおりではなかった。
「うん。すぐにごはんにするからね。今日は学校どうだった?」靴を脱ぎながら、お母さんの言葉のほうは普段と変わらない。
 リョウスケは、必要な〝間〟と自分の呼吸の合うタイミングを待っていた。そのタイミングは、台所でお母さんが冷蔵庫から野菜類を取りだしているときにやってきた。
「ねえ、お母さん。明日なんだけど」
「なあに?誰か、遊びにおいでっていってくれたの?」
「ううん、そうじゃなくて、あのさ、モトヤ君いるでしょ、同い年の。モトヤ君が自転車で遊びに行っていいかって」
「ええ?モトヤ君の家からうちまで20km以上あるでしょ?小学四年生がそれを自転車で?それは無理よ、危ないし。モトヤ君にはいいっていったの?」
「いや、お母さんに訊いてから電話するっていってある……」
「それじゃ、お母さんから電話してあげるから、さ、リョウスケは先にお風呂にはいっちゃいなさい」
「ねえ、お母さん、ほんとに無理?モトヤ君に遊びに来てほしい……」
「あんた、考えてもごらんなさい。坂の多い20km以上の道のりを自転車でなんて、中学生でもしんどいわよ。疲れてふらふらしているところに車が走ってきたら危ないじゃない」
「でも……」言葉が詰まってしまった。予想していた反応と実際の反応がまったく違い、リョウスケはみるみるしおれて目にはうっすら涙まで浮かんでしまっていた。
「ねえ、リョウスケ、わかって。うちは車がないからモトヤ君を送り迎えできないし、モトヤ君のところもおんなじだから、うちに遊びに来るのは無理よ。学校でバスの時間までいっしょに遊ぶわけにはいかないの?」
「お母さん、わかってないよ。うちに来て遊ぶってことが重要なんだよ。だいたいさ、うちに誰か友だちが遊びに来てくれたことがあったかい?」
 リョウスケの涙がすうっと頬を伝った。それでも凛としてまっすぐその場に立ったままのリョウスケをお母さんは抱きしめた。
「ごめんね、リョウスケ。でも、無理はいえないのよ。お母さん、電話しておくから、ね、お風呂に入って機嫌を直して」
 リョウスケは胸がきゅうときしむのを感じながら、それからは無言で視界をにじませながら、浴槽に湯を張り、着替えを用意して、これ以上涙を流すまいとしながら、浴室に入った。
 湯に浸かって大きく息を吸ったり吐いたりしてみても、切ない感覚は喉の奥に溜まったまま抜けていかなかった。ああ、あんなに楽しみにしていたのになあ!でも、これで普段通りなんだし。別にひどいことが起こったんじゃないんだから。ため息をついて、まるでなにかの手違いでごはんがあたらなかった動物園のパンダみたいに、身体の重さのままに、浴槽に身体をあずけてぐったりとした恰好になった。
 風呂あがりの髪を乾かし、パジャマ姿になって居間に出てくると、テーブルに揚げたてのコロッケと野菜サラダの皿が並んでいた。リョウスケはコロッケが大好きだから、悲しみの名残を宿していた心のその窓にやっとあたたかな光が射しこんできたような気持ちになった。
 そこへ、お母さんがごはんをよそった茶碗を持って台所からやってきた。
「モトヤ君、来ることになったから。明日の九時には家を出るって。うちに来るまでだいぶ時間がかかりそうよ」
「えっ、ほんと?来るの?」今度は驚きと喜びで声がつかえてしまった。
「そう。電話でモトヤ君のお母さんと話したんだけど、どうしても、っていうのね。モトヤ君、そうとう乗り気みたいだね」
「やったー!」
 その日のコロッケは、いつもの何倍もおいしくて、ごはんをおかわりした。キャベツもちゃんと食べなさいといわれて、こっちはがんばって食べたのだった。
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小説発表の告知その二

2017-10-06 22:19:06 | days
明日から、今年の冬に書いた短編の二作目を公開します。
題名は、『きみの家へ、遊びにいくよ。』。

子どもが主人公の小説で、
前回の『ヒドゥン一九九四』の半分くらいの分量になっています。
よって、前後編、二日間でのアップとなります。
ぜひ読んでみてください。

今回、アップするにあたって、
このブログ記事に編集するのにさらーっと、
ほんとうにさらーっと読みましたが、
ぼくとしては去年のものよりもうまく書けている気がしました。

また今年の年末から来年春にかけてなにか書く予定なのですが、
これら今年の二作品をこえていきます。
いろいろ考えながらですね。

そんなわけですが、
また明日、アクセスよろしくお願いします。
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『螢・納屋を焼く・その他の短編』

2017-10-04 12:08:09 | 読書。
読書。
『螢・納屋を焼く・その他の短編』 村上春樹
を読んだ。

ひさしぶりに、村上春樹さんの小説を読みました。
文章も発想も、攻めてるな、という印象が強かった。
まだデビューから数年しかたっていないころの短編集です。

「螢」は『ノルウェイの森』の原型にもなっている短編で、
読んでみると、なんとなく懐かしさを感じました。
そしておもしろかったし、
その攻めた具合についてばかりが気になって読んでしまいましたが、
それも小説を書くための勉強というか、
「こういう方法論もあるんだね」ということを知るというか、
もうこういった作品はあるから同じものはつくらないようにするだとか、
つまりは、自分の創作を、
より自由にするための読書体験になったかなあ、と思います。

どれもよくできているし、
その、意識と無意識の狭間でしかとらえられないような、
意識の上ですれすれだといった体でとらえられるような、
そんな感覚的なものを描写する著者の力はさすがだなと
再度、感じ入りました。

お気にいりは「めくらやなぎと眠る女」です。
短編のすべての描写、文章に無駄があってはいけなくて、
すべてが繋がっているべきだ、みたいな方法論があるように、
なんかで読みましたが、
この短編にはそういったところが希薄でしたね。
老人たちがバスに乗り合わせていることに、
もしかすると深淵な意味があるのかもしれないですが、
僕にしてみればデザインとか構図的な配置だとか、
そういう種類の文章の並べ方に思えた。
わかりやすい伏線であるとか、
そういった意識で簡単にとらえられるような、
意味上でのつながりばかり短編を編まなくても、
これだけ、「読める」小説ができあがるじゃないか、と
そんな感慨を抱きました。

文章もさっぱりしているし、
裏表紙に「リリックな」と書かれていました。
ぼくがさきほど、構図的だとかデザインだとかいったのを、
もうちょっと咀嚼して考てみると、
リリックに近くなるような気もします。
そんな感じで、
村上春樹作品の気持ちよさを感じらる作品集でした。


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『ヒドゥン一九九四』 最終話

2017-10-02 18:00:01 | 自作小説5
 明けたその日の午後、一通の手紙が届いた。差出人は折田みさおとあったが、きっと大道みさおのことだと直観した。住所は夕張市ではなく札幌市だった。林が僕の電話番号を入手したのに続いて、今度は大道が僕の住所を知ったのか。実家に問いあわせた以外に考えられないから、今になって父の対応が軟化し始めて漏れ出ているのだろう。本来なら、そんな最近の父の対応に苛立って文句を言いに電話をかけるのだが、ただ今回に関してだけは自分勝手にありがたく思った。なぜなら、大道と連絡を取りあうのも悪くない気がしたからだ。なにせ、近頃見る夢によく出てくるのだから。大道への親近感を思い出し、懐かしくも温かな気持ちで手紙を読み始めた。


 お元気ですか?
 結婚して「折田」に名字が変わった、大道みさおです。わたしのこと、覚えていてくれてるといいけれど。
 だって君は、高校卒業以来の約二十年間、同窓会に顔を出したこともないじゃない?林君には、君は年賀状のやりとりさえ誰ともしなくなったって聞いています。林君は覚えてる?念のために書くと、生徒会長をやった林君だよ?

 わたしは君と小学生から高校生までいっしょでした。
 小学生のころは、実はけっこう君と話したことがありましたが、覚えていないかな。
 でも、中学に入った頃になると、男子と話をするのが恥ずかしくなってできなくなったんです。純情少女ですね。そんな昔の純情な自分を、今のわたしは抱きしめてあげたくなります。
 わたしの見ていた限り、君も純情少年でした。わたしはずっと君のことを見ていました。君が富川悠香を見ていたのと同じように。
 ……どきっとしたかな?

 わたしは、二十歳の同窓会のとき、思いきって、それまであまり話したことのなかった悠香に話しかけてみました。君がずっと見つめていた富川悠香はどんな女の子なんだろうと興味があったからです。
 もちろん、彼女への嫉妬心もありました。でも、高校を卒業して、君に会えなくなって、嫉妬していてもしょうがなかったのです。それよりも、君の視線を独り占めしていた富川悠香がどんなひとかを知りたかった。

 悠香は、大人しそうな見た目そのままに人見知りで、でも、他人に圧力を感じさせないやわらかい雰囲気をもつ女の子でしたよね。ちょっと話をしただけで、わたしは悠香を好きになったし、彼女もわたしを気に入ってくれて、それからというもの、電話やメールをするようになり、二人で映画を見にいったり、温泉宿へいったりしました。意気投合しちゃったんですね。
 あの頃は、二人とも札幌に住んでいました。悠香は大学の看護科に通っていました。わたしは事務の仕事をしながら、社会保険労務士の勉強をしたり行政書士の勉強をしたり、とにかくなにか資格を取ろうと躍起になっていました。

 大学を卒業した悠香は、札幌市内の病院で看護師になりました。はたから見ていても、真面目に仕事に取り組んでいるように見えました。でも、四年くらいで、夜勤などの勤務体系や人間関係に疲れてしまったようでした。
 彼女の身体は、強いと言えるほどではなかった。むしろ、やっと普通と言えるくらいだった。
 ある日、久しぶりに悠香とお茶していると、「夕張に帰ろうと思ってるの」と打ち明けられました。実家の病院の手伝いをすると言うのです。もうその頃には、悠香と私はともに仕事が忙しく、なかなか遊んだりできなかった。だから、札幌と夕張に離れても、それほど変わらないのではないか。というより、もしかすると、悠香の仕事が楽になる分、週末には時間の都合がよくなって、これまでよりも会うことができやすくなるのではないか。札幌と夕張は車で一時間半ちょっとくらいの距離だし。楽観的なそんな考えを悠香に言えば、悠香も「そうだよね」と微笑んでくれました。

 その後、実家で働く悠香はみるみる元気を取り戻していきました。血色もよくなったし、頬もふっくらとしました。まるで、高校生の富川悠香に戻ったみたいでした。
 夕張に戻った悠香と、君の話をしたことがあります。いったい悠香は、ひっそりと自分を見つめ続けていた君のことをどう思っていたのだろうと知りたかったから、わたしから話題をふりました。わたしはずるく立ちまわって、わたしが君を見つめ続けていたことは伏せておきました。そうじゃないと、過敏な悠香のことだから、なにか言葉を濁し始めるかもしれなかったから。
 悠香は、君をはっきりと覚えていました。なんと、君のことが好きだった、とまで照れながら告白しました。
 わたしはびっくりして、
「悠香はいつも一緒に駅まで歩いて帰っていた佐藤君とつきあっていたんじゃなかった?」と訊きました。
 悠香が言うには、佐藤君には告白されたことがあったけれどそれは断って、あくまで友だち付きあいでいてください、と強くお願いして、佐藤君もそうしたのだそうです。お互いの家に行ったり来たりしたこともなかったそうです。

 驚いたでしょう?

 君はわかったかな?言い寄られても撥ねのけた悠香のこころに誰がいたのかを。

 今回、手紙を書いたのは、このことが言いたかったからではありません。これらのことは、いわば、前談なんです。でも、この長い前談までを含めて伝えないといけない。それが悠香のためなんだ、とわたしは考えたから。

 悠香は一年ちょっと前くらいから身体を壊しました。さきほど書いたとおり、彼女の身体は強くないのです。とくに寒さは堪えるみたいでした。
 そして、今月にはいって、急激に加減が悪くなっていきました。それは、あっけにとられるくらいすぐにでした。悠香の意識がなくなったと悠香のお母さんから電話をもらい、入院していた札幌の病院に駆け付けたときには、もう逝ってしまったあとだった。
 亡くなる直前にはうっすらと意識が戻って、見守る両親を眺めてわずかに微笑んで安らかに逝ったそうです。わたしが見た悠香の顔も、やせ細ってはいたけれど、とても穏やかでした。

 これが、君に伝えたかった話です。
 君には受けとめてほしい。
 できれば、悠香の実家に行って悠香のために線香をあげてほしいくらいです。ひとりで行きにくければ、わたしが付き添います。私の番号は090-xxxx-xxxxです。

 もしも、今の君に、昔の君の名残があるなら。

 それじゃ、考えてみてください。

 折田みさお(大道みさお)


 僕は嗚咽していた。
 わななく手で握りしめた手紙。高校生の頃の僕は、情けなくて、間が悪くて、見るべきものが何もかも見えていない最低の人間だった。それどころか、二十年経った今の僕も、ほとんど最低な人間のままだった。
 とどまることなく涙が溢れ、洟やよだれまでたらし、膝から床に崩れ落ちて泣きつづけた。

 気分が優れなかった。夜半過ぎても寝つけず、ベッドにうずくまっていた。後悔の念が、つよく、つよく僕を責め立てた。
 もしも、富川と僕がうまくいっていたとしたら、今の現実とは違う現実の中にいたはずだ。可能性としてあった別次元の現実も、大道の手紙を読んだあとならば、たんなる夢想以上の、選び損なった、手の届くところにあった現実のように思えてくる。
 そのパラレルワールドでは、僕が今歩く世界とはなんらかの運命の変化による大きな違いだってあっただろう。僕と富川が触れあう時間を持つことで、富川が若くして病に倒れる運命だって変わったかもしれない。
 僕が選びとったのは、外れくじのほうの世界。結果として、誰も幸せにしない、愛がひからびていく生活を送るほうの未来を選択した。
 気がつけば、虚無感が僕を取り囲んでいた。濃い霧のように遠回しな毒。そもそもの始まりも、虚無感からだった。虚無感に対して、ほとんど抵抗もせず、打破する方法を考えもせず、それにどろりと浸かってきた。僕は自分の生活を、虚無感に蝕まれるままにぼんやりと遂行していく技術だけを覚えていった。虚無感と妥協してだした答えしかなかった。
 こうして虚無感の霧の奥まで見通していくと、突然、言いきれないほどの腹立たしさが湧き起こってきた。感情にかられるまま勢いよく身体を起こしてテーブルを脚でひっくり返す。湯呑茶碗や急須が割れ、破片が台所まで飛び散っていった。CDラックを床に倒して、何枚ものCDがケースから飛び出して床に転がった。なかには砕けたものもあった。虚無感の膜を突き破ってまでとめどなくこころに噴きだす怒りを抑え、身体を震えさせながら、僕はその場に立ちつくした。
 こんなことをしたってなにも始まらないし、なにも変わりもしない。だからといって、諦めたくない。諦めることは、虚無感に屈することだ。ベッドに戻り、ゆっくりと、これまでみてきた一九九四年の夢を振り返る。夢の中身の半分くらいは忘れかけているけれど、地下繁華街のことや、空中遊泳のことははっきり覚えている。そして、駅へと歩く富川のことも。彼女の隣は佐藤ではなく、僕であるべきだったのだ。
 目を閉じて、また夢の中身を反芻する。何度も何度も富川を想いうかべるが、その顔だけがよく見えない。
「今回が最後だからな」鍋島先輩がやさしく僕の肩を叩いた。地下繁華街の中央通路にいる。大道みさおもいた。
「あの、大道……」声が小さくなってしまった。大道は無言でこちらを振り向く。
「ありがとうな。ほんとうにありがとう」頭を下げ、気持ちを込めてそう言った。
「なあによっ!」と大道は手で僕を叩く仕草をし、はじめ驚くように笑っていたが、そのうち顔を手で覆い洟をすすり始め、ついにはしゃくりあげるのだった。
 鍋島先輩がそんな大道へと歩み寄っていって、何か小声でささやく。大道はうんうんと頷いていたかと思うと顔を覆う手を離し、その表情は八の字に眉を下げながらも笑顔だった。
 鍋島先輩が「ちょっと落ち着こう。またそこの食堂に入ろう」と誘うので、三人でのれんをくぐった。テーブル席に着き、なにか飲み物でもと考えていると、店員の女が手に水を持ってやってくる。
「いらっしゃい」明るい声だった。それも、聞き覚えのある声だ。おもむろに店員の女の顔を見れば、やはり知っているという覚えがある。歳は四十くらいで、髪を頭の上に結い、花柄のワンピースにエプロン姿だった。その恰好にすら、強い既視感があって、あっ、とこころの中で小さく叫んだ。母だった。若くて、まだ健康な頃の。
「ここ、よく見つけたね」と母が言うので、この店のことか、地下繁華街のことか、とわからずにいると
「そうじゃないの、ここのこと。ここまるごとのことよ」と教えてくれた。
「母さん。母さんがこんなところで働いていたなんて、全然知らなかった」
「まあね。ベテランってほどじゃないけど、まあまあ長いのよ」
「そうなんだ。元気そう……」そこまで言うと、鼻の奥がきゅうと痛んで声が出なくなった。目にはいつもより多くの水分が潤ってきている。
「あんたも元気にやってるね。そうだ、今日はね、メロンがあるから食べていきなさい」
 てきぱきと家事をこなしていた昔の母そのままだった。話し方だって、ちょっと早口だった昔のままだった。
 鍋島先輩と大道は、メロンが食べられると聞いて、やったー!とばんざいしている。
 すぐに、四分の一サイズにカットされたメロンを大きなお盆に三皿のせた母が戻ってきた。
「どう?いいメロンでしょう?〝秀〟だよ、〝秀〟」〝秀〟に格付けされた極上の夕張メロンのオレンジ色の果肉が輝いて見えた。
「わあ、おいしそうだね」向かいの大道がスプーンを手に、早く食べたそうにもじもじしている。
「さあみんな、食べなさい」母がそう言うと、僕ら三人はいただきます、と挨拶をして食べ始めた。柔らかくてとても甘い。おいしい。
「母さんね、あんたが自分の進みたい道を、しっかり歩く姿をずっと見ていたかったの。いろいろとね、思うようにならないときって人生にはあるものなんだけど、そういうときにもめげないで、また立ちあがって前をむいてくれるひとになってくれたらなあ、ってあんたを育ててきたんだよ。もしもね、母さんがあんたの足手まといになって、母さんに関わると前を向けないようなことになったら、迷わずあんたは自分の道を行きなさい。母さんはあんたの世話になるためにあんたを産んだんじゃないんだからね。それでも、母さんは幸せなんだから」
「ありがとう、母さん。感謝してるよ」それだけ応えるのがやっとだった。
 母さんに会えて嬉しかったよ、これだけはどうしても恥ずかしくて言えなくて、涙をこらえつつ味わうメロンの味が、よくわからなくなった。

 母さんにさよならを言い、母さんからは「しっかりね」と背中を押され、地下繁華街から地上に出た。
「ここからはもう付いていってやれないんだよ。しっかりな!」鍋島先輩が喝を入れてくる。
「がんばって」大道も、弾ける笑顔で手を振ってくれた。
 これから僕が成すべきことはもうひとつしかない。ひたすらに信じて高校へと歩いた。
 校門に人影があり、近づくと富川がひとりきりで立っているのがわかった。僕は声をかける。勇気など要らなかった。
 富川は幾分上目遣いに、警戒したような視線を僕に向けた。
「きみと話がしたいんだ。駅までいっしょに歩かないかな。というか、いっしょに歩いてほしい。お願い」
 彼女は意外そうな表情を浮かべて、でも、「うん、いいよ。ちょうど帰るところだったから」と頷いた。
 僕は富川悠香と並んで学校の敷地を出た。どこから話そう、どこまで話せばいいのだろう、やっと二人きりになっても、なめらかにはいかない。
「一年生のときに、同じクラスだったよね?覚えてる?君に数学の問題の解き方を訊かれたことがあったんだ。二次関数のグラフの書き方だった。その問題が片付いてから、君とちょっと話をした。他愛のない雑談だったんだけど、僕は嬉しかったんだよ」
「わたしも覚えてる。あなた、須藤先生のちょっとした悪口を言ったでしょ、もう」
 富川にあのときのおどけた僕の印象は良くなかったのかなあと不安になって彼女の顔をのぞきこむと、可笑しそうに頬を緩めていた。その微笑みが愛くるしかった。
 そのときの僕は、これが夢であることを承知していた。だけれど同時に、一連の一九九四年の夢はふつうの夢ではないことも理解していた。これらの夢のなかには、一九九四年に隠してきたもの、隠されてきた多くのものが、その長い隠ぺい期間から解き放たれて表に出てきたように僕には思えた。さらに不思議ではあるけれど、三十九歳の僕が生きる現実と密接にリンクしていると感じていた。こうして夢を生きるうちに、現実の僕のなかでなにかが秘密裏に進行していく。僕のなかに知らないなにかが築き上げられていく。それは予感に似ていたけれど、確信だった。
 富川とこうやって肩を並べて歩いていると、隣で彼女のたおやかさをひしひしと感じた。彼女はしっとりとしてほんのり甘い空気をまとっている。その瞳は幽かな憂いを帯びていてきれいだった。肩までの黒い髪を素直に褒めると、彼女は何も言わずうつむいて頬を赤らめた。
 今しかなかった。この夢しかなかった。富川に正直な気持ちを打ち明けるのは、この機会しかなかった。
「あのさ、急に変なことを言うけどさ、僕ってね、ずるい人間なんだよ。思いあがって言うわけじゃないんだけど、僕はそんな僕のずるさで君を翻弄してきたと思うんだ。すごく迷惑だったと思う。今、謝っても、謝りきれなくて」
 彼女は僕を振り向き、「そんなことない」とすべてをわかっていたと思わせる口調で言った。
「わたしこそ、あなたを苦しめたりしていないか、心配していたよ。一歩踏み込めばいいんだと思っても、そうできなくて。ごめんなさい。あなたの人生を狂わせてしまったかもしれない」彼女はそこまで言うと涙を零した。
「僕に必要だったのは、虚ろさに打ち勝つことだったんだよ。そうしないで、情けなくて弱っちい自分であり続けたことが、さらに虚ろさを呼んでしまったんだ。君のせいなんかじゃない」
「ううん、たとえそうだとしても、わたしならあなたを助けられたかもしれないのに……」彼女は左手のひとさし指で涙をぬぐった。
「僕こそ、君を救えたかもしれなかった……」夕焼けの陽射しが僕ら二人を焦がす。僕の頬は熱く、きっと彼女の頬も熱かったはずだ。
 僕は弁明や謝罪だけをしたかったわけじゃない。でも彼女も、僕の言葉が引き金となって胸の裡にあった悔いる気持ちを吐露してしまい、結果、状況は硬直してそこから進まない。この状況下でいやというほどわかったのは、僕と彼女は、ほとんど同じことで苦しんできたのかということ。僕は僕で、彼女は彼女で、振り切ったようでいて、こころを一九九四年に隠したまま、取り忘れてきたのだ。
 僕らはもう駅舎の近くに到着してその入り口が見える交差点の歩道に立ち止まったままどうすることもできないでいた。
「あのさ」やっとのことで声をかける。彼女は潤んだままの瞳をこちらへ向ける。
「いろいろ言ったあとでこんなことを言っても、しらけるだけかもしれないけど」
 覚悟を決める。大道からの手紙で、彼女と僕とは両想いであった事実を知ったのだから、まるで後出しじゃんけんのようで情けなかったのだけれど、それでもこれを言わなきゃ、後悔する。いや、後悔だなんて、それだって軽すぎる。逃げる気持ちなんか微塵もなかった。絶対に全うしなければならない筋書きがあって、いまそれを遂げる。迷うことのない100%の確かさで、僕は言った。
「二年になってクラスが変わって、それで気づいたんだ。過去形じゃなく、今現在そして、これからもずっと、君が好きです。富川悠香、君を愛してる」
 僕は嘘いつわりのない気持ちそのものだった。
 濡れた瞳を、一瞬大きく見開いた彼女は
「わたしも、あなたが好きです。ありがとう」と左目から再び涙を一筋流して応えた。
 やっと、果たせた。胸がいっぱいだった。僕は両手でやさしく彼女を抱きしめた。包み込むように、そしてこのまま彼女が消えてしまうことのないように抱きとめていた。……まだ、消え去らないでほしい。
「わたし、すごく幸せよ……」僕の胸に顔を埋める彼女がつぶやいた。
「……富川」名前を呼ばれて富川悠香は顔をあげてこちらを見る。その唇に、僕はキスした。
 柔らかな唇は、拒む素振りをすこしもうかがわせることなく、それどころか僕を求めていた。僕らはずっと唇を重ねあった。とても幸福で、時が溶けていく気分だった。永遠に、今が続いてほしかった。
 それから長い時間が経ち、僕らは唇をほどいた。
 理不尽にもいつしかあたりには夕闇が落ちてしまい彼女の顔がはっきりとは見えなくなっていた。ようやくこの瞬間、僕と富川につながりが生まれたっていうのに。それも夢や現実をも超えたつながりだっていうのに。彼女は微笑んでいるのか、泣いているのか、まるでわからない。僕から離れた彼女は、「帰らなきゃ。汽車が来ちゃう」と明るく言ったが、寂しげでもあった。
 彼女は横断歩道を渡って、駅舎の入り口で立ち止まり僕を見た。
「さよなら」手を振った。
「さよなら」僕も大きく手を振った。
 さよなら、富川悠香。

 目覚めると涙に濡れていた。胸が苦しかったけれど、それでもどこか清浄な気分だった。覚悟は決まっていた。僕は地元に帰る決意をしていた。

 家族三人が久しぶりに実家にそろって、紅白歌合戦を見ていた。昨日、横浜から帰ってきて、今日は午後から買いだしに行ったり大掃除を手伝ったりした。
「それでさ、メロンなんか出してくれたんだよ。〝秀〟だよ!って母さん言ってさあ。旨かったなあ」茶の間に笑いの温かな波紋が広がる。
 僕は何度も続けてみていた夢の話の一部を、母にしていた。
「メロン食べたいねえ。ねえ、買っておいでよぉ」母の言うことは冗談なのか本気なのかよくわからない。
「来年の夏になったらな。みんなで食べよう。しかし〝秀〟はちょっと高いかな。ははは」上機嫌の父が口をはさんだ。
 富川悠香の実家には、年が明けてから行こうと思っている。大道みさおと一緒に行く約束をした。仏前で富川になにを言おう。できればすべてを語りたいくらいだった。いや、でも、天国へ旅立っていった富川はもうすべてをわかっているのではないだろうか。あの夢の感触から、そんな気持ちになっていた。
 僕はこうして夕張に戻った。その判断が良いほうに出るか悪いほうに出るかは、今後の僕次第だ。母の介護の助けをしながらだと時間の都合のいい求人はかなり少ない。でも、最初は苦労するだろうけれど、そのうちうまくいくだろう。楽観的すぎるかもしれなくても、大丈夫、僕はだいぶ強くなったから。
 テレビでは紅白初出場を決めたリバルブ・ラブがステージに立っているところだった。
「この間、彼女たちの記事を書いたんだよ。ライブを見てさ。僕の最後の仕事で、最高の仕事になったんだよ」
 ほう、ほう、どれどれ、と父も母も感心して画面に集中しだした。ちょうどグループ最大のヒット曲『ヒドゥンプレイス』のサビが始まった。


 Ah かけがえのない 君の名を呼ぶ
 僕を待つ場所 hidden place
 I love you も I need you も言えなかった
 いまはずっと I miss you

 Ah 夢の果てに 僕の名を呼ぶ
 君が待つ場所 hidden place
 さよなら 虹色の世界には
 帰れないの? I don't wanna go

 僕ら お互いに あの隠れ処で わかりあった
 あの気持ちを 決して忘れない


 その夜は遅くまで僕たち家族は語らいあった。
 あくる日の元日、まだ解いていないダンボールを片付け始める。本ばかりだった。そういえば、あの時計がまだでてこない。ひと月ほど前にリサイクルショップで買ったばかりの、人型蛙人形が片手をあげて時報代わりをするあの置時計だ。それは、何箱目かのダンボールの中身の一番上に乗っかっていた。ガムテープをびりびりとはがして浮き上がったふたのなかにその影が見えたのだ。あの人型蛙、夢の中にまで出てきたなあ、存在感のあるヤツだからな、とちょっと愉快な気分になって、ふたを全開にする。すると人型蛙人形の姿はなく、ただの置時計だけがあった。取れちゃったか、とそれからダンボールの中を隅から隅までひっかきまわしても、見つからなかった。
 あの人型蛙人形は忽然と消えていなくなってしまっていた。他の箱も含め、夕方まで何度も探しまわったけれど、結局、ヤツは出てこなかった。


【終】
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『ヒドゥン一九九四』 第二話

2017-10-01 18:00:01 | 自作小説5
 帰宅してすぐさまなんとなしにテレビをつけ、予約炊飯で炊きたてのごはんを軽く食べてから、床にごろりと寝そべる。朝のワイドショーに、特に興味を惹かれるトピックはなかった。とあるトピックを解説する出演者の得意げな早口に気だるさを感じる。テレビを消して、カーテンをしっかりと引き眠る準備をする。
 編集部からはまだ何の連絡もなかった。ここをちょっと直そうというメールもない。そのままでオーケーが出てすでに掲載されている可能性もあったが、わざわざ確認する気は起きなかった。
 今回の記事にはいつもより手ごたえを感じていた。記事を書く前段階、リバルブ・ラブのあのライブの要所々々を的確に把握した後、まるごと身体全体で飲みこんで自分のものにした。そのうえで書いた、わかりやすくて会場の熱狂を封じ込めたような内容になっていると自負していた。なにより、不思議とこの記事を書いた昨日は虚無感の襲来がなかったのだ。大きな負の要素がない状態で書けた記事だ、能力を十分に発揮できた満足感があった。
 立ち止まって考えてみれば、これまで、ここまでやりつくした満足感を味わった仕事をした覚えはほとんどない。
 さらに驚いたことに、今もあの執拗な虚無感には悩まされていなかった。いつぶりだろう、というくらい久しくこのような晴々しく温かいこころ持ちで過ごせた一日はない。そう気づいてみると、これから眠るのがもったいない気がしたのだが、しっかり疲労は感じていたから、気持ちよく眠れることを信じてベッドに横になる。
 目を閉じてすぐに、僕は高校のグラウンドフェンスの前の道に立っていた。僕の制服のズボンをつかんで左右に振る林がいる。20センチくらいのネズミだ。蝶ネクタイが自慢の林ネズミが胸を張ってこちらを見つめ、なにか言いたげだ。
「……なんだ?」僕のほうが口火を切った。
「なあ、用意はできてるのかよ。そのために来たんだろうが」
 何を言っているのかまったくわからない。林の、そのネズミのひげがひくひくと動く。
「何の用意だよ」
「はあ?せっかく待っててやったんだぞ、なんて言い草なんだよ。ほら、こっちこいよ」
 林ネズミはいつのまにか十歩ほど前にいて小さく手招きしている。
「じゃあ、行こうか」という声が背後から聞こえてきた。笑顔の鍋島先輩だった。
「え、なんか、これ、行かなきゃなんないんだ……?」とわけもわからない。
 僕は鍋島先輩に腕をひっぱられて、林の後を追うことになった。
 見なれた一本道の左のわき道から、林は住宅地に入る。高校時代には歩いたことのない区域だ。この住宅地に住む友達はいなかったし、僕は徘徊も散歩もしない性質だから、この区域に興味もなかった。先を行く林のしっぽの動きをみていると、彼はたぶんご機嫌なんだろう。気持ちよさげに空中へしなやかに波打つしっぽだった。鍋島先輩から腕をふりほどいて、並んで歩きながら、僕らも住宅地のほうへと道をとった。
「待ってよ!」と女生徒が駆け足でやってきた。あっ、と思う。このあいだ名前のわからなかった、僕のあごくらいまでの背丈の女生徒だ。
 鍋島先輩が、「来たか、みさおちゃん」と手を振っている。みさお、みさお、……覚えがあるぞ、と胸中で針にかかった彼女のフルネームを再生するレコードに耳を澄まそうとすると、
 先輩は「大道みさおだろ?」と僕の表情からこころを見透かしたかのように、あっさり女生徒の名前を教えてくれるのだった。
「あ、大道っ。久しぶり」僕がほっとして言えば、
「このあいだ会ったじゃないの」と大道みさおは軽く頬をふくらますのだった。
 ごめん、ごめん、と謝る。
「謝らなくたっていいけど」眉を下げた大道は、しょうがないなあといった風だが目もとは柔らかい。
「よしよし、みんな揃ったね。ほら、ちゃんとついてくるんだぞ。ひっひっひっひっ……」林は口元を両手でおさえてとても可笑しそうに頭を小刻みに揺らしていた。
 林との距離をずっと十歩ほどの間隔で保ちながら、僕と鍋島先輩と大道みさおの三人は住宅地の奥へとどんどん進んでいく。
「いったいさあ、どこへ行くっていうんだろ。まだなのかな?」二人にそう問いかけると、二人は目をあわせて、くすくすと笑いだす。
「大丈夫。もう少しでちゃんと着くから」大道が諭すように、明るい声で言った。
 僕の頭の中にはちょっとした妄想が生じてきた。林、鍋島先輩、大道がグルになって僕をはめているのではないか。サプライズパーティまがいのなにかでも開こうとしているのかもしれない。不信感や猜疑心、とまで大げさではないのだけれど似た気持ちが抑えられず、
「……なに、企んでる?」とぼそっと訊いてみた。
「なにも企んじゃいないよ」鍋島先輩が真顔で答える。
「冒険、冒険」大道もさきほどよりもいくらかおちついた笑みをうかべ、ルーズソックスの脚でスキップする。
「おうい!」先を行く林が声をあげた。家が少なくなり、寂しくなってきた区画のひとつのガレージの前に彼は立っていた。
「着いたな」鍋島先輩が唇をなめた。いったい、このガレージの中に何があるっていうのだろう。重要なアイテムが眠っているのだろうか。それははたして僕にどんな関係があるのだろう。そもそも僕に関係はあるのだろうか。
 林が鍋島先輩に、シャッターを上げてほしいとお願いしている。体格のいい鍋島先輩が、一気にシャッターを持ちあげる。すぐさま僕は中を覗き込んだ。前、右、左。暗がりには壁しかない。そのかわり、不相応なくらい立派な階段が地下へと伸びていた。
「……行くの?」あまり乗り気ではなかったからそう訊くと、
「もちろん!」と林が弾んだ声をあげ、あとの二人もこちらをみておおきく何度も頷いていた。
 リノリウム張りの冷たい階段を一歩一歩たしかめながら降りていく。すると、意外に広くて天井の高い地下空間にでた。
 黄色い照明が点いていて、全体としては茶色を基調としたその濃淡で壁や床が仕切られているような空間だ。階段を降りたところから少し下りの勾配になっていた。空間の中心に大人十人が手をつないでも囲いきれないくらい太くて丸みを帯びた柱がある。天井と床それぞれに向かって、より太くなる形状をしたいびつな柱だ。その右側を僕と大道が、左側を林と鍋島先輩が降りていく。
 地下空間の薄茶色の壁には蔦がからまったかのような細かい模様が一面に刻まれていた。整然としないゆるやかな曲線で壁と床、壁と天井がつながっていて、壁自体も若干たわんだような形状だった。それは、もしも建築家ガウディが地下空間をデザインしたならこれに近い洞窟的なイメージを作りあげるのではないかと思わせるものだった。
 僕らはやがてそれぞれに柱越しのゆるやかなカーブを抜けた。その先で二組が合流して見たもの。それは、地下繁華街だった。
 とはいっても、ぱっと見渡して確認した五店舗は、喫茶店、居酒屋、食堂、ラーメン屋、床屋だったが、どれも無人で、客もいなければ店主らしき人物や店員もいない。まったくのもぬけの殻だった。林たちはこんな場所を知っていたのだろうかと気になって三人を見まわすと、林を抜かした二人は初めてこの光景を目にしたような、この光景にぼうっとしてこころを抜き取られたような顔つきをしていた。林がこの場所を知っていたのかどうかは、ネズミの表情なのでよくわからない。きょろきょろともしていないし、呆然ともせず、ただ胸を張って鼻をひくひくさせていた。
「なんだ、ここ。……廃墟?昔、炭鉱業が最盛期の頃に賑わっていたのかな」この非現実感の手を取ってなんとか現実感と握手させる理由を見つけたい気持ちで言った。
「いや、よく見てみろよ。えっと、みさおちゃん、ここ廃墟ではないよな?」鍋島先輩が、わかるよな、というように僕をひとり飛ばして大道に顔を向ける。僕も大道がどう観察して判断したのか、その答えを知りたくて隣の大道の顔を覗きこむ。
「そうだね。ここってちゃんと掃除されてる感じがしない?生活感があるような感じがするんだけど。営業時間じゃないとか、定休日とか、そんな理由じゃない?」
 なるほど、そうかもしれない、と大道の言葉をふたたび頭でなぞった。
 林が「ちょっと、いろいろ見てみようぜ」と小走りで駆けだした。鍋島先輩も、大道も、あっという間に林に続いていって、僕は取り残されていた。
 いったい何が起こっていて、ここはどこなのだ。ひとりになると、やっぱりあらためて考えてしまうし、答えはわからなかった。こんな場所があるなら、昼休みや放課後に何か食べたり飲んだりしに寄ることができたのに、知らなくて損した気分にもなった。僕は地下空間の真ん中の路地へと歩く。林も鍋島先輩も大道の姿も見えない。彼らは、どこを見にいっているんだろう。何の気なしに、床屋の前に置いてある、今は止まったままの赤と青と白のサインポールをしばらく眺めていた。そこへ、おうい、と鍋島先輩の声が響く。なに、と応えると、先輩が駆け足でこちらへ戻ってきて、
「注文受けるってさ!」と笑顔を見せた。
 え、誰かいたのか、と不信に思うと、そんな僕のこころを察したかのように先輩が食堂のほうにあごをしゃくる。食堂の座席には、知らないうちに何組かのお客が座っていた。驚いて、ラーメン屋のほうを向くと、こちらにもカウンターにやはり数人のお客が座っていた。
 だけれど、そのお客たちはみんなマネキンのように身動き一つしない。僕ら以外動かない世界にいた。
「なんか、シルエットだけは見えるけど。あのさあ、時間止まっちゃってない?」
 そう言うが早いか、僕の見ていたものは錯覚だと言わんばかりに世界は動き出していた。床屋のサインポールもくるくる回っている。今動き出したんだという素振りすら見せず、過去から連綿と続いてきた流れのままであるといった体で、そこに疑いの余地すら微塵も感じさせないくらいだった。そんな自然な時の流れ始め方に面食らった。そして見えた光景は、まるで昔見た有名なアニメ映画のようだった。そのアニメ映画では、繁華街でものを食べると後戻りできなくなる魔法にかかるのだった。とはいえ、そのアニメ映画は、一九九四年の段階では制作されていないのだが。
 再びいろいろな店の店内を眺めてみる。老夫婦が多かった。でも、おじさんの一人客もいるし、テーブルでトランプゲームのぶたのしっぽをやっている家族連れまでいた。
 そんな僕に鍋島先輩が、「なあ、注文何にする?」とせっついてくる。いや、これは食べてはいけないパターンなのではないのだろうか。
「なあ、なあ」鍋島先輩は早く返事しろと表情で訴えている。
「なあ!なあ!おい!なあ!」としつこいったらない。
 いい加減にしろ、と思ったところで目が覚めた。また、あの頃の夢の続きを見たのか。
 目だけを開けて目覚めた僕はあお向けの姿勢でマットレスにずっしりと沈み込むように寝ていた。記事の執筆や夜警の疲れは、沈み込んだ身体の底からさらにしたたり落ちて、重力に吸い取られ四次元の果てに消え去っていったかのようで、僕はすっきりしていた。いつもの虚ろな気分もない。蛙人形の時計の針は午後五時すこし前をさしていた。

 シャワーを浴びながら、夢に出てきた大道みさおの記憶をたどる。たしか小学三年生のときに、神奈川から僕のクラスに転校してきた子だ。その頃の同級生の女子たちと比べると格段に運動ができ、ドッジボールでは球技の得意な男子並みに速いボールを放っていたし、相手から投げられたボールにもひるむことなくキャッチを試み、そのほとんどを成功させた唯一の女の子だった。かわいい子ぶることもないが、花が咲いたような笑顔になったり、この世がおしまいになったかのようながっかりした表情をしたり、感情表現に乏しいこともなく、ちょっとおてんばだったけれど、それゆえに輝いてみえる女の子だった。それが、中学生になると、一気に大人しくなって目立たない子になった。控えめで、小粒な存在感になった。
 僕にしても中学生当時からの大道の印象は薄くぼやっとして、こんなことがあったっけなあというエピソードすらひとつも思い浮かばなかった。高校が同じだったことも忘れていたくらいだ。夢の中では、鍋島先輩とくだけたやりとりをしていたけれど、現実はどうだっただろうか。思い出せなかった。小さな町の小さな小学校のことだ。鍋島先輩も小学生当時から大道と一緒だから、学年は違っても顔は見知っていただろう。
 そんな大道みさおがなぜ僕の夢に出てくるのだ。夢には、人の深層意識に閉じ込められているものが出てくると読んだことがあった。また、記憶の整理として夢が使われているとも別の本か雑誌で読んだことがあった。
 深層意識が記憶の整理と相まって、たとえば今回、大道みさおが意識に上り、深層意識の小さなひとつのパーツとして、記憶と深層意識のやりとりのなかで、深層意識を撹拌して活性化させているのかもしれない。それは必然なのか偶然なのかはわからない。僕の深層意識の都合上、大道みさおが選ばれたのかもしれないし、深層意識内でランダムに抽出されたにすぎないのかもしれない。
 ただ、どちらにせよ、僕のこころの裡に隠されていた大道みさおがはっきりと意識上の存在となり、しっかりとこころの目で捉えられるようになった。そうした目で、夢で見た彼女の容姿や話し方を思い直せば、けっこうかわいらしい子だったんだなと、認識を新たにした。
 あまりに考え事に夢中になったせいで、髪を二度洗ってしまった。二度目の良すぎる泡立ちではっとし、現実に帰ったのだった。

 僕は両親以外に愛されたことがない。高校を卒業してからだって、恋人ができたことがなかった。大学時代から付きあいのある仲の好い女友だちはいたけれど、恋愛にまでは発展しなかった。相手も僕も、それぞれの個人領域を区切るボーダーを飛び越えようとはまったくしなかったのだ。それはなぜだったのだろう。とくに深く考えたことはなかった。
 胸が張り裂けそうなくらい淋しいときや、どうしても女の肉体を欲した時にはとても苦労したが、世の男にはそんなときに都合をつけられる逃げ道があったりする。慰めに、そういう逃げ道を何度か走り抜けた。
 富川への想いが強すぎたからそうならざるを得なかったのだ、といえばウソになる。高校卒業とともに富川への想いとはさよならしていた。でも、意識下に隠されたその想いがそこでウイルスへと変容し、恋愛を行うこころの箇所に侵入して感染し悪さを働いている想像をしてみると、その想像は案外でたらめではないかなと思えたのだった。でたらめではないとは、恋愛を行えない性質になったということだ。もしも、想像通りほんとうに富川への想いがウイルスに変わっていたのなら、その変化を仕向け助けたのは僕の情けなさや愚かさや狡猾さたちだった。
 自分から愛したくせに、向こうから愛されたのだという事実にしたがった。愛した時点で負けて試合は終わっているのに、その事実に気づこうとしない。再試合をでっちあげていた。僕は弱く、そして今もなお弱いままだった。そんな態度が想いをウイルスにし、恋愛不全にさせる。
 濡れ髪のまま、そんな思念に浸って現実世界に不在だった僕の耳を、鳴り響く電話の着信音が鋭く刺激する。実家からの電話だ。珍しく、電話口には母がいた。
「正月は、帰って、こないのかぁい」息切れでもするように、途切れ途切れだった。
「うん、帰れないよ。ごめん」
「……帰って、こないのかぁい」聞きとれなかったのか、母はまた同じことを口にしていた。
「う、うん。ごめん、機会があったら帰るから」口先だけで言った。
「お父さんが怒ってねぇ、こわいんだよぉ」父には、癇癪をおこして怒鳴り散らす癖がある。思うままにならない母の世話に嫌気がさして怒鳴ったのだろうか。
「母さん、父さんの言うことを聞いて素直にしないといけないよ」
「母さんはぁ、ちゃんとしてるよぉ」訴えるような、絞りだす声になった。
「そうだね、母さんはちゃんとしてるね。父さんにはね、あんまり怒ったらだめだよって僕が言ってたって言っておいて」
「わかったよぉ」
 それから数秒の沈黙の末、電話は切れた。
 在宅介護は大変だと聞いてはいたけれど、そうか、父さんは母さんにあたっているのだな。酒量も増えているのかもしれない。
 でも、それ以上考えたくなかった。僕にどうしろと言うのだ。僕には僕の人生があり、親を世話するために生まれてきた人生ではないのだ。
 力を込めて考えをそう振り切り、アタマは一瞬でこの件からそっぽを向いたはずなのに、呼吸のたびにしくしくと重く胸はきしんだ。

 スウェットにコートを羽織った恰好で、なんとなくレンタル店へDVDを借りに行った。帰り際コンビニで発泡酒を買い、部屋で映画を観た。モノクロの、昔の時代劇だ。しかし、どうしてもストーリーも会話も頭にはいってこなかった。夢の中でまた富川に会えるだろうかだとか、実家は限界に近付いているのだろうかだとか、次に夜警の仕事で田中さんに会うときには事の顛末を言おうか言うまいかだとか考えだしているからで、さらにはうとうとしだした。今日はよく眠っているはずなのだが、長い睡眠時間の割に浅い眠りなのかもしれない。ここ何回か見た夢がはっきりしすぎているのは眠りが浅い証拠なのではないか。
 映画を見続けるのを諦めてリモコンを操作し、そのままひとまず短い休息のつもりでカーペットの上に横を向いて寝そべった。目を閉じ、なにも考えない。じんわりとした感触が目の疲れを知らせた。隣室からは洗濯機を回している音がする。ぼんやりとしながら、力は抜けていく。
 閉じた目の裏には、黒の素地に赤や緑や青や白の光が万華鏡のように千変万化しながら動いていて、それらは解読不可能ななにかを物語っているかのようだった。そのうち、様々な色模様は勢いを無くし薄くなって消え、暗闇だけが残った。暗闇を注視していると、突然暗黒がうねりだし目の中をわさわさと繁茂し始めて視界を飲み込んだ。もともとの真っ暗闇な視界が、さらに暗い漆黒に飲み込まれるのを見たのだった。
 気がつけば、住宅地にあった地下空間の食堂の一席に腰かけていた。四人用のテーブル席に僕がひとり座っている。
「いらっしゃい」女の声がして顔をあげた。知っている女だった。未香だ。大学時代からしばらく友だち付きあいが続いた女だった。未香の、小さなほくろの多い顔がほころんでいる。
「いらっしゃい。何にするの?」
「未香だろ?」
「未香さんっていいなよ。あなた高校生でしょ」
 そうだった。未香とは現実では同い年でも、この場では僕より年上になっている。
「未香さん、ここで働いているの?」〝さん〟づけで呼ぶと、なんだかふざけた芝居をしている気分になる。
 未香はそれには答えず、「いいお友達がいたのね、あなたって」と僕の背後に視線を移した。つられて振り向くと、後ろのテーブル席に鍋島先輩と大道みさおが並んで座っていて、僕にピースサインをしてみせている。
「あなたって、孤独な色合いが強いひとだなあって思ってた。独りよがりだな、ともね。なかなかどうして高校生のあなたはそうでもなさそう」澄んだまなざしで後ろの二人をみつめながら、未香が言った。
 それを聞いて、これは夢なんだ、と気づいた。「いや、これは……」と言いかけたところで未香が僕を手で制す。
「ゆっくりしていって」厨房へと戻っていった。もっと彼女と話していたい気持ちが後ろ髪を引いた。
 僕は夢の世界にいる。夢なら、僕の思う通りの状況を作り出せるはずだ。この夢に無理やり富川を登場させて、僕の思うように喋らせて、安っぽくたって、ハッピーエンドで癒される展開にしてしまえばいいんだ。まずは、この二人にはどこかへ消えてもらおう。僕は富川と二人きりになりたいのだから。
 はっきりした方法はわからなかったが、夢と気づいた以上、念じれば念じた通りになるのだと信じて、鍋島先輩と大道にこの世界からの退場を願った。
 二人を睨んで、消えろ、消えろ、と念じる。鍋島先輩が「なんだよ?」と口をとがらせ、そして大笑いする。大道も笑い始めた。
 鍋島先輩が「ばかだな!」と言い放ち立ちあがって僕の所までやってきた。制服の首の後ろの襟をつかまれて立たされる。
「無駄なんだよ」鍋島先輩は憐れむような目つきになった。
「もう!行こう!」両肘をつき両手にあごをのせていた大道も立ちあがって呆れ顔だ。
 僕の夢なのにコントロールできないのか。それより、消えろと念じてしまった消えない二人に言い訳をしないといけない。あれこれ言葉を探そうとしていたが、僕は鍋島先輩に羽交い絞めにされ、地下繁華街から退場させられるところだった。軽く暴れようともしたし、もうわかったからさぁ、お願いだからやめてよ、と懇願もしたのだが、鍋島先輩の力は緩まなかったし、解放してくれそうな雰囲気をちらりとも感じさせてくれなかった。
 じたばたしながら後ろ向きに引きずられていくなかで、アジサイを花瓶に生けた床屋や、入り口から薄く引き延ばされた紫煙が漏れ出ている喫茶店のそれらの店内が目に入った。何人かの客が、含み笑いをしている。
 最後にラーメン屋の店内に目をやれば、同じようにこちらに気を使いながら笑っているような客が何人かいる。その中に、ひとりだけ真正面からこちらを見るカウンター席の端に座る客がいた。細く長い手足とぽっこりでた白い腹が目につく。そして全体が緑色なのだった。
 あ、と声が出た。先輩、ちょっと止めてくれないか。しかし、先輩は容赦なく僕を引きずっていく。だめだめ、と後ろから声がして頭蓋骨に響いた。そのとき、ラーメン屋のその客がこちらに向かっておもむろに右手を振り上げたのだった。よぉ、と親しげな挨拶でもするように。そうなのだ。あの客は、目ざまし時計に付属している人型蛙人形のあいつなのだった。
 あいつから目が離せないまま引きずられて、ついに地下繁華街が見えなくなる大きな柱を迂回する道にはいった。もうずっと観念しているよ、と降参の意志を明確にすると、先輩はやっと僕から腕をほどいてくれた。
 上がり勾配の道を歩いてまもなく階段に着き、三人でのぼった。地上に出る。眼前に広がる、晴れ渡った一九九四年のいつかの日。懐かしくも新しい、それはいつかの日だった。
 階段のあったガレージを出るなり、僕の脚は宙をこぎはじめる。ふわふわと30センチくらい身体は浮き上がり、脚は自転車をこぐように宙を回転し始める。僕は思いきって力を抜いて、地面に倒れかかるようにした。ぐん、と体が持ちあがるように浮いた。いまや、地面と平行に、一メートルくらいの高さで僕は宙に浮いていて、水の中にいるときのように、泳いでいた。平泳ぎのように手で空気を掻き分け、バタ足のように足をゆっくり交互に上下させて推進力を得る。鍋島先輩が部活のコーチみたいに腕を組みながら、「焦るな、バランスだからな」とアドバイスを飛ばしてくる。背筋に力を込めると、低空で路面すれすれをいき、あわててまた力を抜くと立っている時の目の高さまで横になった姿勢で上昇した。大道が駆け寄ってくる。僕はこの自由が嬉しくて、近づいてきた大道にもこの自由を分けてあげたくなった。伸ばした手を、大道が握る。すると、彼女の身体も僕と並行して宙に浮いた。
「わあ!やったあ!」と大道は声をあげた。僕は彼女の手を引いて、二人で空へと上がっていく。
「大事な話があったんだけど」打ち明けるように大道は言う。「でも、今度でいいかな」と笑って、僕との空中遊泳を楽しんでいる。
 急降下し、急上昇する。
「ジェットコースターよりずっと楽しいね!」内面でどくどく波打っているだろう彼女の強い脈動を感じさせる、興奮した言い方だった。
 僕だってすごく楽しかった。空から俯瞰する、高校周辺の風景。上昇して全体を眺め、少し降下して、細部を確かめる。駅前のスーパーの店舗の裏側を初めて見た。あんなに雑然としているものだなんて知らなかった。そして向こうからやってくる汽車が見えた。自然、視線が駅舎をなぞり、さして遠くない場所に富川悠香の姿が見えた。あの同級生の男と談笑しながら駅へ向かっている。
 いつもそうだった、と僕は思い出す。つきあっているわけではないらしいのだけれど、いつもいっしょにいる男がいた。
「大道、ちょっとごめん」僕は大道から手を離し、決意して富川に会いに行こうとした。
 大道は何も言わなかったが、宙に浮いたまま哀しげに微笑んでいた。僕は富川を呼び止めるための気持ちを整え、身体に若干力を込めて降下していくのを待った。しかし、意に反して少しずつ上昇していく。どういうことだ、とわけがわからなくなる。では、と逆に力を抜いてみた。それでも、上昇は止まらない。完全にコントロールを失った状態だ。あっという間に、飴玉くらいの大きさだった富川の姿がただの点になり、大道の行方も見失ってしまった。
 上昇は止まらず、このままじゃ宇宙に突き抜けていくのかなと変に冷静な予測もしている。この分だと酸素が減っていくぞ。そう思った途端、実際に空気が薄くなったのに気がついた。なにげに呼吸が苦しいのだ。何か良い対処法はないのかと考えても、考える分だけ身体は上昇していきながらくるくる回るばかりだ。
そのうち息がかなり苦しくなってきた。それも急激に尋常じゃない息苦しさに変わっていった。これはまずい、と必死になってもがいた。うわあ!とこころは叫び、手も足もばたつかせて状況にたてついた。そんなところで目が覚める。
 現実でも、カーペットの上にうつぶせになった僕の鼻と口が腕に埋まって息が止まっていたらしかった。夢の中でもがいた拍子に顔が横へずれてなんとか手遅れにならずに空気を確保できたのだった。大量の空気を吸い込みすぐさま吐く、何度もそんな速く深い呼吸を繰り返した。心臓がバクバクしていた。
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