Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

『RIO』

2014-09-30 20:02:23 | 読書。
読書。
『RIO』 高野寛
を読んだ。

デビュー25周年を迎えた(おめでとうございます)ミュージシャン、高野寛さんの
エッセイ付きのブラジル・リオデジャネイロの写真集。

光が輝いていても、高野さんの写真ってあまり眩しい感じがしない。
それどころか、曇り空を含めた構図なんかが逆に印象的に感じられるような写真だったりする。
そして、リオを撮っているので、もちろん、そこの空気を伝えるものだったりするのだけれど、
この場合、写真家としての高野寛さんのヴィジョンとシャッターを押す感覚が創作的なのが、
アウトプットされた写真たちをみてみるとよくわかる。
撮り手の意図と、被写体となった空間がみせるそのときの表情が、
こういう形でマッチングしたのだな、というように楽しめる。
そこには、たぶんに、高野さんのクリエイティブ運として、
他の人には出合えない面白いシーンとめぐりあい、
そこでちょちょいと高野さんの感覚がぶつかりあって、
出来あがっている写真たちのような気さえする。
いや、目ざとく、僕らだったら気がつかなかったり、
流してしまうようなシーンを、拾い上げるフィルターを持っていて、
そこでその素材を料理しているのかもしれない。
総じていえば、そんなクリエイティビティを感じさせながら、
いたずらっぽいポップさがうかがえる写真集だった。

エッセイのほうは、おもに、ブラジルと高野さんの付き合いって
こうこう、こういう感じなんだ、というのと、ブラジル、
ひいてはリオってこういうところでこういう人たちがいるんだ、
という紹介といった内容だった。
淡々として抑制の効いたクセのない文章で、
そのおかげで伝えようとされていることが、
ストレートに伝わりやすくなっているように読み受けた。
ミュージシャンだからといって、
俺だ!俺だ!っていうような文章ではない(それは肉体派ロッカーかな)。

この写真集と時期をほぼ同じくして「TRIO」という新アルバムも発表されていて、
それはアマゾンで買ったのだけれども、まだ未開封という状態なのだった。
でも気になって、YouTubeでオープニングの曲を聞いたのだけれど、
とてもいい空気感に仕上がっていたので、近いうちに聴くのを楽しみにしている。

読んだ時間が、ブレイクタイムになるような写真集。

著者 : 高野寛
ミルブックス
発売日 : 2014-07-20

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『一瞬のアジア』

2014-09-25 21:32:40 | 読書。
読書。
『一瞬のアジア』 菅洋志
を読んだ。

写真集です。
写真家である著者は昨年亡くなられて、
今作は彼の一周忌を機にしたベストショット編集のものだということです。

タイトルのとおり、中東を除くアジアの国々、
それはブータンであったりインドネシアであったり、
タイであったり、韓国であったり、さまざまです。
そこに何代にもわたってずっと生活してきたであろう人々の姿。

パキスタンだと、遠い昔にアレクサンダー大王が遠征してきてこの地を占領した際に、
そこに住む人々とマケドニアの兵士たちがともに生活し、血が混じり合った
その証とでもいうべき、青い眼や高い鼻といった顔つきの特徴がみられたりします。
昔の史実の痕跡というべきか、昔そうだったから今こうなんだ、という証がみられる。
のっぺりしたアジア人風の顔つきとはまた違っているアジア人でした。

アジアという風土の強い地力。
そこから発せられる、見えないけれど力強いエネルギーに、
ずっと身体すべてをさらされて代を重ねて生きてきた人々。
そういうのにたいしては、共生や共存という言葉があうんだろうけれど、
人間の存在の「ねばっこさ」っていうものをそこに感じずにはいられませんでした。

強靭、頑強、それでいて、うねり、うずまくアジアの環境。
嵐や干ばつなどの自然現象があり、それによって出来あがった地形があり、
そしてその地形や環境に適応した形で植物が茂り、動物たちがまたそれに適応した形で
住まっていて、そしてそれにねばっこく人間が生活している。
そのねばっこさは土着という言葉に置き換えてしかるべきなのかもしれないですが、
その、人々の生活と自然環境とのボーダーのあいまいな部分が美しかったりします。
民族衣装は本当にきれいだし、汚れたシャツを着ている少年たちなんかも、
その泥だか汗なんかでついた茶けた色などが、自然とのボーダーをあいまいにしていて、
そこがいいかもしれないと思ったりする。

伝染病とか風土病とか寄生虫だとか、衛生に気をつけないと怖いのですが、
そこで、欧米由来の衣服や装備や清潔さでアジアに臨んでしまうと、
もう見た感じからして、自然環境、いや、アジアとは馴染まなかったりする。
欧米由来のそういった感じは、「おれらは人間なんだ!」という、
人間と、その他のもの(自然環境、動植物など)を峻別して
きっちりボーダーを引いてしまうやり方なのではないかな。
きっちりボーダーを引いても、植物由来の酸素というものはしっかり吸っていたりもするんですが、
まぁ、意識に登る上では、自然を超えた存在としての人類、みたいなスタンスで、
日本人もそうですけど、先進国の心性ってそんな感じだったりする。

海に潜ったり、森林浴したり、そういう人たちもたくさんいるとは思いますし、
ヨーロッパの国々でも、中世の街並みを残していたりするところは多いでしょうし、
なんでしょうね、大量消費とかモータリゼーションとか都市化とか、
そういったものに代表されるスタイルが常態となった文化になれていると、
このアジアの風情にショックを受けて、考え始めることになるのかもしれないです。
あるいは、拒絶という方法をつかう人もいるでしょうし、少なからず拒絶の心理は
多くの人に働くと思います。

アメリカを追いかけて、高度資本主義の道を突っ走ってきたこの日本の人々の中には、
こういったアジア的な空気を嫌う人も多いと思いますが、
この写真集なんかで、ずっと見つめてみる、見続けてみると、
そこに息づく人々のことを否定しないのが本当なのではないか、と
きっと思えてくるんじゃないかな。

アジアは、僕が20代の頃なんか、ちょっと海外旅行にいくのに流行ってきた感じがありましたが、
僕なんかは、アジアで何を感じればいいのかわからなかったところがあります。
まぁ、食べ物くらいですよ、興味があるのは。
そういうのに、プラス違う興味を与えてくれるような、
気付きをもたらしてくれる写真集だと思います。
そして、それを突き詰めていくと、幸せとは何だろうという問いにぶつかっていくのでしょう。


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こういう気分。

2014-09-22 00:50:05 | days
今まで書いた小説は2つで、どちらもそれほど長いものではなく、
書き始めた瞬間から、あまり長い物語にはならないなぁとわかる、
たまたま手に取った題材が胴の短いろうそくだったというような、
そんな、燃焼時間が規定されてしまったかのような状態で、
とりあえず自由に書こうと、一筆書き的に書いてきた。

テーマと簡単な設定で、どのくらいの長さの物語になるかっていうのは、
もう早い段階でわかるようです、僕みたいな素人でも。
さらに、初心者だからどれだけ書けるかわからないというのもあるし、
ちゃんと結末に着陸させられるだろうか、という不安もあるしで、
そうなると、力技で着陸させる場合もあるんですね。

でも、2つ書くと、そういう肩を怒らせるみたいな、
構えた書き方はしないような方法も身につくみたいです。
今回またちょっと、物語を書き始めているのですが、
目標は100枚なんですよ。
いや、100枚というよりか、40000文字の物語。
これまでの最長が15000字とかだったから、
二倍強ということになります。
今までよりも、もっとゆるく、大きく構えて、
読む人が(それもできれば苦しんでいるような人にも)楽しみながら、
共感したり、少しでも元気になる元になれたりしたらいいなぁ、と。

今のところ、やりがいを感じながらかけています。
誰にも内緒の執筆活動というのが、僕には向いているようです。
この場で作品を発表できるかどうかはまだわかりません。
それでも、なにかやってるんだな、くらいに
ブログが滞ったときなんかに思ってていてくれると、気が楽になります。

そうそう、物語を書いている期間って、他人が書いた小説って読むべきじゃないのかなぁ。
そんなこと気にせずに、気分転換で読んでもいいのかもしれない。
なんか、かたーいことを考えてしまう自分がいます。

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『死の淵を見た男』

2014-09-17 23:19:27 | 読書。
読書。
『死の淵を見た男』 門田隆将
を読んだ。

福島第一原発事故の発生から、
その収束のための指揮を執った吉田昌郎所長が病気で退くまで、
その原因となったマグニチュード9.0の地震が起こったところから
綴られていくノンフィクション。

どうやって、あの原発事故は最悪の被害を免れたのか、
福島第一の現場の状況は当時どう流れていっていたのか、
そこでどんな人々がどう闘っていたかがわかる本。

どうしても、東電や政府は悪いものだというイメージがあったりする。
10mを越す津波はこないとする想定の甘さといい、
マスコミによる政府や東電側の「対処の遅さや悪さ」
を強調する報道などが一面的になされたからだ。

しかし、本書を取ってみると、
現場で働く東電社員と協力企業や自衛隊の人々の
決死かつ迅速な事故対応を知り、イメージが新たになる。
そこには、平和ボケする僕も含めた大勢の一般人のような日本人はいない。
緊急時に際しても力を失うことなく、
やれることを最大限にやり抜き、知恵を絞り、スピード感を持ち、
そして放射能の恐怖に負けない、強い責任感(なのか、日本を救わなければという気持ちなのか)を
読みながら汲み取っていくことになり、心が打ち震えてくるのである。
まるでハリウッドの奮闘物映画のヒーローのような人たちばかりがでてくるし、
それは脚色でも演出でもなく、生の事実だというそのことが、
彼らへの敬意と感激とねぎらいの気持ちを起こさせるのだ。

そこには数々の人生が交差している。
それぞれに家族がいて、自分の生がある。
大きな、「日本滅亡へのベクトル」というどうしようもない流れに抗して
なんとか最悪の事態になるのには打ち勝った、その頑張りと勇気に
頭が下がってしかたがない。

それにしても、本書の書き方が偏った向きもあるのかもしれないけれど、
当時の首相の管直人さんの言動や行動にはあきれさせられた。
人間、怒りのパワーなどで人や物事を動かそうとしたって、
そんなのは逆によくない影響をもたらしたり、時間を無駄にしたりする。
そういう教訓として、管首相のところは読んだのだった。
「イラ菅」なんて呼ばれるみたいだけど、そんな人だったとはよく知らなかった。

福島第一原発事故はまだ収束しているとはいえないと思っています。
今だって避難している人たちはたくさんいるのだから。
そういう人たちそして、事故そのものを忘れないために、
そして、そこで闘った立派な人たちを知り、忘れないためにも、
(これは、原発推進、脱原発いずれの思想に限らず)
多くの人に読まれるといい本だった。

最近、朝日新聞の吉田調書での虚偽の記事が問題になりましたが、
本書では、そういうことはなく書かれている本だと思います。



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見えていない、見ていない。

2014-09-14 00:01:14 | days
みなさん御存じだとは思うのだけれど、
全盲の少女が駅で男に蹴られて3週間のけがを負った事件があった。

その件について、ネットでは心ない意見が飛び交ったようだ。

「全盲少女にも非があったのでは」 
白杖につまずき蹴った加害者に理解を示す心ない人たち:J-CASTニュース
http://www.j-cast.com/2014/09/12215842.html


社会的弱者の側にたってあげないなんて。
この記事に出てくるネガティブなコメントは殺伐とし過ぎていて
「これほどまでみんなバカなのか!」とため息が出るくらい。

また、「障害者はおくゆかしく聖者のように、それでいて従属的に生きなければいけない」
という差別的な思い込みが蔓延しているのがわかって、これもイヤになる。
同じ人間なんだから、わがままも言うだろうし、
自分が障害を持っていることに対して、受け入れきれなくて苛立ちを感じたり、
ちょっとひねくれた気持ちになったりする人もいるかもしれない。

金曜日の21:00頃、Eテレでやっている障害者バラエティの番組をちらっと
見たりすることがあるのだけれど、そこでヘルパーさんの愚痴みたいなものや文句も
ほがらかにきけたりするし、それを聞いた障害者の人が「すんません」だとか、
これまたほがらかにいったり、弁解したりしているのをみるわけだけれど、
それが番組上だったとしても、そこから感じ取れる、障害者とヘルパーの一段深い繋がり方が
垣間見れたりもする。このやろう、とかいう怒りや憎しみまであって、
それをなだめて浄化して、ちょっと諦めに近い気持ちで、
でも、ポジティブに接しているかのような。
僕個人としては、ヘルパーさんの人としての凄さ(それは技術的にも気持ち的にも)に
頭が上がらない。僕にも、調子の悪い母がいますが、
まぁ、炊事や買い物や洗い物やゴミの整理や、たまに洗濯干し程度である。
プチプチ介護どころか、家事手伝いの領域だ。

閑話休題。

ルール無用の現代の資本主義、それに支配されていて、
拝金的な価値観とそれに基づく労働システムに、
それこそ「盲目的」に従わざるを得ないから、
こういうあさましい精神の人たちがでてくる。

そう、全盲少女を排除しようとする人たちは精神的に「盲目」だ。

そう思いませんか?

毅然として言ってみた。

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『小山薫堂が90歳のおばあちゃんに学んだ大切なこと』

2014-09-13 00:03:03 | 読書。
読書。
『小山薫堂が90歳のおばあちゃんに学んだ大切なこと』 小山薫堂・編
を読んだ。

京都の清滝という里山でお茶屋をしていた、
秋山さんという今は90歳のおばあちゃんは、
訪ねてくる人たちからいろいろな話を聞くとともに、
秋山さんだからこそ言えるようなお話を彼らにしてきたそうです。
そんな里山の茶屋をいつしか訪ねるようになった小山薫堂さんが、
そのおばあちゃんへのなにげない問いと返答を中心に、
ところどころ、おばあちゃんが描いた水彩画をあしらいながら
編んだ本が本書です。

僕は田舎に住んでいるので、読んでいて
なんだか共感するな、そのあたりはわかるな、という部分はあったんですが、
都会に住む人にしてみたら、想像の世界のもののように感じるのかな。

小さな、でも重みはちゃんとある、教訓のような言葉がでてきます。
哲学、価値観、そういったものを、ひらがなで、もっと簡易に書き下せる言葉があれば
そのおばあちゃんの言葉たちに似合いそうな感じがします。
そういう種類の、話の中で語られる興味深い考え方や経験が綴られています。

なかでも、「愚痴」というものを認める考えなのには、「へえ」と思いましたねぇ。
考えてみれば、愚痴くらい吐いてもいいし、聞いてやってもいいのかな、
そう思えましたが、日ごろの僕は愚痴ってけっこう毛嫌いしているところがあって、
まだまだだったなぁと思ったりも。
愚痴られると、はけ口としての自分、ゴミ箱的な自分に感じられたり、
その逆に愚痴ると、相手をいいように利用してしまっているように感じられたりしたんですが、
それは、またちょっと考え直すというか、捉えなおすというか、
大きな目で見てみる必要があるなぁと思った次第。

おばあちゃんの言っていることは、本当になにげなくて、
読む人によっては、言葉が響いてこないかもしれない。
でも、そこをそらさずに真正面から受けていくと、
いろいろな言葉に通底する、大切な何かを感じることになる。
おばあちゃんの基本的な姿勢が、都会人よりも、いや僕ら現代人一般もそうだと思いますが、
そういう僕らよりも最初はずれて感じられるんですね。
でも、読んでいるうちに、ずれているのは大勢を占めているはずの自分たちのほうじゃないか
という気がしてきて、確信に変わったりします。

人間本来のというとおおげさで、
きっと日本人本来のといったほうが近づけると思うのです。
そういう本来の、日本の環境や風土と溶け合うような生を知っている
おばあちゃんなんだろうなぁと思います。
かといって、人間社会にうといわけではないです。
人間関係のあれこれも知っているからこそ、
辿りついている考え方だと見受けられるような言葉もあります。

ただ、まるで狡知なところもないし、
近道を知っているわけでもない、
偉いことをいってもいない、
そうだからこそ、そこに、読んでいて本質と、
この世界(日本の風土と環境)と溶け合うような思想を感じるのではないでしょうか。

読み進めるにつれて、笑顔になっていく本でした。



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『贈与論』

2014-09-12 00:01:28 | 読書。
読書。
『贈与論』 マルセル・モース 吉田禎吾・江川純一 訳
を読んだ。

今春ころから気になっていた、モースの『贈与論』を読みました。
モース(1872-1950)は社会学者であり、民俗学者であり、
当時の彼の学生や交友のあった学者からは、「彼は何でも知っている」と言われたり、
思われたりしていたそうです。そういう博識の大学者タイプの人だったようです。

さてさて、ずっと頭に引っかかっていて、
きっと現代の生きにくさをやわらげる一つのヒントになるんじゃないかと思えていたこの『贈与論』。
その贈与についてですが、まず原始的な社会において、「物々交換」とされるような、
その文字通りの意味での淡泊な交換は存在しなかったみたいです。
霊とか魂、そう書くとオカルト的に思えちゃうけれど、そういったような元の持ち主の力、
もしくは物自体が秘めている力が宿っているし(これはポリネシアなどその地方地方によって違うようです)、
物と物とを交換しながら、その魂・霊・力を贈与したりされたりしている、という感じのようです。

ここでのポイントは、元の持ち主の力が宿っている、というところですね。
現代に置き換えると、たとえば楽天市場で自分の顔を出して商売している人がいるとします。
その商品(お酒でも、チャーシューでも、果物でもいいですが)を買うことで、
その商売している主人の人柄も買っているような気になることはないでしょうか。
すごく気に入った商品であるならば、商品をみると、その主人の顔も思い浮かぶような。
そういった感覚って、実はアニミズム的な、この『贈与論』で言われている感覚に近いんだと思っています。

そして、その感覚は主人への敬意を生みます。
他者への敬意を持つことは、他者をあまりにぞんざいに扱ったりしないことに繋がる。
お互いに敬意を持ちあう社会というものは、成熟した人間関係が望めるかもしれない。
それは、コミュニケーションにおいての責任感を生むだろうし、
他者への暴力性を弱め、利他の精神を強める意味を持ちそうな気配があります。
人と人の関係のあったかみであり、それぞれにいとおしい関係、
それが望めそうだということです。

なので、顔が見えることの長所を今書きましたが、
トレーサビリティ(野菜などがどこで誰が作ったかを記載すること。
お菓子などの商品ならば、原材料まで遡って、どこのものなのかを明白にすること)
っていうのが、安全や安心や、何かあった時の責任所在を明らかにするだけのものかといえば、
そうではなく(逆にそれだけだとちょっと殺伐としたシステムのようにも感じられる)、
顔が見えるということで、前記のアニミズム的感覚を感じる助けになりもするのです、意識次第で。

また、モースによると、労働者は労働とともに、
時間や命や自分の中の何かまでを与えていると感じるもので、
それらまでもが適度に報われなければ、怠惰と生産性の低下に結びついてしまうということです。
(昨日の論理学で覚えたての)対偶でいえば、「怠惰や生産性の低下がないのならば、
労働者は自分が与えているものに対しての報いを受けている」といえます。
それはつまり、生産品の受け手が、
労働者の「顔」を感じて敬意を持つことに繋がるのではないか。
僕はそう考えました、だから、現代の生きづらさも経済の下降もやわらげることが
できるのではないかと思ったのです。

また、こういうのもありました。
「知って貰う」ことの大事さが、「未開」とかという誤解された言い方をされる
原始的(?)部族のなかには基本的にあるみたいですが、そういうところ、
「今」において大事なような気がするんですよ。
自分を「知って貰う」ということ。そしてそれが他者に知られていないがために
傷つけられたり抹殺されたりすることなく、逆に敬意に繋がっていく。匿名性の反対です。
じゃ、匿名はいけないかというと、僕はちょっと困ってしまうんですよ、
このブログだってツイッターだって匿名でやっているし、
FBは友達以外には見えないようにしているしで。
折衷案みたいなものですが、「知って貰えれば」良いとすると、
ハンドルネームであっても、僕はこういう人だということを
知って貰えるように表現していれば、それで事足りるのではないか。
某掲示板のように、個性を潰してみな匿名でやるのとは違います。
その某掲示板的な匿名性と、実名でなんでもやることの中間的なところでも、
「知って貰う」ことの効能はあるように思うのですが、
みなさんはどう思われるでしょうね。

そして、やっぱり、施しすぎるのは良くないと書かれている部分がありました。
贈与にはお返しをしないと、毒になるようなところがあるとされていて、
そこを考えてのことのようです。
まぁでも、そこは、人と人との関係性に置いてですから、物をプレゼントして、
物以外で返してもらっていることもあると思うので、複雑かもしれない。

とまぁ、そういうところです。
前にモースの解説本を読んでいたので、要所要所を読むような感覚で、
すらーっと一冊読めてしまいました。
一冊の半分くらいは注釈なので、実はそれほどの分量はないです。

そんなわけで、今回は、僕の考えを深めたもの、
というか、もともとインスピレーションされたというか、
影響を受けたその原書を読みましたという報告のような本の紹介になりました。
気になる人は、じっくりと読んでみると得られるものがあると思います。



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『入門!論理学』

2014-09-11 01:50:28 | 読書。
読書。
『入門!論理学』 野矢茂樹
を読んだ。

本書の言葉を使うと、
論理は、連想や常識による繋がりではないということです。
あくまで論理とは、意味上のつながりから考えることです。
論理、なんて言われて、その定義は何かなんて考えたことのない人って
多いと思いますが、まずはそういうところから考えていく本でした。
(といっても、そこはそんなにページを割いてはいません)

本書で扱う論理学は、
標準的な命題論理の体系です。
いろいろな派というか系統というかがあるみたいなんですよね、論理学には。
とある「考えどころ」をどう判断するか、黒ととるか白ととるか、
どちらも間違いじゃないので、そこで考え方が別れていく。
そんな中での、標準的な命題論理体系なのです。

具体的に、それも簡単に言うと、
「否定」「かつ」「または」「ならば」の4つを、
もっと細かく言うと、それぞれに導入則と除去則があるので、8つになりますが、
それらを使って、証明していこうというのが標準的な命題論理です。

けっこうひょうきんに、
若者をターゲットにしたような今時の言葉遣いで、
道草や冗談をたっぷりしながら進んでいく本なのですが、
前述の導入則だとか除去則だとかで頭がこんがらかりました。
それよりも複雑なものも扱いますし、
第六章の「述語論理」というものも、もっと抽象性を増すので、
なかなかに捉えにくい部分もあります。

途中で問題も出るんですが、最後のほうになると、
ちょっとやってられない感がでてきました。
2日間で読みましたが、駆け足で、読み物として読むには、
けっこう読みごたえ(というか、歯ごたえみたいな感じ)があります。
ノートをつけたりしながら、勉強しようと思って読む人にとっては、
いい教科書になるのではないか。

きっと僕は、さらっと内容を忘れてしまうような気がしますが、
この本を読むにあたって使われた論理力が鍛えられたような感覚もあります。
「対偶」だとかっていう、出来れば覚えていたいようなのも出てきます。
こうやって文章を綴っていくのにも、論理の「裏」「逆」だとかってものを
知らず知らずに使っていますが、実は「論理の裏(あるいは逆)は、真にあらず」
という言葉もあるらしく、間違った論理構造の文章を生産してしまっているのかな、
正しく書くのは難しいものだな、と気付かされたりもしました。

そのあたりは、論理学でも文章でも、泥臭くしつこくやっていくのが、
まずはじめの成長のカギなのかもしれない。

最後のほう、もうギブアップめいてきて、走り読みでしたが、
学生の人なんか、論理力を高めようという意欲があれば、おすすめしたいですね。
きっと、愚直に挑めば、結果として現代文の評論関係での成績がアップするはず。



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『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』

2014-09-08 01:02:17 | 読書。
読書。
『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』 本谷有希子
を読んだ。

劇作家としての本谷有希子さんのほうが、
小説家である本谷有希子さんよりも先輩なのだろうか。
本作は自作の戯曲を小説化したものです。
それを知ってから読んでしまったこともあって、
舞台で繰り広げられるような展開だなぁなどと読めてしまった。

そう感じてしまったところには、
まず「インパクト」がありますよね。
キャラクターのインパクト、キャラクターの行動のインパクト。
こういうのいるかもしれないなと思わせながらも極端で、
人間離れすれすれのキャラクターに感じられるところもあります。
そういうのが、舞台映えするだろうな、と思い浮かぶところでした。

ストーリーでいえば、
話の幹の部分よりも、枝や葉っぱの部分が充実していて、
幹よりも太い感じ。そういう作りのように思えました。
…と、木に喩えるからわかりにくいのですが、
例えば、地下鉄の何何線がテーマだとすると、路線というよりか、
駅ばかり注目して充実させて紹介する感覚かなぁ。
とにかく、出来ごと重視。
こうなってこうなった、ってのをこまごまと書いているというよりは、
こうなった、そのことを重点的に書いて、それの連続という感じ。
なので、また下手な木の喩えに戻りますが、
幹の見えない、大きな葉っぱだらけの木のような小説に、
僕なんかには見受けられたということです。

しかし、わき役の待子さんのキャラクターは面白かったですね。
打たれ強すぎて、かつ不幸すぎて。
おいしい役どころでもあります。

こういうことあるかもしれないっていう出来ごとが、
装飾されて虚構の中にその突き出て感じる部分をもっと突き出させた感じがする。
出っ張った部分をもっと出っ張らせよう、という。
そういう試みによって特色を持った作品のように思えました。

アンバランスな家族が主役になっています。
ドタバタと、リアルに落とし込みすぎて読むと、
暴力シーンには辟易としてしまうでしょうが、
ちゃんとフィクションとして読むとこの作品の暴力シーンは笑えてしまう。
また書きますが、そこが戯曲的だと思うのです。

澄伽は自信たっぷりに女優を目指す性格にふさわしい美人なんだろうなぁと
想像して読みましたが、いやいや、迷惑な人でもあります。
群像劇みたいな感じですが、この人の行く末を中心にして語られる物語なので、
そこを注目すると、報われるのか報われないのか、なかなか一転二転するので、
そういうところからは目が離せずに読めてしまいました。

言葉も、語彙が豊富だし、文章をちゃんと泥臭く構築していく感じで、
20代半ばでよく書いたなぁと、驚いたりもしました。
ただ、ちょっと、お酒を飲みながら書いているんじゃないのかいと
思わせられるところもあるんですよね。
まぁ、いいですけど。

本谷作品は初めてでしたが(舞台はひとつDVDで観たことがある)、
面白かったです。



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『村上春樹 雑文集』

2014-09-07 00:02:21 | 読書。
読書。
『村上春樹 雑文集』 村上春樹
を読んだ。

村上春樹さんの、雑誌などに載ったような文章やあいさつの文章など、
さまざまな「雑文」を集めた本です。

村上春樹さんの文章が好きな人だと、
喜んで読めちゃいますね。
彼の語り口で知る、F・スコット・フィッツジェラルド、
ジャズ、サリンジャー、などなど400ページにわたる
種々の書き物を読むことができる。

そこで知ったのが、村上春樹さんは、
いわゆる「見切り発車」型の小説家だということ。
というか、他の小説家の人がどう書くのか(綿密に筋立てを作ってから書くだとか)は
知らないので、それがどれほどの特殊性を持っているかはわかりません。
__________

でも、まあいいや、そのうちに何とかなるに違いないという
きわめて楽観的な見通しのもとに、僕は頭から小説を書きはじめた。
(ご存知かもしれないが、楽観的な精神は、不可欠な資質のひとつである)
__________

と本書の392-393pに書いてあるとおりなんですが、
あぁ、そういう書き方でもOKなんだなぁと得心したというか。
心配しないで、まずは書いてみるのがよいようなんですよね。

でも、文体とか、物語を書き通すことだとかには、
きっと、その人の読書歴の濃さや深さも関係してくると思えます。
その人の背景がどれだけあるか。
どんな想像をしてきていて、どんな人生経験を積んできたかも大切そう。
まぁ、それは今回は置いておいて。

村上春樹ファンならば、彼の長編小説を読むのと同じくらいの興奮度で
この本を手に取れるかもしれない。
というよりも、きっと、僕のこの本の紹介を読む頃にはもうはるか昔に
この本を読んだよ、といいのけるのが村上春樹ファンなのかもしれない。

いろいろ勉強にもなる、「雑文集」とは謙遜の、面白い本でした。



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