読書。
『ゆるす 読むだけで心が晴れる仏教法話』 ウ・ジョーティカ 魚川祐司 訳
を読んだ。
ミャンマーの高僧であるウ・ジョーティカ師が1997年にオーストラリアで行った法話をもとに構成された本。仏教の専門的で難しい法話ではなく、非仏教徒でもわかるような言葉と内容で、「心の科学」とも言われる仏教の視座から主に「怒り」「許し」について語っています。また、マインドフルネス(今の自分に自然と集中できている状態、でしょうか)を重視し広めようとしている方のようで、随所にその思想や瞑想の大切さを説く場面がありました。「スピリチュアル」という言葉で表現される種類の内容が重なっていますが、もともと「スピリチュアル」という言葉自体がとても曖昧なものなので、そこに神秘主義やオカルトを想像する方もいらっしゃるでしょう。しかしながら、本書で語られる「スピリチュアル」は「精神性」だとか「深い人間性」だとかそういった言葉に僕だったら意訳するだろう中身でした。
およそ2600年の歴史を持つ仏教。日本には飛鳥時代に伝来したといわれ長い歴史がありながら、いまや葬式仏教と呼ばれるくらい一般の日本人との接点は偏り小さくなってきています。現在では葬儀も家族葬などのお金をかけないものが増えてきているそうですし、多額の寄付金が必要になる「戒名」をつけて頂くことを避ける人も珍しくはないというような話を聞くこともあります。こういった仏教のイメージとはまた違って感じられるのが著者の生きる上座部仏教の世界です。
著者のウ・ジョーティカ師の属する上座部仏教は、戒律をまもりながら各々で自分を高めていろいろ考え抜き悟りをひらくまで励んでいこう、というような宗派のようです。対する日本の仏教は大乗仏教の流れのものですから、お釈迦様の言葉をよくかみしめて考えたりなどし教えを守っていこう、というようなものに近い宗派だと思います。だからたぶん、日本のお坊さんが話すこととはちょっと違う角度というか、哲学的な性格が強いのではと思います。
つまるところ「怒り」は反応なのだ、と話していました。物事にたいして自動的に感情が反応してしまうことが怒ること。あまりに怒りすぎると見境がなくなり、歯止めも効かなくなります。そうなれば、もはや感情の奴隷としての存在であり、それは自由ではないのだ、とありました。さらに、怒りは心のムダづかい、だとして、もっとエネルギーを効率的に使っていくほうが人生のためです、というように説いています。
なぜ反応してしまうか、そのひとつの理由として「参与する」ことが挙げられています。この「参与する」という言葉は「コミットする」だとか「関わる」だとかという意味合いで捉えてよさそうですが、生きている以上、参与せずに生きることは弧絶して生きることと同じなのではと想像できたりします。でも著者が言いたいその主旨のニュアンスは「怒らないために参与を止めなさい」というのとはちょっと違うようなんです。個人的に考えてみれば、参与しすぎないこと、つまりベタベタしすぎる人付き合いではなく互いに敬意を持ち互いを尊重するような距離の取り方でおそらく参与のしすぎは解消されるでしょうから、そういった方向を向きましょうと促しているように受け取れたのですが、著者の考えはもっと精神的に深いところにあるのでした。著者は、現代はニュースなどがあふれていて、そのひとつひとつにすら参与してしまう有り方についての話をしたあとでこう言っています。
「あなたが現象に参与しない限り、誰も本当の意味であなたを幸せにはできないし、また誰も本当の意味であなたを不幸にはできません。」
「参与しているからこそ、私は自分の幸福と不幸に責任があるのです。」
要するに、参与することによって幸福になることがあるし反対に不幸になることもあるのだけれども、参与するかしないかというのは自分で選択できること、なのです。そして、自動的に参与してしまわないためには、マイドンフルネスを会得していなければならない、というところに繋がっていくのでした。
「ゆるし」についても平易な言葉で語られながら中身は深く、なるほどなあと頷きながら癒されそして学ぶ、という読書でした。たとえばこのような文言。
「許さないでいることはある種の牢獄です―――あなたは他人を投獄するのですが、しかしそのようにすることで、同時にあなたは、自分自身をも投獄しているのです。」
これはボードレール『悪の華』の「死刑囚にして死刑執行人」と近いところにある意味合いの言葉だと思います。著者は、許すことでひとは自由になれるということについての考察を述べるなかで、許さないことでそこから何を得ているのかを考えることがとても大切だ、という洞察をしていて、さまざまな角度から物事を考えてきたひとなのがうかがい知れるところで、ほんとうに「考える人」だなあ、と清々しさをおぼえるくらいでした。
「許すことは忘れることではない」「理解すれば怒りは消える」「「許さない」という自傷行為」など、これらは各項のタイトルなんですが、それぞれ難しくなく読める言葉遣いで語られた項ですし、それらによって自分の思索を深めさせてくれるし、いたわってもくれるし、励ましてもくれるしで、充実した読書時間にひたれました。
そんななか考えたのが次のようなこと。いつか流行った「十倍返しだ!」に比べれば、ハムラビ法典の「目には目を」には公平感ときっちりした「だからといってこれ以上はしてはいけません」という制約を感じたりします(この気付きは、昨年放送のNHKのドラマ『タリオ』のセリフからです)。人間性をさらに発展させたら「ゆるします」になると思うのですが、これは「十倍損した!」といいながらもそれを飲みこんでする行為ですよね。この「ゆるす」がすごいんだ。そのすごみがわかるようになる本書の後半部でした。
「怒り」にも「ゆるし」にも、うまくその対処にフィットするやりかたがわからない方はたくさんいらっしゃるでしょう。大きなヒント以上のものを得られる本なので、そういった感情面のコントロールを試みたいひとにはうってつけです。また、SNSで攻撃的な言葉で問答無用の責めに辟易しているひとにも、寄り添ってくれるような中身だと思いました。
『ゆるす 読むだけで心が晴れる仏教法話』 ウ・ジョーティカ 魚川祐司 訳
を読んだ。
ミャンマーの高僧であるウ・ジョーティカ師が1997年にオーストラリアで行った法話をもとに構成された本。仏教の専門的で難しい法話ではなく、非仏教徒でもわかるような言葉と内容で、「心の科学」とも言われる仏教の視座から主に「怒り」「許し」について語っています。また、マインドフルネス(今の自分に自然と集中できている状態、でしょうか)を重視し広めようとしている方のようで、随所にその思想や瞑想の大切さを説く場面がありました。「スピリチュアル」という言葉で表現される種類の内容が重なっていますが、もともと「スピリチュアル」という言葉自体がとても曖昧なものなので、そこに神秘主義やオカルトを想像する方もいらっしゃるでしょう。しかしながら、本書で語られる「スピリチュアル」は「精神性」だとか「深い人間性」だとかそういった言葉に僕だったら意訳するだろう中身でした。
およそ2600年の歴史を持つ仏教。日本には飛鳥時代に伝来したといわれ長い歴史がありながら、いまや葬式仏教と呼ばれるくらい一般の日本人との接点は偏り小さくなってきています。現在では葬儀も家族葬などのお金をかけないものが増えてきているそうですし、多額の寄付金が必要になる「戒名」をつけて頂くことを避ける人も珍しくはないというような話を聞くこともあります。こういった仏教のイメージとはまた違って感じられるのが著者の生きる上座部仏教の世界です。
著者のウ・ジョーティカ師の属する上座部仏教は、戒律をまもりながら各々で自分を高めていろいろ考え抜き悟りをひらくまで励んでいこう、というような宗派のようです。対する日本の仏教は大乗仏教の流れのものですから、お釈迦様の言葉をよくかみしめて考えたりなどし教えを守っていこう、というようなものに近い宗派だと思います。だからたぶん、日本のお坊さんが話すこととはちょっと違う角度というか、哲学的な性格が強いのではと思います。
つまるところ「怒り」は反応なのだ、と話していました。物事にたいして自動的に感情が反応してしまうことが怒ること。あまりに怒りすぎると見境がなくなり、歯止めも効かなくなります。そうなれば、もはや感情の奴隷としての存在であり、それは自由ではないのだ、とありました。さらに、怒りは心のムダづかい、だとして、もっとエネルギーを効率的に使っていくほうが人生のためです、というように説いています。
なぜ反応してしまうか、そのひとつの理由として「参与する」ことが挙げられています。この「参与する」という言葉は「コミットする」だとか「関わる」だとかという意味合いで捉えてよさそうですが、生きている以上、参与せずに生きることは弧絶して生きることと同じなのではと想像できたりします。でも著者が言いたいその主旨のニュアンスは「怒らないために参与を止めなさい」というのとはちょっと違うようなんです。個人的に考えてみれば、参与しすぎないこと、つまりベタベタしすぎる人付き合いではなく互いに敬意を持ち互いを尊重するような距離の取り方でおそらく参与のしすぎは解消されるでしょうから、そういった方向を向きましょうと促しているように受け取れたのですが、著者の考えはもっと精神的に深いところにあるのでした。著者は、現代はニュースなどがあふれていて、そのひとつひとつにすら参与してしまう有り方についての話をしたあとでこう言っています。
「あなたが現象に参与しない限り、誰も本当の意味であなたを幸せにはできないし、また誰も本当の意味であなたを不幸にはできません。」
「参与しているからこそ、私は自分の幸福と不幸に責任があるのです。」
要するに、参与することによって幸福になることがあるし反対に不幸になることもあるのだけれども、参与するかしないかというのは自分で選択できること、なのです。そして、自動的に参与してしまわないためには、マイドンフルネスを会得していなければならない、というところに繋がっていくのでした。
「ゆるし」についても平易な言葉で語られながら中身は深く、なるほどなあと頷きながら癒されそして学ぶ、という読書でした。たとえばこのような文言。
「許さないでいることはある種の牢獄です―――あなたは他人を投獄するのですが、しかしそのようにすることで、同時にあなたは、自分自身をも投獄しているのです。」
これはボードレール『悪の華』の「死刑囚にして死刑執行人」と近いところにある意味合いの言葉だと思います。著者は、許すことでひとは自由になれるということについての考察を述べるなかで、許さないことでそこから何を得ているのかを考えることがとても大切だ、という洞察をしていて、さまざまな角度から物事を考えてきたひとなのがうかがい知れるところで、ほんとうに「考える人」だなあ、と清々しさをおぼえるくらいでした。
「許すことは忘れることではない」「理解すれば怒りは消える」「「許さない」という自傷行為」など、これらは各項のタイトルなんですが、それぞれ難しくなく読める言葉遣いで語られた項ですし、それらによって自分の思索を深めさせてくれるし、いたわってもくれるし、励ましてもくれるしで、充実した読書時間にひたれました。
そんななか考えたのが次のようなこと。いつか流行った「十倍返しだ!」に比べれば、ハムラビ法典の「目には目を」には公平感ときっちりした「だからといってこれ以上はしてはいけません」という制約を感じたりします(この気付きは、昨年放送のNHKのドラマ『タリオ』のセリフからです)。人間性をさらに発展させたら「ゆるします」になると思うのですが、これは「十倍損した!」といいながらもそれを飲みこんでする行為ですよね。この「ゆるす」がすごいんだ。そのすごみがわかるようになる本書の後半部でした。
「怒り」にも「ゆるし」にも、うまくその対処にフィットするやりかたがわからない方はたくさんいらっしゃるでしょう。大きなヒント以上のものを得られる本なので、そういった感情面のコントロールを試みたいひとにはうってつけです。また、SNSで攻撃的な言葉で問答無用の責めに辟易しているひとにも、寄り添ってくれるような中身だと思いました。