Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

『ヒトラーとナチ・ドイツ』

2024-08-16 22:48:52 | 読書。
読書。
『ヒトラーとナチ・ドイツ』 石田勇治
を読んだ。

怠惰で自堕落だったヒトラーがどのように世に出てきたのか、そしてどうやって総統(それまでの大統領職と首相職を統合した地位)という独裁者の地位を手に入れたのか。本書は、ヒトラーとナチ党を中心に追っていくドイツ近代史です。学校の勉強だけでは隙間だらけだったその知識の空隙を埋めてくれる内容でした。

前半、ヒトラーが徐々に実力や名声を得ていくところ。ヒトラーやナチスのようなとんでもない悪行をやった人たちであっても、その躍進していくさまには面白みを感じてしまうのでした。へこたれず、ときに無鉄砲で、暴力に訴えて、なのだけど、活きたエネルギーが渦巻いているんですよ。ただやっぱり、そこにある危険な香りとして、時代なんだろうけれど、アクセルを踏みすぎる空気感・社会環境があったような、そんな印象を受けました。「押せ押せ」なんです。今もありますけれども、パワーこそが最高というマインド。そういったアクセルに対して、制御系は大事ってなんですよね。

ヒトラーが総統となるまでの道程がもうすごかったです。劇的だし、ゆえに、さらに果てしない熱狂を生んでしまう物語になっている。若い頃のヒトラーは、セコくて小狡く、カリスマ性なんてないのに、弁論の才能が隠されていて、それを見出して育てた人がいました。そのあとは邁進するのみという感じ。

ヴァイマル共和国時代の首相になったところまでの部分では、ヒトラーを首相に任命したヒンデンブルク大統領や保守派側近の目論見としては、ヒトラーを利用して用が済めば失脚させればいいとし、まったくもって高をくくっていたそう。ナチ党の勢いはそのころ下降を見せていた頃で、反対に共産党の勢いがかなり増していて、ヒンデンブルク大統領らは共産党の勢いを削ぎ、議会制民主主義を終わらせて立憲君主制に戻すためにヒトラーを利用しようとした、と。でも、国民的な支持が強くて国民支持政府となったのがまず誤算だったようです。いったい、ヒトラーはどこまで考えていたのだろう?

ヒトラーが人気を集めたのは、演説能力がずば抜けていたのと、それとともに、民衆と情緒的につながるという戦術がうまかったからみたいです。政治家と民衆が情緒的につながるのは危険ですよね。政治家は強い権力を持っているわけだから。ここはこの時代から得る大切な教訓です。

ヒトラーとナチ党の一派は、駆け引きや政治力が優れていて、そのうえ「天の時」とでもいうような天運に恵まれているところがあります。ヒトラーを首相に任命したヒンデンブルク大統領という人物自体が、議会制民主主義を嫌っていたわけですが、その部分だけだとヒトラーを利害が一致するわけです。そして、ヒトラーは迅速に大統領の望むような国の仕組みに変えていく。それによって、大統領はヒトラーを信頼するようになり、高齢のために亡くなるのですが、そのときにはヒトラーによって、大統領が亡くなった暁にはヒトラーが総統となる、という法律を作ってしまっている。ほんとうに、頭を使って、用心しながら周到に立ち回るんです。



ここからは、ヒトラー及びナチ党の大罪であるホロコーストについてになります。

559万6000人。これは、ヒトラーを頂点とするナチ・ドイツによって虐殺されたヨーロッパ中のユダヤ人の人数です。この虐殺はホロコーストと呼ばれますが、ナチ・ドイツでホロコーストがどのように行われていったのか。

最初は、とある重い精神病患者の父親が、どうにか息子を安楽死させてほしい、と嘆願したことがきっかけでした。この嘆願が受け入れられた後、他の重症精神病患者も同じように安楽死させたほうがいい、となって、ドイツ全国で安楽死させられることになります。これについてはカトリック教会の神父の講義の演説によって表向き中止となりました(裏ではしばらく行われたとのことです)。この重症精神病患者へ安楽死政策に従事した医師や看護師などは、その後、ユダヤ人強制収容所に異動させられます。ノウハウをもったスタッフとして使われたのです。

1938年の水晶の夜(ドイツ全土でユダヤ人を襲ったナチ党の計画的犯罪事件)以降ユダヤ人迫害弾圧は公然のものとなり、激しさや酷さが増していきます。それから、1941年のソ連戦にて親衛隊主導で虐殺が始まります。ゲットーに集めらたたくさんのユダヤ人たちの中で疫病が発生しているなか、餓死させたり銃殺したりするより、安楽死が人道的だと結論されて、そこから強制収容所での虐殺が始まる。

こういうふうに連鎖していったことを知りました。ヒトラーの思想からなるナチ党の考え方や方向性がそもそも大問題なのだけれど、きっかけとして、とある重症精神病患者の父親の苦しみから来た嘆願があったことが心苦しいです。時代ってどう転んでいくかわからない。



ほんとうにヒトラーの闇が深いんですよ。行き止まりに突き当たったら、惨劇を選ぶ。そしてだんだんそれに慣れていく(裏面の闇が表面にどんどん滲み出てくる)。

レイシズムと優性思想が大きくナチ党の根本にありますが、人格が未熟なうちにこういうのに触れてしまうと飲み込まれてしまう気がします。優性思想なんか、現代でもそこらで誰かとちょっと話をしたときにその相手からするっと出てきたりすることがあるくらいですし。僕も学生の頃くらいまで、どっちかといえば、優性思想寄りの考え方だったと思うなあ。



といったところで、ここからは引用を。
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ヒトラーは、若い頃から、共感する政治家や思想家の著作、極右団体の冊子・パンフを手あたり次第読みあさって自分の世界観をつくってきた人物だ。ランツベルクの監獄ではハウスホーファーのような学者のレクチャーも受けている。大衆を焚きつけるためには、専門家の議論を卑近な言葉づかいに書き換えることが必要だ。そうしてこそ、言葉は政治的武器となる。『我が闘争』が成功を収めた鍵はこの点にあった。(p74)
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→人気がありながらもまだナチ党の顔に過ぎなかったヒトラーが起こし、失敗に終わった「ミュンヒェン一揆」と呼ばれるクーデター。そのあと、ヒトラーは裁判で有罪が下されながらもランツベルク監獄で自由に暮らすのですが、ここで解説されているのは、その頃に学者のレクチャーを受けて自身の思想や知見の底上げを成し遂げたことを含めた、ある種の知的好奇心に満ちたヒトラーの側面についてです。本書を読み終えると自然とイメージが出来上がっていくのですけれども、ヒトラーのユダヤ人に対する妄想と執着はほんとうに異常で、憑りつかれるどころか人格と一体化している感があります。引きはがすのが残んだけれどおそらく無理ではないか、というくらいにユダヤ人陰謀説を信じ込んでいる。そして、そういった妄執を源泉として作り上げた思想と巧みな演説で、ドイツを席巻してしまった。



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(※いわゆる基本的人権、つまり住居の不可侵、信書の秘密、意見表明の自由、集会の自由などがナチスによって禁止されたがどうして人々は反発しなかったのか→)「基本権が停止されたといっても、共産主義や社会主義のような危険思想に染まらなければ弾圧されることはない」「いっそヒトラーを支持して体制側につけば楽だし安泰だ」。そんな甘い観測と安易な思い込みが、これまでヒトラーとナチ党から距離を置いてきた人びとの態度を変えていった。(p168)
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→ドイツ国民は、基本的人権が停止されて反発するのではなく、ナチ党へ入党する方向へと舵を切った者が大きく増加していったそうです。ナチ化が進んでいったのです。そこには、政治弾圧に当惑しながらも、あきらめ、事態を容認するか、そこから目を逸らしたからである、と著者は述べている。



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(ナチ政権前の)ヴァイマル期のドイツは、国民の生存権を定めた共和国憲法のもとで福祉国家への道を歩みだした。社会福祉が拡充し、病院や保健所ではソーシャルワーカーが活躍するようになった。しかし世界恐慌が起きると状況は一変し、経費の削減が求められるなか、万人に平等な福祉のあり方を問い直す声があがった。ヒトラーも、そのような考えを持つ政治家のひとりだった。(p261)
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→現代日本でも、不況による格差や貧困が著しく感じられるようになった昨今、こういった「万人に平等な福祉のあり方を問い直す声」を、たとえば僕なんかはネット上で見ることがありますし、ニュース記事を通して知ることがあります。介護が必要になる老年の人たちを排除したらいいとする言論、生活保護受給者に厳しくあたる一般人の声や、役所の生活保護係による邪険な態度にさらされる人たちがいるという話がそうです。僕の考えでは、ここは最後まで粘る分野ということになります。早い段階で簡単に切り捨てるべきではないし、そのためには多くの人たちが「どうしたらいいのか」をよく考え続けることが大切なのではないか。ヒトラーの場合では、自分の思想が中心なので、簡単に切りすてた上で、自分の思想に都合よく利用していきます。危機感を煽って正当化していくといった具合に。



以上です。本書はまとまりがよく、密度は濃いですけれども、端的な記述の仕方によって、読み手としては内容に没頭できて読み進められる本でした。語りつくそうとすると、本書一冊丸写しになってしまうので、こういった体裁の感想中心のレビューになりました。すべてを吸収しきれていませんが、教訓とするべき箇所は数多かったです。おすすめです。



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『喰ったらヤバいいきもの』

2024-08-10 20:42:00 | 読書。
読書。
『喰ったらヤバいいきもの』 平坂寛
を読んだ。

怪物みたいな顔と姿形をしたオオカミウオを兜煮にしたり、隊長2mのオオイカリナマコ(有刺・有毒)をナマコ酢にしたり、バラムツという怪物魚(ワックスエステルという蝋成分だらけの身・とても美味だが必ずひどい下痢をする)を刺身で大量に食べたり、とにかく生きている姿としては怪奇生物だとか不快生物だとかにカテゴライズされ、食べ物としてはゲテモノに分類される生き物を追い求め、喰らう。そのレポート本です。全27生物収録+著者の半生記といった構成です。

そしてそのレポートは、自分が不快な目に遭う可能性の高さに怯まずに敢行される体当たり。著者は、生き物との触れ合い、それも食べるという行為で自らの体内に入れるレベルでの「わかりたさ」に突き動かされるようにそれに挑んでいる感がありました。そしてそのさまを楽しく面白いテンションで伝えようとしている。

「庶民的でとってもおもしろい兄ちゃん」の気質と、「自由な発想と果てしない好奇心をもつ研究者」の気質が、ケンカしつつなのかケンカせずなのかはわからないですけれども、一人の人物の中でコラボするようにしてレポを行い、写真に撮り、文章にしているといった感じもありました。

グロいところもちゃんとカラー写真です。でもまあ、グロすぎはしないか、と40ページくらいまでのところはそう思っていましたが、終盤になってでてきた、オオゲジという15cmくらいのゲジゲジが著者の顔の上を這っているところを自撮りした写真にはタジタジになりました。直視に抵抗がありますよ、こんなの。しかも食べてました。

雑学的に楽しめるんですけど、余談として載っているグリーンランドシャーク。最低でも400年生きて、死んだホッキョクグマなんかも食べるらしいんです。で、自らの肉には猛毒がある。……なんだ、おまえはって思っちゃいますよね。

中盤、著者の半生記を読むと、自分自身の天職たるものはなにか、自分の好きなものと適性の兼ね合い、社会に自分がはまることができるポジションがあるかどうかの探りなどで簡単には行かない人生が見えてくるのです。気持ちを決めて生き物ライターをされているけど、胸の内はまだ混然とした部分があるのではないのかなあ。

だけど、そうだったとしても、果敢にやり抜くがむしゃらさの勢いと、面白い文章を工夫するサービス精神とが、著者のなかで割り切れていない部分があるとしたとしても、それと合体を果たさせて、やっぱりどこか、読んでいてもうわべだけでおさまらず、よくわかんないけど爪痕的なものが読み手の中に残る感じがある記事になっている。そして、そこが、この著者の方の、魅力ある「味」なのでした。

といったところですが、最後にひとつ。沖縄本島の南、八重山列島にはサソリがいるんですね。小笠原諸島にもサソリがいる、と。つまり、日本にはサソリがいる。これはちょっと知らなかったです。




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『東京都同情塔』

2024-08-06 00:49:33 | 読書。
読書。
『東京都同情塔』 九段理江
を読んだ。

第170回芥川賞受賞作。

近未来。東京オリンピック前に、新国立競技場建設コンペでザハ案が選ばれ、その費用がかさむことで廃案とされた現実とは違い、ほんとうにザハ案の国立競技場が建った世界の、その近未来までの物語です。

始めの一行目から、
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 これはバベルの塔の再現。シンパシータワートーキョーの建設は、やがて我々の言葉を乱し、世界をばらばらにする。(p3)
__________

と述べられている。だけど、続けて書かれていますが、バベルの塔の神話のように神の怒りに触れて人々が別々の言葉を話すようになるという理由ではありません。各々の勝手な感性で人々が喋り出すことで、言葉の濫用、捏造、拡大が生じ、排除が起こり、その当然の帰結として、互いの言っていることがわからなくなる、というのです。独り言が世界を席巻する、と。

本作品を読み終えてからこの最初の段落に戻ってみると、それがどうしてなのか、についてぼんやり思いつくことがあります。シンパシータワートーキョーの目的は、とある社会学者で幸福学者であるマサキ・セトという人物の提唱したテーマでありアイデアであるものの実現でした。彼によってホモ・ミゼラビリスという呼び方をあてがわれたいわゆる犯罪者たち。セトは彼らを通常のように刑務所に送る存在とはしません。社会環境や家庭環境など、どうしようもない不可抗力といえる力によって可塑的な人格的変化をなされてしまった、あるいは犯罪を犯す状況へ追い込まれてしまったがゆえに、犯罪に手を染めざるを得なくなった可哀そうな存在であるのが犯罪者・ホモ・ミゼラビリスという人たちなので、彼らは人権を尊重され、哀れみや同情の元、人間回復のための豊かな生活を、外界から隔離されたタワーの中で生活するようにさせる、というのが、その思想でした。これはまさに、社会的包摂の極み、母性の極みなんです。日本は母性的な国だと言われますが、作者はそこを特徴づけて物語の背骨にしたのでしょう。

とてもセンシティブで、意見は分かれて当然で、そして議論がまったく終わっていない問題ですし、たとえ議論をしてもうまく片付かないような割り切れない問題だと思うのです、犯罪者に対するこういった見方と、ラディカルなまでの包摂の実現というのは。そういった、人間的進歩の追いついていない時期尚早の問題であるのに、この物語の中では、決断され、採択されて、シンパシータワートーキョーはできあがる。当然、反対派の過激派による攻撃はあるし、SNSなどでの誹謗中傷も激しい。タワーの建設は、「どのような異論も認められないほどの、圧倒的な破壊」(p87)なのですから。

そうなった世界では、それぞれが自分の思想にしがみつくものなのかもしれません。同情を是とするか否とするか、またその間のグラデーションもありますが、この作品内では、マサキ・セトの取り扱った問題について、それぞれの違った思想を持つ者たちがそれぞれ分断されていくという方向で語られる。

ここは、ザハ案の国立競技場がトリガーなのでした。ザハ案が実現したことによって、ifの世界、それは不安定な世界なのだけれども、到来している。シンパシータワートーキョーは、このザハ案の国立競技場への建築的な回答として作られていますし、この物語世界の呼び水なんですね。

それで、そんなザハ案に呼ばれてしまった世界は、再度いいますが、人間的進歩の追いついていない時期尚早な問題への答えを無理矢理作り上げて、それによって議論が終わっていないのに既成事実としてしまい、その既成事実は現在の人間の知力や感性の力の範囲を超えているがために、得体のしれない魔力のようなものが宿っている。その魔力の源に、母性や社会的包摂、同情といったものがあって、そういったものの、人間の言葉をバラバラにしてしまう劇薬的側面みたいなものを、本作は訴えているところがあるのかもしれません。



というところで、真面目な個人的読み解きはここまでとします。あと余談的な感想をいくつか。



こういう作品を読むと、思考力、思考体力、思考継続力とでもいったらいいのか、考えることをずっとやってこそ文学は誕生するみたいなひとつの考え方に行き着くところがありますね。あと、この作風、僕が今まで読んだものの中で唯一同カテゴリぽく浮かんだのが上田岳弘さんの『ニムロッド』。小説の質感が、ニムロッドぽい感じがします。

世の中の整理されきっていないもの。それは対立となっていたりするのだけれど、そういった情勢を背景音としてときに干渉されつつ生きる主要人物、といったように、世情が巧みにスケッチされていて、そのなかで物語が進むさまは、形態として明治時代だとかの文学とつながっていると思いました。明治時代から始まる近代文学の系譜にこの芥川賞作品もちゃんとあるぞ、という。作風のレイヤー構造を想定してみると、SFのレイヤー、ifのレイヤー、文体のレイヤーなどがあると思うのですが、近代文学のメインロードとしてのレイヤーもそこに重なっているのではないでしょうか。

それにしても、東京タワーにスカイツリー、そして物語の中とはいえ同情塔。狭いエリアに3つもタワーを建ててしまうのが日本的ですよね。パリならエッフェル塔のみでそれ以上要らないところが、市井の人にもアンティークの感覚が宿っている国民性の感じられるところではないですか。日本人は、古いものを愛でるのは好事家のみという国民性かな、タワーが三つたつさまを思ってちょっと考えるところがありました。

最後に。あった人の数のぶんだけ、自分というものは増えていく、増殖するっていうのを本作品のP111あたりで読みました。これ、まったく同じことを僕は自分の創作の最初期の頃に書いています(『結晶アラカルト』第二話という短編のなかにあります)。僕の場合は、中学三年の頃に、当時買ったYMOのCD『増殖』のジャケットの意味するところを考え続けて閃いたことでした。たぶん、これについての簡単な解説も読んでいる。中学の卒業文集に、増殖!って書いたくらいの、当時の僕としてはとても大きな気付きでした。まあ、なんていうか。九段さん、僕のはじめての小説をまさか読んでないよね、と思いつつ(いや、といいながら思いませんが笑)。



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『明恵(みょうえ) 夢を生きる』

2024-08-01 22:44:30 | 読書。
読書。
『明恵(みょうえ) 夢を生きる』 河合隼雄
を読んだ。

鎌倉時代の高僧・明恵(みょうえ)が若い頃から何十年も書き続けた、いわゆる夢日記である『夢記(ゆめのき)』は、散逸してしまったものも多いながらも、大半が現代に残されているそうです。その夢についてユング派心理学者・河合隼雄が読み解くのが本書なのでした。フロイト以前に、こんなに夢の素材が残されているのは稀有な事例だとか。

明恵上人といえば華厳宗の人ですが、浄土宗を起こして日本仏教界に革命を起こした法然を厳しく批判した僧侶として知られていると思います。ですが、だからといって、頭の固い守旧派というタイプでもないのです。たとえば江戸時代の終わりまで基本的なルールとなっていた北条泰時作成の「貞永式目」の基盤となっている考え方は、当時、泰時が明恵から大きな影響を受けたがため、明恵の精神が息づいたものとなっていると、山本七平は指摘しているそうです。日本仏教の歴史としては、法然の方がビッグネームで、明恵は名前が少しばかりでるくらいだそうですが、歴史の実際面においては、裏で大きな影響を与えた人なのかもしれません。

また、一人の人物としても、夢への向き合い方が軽薄ではなく、夢の持つ深長さを見損ねなかった人でもあったようです。著者が言うところをかいつまむと、夢というものはその時点での、その人物の精神レベルや人格的到達のレベルを反映していたりもしますし、深層意識が現われてきたり、もっと深い意識レベルに沈潜していることで見た夢には、共時性(シンクロニシティ)が発生したりします。そのような深い夢を見ながら、そういった夢を大切に扱い、日常にフィードバックするようなかたちで人間的に成長していったのが明恵であると言えそうです。ある種の、夢との理想的な向き合い方や付き合い方を成し遂げた人だと言えるのだと思います。

さて、明恵の見た夢自体とその解釈もおもしろいのですが、斜め読みでの引用と感想という形にしようと思います。ちょっと脱線気味に読んだほうが、僕にはおもしろかったので。



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コスモロジーは、その中にできる限りすべてのものを包含しようとする。イデオロギーは、むしろ切り捨てることに力を持っている。イデオロギーによって判断された悪や邪を排除することによって、そこに完全な世界をつくろうとする。この際、イデオロギーの担い手としての自分自身は、あくまで正しい存在となってくる。
しかし、自分という存在を深く知ろうとする限り、そこには生と死、善に対する悪、のような受け入れがたい半面が存在していることを認めざるを得ない。そのような自分自身も入れこんで世界をどう見るのか、世界の中に自分自身を、多くの矛盾と共にどう位置づけるのか、これがコスモロジーの形成である。
コスモロジーは論理的整合性をもってつくりあげることができない。コスモロジーはイメージによってのみ形成される。その人の生きている全生活が、コスモロジーとの関連において、あるイメージを提供するものでなくてはならない。(p101-102)
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→明恵は、その当時、バンバン!とイデオロギーを打ちだしていったたくさんの僧侶とは違い、母性的な包含のスタイルつまりコスモロジーのほうの僧侶だったと捉えることができるようです。著者は、現代においては、こういったコスモロジーの思想のほうが生じつつあると見ています。よって、明恵を見ていくことは、現代を創っていく上でのヒントになると言えるのでしょう。



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手水桶の水に一匹の虫が落ちて死にかかっているので、これを助けるようにと言う。良詮が驚いて手水桶を見にゆくと、果たして蜂が一匹溺れて死にそうになっていた、などというエピソードが述べられている。他にもこのような逸話が多く記載されており、(中略)深い無意識層にまで下降すると、このようなことがよく生じると、現在の深層心理学では考えられており、明恵の修行の深さが窺い知れるのである。(p152)
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→ただ、こういった共時性や偶然の一致などに対して、一般の人は首を突っ込まないほうがよいようなことも述べられています。激しい混乱を身に招いてしまうみたいになってしまいます。まあ、そりゃそうですよね。別の本(『たまたま』 レナード・ムロディナウ著)にあった知見ですが、「意味が存在するときにその意味を知ることが重要であるように、意味がないときにそこから意味を引き出さないようにすることも同じくらい重要である。」とありましたが、これはこういった共時性になどに対する精神衛生上大切な心構えであるでしょう。不用意につっこんではいけない。もともと通常の意識の弱い人や、極端に身体疲労している人などは、こういった体験で気がヘンになってしまうことも珍しくない、と書かれています。明恵はもしも現代にいたとしてもそうとう合理性の秀でた人で、ましてやその合理性は鎌倉時代当時ではありえないくらいのレベルにあったと考えられる人です。だからこそ、不可思議ともいえる共時的体験などをしても、健全でいられたのかもしれません。



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われわれは何か新しいものを得たとき、それによる喜びと、その背後において失われたものに対する悲しみとの、両者を共にしっかりと体験することによって、バランスを保つことができる。(p243)
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→選択をするということは、何かを得ながら何かを失うことだと著者が述べている部分です。このことについて、最近では「トレードオフ」と呼ばれていますよね。



引用はここまでです。あとは特に残しておきたいなと思ったトピックを。

少なくとも数世紀の間、警察も監獄も精神病院も必要とせず平和に暮らしたというマレー半島のセノイ族の話がありました。彼らは見た夢を分析する習慣があって、「では次に同じ夢を見たらこうしよう」と意識を介入させ、夢を「体験」していき、「体験」を蓄積していく。これが精神の健康を保つ、というのが著者・河合隼雄の弁です。ちょっと調べたら、別の著者による『夢を操る: マレー・セノイ族に会いに行く』という本が出てきました。こういった一民族の習慣が医療のヒントや知見となったりしないのでしょうか。まあ、どちらの本も30年以上前のものですけれども。

もうひとつ。

明恵が弟子に言っている、次のことが刺さりました。一人で修行すると、静かだし何ひとつ邪魔立てされず便利なように思われるが、実際は知らず知らず時間にゆとりがあることにごまかされて、なまけ怠ってしまう危険性がある、というのがそれです。僕も一人になれたらどれだけ読書や原稿が捗るかと思っていましたけれど、いま一人になってみると(仮の一人暮らし期間中です)明恵の言うことがよくわかるのです。でも、心身の調子はもう間違いなく上がってきたんですけどね。

といったところでした。河合隼雄さんの著書は膨大に残されているので、読んでも読んでもまだまだといった感じですし、その心理学の深さや難しさはどうしてもこういった読書だけでは消化して身につけることは難儀です。それでも、読みものとしておもしろいですし、ちょっとばかりの心得は僕でもつけることができるのが嬉しいところです。


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『Switch 坂道特集 坂道シリーズの創造術』

2024-07-24 21:24:08 | 読書。
読書。
『Switch 坂道特集 坂道シリーズの創造術』
を読んだ。

僕は、乃木坂46から入って、坂道シリーズがもう大好きです。こうやってスタイリッシュな雑誌で「坂道特集」が組まれ、乃木坂46・櫻坂46・日向坂46三坂道のセンター経験者たち計6人が一堂に会し表紙を飾っているその姿を見ると、まばゆい非日常感にくらくらきてしまうほどです。

6人を中心としたフォトやインタビューではじまり、衣装担当、作曲担当、振り付け担当などなどさまざまな、坂道に力を与える関係者たちのインタビューも重ねられていきます。読んでいくと、それまで見てきた可憐だったり凛としていたり青春の輝きだったりする若い女性アイドルさんたちがきらきらとした坂道シリーズのその表面ばかり眺めていたことに気付いてきます。

裏方。つまり坂道の背後では、クリエイティブがかけ算になっています。背後でのうねりというか、才気が躍動しているその様やその熱の断片を目の当たりにできる特集になっていると思いました。

そういったつくりになっていても、たとえば坂道89名がみんな回答している20の質問のコンテンツが合間に挟まれると、はっと彼女たちの魅力が瞬時に迫ってきて、ふだん目にしているアイドルグループの世界観のなかに吸収されてあっという間に、元通りのファン心理に戻っていたりする。それは、表に立つ、主役である彼女たちの力なのでしょう。

この20の質問の、日向坂46のメンバーのところを読んでいると、ところどころで、ひとりの人物のおもしろいところが語られていて、その彼女のシルエットが浮き彫りになってきます。「バラード」のことを「オリーブ」、「ハーマイオニー」を「ネルソン」と言い間違えるYDK・山下葉留花さんがその人なのですが、彼女はここぞというところで繰り出せる日向坂46の大きな武器な気がしました。場面は限られるかもしれませんけれども。かわいくて、愛嬌のあるお顔をされていますし。

さて。坂道の可憐さやひたむきさ。たとえば乃木坂には体温のぬくもりのようなあたたかさや、キャンドルを並べたときのようなじんわりとしたあたたかさがあるけれど、最近急速に惹かれている日向坂のあたたかさはその名の「日向」のようにぽかぽかとあたたかい感じがいいのだと思うんです。乃木坂はちょっと私的なタイプのあたたかさであるのに対し、日向坂はどちらかというともっとオープンでぱっと瞬時に感じられるあたたかさのポテンシャルがあると思う。それは健康的なものであって、悪ノリみたいなもので生じる種類のものとは違うもので、包摂的なものとしての性質なのではないか、と。こういってしまうと興ざめなんですが、乃木坂はどちらかというと私的な母性で、日向坂はどちらかというと公共的な母性との違いみたいなものがあるのかもしれない。まあ、一面的に切り取った見方ですけどね。

字が小さいなかで(しょうがないです)ようやく読み終えてみると、これだけ個性や人間味があって、頑張られていて、活動表現のなかで一般の人たちを応援してくれたりして、かわいかったりきれいだったりたのしかったりする人たちが、あわせて90人近くいるということにあらためて圧倒されてしまいます。スタッフさんなど関係者の方々を含め、感謝の気持ちを。

今後も楽しみです。

著者 :
スイッチ・パブリッシング
発売日 : 2024-06-20

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