Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

執筆の近況を。

2021-03-25 21:21:51 | days
エンタメ短篇の新人賞が無くなったことを受けて、エンタメ長篇を書くか純文学短篇~中篇を書くかどちらにしようか考えていました。新人賞を目指すにはそのどちらかになりますから。それで、エンタメか純文学かの方向性のどちらを選ぶかのほうについて言えば、そこについては自分の中でそれほどネックになるものはないことに気付きました。

でもまあ、言ったら、エンタメのほうが裾野が広いですし、多くの人に楽しんでもらったりちょっとしたシンプルな気付きを読む人たちにもたらすことができたりできるのだと思いますので、好きなのはエンタメのほうかもしれない。肩の凝らない読書、ハッピーな読書、カタルシスを得られる落涙の読書などの時間をつくれる仕事には大きな魅力があります。執筆の能力的にどうかっていうこと以前に、ということですが。

ですが、書きあげる原稿の分量に問題があります。僕は執筆環境に適さない家庭環境にあるので、書くときはあいまを見てなんとか書いているのですけれども、小説は、こういったブログの文章よりもずっと神経や集中力を使いますし、できれば二時間くらいまとまった時間のなかで書いていきたいのです(構想や頭に浮かんでいるものを十分にアウトプットするためには、少なくとも僕にはある程度のまとまった時間が必要になる)。また、今日は時間があったから精一杯書けそうだ、というときもあることにはあるのですが、それで出し尽くしてしまうと、翌日に家庭の事情で労力も精神力もかなり必要になる事態になったときに対応できなくなるので、余力を残しておかないとならない。

それらを鑑みて、純文学の短編から中編の執筆を選択することにしました。しかしながら、純文学といえるものを書けたことがあるかというと、無い。ただ、純文学とくくられる作家の作品はそれなりに好んで読んできました。まったくのゼロ、ということではない。

それで、構想段階で約120枚の仕上がりが予想されるものの執筆にとりかかりました。で、20枚まで行ったところで、これだと今まで書いてきたものとそれほど変わり映えがしない出来あがりになるような気がしてきたんです。それはそれで、読者対象が広い作品に仕上がるということですし、読みやすさだってある程度キープされることにもなっている。でも、純文学ってどうとらえられているものだったか? と自分に問うたときに、ちょっと立ち止まった方がいいなと思い、それまでの原稿を中断しました。

そんな時期に、とあるニュースサイトである芥川賞作家の方のインタビューを読んだのです。いつの間にか小説のステレオタイプというか、型、枠、みたいなものの重力に自然とひっぱられるような執筆になっている気が僕にはちょっとしていて(それが知らず身についた僕のひとつの癖なのかもしれません)、それと似たようなことをこの作家は言ってらっしゃった。それを突き破ったのは特訓だ、と続いていて、それだなと僕もならってみることにしたんです。

といえど、やってみるとなかなかその作家のようにはいかない。一日一本書くのをある程度の期間やるのが理想でも、構想段階で30枚とかになり、一日で終わらない。それでも、これは応募するためのものではないしと思うと構えずにいられて、すらすらと新しい言葉が出てきました。はじめての「特訓」と決めたものはしっかり最初から最後までプロットを決めてとりかかりました。

で、最初の5枚くらいの段階から、そのプロットの枠を暴れ回ったりはみだしたりする書き方になった。こういう場合、その後のまとまりを欠くのではないか、という危惧が生まれますが、練習だからと思うと破綻してもいいからやってみようと書き続けることになっていく。

そうしたやり方をして、33枚で2週間弱かかりました。構想段階をいれると3週間弱。まあ、体調を崩して寝こんでいた日も二日間ありましたし、実は今も体調が戻っていないです。

今回取り組んだことで得た気付きは、書きあげたものから教えられるということ。初稿を読みかえして教えられて、それで第二稿へとフィードバックをして、さらに読みかえして教えられて次の稿へフィードバックしていく。この短い小説を完成させたことで、そういう効果的なプロセスの踏み方を学べました。

肝心の、出来あがった小説はどうだったかというと、練習だったからと眠らせておかなくてもいいのではないか、と思えた出来です。なので、純文学の新潮新人賞へ応募しました。33枚程度では分が悪そうですが、作りはしっかりしています。ですが、万人向けでもないし、それどころかごく少数向けの作品にしあがっている気はします。読者の対象に関していえば、ほとんど考えられていません。そして読者の裾野を広げるためのサービスはありません。表現と技術、重心をかけたのはそういったところだったかなと思います。

僕としては新しいものが拓けた満足感があります。あとは体調を戻すだけ……。

というところです。

最後に、読書記事のほうが滞っています。上下巻組の本に手を出してしまったので長くかかっているのでした。でも、今月中にはその作品を紹介できると思いますので、お待ちくださいませ。
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自律と他律と資本論。

2021-03-19 13:03:02 | 考えの切れ端
先日、録画していた1月のEテレ100分de名著・資本論のシリーズを見ていました。

資本論は言わずと知れたカール・マルクスの名著で、経済学で扱われますし、社会主義や共産主義へひとびとを動かしていった力があった本です。だからかえって「社会主義か~」「共産主義か~」と斜に構えてしまってこの録画を再生したのですが、資本論への距離間や読み解いていくための立ち位置が上手で、おもしろく視聴しました。

そんななか、ハッとする考え方が出てきました。資本主義は、仕事を「企画や計画をたてる側」と「実際に身体を動かして製作したりなど遂行する仕事の側」とのふたつに分けたとあった。昔だったら、たとえば家を建てるにしても、設計から大工作業まで同じ人たちが全般を通して働いたことが多かったはずです。まあ、家を建てる場合はちょっとおおがかりなので、とりあえず、仕事を最初から最後までひととおり通してやりぬくのが、昔ながらのやり方だったと踏まえていてください。

資本主義の勢いが強くなっていくにつれて、仕事上の計画に立つ側と実行に立つ側の分割がよりはっきりしていきます。この場合、実行側は、計画側に言われたとおりに仕事をこなすだけのような役割を担わされる。僕はこの構図を他律性の視点でながめました。僕は何度か書いてきましたが、大雑把にいえば、他律性にさらされたひとは幸福感を感じにくく自律性で動くほうが幸福感を感じやすい、というのがそれでした。何かの翻訳本、それも別々の二冊の本に載っていた同じ実験結果の話もこの説を後押しします。それは、アメリカのコントロール心理学という分野で老人ホームを実験観察したときの話。自分で裁量をもたせられて自律的に生活できたグループと、他者からの命令や指図つまり他律性のなかで生活したグループとを比較すると、前者のほうが寿命が長くなった、あるいは後者の寿命が短くなった、という結果が得られたのだそう。僕の、「他律性は幸福感を感じにくくする」という考えと近接しているように思いました。幸福感はきっと長生きにつながると思いますから。幸福感の有無は、人体によくはないストレスの多寡が関係していそうに思えます。

さて。
マルクスは、この分割された仕事を再統合することが大切なのではないか、と考えていたそうです。経済的にも、精神的にも、そのほうがより良くなることをマルクスはマルクスなりに考えていました。100分de名著でわかりやすく解説されていましたが、ちょっと今回はそのあたりの説明はしません。
だんだん見えてきたと思います。そうなんですよね、資本主義によって分離された仕事を「統合」するということは、僕が考える「自律」とかなり似たようなものなのでした。僕のイメージではそうだったんです。ひととおりの仕事をすべて自分でやってみることが幸せにつながることは、すなわち「自律性でやる仕事」だと言えるのではないでしょうか。反対に、他律性に視点を持っていくとするとこう考えられます、「資本主義って仕事に他律性を増してしまったんだ」と。他律性が幸福感を得にくくする論理がもしも実証されるなら(もしくは、されていたとするなら)、資本主義による分業のありかたは幸福感を得にくくさせるということが疑いようのない事実だとはっきりと認められることになります。

かといって、資本主義をきっぱりやめられるかというとそうではないし、資本主義のよいところや楽なところはたくさんあるでしょう。自律性には、「関係性の自律」という考え方もあります。これは他律と自律のあいだですりあわせをするような在り方です。同じように、資本主義の分業システムも人間の幸福視点から見直していいのではないか。まずは分業のすり合わせだとか、任せられる仕事はあえて分業しないだとか、やっていけたら楽しくなるのですけども。それでいて生産性が落ちなければ、完璧に移行できますよね。

という考えの切れ端でした。おそまつさまです。
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『こちらあみ子』

2021-03-05 22:56:37 | 読書。
読書。
『こちらあみ子』 今村夏子
を読んだ。

太宰治賞と三島由紀夫賞をW受賞した、今村夏子さんのデビュー作。

解説で町田康さんが書かれているとおり、いろいろな読み方のできる作品だと思いました。さらにいえば、その解釈の仕方によって、それぞれの人の持ち味があからさまになるのではないか。そういう、優れた試薬のような性質を隠しもっていそうな作品で、こうやって感想を書いていくと僕という人間が底の方からバレてしまうだろうなあと思われるのですが、まあ気にせず書いていきます。

僕にはそこまで降りていけていなかったようなところまで作者は降りていっていて、さらにそんな地点にいる人物と同じ目線でモノを見ている。混沌や混濁を飲みこみながら、ある種の特別な明晰さで表現しているし、巧みなギミックも用いてもいる(はじめて書いた小説がこれだなんてすごいですね)。小学生の頃、あみ子と重なり合うところのあるような気がする女の子がいた。僕は、その子を嫌だと思っていた、この小説に登場するのり君みたいに。その子の側に立ってみるなんてことは思いもよらないまま、そこの部分は凍結されて僕はオトナになっていた。それを『こちらあみ子』から知りましたねえ。

あみ子は枠からはみでた子なんですよね。枠からはみ出た子は枠からはみ出ていることには気付けない。自らはのびのびしていても、知らずしらずのうちに周囲の者たちのこころを切りつけていたり。でもそんな周囲の者たちは、ぐっと一呼吸おいたスタンスであみ子にまあるく触れる。そういう営みがあった。まあるく触れるといっても、みんな余裕があるわけじゃないですからある種のいびつさを内包したまま触れるんだけれども。

あみ子のほうはというと、たぶんタイトルの「こちらあみ子」のとおり、ほんとうに生のコミュニケーションを他者としたいとずっと思っている。ストレートにお互いのこころ同士で話をしたい、というような。中学生になって調子が悪くなっていくところは、成長して大人に近づいて、無意識にその切実さが深まったからだと僕は解釈します。

で、つづく「ピクニック」と「チズさん」を読むと、作者に対してさらにつかみどころがわからなくなりました。愛情とも悪ノリともわかちがたいような感覚が、そこにはあるように感じて、やっぱり混濁と混沌を飲みこんで書いているような気が僕にはしました。なんていうか、謎なんですよね、どっちに転ぶのかっていうのが、ちょっとこれだけではわかりません。でも、その分かちがたく溶け合っているような、そこのところがおもしろいのでしょうね。あえて未分化でやってます、みたいな感じがしました。


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