読書。
『推し、燃ゆ』 宇佐見りん
を読んだ。
デビュー二作目での第164回芥川賞受賞作。
推しのアイドルを夢中で追いかける主人公・あかり。そのアイドルがファンを殴った時点から物語が始まります。雑な言い方になりますし、内容とはまるで関係がないのだけど、技の繰り出すところとその種類を考えてみるのに学べるものがあるなあというふうに読みはじめました。わかりやすいところだと、最後のほうなどの誇張的表現の多用で盛り上げていく、だとか。どういうふうに書いているかな、というところから始まりましたが、読み進めるうちに興味は中身へと移っていきました。ページを繰るごとに主人公の日常の送り方やどういうふうな生き方をしているかなどの解像度がゆっくりと増していきます。おもしろさも吸引力もそれにつれてクレッシェンドする感じでした。
以下、ネタバレのある感想になります。
あかりは昔から勉強が苦手でしたが、でも推しについての知識となるとガツガツといったくらい貪欲に吸収していきます。母に強制的に暗記を強いられても覚えられず、姉に親身になって勉強を教えてもらってもいっこうに身につかなかったあかりですが、どうして推しについてであれば必死にノートを取りながら覚えられるのか。ひとつの答えとして、自分が望む他律性と自分が望まない他律性に対するもはや生理的な反応の違いだと僕は考えました。
あかりは、推しについて以外のことは捨てていきます。それも削ぎ捨てていく。骨になるまで肉を削っていくように、です。もう、自分の道は決まった、と決めているんですね。あかりの場合、アイドルを推すのも、ひとつの「道」と化しているんです。これはもうある種の「求道」ではないでしょうか。
さて。あかりの、自分の望む他律性は推し。推しを推すことに心血を注いでいます。推しが好きな映画を自分も見たりするなど、推しの好みを自分にも課している。推しへの好意ゆえに、推しの人生を正しいものとしてそれに従おうとする。そしてその行為にエネルギーをすべて注ぎこむので、学業に限らず部屋の掃除や整理整頓なども捨ておくようになっている。唯一、外の世界と繋がっていた定食屋兼居酒屋のバイトも「一時間働くと生写真が一枚買える、二時間働くとCDが一枚買える、一万円稼いだらチケット一枚になる」と考えながら、仕事自体をやりすごすようにこなしています。それゆえにその心構えがしわ寄せとなって、いつまでたっても一人前になれません。
社会や環境など自分をとりまく大きなもの。もっというと、運命もその範疇にいれていいのかもしれません。それらすべて、「大きな他律性」としてみてみる。たとえば「大きな他律性」に内包された生であっても、自律的に生きると自分の半径1mだけバリアを張った、みたいになれたりするものです。そして、たぶんにあかりが望まない他律性がこの「大きな他律性」であって、この支配から逃れるために「小さな他律性」であり自分が望む他律性でもある「推しの他律性」を選んだのではないか。「大きな他律性」を忘れられるような「小さな他律性」に身を委ねることがあかりの生き方なのだと僕は読みました。
社会などからの「大きな他律性」には個人を支配しようとするリズムというか波長というかがあって、無言の圧力でそれに合わせなさいと迫ってきます。そこに「小さな他律性」が「大きな他律性」とは違うBPMのリズムだったり大きさや早さの違う波長だったりするものを発っしているのを自分で選び、受けとめると、「大きな他律性」のリズムから逃れられる効果があると思うんです。受容できるリズムひとつを選べば、他のリズムを排除できる性質があるように考えられるんです。これは自分の身体感覚に落としてみてもそうだなあと感じられる。
しかしながら、「大きな他律性」に対する根治療法的対処が「自律性」で、対症療法的対処が「小さな他律性」なのではないか。推しを推すことに賭けるような「小さな他律性」の元で生きることには、あまり未来が感じられません。未来が閉じてしまっているのを見ないふりをしているかのように見えてしまいます。
あかりは高校生の段階でこれだけなにもかもを削ぎ落していくような生き方をしていっているのはちょっと早いなという気がしました。それ相応の年齢になると、要らないなというものを少しずつ捨てていくことで生きることが楽になるっていうのはあると思うのですが、でも僕自身を振り返ってみると「あれれ」と思ったのです。なぜなら僕も高校生当時、僕なりの削ぎ落とし方をしていたなあと思いだしたからでした。高校という段階がうんざりしたタイプだったのでした。
で、あとで気付くのだけれど、自分から自然に削ぎ落してきたつもりでいても、それこそ「大きな他律性」などの力によって喪失させられているものも少なくないのです。本書の主人公・あかりには、このあと時間をかけてでも再生していけよ、と思いました。「大きな他律性」からの影響はとても大きくて、この物語はそのことについて書いているのではないか、と独断的に読んだのでした。あかりの苦しさの根本にあるのは、それだと思うんですよね。
以上でした。
作者について感じたのは、すばらしい才能はもちろんなのですがそれ以上に勇気というか肝っ玉が強いというか、そういうところでした。失うものは無いんだ、っていうところから覚悟をして放たれた全力のパンチっていう印象です。正攻法です。まだほんのすこし荒削りかなあと思えるところが僕個人としては感じた部分はあるのですが、それを上手く活かす文体でもあったでしょうか。文体がそういった部分も肯定してポジティブに作用させる。まあ、読み手のほうも冷笑的にならずにオープンに受け入れようという感覚で読むといいでしょうね。こっちでオープンになったぶん、ちゃんとしっかりしたリターンがもらえます。
『推し、燃ゆ』 宇佐見りん
を読んだ。
デビュー二作目での第164回芥川賞受賞作。
推しのアイドルを夢中で追いかける主人公・あかり。そのアイドルがファンを殴った時点から物語が始まります。雑な言い方になりますし、内容とはまるで関係がないのだけど、技の繰り出すところとその種類を考えてみるのに学べるものがあるなあというふうに読みはじめました。わかりやすいところだと、最後のほうなどの誇張的表現の多用で盛り上げていく、だとか。どういうふうに書いているかな、というところから始まりましたが、読み進めるうちに興味は中身へと移っていきました。ページを繰るごとに主人公の日常の送り方やどういうふうな生き方をしているかなどの解像度がゆっくりと増していきます。おもしろさも吸引力もそれにつれてクレッシェンドする感じでした。
以下、ネタバレのある感想になります。
あかりは昔から勉強が苦手でしたが、でも推しについての知識となるとガツガツといったくらい貪欲に吸収していきます。母に強制的に暗記を強いられても覚えられず、姉に親身になって勉強を教えてもらってもいっこうに身につかなかったあかりですが、どうして推しについてであれば必死にノートを取りながら覚えられるのか。ひとつの答えとして、自分が望む他律性と自分が望まない他律性に対するもはや生理的な反応の違いだと僕は考えました。
あかりは、推しについて以外のことは捨てていきます。それも削ぎ捨てていく。骨になるまで肉を削っていくように、です。もう、自分の道は決まった、と決めているんですね。あかりの場合、アイドルを推すのも、ひとつの「道」と化しているんです。これはもうある種の「求道」ではないでしょうか。
さて。あかりの、自分の望む他律性は推し。推しを推すことに心血を注いでいます。推しが好きな映画を自分も見たりするなど、推しの好みを自分にも課している。推しへの好意ゆえに、推しの人生を正しいものとしてそれに従おうとする。そしてその行為にエネルギーをすべて注ぎこむので、学業に限らず部屋の掃除や整理整頓なども捨ておくようになっている。唯一、外の世界と繋がっていた定食屋兼居酒屋のバイトも「一時間働くと生写真が一枚買える、二時間働くとCDが一枚買える、一万円稼いだらチケット一枚になる」と考えながら、仕事自体をやりすごすようにこなしています。それゆえにその心構えがしわ寄せとなって、いつまでたっても一人前になれません。
社会や環境など自分をとりまく大きなもの。もっというと、運命もその範疇にいれていいのかもしれません。それらすべて、「大きな他律性」としてみてみる。たとえば「大きな他律性」に内包された生であっても、自律的に生きると自分の半径1mだけバリアを張った、みたいになれたりするものです。そして、たぶんにあかりが望まない他律性がこの「大きな他律性」であって、この支配から逃れるために「小さな他律性」であり自分が望む他律性でもある「推しの他律性」を選んだのではないか。「大きな他律性」を忘れられるような「小さな他律性」に身を委ねることがあかりの生き方なのだと僕は読みました。
社会などからの「大きな他律性」には個人を支配しようとするリズムというか波長というかがあって、無言の圧力でそれに合わせなさいと迫ってきます。そこに「小さな他律性」が「大きな他律性」とは違うBPMのリズムだったり大きさや早さの違う波長だったりするものを発っしているのを自分で選び、受けとめると、「大きな他律性」のリズムから逃れられる効果があると思うんです。受容できるリズムひとつを選べば、他のリズムを排除できる性質があるように考えられるんです。これは自分の身体感覚に落としてみてもそうだなあと感じられる。
しかしながら、「大きな他律性」に対する根治療法的対処が「自律性」で、対症療法的対処が「小さな他律性」なのではないか。推しを推すことに賭けるような「小さな他律性」の元で生きることには、あまり未来が感じられません。未来が閉じてしまっているのを見ないふりをしているかのように見えてしまいます。
あかりは高校生の段階でこれだけなにもかもを削ぎ落していくような生き方をしていっているのはちょっと早いなという気がしました。それ相応の年齢になると、要らないなというものを少しずつ捨てていくことで生きることが楽になるっていうのはあると思うのですが、でも僕自身を振り返ってみると「あれれ」と思ったのです。なぜなら僕も高校生当時、僕なりの削ぎ落とし方をしていたなあと思いだしたからでした。高校という段階がうんざりしたタイプだったのでした。
で、あとで気付くのだけれど、自分から自然に削ぎ落してきたつもりでいても、それこそ「大きな他律性」などの力によって喪失させられているものも少なくないのです。本書の主人公・あかりには、このあと時間をかけてでも再生していけよ、と思いました。「大きな他律性」からの影響はとても大きくて、この物語はそのことについて書いているのではないか、と独断的に読んだのでした。あかりの苦しさの根本にあるのは、それだと思うんですよね。
以上でした。
作者について感じたのは、すばらしい才能はもちろんなのですがそれ以上に勇気というか肝っ玉が強いというか、そういうところでした。失うものは無いんだ、っていうところから覚悟をして放たれた全力のパンチっていう印象です。正攻法です。まだほんのすこし荒削りかなあと思えるところが僕個人としては感じた部分はあるのですが、それを上手く活かす文体でもあったでしょうか。文体がそういった部分も肯定してポジティブに作用させる。まあ、読み手のほうも冷笑的にならずにオープンに受け入れようという感覚で読むといいでしょうね。こっちでオープンになったぶん、ちゃんとしっかりしたリターンがもらえます。