Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

あとがきとして。

2024-03-13 00:00:05 | 自作小説20
本作は、2023年5月15日から設定などを作り始め、執筆に移り、推敲を終え完成したのが9月15日でした。あしかけ4か月の仕事です。

その間、家庭問題の説明資料づくりにあらたな1万字を書き、何度か役所などとの面談もありましたし、今思えば笑ってしまいますが国際ロマンス詐欺に10日前後巻き込まれてもいました。例年以上に暑かった夏にはパート労働をしましたが、やっぱり家庭が落ち着かないなかでは続けていくのがむずしく、1週間ほどでリタイアしました。体調面ではずっと胃薬を手放せなかったので、本作品の主人公にもそういった影響が出たのだと思います。

執筆は、朝方3~5時の間に起床して7時前まで、というスタイルになっていき後半二カ月半くらいは定着していたと思います。毎日は書けず、早朝に起きても読書に時間を費やすなどの日も多くありましたし、それ以前に母親の調子の悪さに父親が過剰反応していて自分の時間どころではないことも珍しくなかったです。というような、そういった時期の作品です。

書き終えての自らの感想としては、これは単純な「立ち直りの話」ではなく、主人公の内面で繰り広げられた精神活動の航路を追っていくような読書になるものだろう、ということでした。

最後の、犬に追いかけられるシーケンス。犬の影をも扱い、影に対する深い意味を言及しないことで、影を物理的な範囲で認識するという視点変換を意図したつもりです。闇についてしつこいほど書いてきたので、最後では闇をより客観的かつ表面的にすることで、平常に戻れるようにして終えました。また影を中立的に扱いましたから、余地・余白を設けることができたのではないかと考えています。

町の差別意識について描いていますが、それが意味するところは、「人の尊厳や人権意識を考えていない」ということです。そういう町で育ったことの影響を、執筆しながら問題視していました。環境や状況から人間は大きく影響を受けますが、そのネガティブな面、ダークな面を、「読む」ということを通じて感覚的に体験できたならば、作者としてはうまくいった試みとなります。

あと、この作品を書き終えて(そして、その反動をやり過ごして)、ようやく頭脳の構えが通常時に戻ったころにわかったことがあります。それは、この作品は、ちょっとでも悪い事をしてしまった後だったらもう自分はどうでもいいや、みたいな気分になっている人たちが多いように思えて、そういう人たちを包摂する心理的なきっかけになるんじゃないか、ということでした。

どういうことか、もう少し噛み砕いて言うと、たとえば子どもの頃から規範を守り続け、まっしろに生きてきた、あるいは生きてきたはずと思い込んでいた自分だったのだけど、あるときに人生の困難さやどうしようもない不条理などによって、その白さに黒い小さな点が染みとしてついてしまうことがあります。というか、長い人生でそういう出来事にはまりこむのは避けられません。多くの人たちはそこで保身のために嘘をついたり、抑えきれない欲望のために他者から奪ったりしてしまう。結果、「もう自分の、真っ白に生きてきた歴史は汚れてしまった。自分には汚れがついてしまった。だから汚れないように頑張らなくたってもういいや」と考えてしまったりするのではないか。そういったメンタリティになってしまうから、ネットなどでも誹謗中傷がためらわずに行われるのではないか。もう汚れてしまったのだから、何をしても平気だ、というように。つまり非倫理的な行為には、規範から外れてしまったことでの落胆がベースにあるのではないか、と思えたのです。汚れてしまってなお、きれいに生きようとしたってなんの意味もないじゃないか、という気持ちがあるのではないか、と思えてくるのです。そういった精神性を、「そうでもないぞ」と包摂する。そういった力が、この作品には宿ってはいないでしょうか。これは又聞きみたいな知識なのですが、カントに「主観的普遍性」をいう考え方があって、要は、個人的でありながら、その個人的なことが普遍性を持つような知のことを言います。今回の小説には、これがあると思っていました。

そうはいっても、新人賞に応募して落選していますから、全体としても部分としても、うまくいってはいないということです。

いろいろと反省点はあります。本作独自の反省点もあれば、僕の執筆スタイルや技術に対するものもあります。たとえば、いろいろと構築できるようになってきたからこそ、今一度注意したいのは、序盤5,6,枚以内での「インパクト」と「引き」ではないか、というところです。これは、純文学、エンタメ問わず言えることでしょう。さらに、いろいろ考えていくべきで、分析したり、すくい取るようにしたりして、今後に役立てていきたいです。

プロになれないというのは、今プロになればすぐに潰れるということ。努力してまだまだ力をつけないといけない。

次は、再度純文学に挑むのか、エンタメの中長編に挑むのか、まだはっきりとはしません。でも、きっと近いうちに落としどころを見つけると思います。続けていけるうちは続けていきたい、と思っています。

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『陽だまりのこちら、暗がりのとなり』 第五話(完結)

2024-03-12 05:15:00 | 自作小説20
          *
 
 毎夜の悪夢のその途中で目が覚めた。罪の意識そのものよりも、この罪を隠し通さねばらないその重苦しさが堪えた。罪を贖うために、自分のこれからの人生の自由を放棄することにこそ耐えられない。だから、罪を告白して裁かれるか、無理をしてでも逃れ続けるか、という選択肢に、前者を選ぶなんてできないのだった。目が覚めると、罪の気配はすうっと去っていく。そのちろちろとうごめく尻尾の先だけは少しだけ確認できるくらいにして。だが今回はそれとは別に、こちらへ押し寄せてくるものがあった。
 永遠に思い出したくない記憶だった。スナッフビデオ。二十歳かそこらだったと思う。佳苗と出会うよりも少し前のことだ。フェイクビデオだった可能性もある。白黒の動画で、ドットが粗かった。でも、胃液がせりあがってきてしまうほど真に迫っていた。
喉を掻き切られた白人の捕虜が、ごぼごぼと溺れるような音を発する。画面のアングルが切り替わり、倒れ込んだ捕虜は静物となる。どうやって在処に行き着いたのかを覚えていない、WEBで見た短い動画だった。
 このビデオが、僕の意識の底に巣を作って居座っているのかもしれなかった。さすがに嫌悪感を持ち、振り払うように努めたビデオの内容が記憶の中で溶解し、脳の保守機能に処理されきらなかったわずかな残留物が浸透していって、心のなかで闇のボスと化したのかもしれない。
 もしもほんとうにそうだったとしたら、スナッフビデオは抽象化されて血肉化してしまっているのだ。簡単に引っぱがせるものじゃない。これも、時の柱に刻まれて消えることのない過去であり、そこからの報いなのだ。
 ざらざらした嫌な気持ちだった。光の場から闇の場へ、引き戻そうとする強引な力が働いているかのようだった。
 夜はいつもの夢を見続けつつ、僕はスーパーで働き、休日の晴れた日には外を歩いた。連夜のあのような夢に反して、僕は積極的に働き、そしてウォーキングをする。強く心がけたというのではなく、自然と、そうしたくて。
 スーパーでは、お客さんへの声掛けをするようになった。大したものじゃないけれど、お客さんたちが僕の担当の青果コーナーで品物を眺めているとき、「今朝入ったばかりの西瓜がありますよ。熊本産です」「ニュージーランド産のオレンジ。甘くておいしいですよ。お値段もお手頃ですよ」などと、お客さん全体に向けて声を掛ける。
 青果コーナ―のレイアウト変更の提案もした。通路のなかほどにある台への果物の盛り方を、平面に品物を置いていくそれまでのやり方に変えて、段を設けて高低をつけて見せるやり方を同僚たちに話し、即採用となった。
 手書きポップの掲示も提案し、二十代前半の女性スタッフに協力してもらって、いくつか楽しげなものを売り場に貼ったり立てたりした。
 まだ売り上げに結びついてきていなくても、買い物に来るお客さんが楽しくなるような演出にはなったのではないかと思っているし、なによりも職場の雰囲気がちょっと明るくなった。僕自身、仕事が楽しくなってきた。
 これらが主体性と呼ばれるものなのは知っている。主体性を持ちなさい、と子どもの頃から言われてきたのだし。だけど、あまりに周りから言われてきたために、逆にそうできなかったのもわかっている。主体性なんて、人から言われて持つものじゃないのだから。他人からの干渉でやることと自発的にやることとでは気分が全く違う。他律性なんて言葉があるけれど、他人に自分の領域に入ってこられて変更を促されるなんていうのは、大げさにいってしまうと占領政策みたいなもので、まったくもって受け付けたくないものだろう。
 個人の秩序、と思った。他律性が個人の秩序をつっつくと、秩序で得られる安全や安心が揺らぐ。個人の秩序内で発揮される効率性だって損なわれたりする。だから、僕に構わないで欲しい、というのが本音としてある。干渉されると個人の秩序が乱れるからだ。これは最近になってくっきりとして浮かんできた考えであり、感情だった。
 今までしなかったようなこと、避けてきたこと。ボランティアをしてみたり、同じこの町に住む人たちと喋ってみたり。そういったことに手を伸ばしてみるのはどうだろうか。そう興味が向いてきているのを感じている。僕は、自分が住むこの地域、いや世界をもっと理解し体感したくなってきたのだろうか。どうやら、受け入れたいし受け入れられたい、と思うようになってきているような気もする。それはもしかすると、炭鉱博物館を牧さんと訪れて体験し考えたことが大きく影響したのかもしれない。

 だが、夢のあの、悔恨、恐怖、逃げ出したい思いが、なんと目覚めている時間にフラッシュバックしてきた。職場で野菜の加工をしているときだった。マジかよ、と驚きつつ振り払いにかかる。気持ちを強く持って気分を変えようと、一心に仕事に集中してやっとだった。一体、どうしてなのだろう。何故なのだ。
 深刻に思った。夢を見ている間だけのことでも大きな負担なのに、起きて活動している時間にまで及ぶようになるのは脅威だ。
 ちょうど、博物館以来の気持ちの変化で、完全に闇から抜け出せるのではないか、と希望を持ち始めていたのだった。そんな希望の芽生えに反応するような、このフラッシュバックという仕打ち。それでも、なんとか完全に振り払いたい。今それを逃したら、もう機会は無いかもしれないような気がするのだから。
 休日の晴れた朝、いつも通りのコースをウォーキングしていた。ファイターズの帽子が目立つ坪野さんが軍手をはめ首にタオルをかけた格好で正面から歩いてくる。ファイターズは最下位でも、坪野さんは颯爽とした歩きっぷりだ。おはようございます、と僕から声を掛けた。
「おはよう。今日も歩いているのか、熱心だな」
 右手を上げながら笑顔でこちらを見つめ、そう返してくれた。道端にはそろそろ終わりかけのムスカリが群生して咲いている。青紫色の小さな花冠が、健気だけれど誇らしげにも感じられる。
「まだたくさん咲いてますね」
 あたりを指さす。
「ああ、もう終盤だけどな。この花の花言葉を知ってるかい?」
「知りません。かわいい花言葉のような気がするけど、どうでしょう」
 坪野さんは、ひと呼吸おき、一段、声のトーンを落とすと、早口に言った。
「いやいや、これがな、意外に良くないんだ。花はかわいらしくてきれいだけどな。『絶望』とか『失意』とかいうんだ。残念だよな」
 今年はずいぶん咲き誇っているな、と印象的に感じていた花たちの花言葉が「絶望」。深い穴に蹴落とされた心地がした。
「かなり驚きますね。ひどい花言葉がつけられていて」
 それはそうと、と坪野さんは顎を突き出すようにする。
「こないだの観光ガイドの件はどうだったんだ。うまくいったかい?」
「ええ。うまくいきました。牧さん、楽しんでくれました。ただ、僕にとってもひさしぶりの博物館で、思いのほか考えさせられましたね」
「展示内容にかい」
「そうです。僕はどういう町で生まれ育ったのか、それがわかってきて。昔はいろいろな差別が強かったって」
 坪野さんは思案するように視線を落とす。
「朝鮮や中国からの強制労働者な。危険な場所にばかり配置されるし、扱われ方が酷かったってな。博物館より山のもっと上のほうに慰霊碑があるよ」
「炭鉱会社内でも、実際に掘っている人たちよりも事務の人たちのほうが立場が強くて差別があったそうですし、炭鉱関係者と一般市民のあいだでも、力関係が歴然とあったんですってね」
「あの時代な。たとえば、商店で炭鉱マンが買い物すると、買いっぷりがいいから優遇されるんだ。上客ってことで、一般市民の客がいてもそっちのけになったりな」
 坪野さんは昔を知っているのだ。あの時代の空気を吸っていた人だ。
「だから、正直に言って、僕には残念に思えてしまったんですよ。そういう町の世間から知らずしらずに影響を受けていることがあるよなって。自分のベースのある部分はこの町の在りようによって形作られてきただろうなって」
「喬一君の世代でも、この町で生まれ育つとそういった影響はないとはいえないんだろうな。まあでも、昔なんて、どこの町でも感覚が粗野だったところはあるんだよ。それに、この町は全国から人が集まってきて、ならず者だってたくさんいたんだが、人と人同士のあたたかさもちゃんとあったんだ。一山一家って、博物館にもあったろ? 同じ炭鉱に従事する者たちはみんな家族だっていう考え方だよ」
「ありましたね。でも、その外にもたくさんの人が暮らしていたわけで、そういった外側の人たちは、仲間じゃないみたいに押しやられていたんでしょう」
「今の考え方だと、問題になるよな」
 牧さんと車の中で語り合った時間が甦ってくる。
「牧さんとも話しあったんですよ。博物館って、この町の過去の闇を葬らないためにあるんだって。たとえば石炭は闇の中から採ってきますよね。闇の中にあるエネルギー源です。この町の闇だって、やりようによっては地上の光の世界でエネルギー源になりうるんじゃないか、と思うんです。過去から使えそうななにかを抽出して、それをエネルギーに変える。それは難しいことなんだけど、それがうまくできるかもしれない未来に向けてというか、せめて将来へ残すために博物館はあるんだろう、と結論したんです」
 坪野さんは大きく口をあけて笑った。
「すごいね。そこまで考えたのかい」
「博物館の入り口で動画配信者の人がいたんですが、石炭は闇からの栄養、って喋ってたんですよ。これ、大きなヒントになりました」
 へえー、と坪野さんは声を上げた。そして、ちょっと話は逸れるけどな、と言って、落ち着いた口調で話し出した。
「俺もさ、パソコンで動画配信を見ることがあるんだ。なんとかいうあれだよ、動画サイト。一番有名なところ。まあなんでもいいけどな。よく見てるのが、坊さんの動画配信なんだ。説法がうまいんだ。その坊さんが、人間は闇の中で佇(たたず)んでいるような存在だ、って言うんだ」
 なんの話かな、と相づちを打ちながら聞いていて、闇の中に佇んでいるような存在、のところで急激に注意を持っていかれた。坪野さんは続ける。
「どんな闇かっていうとさ、周囲も見えない、自分の立ち位置も見えない、自分が何ものかも見えない、どの方向へ歩んでいけばよいのかも見えない、っていう暗闇なんだ」
 ああ僕は、と思った。闇に包まれきって、それまで飲んでいた胃薬の必要がなくなったときの僕。
「なんだか、わかるような気がします」
「そうかい? それでだな、そこへ何かの拍子に灯火がともる。闇が打ち破られるんだ。すると、視界が開ける。周りの様子が見える、自分の姿も見える、どの方向へ向かえばよいのかもわかる。そうだろ?」
「ですね」
「でな、そのとき影が現れるんだ。闇の中では現れなかった黒々とした自分の影が現れてくる。闇は消え失せた。でも影を背負う。灯火の光にあたらなかったらできなかった影だ。この坊さんによると、灯火にあたるのが仏教の教えなんだ。影は煩悩(ぼんのう)。仏教に出合わなければ、煩悩も見えてこないというわけだな」
「うまい喩えだと思います」
 坪野さんは軍手をはめた右手の人差し指を立ててそれを何度か小さく揺らしながら、いいかい、と言った。
「煩悩の影がくっきり見えれば見えるほど、その人間は自分が偽物だって感じるわけだ。自分はこんなにも大した人間じゃないんだ、と痛切に感じるようになる。光が強くなればなお影の濃さは増すしな」
「影は闇の名残で、光に照らされたとしてもずっと闇を引きずらないといけない」
「そうだな、闇から離れることはできない。でもな、影が見えるってことは、光に照らされているってことでもあるわけだから」
 感慨がじんわりとこみ上げてきている。このまま考えごとに浸って、いろいろと整理し直したい気分だった。
「いい話ですね。いい意味で少しばかり刺さってくるものがありました」
「喬一君。君は自分の影をごまかさないな」
 不意に心の奥まで見透かされたような気がして、どきりとした。でもそういうわけじゃない。さっき、この町に住む者としてのその影響を語ったことへの返答なのだ。
「坪野さん。坪野さんの知らない深い影もまた、僕は背負っているんです」
 坪野さんの顔色はその瞬間、無機質なものに変わってしまったが、すぐに柔和な表情に戻ると言った。
「そうかもしれないな。まあ、人間だれでもな」
言わなくてよいことを口走ってしまったかもしれない。うっすらと涙目になってきた。坪野さんが語った坊さんによる動画配信からの知恵に、うまく釣られてしまった。
そうだったそうだった、と坪野さんは思い出したような声をあげた。
「ムスカリの花言葉な。『絶望』と『失意』が主なものだけど他にもあったよ。『明るい未来』がそうだ。まるで反対の意味もあるんだよ」
 帰宅してからムスカリの花言葉を検索して調べた。たしかに、「絶望」や「失意」のほかに、「明るい未来」もあった。絶望して精神的に底を打ったあとは、もうこれ以上マイナスのものなんかない、だからその後に続く未来はもう明るさしかない、という論理なのだろうか。そして、もうひとつ違う花言葉を見つけた。「通じ合うこころ」がそうだ。坪野さんから影の話を聞いたけれど、自分の影をしっかり認めながら、それをごまかさない人同士って、こころから通じ合えたりするのかもしれないな、とぼんやり思った。

          *

 闇の名残である影からは逃れられない。これがほんとうなのだ。僕は闇を完全に振り切らないといけない、とばかり考えてきた。でも、そんなことは不可能だったのだ。どうやっても、光に照らされた世界では影が生える。逃げようったって離れられるようなものでは、そもそもないのだ。
 生きていく過程のどこかで影を引きずるというのではなく、生まれたときから影は背負うものに違いない。僕は思春期に闇の底のほうへと深々と身を沈め始めた。それがそもそもの闇との付き合いのはじまりだと思っていた。でもそれは錯覚で、誰しもが産まれた瞬間から影を引きずっている。双子として生まれた、みたいにして。
 影が奥へと広がり、僕はその暗闇を自分から見入るようになり、沈みこんでいった。自然のなりゆきに逆らうようにして、潔癖な手を無理やり影に差しいれたわけじゃない。誰しもが、産まれたときから闇を抱えている。赤ちゃんにだって影がある。坪野さんによると、それは煩悩の影だ。影はいちばん身近、すぐ隣で息をしている。
 闇へ深入りするかしないか、深入りしたとしてずっとそこに居続けるかはその人次第だろう。ある種の弱さが、そうさせるのだ。
 でも僕には、広中佳苗との日々があり、地下鉄駅構内では女性からの叱責があった。それらは闇を吹っ切ろうと試みるその発端へとつながっていった。心境に変化をもたらしたそれらは、ほんとうに運がよかったためだと思う。
 闇に包まれると、影は闇に溶け込み無限に広がる。そんな様相で生きていくなんて、人生の遭難といっていいものだったりするのかもしれない。
佳苗たちとの出合いは、差し伸べられた手だった。今になってわかる。僕は差し伸べられた手を掴めていたことを。
 影は影として、その領分をわきまえさせる。人生とはそういうものなのではないか。気付くのがそうとう遅かっただろうか。たぶん、そうなのだろう。そのために無為にした時間が多くて嫌になる。
 ようやく、向かう方向がわかりだした気がする。歩き出せる準備が整ったような、ほっとしたような、丸く安定した気分だった。

 その日は、夜半までまんじりともしなかったので、諦めて布団を出た。台所へ行き、冷蔵庫から梅酒ソーダを取り出し部屋に戻る。窓際にある机の椅子に座り、プルタブを引く。机の脇に転がる石炭の塊を指でこつこつと突いたり、持ち上げて手の中で転がしてみたりした。
 ここまでの半生を、僕はもっと充実して生きられていたかもしれない。もう中年になってしまった。だけれど、平均寿命をものさしにすると人生はまだまだ残っているほうだ。ならば、その残りを、悩み考え途惑ってばかりいるのではなく、思うように生きてみたい。できるだけ後悔しないように。楽しんで生きてみたい。そのために、一歩のあゆみで踏みしめる。まずはその一歩だ。後ろ重心で伸ばした足の一歩ではなくて、しっかり進んでいくための一歩。
 ひとりで乾杯なんてする気はなかったのだけれど、考えや気持ちがこの高みまで到達したことへのささやかな祝杯めいた感覚になった。やっとのことで、光の場に移れるような予感がある。そんな気持ちで缶に口をつけた。感謝がたくさん混じっていた。
 すとん、と音がはっきり聞こえてきてもおかしくないくらい、見事に部屋が真っ暗になった。おいおい、停電か。慎重に缶を机に置いた。視界がきかないまま、部屋の中をぐるりと見回す。
 あれが、宙にある。
 ほの白い仮面が。
 僕のいる窓際と反対にある押入れ側の天井際近くにあった。
 夢なんか見ていない。実際に今まで僕は冷えた梅酒ソーダを飲んでいたのだ。夢の感覚とは違う。なのに今、そこに浮かんでいる、あの、女の白い顔の仮面。
「強引に糸を通している」
 男の低い声が聞こえた。僕は立ちどころに声が出なくなる。僕を取り囲む闇が呼吸していた。大量の闇が闇を吸い、吐いていた。男の声は続けた。
「己の過去に強引に糸を通している。でっちあげに近い。これも君の深い罪。君は罪深い」
 どういう状況なのだ。僕は今、目覚めている。間違いなく、目覚めている。仮面はさらに言った。
「君は知っている、時の柱を。すべての出来事は時の柱に刻まれることを知っている。差別の世界で育ってきたことも刻まれている。それでも、言い逃れる気だろうか」
 呼吸が、浅いどころか止まりかけていることに気づいて、慌てて大きく息を吸い込むのを何度か繰り返した。闇が勢いこんで僕の体内に流入するなかで、僕はあえぎあえぎ、小さく言った。
「お前はなんなんだ。白昼夢みたいなものなんだろう。それとも幻覚か。なんでもいいから消えろ。消え失せろ」
「消えるわけにはいかない。君の懺悔と改悛を聞くまでは」
「何を言っている。罪という言い方がすでに、ものごとのすり替えだ。もう消えろ」
 男の声だった仮面から女の甲高い笑い声が鋭く響き、僕の耳を刺す。
「迷いだらけの目をしている」
「うるさい」
 押し込まれる一方なのを感じていた。僕は机の上のボールペンを探り当て、仮面へと投げつけた。だけれど、また女の鋭い笑い声が短く響くだけで、当たったのか外れたのかもこの深い闇の中ではわからなかった。
「この町と自分に、君は強引に糸を通した」
「僕が闇を抱えたのは、この町を肯定するためでもあったんだ。それは間違いじゃない。闇を知ることで、闇は当たり前のものだと知りたかったんだと思う。この世界において闇というべきものが当たり前ならば、闇を抱えたこの町のことも、この町で生きるものたちそして自分も、肯定できるからだ。この町だけ特別なんじゃない、とわかりたかった気持ちがあったんだ」
 博物館を後にしてからずっと探していた言葉が、こんな局面で出てきた。
「君はまだ運がよいほうだ。こうやって懺悔する場を与えられているのだから。さあ、懺悔するのだ。その時が来た」
「懺悔するなら、僕は僕だけで懺悔する。あるいは、懺悔を聞いてもらうに足る人の前でだけ懺悔する。お前なんかには懺悔しない」
「君は影を」
 仮面の発光が青白さを増したように見えた。
「君は影を知った。影という闇の在り方を。だが、その解釈が己に都合の良いやり方だった」
「影は誰にでもある煩悩の喩えだ。人間は真っ白な存在じゃないんだ。だからって自分の穢(けが)れに気を取られ過ぎていると、逆に闇へどんどん踏み込んでしまう。だから、諦めと受け入れは大切なんだ」
「それが都合のよい解釈」
 男の低い声が力強くそう言い切り、僕は奥歯を食いしばった。じゃあ、影とはなんなのだ、言ってみろ、と僕は絞り出すように言った。胃のあたりが重くなり始めた。
「影、それは呪詛。永遠に付きまとう呪詛なのだ」
「赤ん坊の段階からか?」
「そうだ。その中途半端な知性を持った人間という存在ゆえに、産まれてから朽ちるまでずっと、呪われるのだ。その印が影だ。この世界は、そういった存在を呪うようにできている。さらに、目に見えることのない影の密度を高めていくのは、時の柱に刻まれた罪の多寡が大きく影響する」
 この仮面はいったい、僕にどうしろというのだ。どう懺悔をしろと、どう改悛しろというのだ。僕は仮面に気圧されて言いなりになりかけていた。早く解放の道筋を教えろ、と叫びだしたとしてもおかしくないくらいだった。でもそれは、自分の足で歩くことを止めかけていることを意味し、要するに間違った選択なのはわかるのだった。
「時の柱には、善い行いも刻み込まれている」考えるよりもさきに、反応するように口をついて言葉が出ていた。「佳苗だって、僕が闇だけの人間だったならば僕を構いすらしなかったはずだ」
「それは、君の巧みな偽りのため」
 仮面は、僕の心理の深いところまでよくわかっている。たしかに、僕は佳苗の前で自分をよく見せるよう励んだ。
「それは、君の巧みな偽りのため」
 仮面がもう一度言ったその声が、あの懐かしい佳苗の声のようだった。だが、それはどうやら聞き間違いではなく、宙に浮かぶ仮面が、よく見れば広中佳苗の顔に変わっていた。
「佳苗を使うのはよせ。それは卑怯だろう」
 宙に浮く佳苗は軽く眉をしかめた表情で僕を見つめていた。いつかの佳苗のように。
「喬ちゃん、久しぶりだね。元気だった?」
「僕は騙されたくないんだ。じゃあ聞くけど、君が大好きな古典はなんだった?」
「『枕草子』に決まってるじゃない。そんなことより、喬ちゃんがわたしと別れたことをきっかけに、それまでの自分を見直し始めたのは率直にうれしいよ。今の喬ちゃん、わたし好きだよ」
 目の前に浮かぶ佳苗の顔に、僕は親愛を感じざるを得ない。だけれど、なんと言ったらいいのか、言葉がうまくでてこないのだ。仮面に言うべきことと、佳苗に言うべきことはまるで違っていて、その狭間でただ、宙に浮かぶ佳苗の顔を上目で見つめるしかなかった。佳苗の表情が晴ればれとした笑みに変わり、そして彼女は言った。
「苦しんできたのはわかってるよ。それって喬ちゃんは、ずっと誠実さの種に水をあげ続けていたってことだもん。その誠実さがやっと芽を出して茎を伸ばしてつぼみのついた今の喬ちゃんなんだから、きっともう大丈夫だと思う。自信を持って」
「自分でも、自分が変わってきているのを感じているんだよ。佳苗ちゃんと付き合っていた頃にこうだったらって今、思うくらい」
「あの頃、喬ちゃんが私に見せていた自分って、作り上げた偽りのものだったって悔やんでるんでしょ。人には表と裏があるものだし、自分をよく見せたいって思うのは私だってそうだった」
「でも、佳苗ちゃんに隠していた裏の顔、闇の顔が酷かった」
 実際、よく見せるための自分は、まるきりの偽物にすぎなかった。それは、子どもの時分、まだ闇にはまり込んでいない時期の記憶を材料にして急ごしらえしたものだったのだから。
「そうね。あなたは裏に隠した闇の顔のほうにずうっと重心をかけていた。もう、ずぶずぶに両足が埋まっているくらいに。だから私は離れたわけなのよ」
「君を騙していたね」
「ううん。あなたが私に見せていたあなたって、悪くなかった。なんていうか、それはそれで、あなたのもうひとつの本物が宿っていたと思うの。作りものの表の顔に、喬ちゃんのもうひとつの自分が、本物のそれとして内在していたのよ」
「そうだろうか。たしかに、僕にはああいった表の顔ができるだけの、かけらみたいなものだけは持っていたと思う。でもたったそれだけだよ?」
「それだけじゃないよ。それだけじゃないから、今の君がある」
 考えるために佳苗から目を逸らした。時の柱に刻まれているものは、悪い行いばかりではないのだ。人を思ってのふるまいも、そこにはちゃんと刻まれている。数少ないとしても、そういったふるまいはしっかり刻まれているのだし、ずっと僕を支えようとしてくれたりする。僕にはそういったふるまいが皆無じゃなかった。このあいだの、牧さんへの観光ガイドだって、時の柱に刻まれた行いだ。
 気持ちを支える足元が、覚束ない感じからしっかりした感じへと変わりだした気がした。根が生えたような頼もしさが、静かにあふれ出してくる。長い封印が解かれたみたいに外へと放たれてくる。
「佳苗ちゃん」
 そう言って視線を元に戻すと、そこに佳苗の顔は無く、女の白い顔の仮面が浮かんでいた。
「呪詛だ」
 再び、男の低い声が響く。
「お前の言うその呪詛に抗えるだけのものも、時の柱には刻まれている」
 怯むわけにはいかなかった。
「確かにそういったものも刻まれている。だが、微々たるものに過ぎない。取るに足らない程度だ」
 僕は引かない。
「たとえそうだとしても、僕はそこに自分を賭けていく」
 すこしだけ沈黙があった。そのあいだに、仮面が濃密な闇を吐き始めたような気がした。
「心の奥底を、君はわかっていないが。いいだろう、そのサイコロを振ってみるといい」
 言われて部屋を見回すと、足元にブラックライトで薄暗く発光したかのようなサイコロがあった。二センチ四方ほどの大きさだ。
「なんの意味がある」
 サイコロを手に取ってみた。大きさの割に手のひらに沈み込んでくるような重みと冷たさ。六面のうち、赤く光った一の目の面だけがあり、他の面はのっぺりつるつるとした平面だった。
「サイコロは闇を意味している。一の目を君に出せるか。この場で懺悔も改悛もしない君に」
「一の目が出せれば、僕の勝ちなんだな」
「自力だけで君の人生が切り拓かれると思うな。好運にありつけることができるかどうかで決まるといったような、人ひとりの力ではどうにもならない状況というものはあるのだ。君に一の目は出せるか」
 僕はサイコロを包み込んでいる右の手のひらを軽く振って、中で転がしてみた。何の真似かはわからないが、このサイコロを振ることが僕のチャレンジになるらしい。それも決定的な何かを意味するチャレンジのようだ。
 サイコロを軽く握った右手を再び何度か振る。一の目が出るに違いない気がした。この場面では、一の目が出ることがあらかじめ決定しているような気がするのだ。「行くぞ」と言って下手(したて)で放り投げる。薄暗く発光するサイコロがめまぐるしく床を転がり、まもなく嘘のようにぴたりと止まった。上を向いているのはまっさらな面だ。
「呪いは成就した!」
 仮面が低い声で叫びをあげた。それから、「懺悔も改悛もせずにいた君に好運はやってこなかった。君は光を手にして何かを成し遂げることはできない。君はそういった強い人間ではない」と早い口調で言い募った。
 だったら、と僕は思う。
「だったら、誰かに託そう。僕が無理なのだったら、誰かが光の力で闇に抗い、そして成し遂げる何かの助けになろう。そういうふうに、僕は光に働きかけるよ」
 水面に上がる炭酸水の気泡のように、無理なく浮かび上がってきた言葉だった。
 すると、鎮座していたサイコロが、かすかに揺れ始めたようだった。薄暗く発光するサイコロのその光の揺れが目の端に映ったのだ。それは小刻みに振動していた。さらに、底面から徐々に強い光が漏れ出し始めていた。真下の面にあるのはおそらく一の目で、そこから光があふれだしている。やがて、底面から漏れ出す光は眩しいくらいに床一面へ広がった。
 いくらか震えをおびた仮面の声が言った。
「呪いはすでに定まったものだ。どうこうなるものではない。どうこうなるものでは」
 すかさず僕は言う。
「この光は、どうにでもなることの証じゃないのか?」
 仮面はねっとりとした闇を吐きだし始めた。
「塗りつぶす」
 僕は机の上で手を動かし、探り当てた石炭の塊をつかむと、仮面へ投げつけた。と、どうやら命中したようで、石炭は鈍く乾いた音をたてて砕け散った。だけれど僕はその瞬間に、キーーン、と高く鳴り響く強い耳鳴りに襲われてしまった。
 それでも無傷だった仮面は、空中を漂うような動きで上下左右に小さく揺れだした。僕は耳鳴りによって平衡感覚がおかしくなる中、なんとか踏ん張ってその様子を見守る。するとまもなく、発光していた仮面のその青白い明るさが消失していった。いつしかサイコロも消えている。
 部屋は闇だけになった。消えた仮面が声を発することもなくなり、部屋は静寂に包まれ、僕の脈が速く重く打っていることがわかる。耳鳴りは弛緩し減衰をはじめた。
 部屋の外で足音がして、母から呼びかけられた。
「喬一、大丈夫? なにか砕けるような音がしたけど」
「ちょっと物を落としただけだから大丈夫だよ。灯りが戻ったら片付けるから」
 声が平静に聞こえるように抑えながら嘘をついた。
 それから五分ほどで電気は復旧した。

          *

 一週間が経った。罪にさいなまれる夢はその後、一度も見ていない。もちろん、あの仮面と相対したこともない。
 蝦夷春蝉の鳴き声があたりを染めている。ムスカリも水仙も、今年は終わってしまった。半袖だとまだすこし肌寒さを感じる晴れた朝に、僕はまた、ウォーキングをしている。清々しい朝だった。何か新しいことを始めたくなるくらいに。でもそんなすばらしい朝だからといって、今日一日つまづくことはない、と約束されたわけではない。
 住宅地を抜けて、国道に出た。蝦夷春蝉のほかに、鶯(うぐいす)の鳴き声も加わる。速足のペースを保ちながらしばらく道なりに歩き、いつものように工業団地へと入っていく道を曲がった。
 やかましく吠える犬の声が聞こえてきて、あたりを見わたした。どうやら僕の背後から声が近づいてきている。振り向くと、五十メートルほど後ろから白い小型犬が一匹だけでこちらへと駆けて来ているのが見える。飼い主の姿はない。犬は僕と目が合うと立ちどまり、一層やかましく吠えだした。白くうねった短い巻き毛で、一応、首輪をはめている。あれはテリアという種類の犬ではないだろうか。犬は僕を標的と定めたようで、すごい勢いで吠えたてて、走ってくる。
 これはまずい。おそらく走って逃げても逃げきれないし、隠れる場所もない。それでも他に手段がなくて、とにかく走った。犬は簡単に追いついてきた。
 ほんとうにやかましいし、顔とその牙が恐ろしい。僕は観念して走るのを止め、足でしっしっと追い払ってみる。犬はますます吠える声を高め、敏捷にかわした僕の足を嚙もうという仕草をする。それどころか、ひっこめた僕の足にまで噛みつこうと身体を乗り出してくる。たまらない。僕はまた走り出した。後ろを向いたり横を向いたり態勢を変え足で牽制したりして犬との間合いを取りながら走る。
「おいちょっと、こらこら、あっちいけって」
 心臓をばくばく言わせながら蛇行して走る。そんななか、自分の引きずる影に気が付いた。走って逃げる僕と同じ動きで、影も地面で躍っていた。僕も影も必死に動いていた。
 犬が僕の右側に身体を寄せてきたので、距離を取ろうと左へ移動する。影もタイムラグ無しに左へぴったりくっついてくる。
 犬には犬の影があり、飛び跳ねてみたり噛みつこうとしたりするその動作をトレースして動いている。
 僕の影の動きは僕そのもので、犬の影の動きは犬そのものだった。否応ない、それは影だった。
 犬は影とともに僕の足元を空噛みしている。追い立てることに喜びを覚えているようだ。僕はまた立ち止まると、今度は影といっしょに身構えてみせる。犬の目を見据え、本気を出すぞ、と表情で威嚇した。察した犬は、二、三歩後ずさり、そこからたぶん十秒近くにらみ合った。でも、にらみ合うというより、僕はこれからどうしたものか、と困っていたのだし、犬のほうもさっきより気の抜けた顔で、右を向いたり左を向いたりしているし、おそらく僕を追うことにもう飽きたみたいだった。
 犬はくるっと後ろを向くと、元気よく走り去っていった。当たり前だけれど、ごめんなさい、もないし、満足した、の一言もなく。
 ほっとした僕は、小さくなっていく犬の姿を見送ると、元の進行方向へ向き直り、駆けだす。どうしてなのか、楽しくなってきたのだ。

 眩しい陽射しのせいで濃くなった影は音もなくついてくる。
 足下を躍動するそんな影を引き連れて、僕はいつまでも、駆け続けた。


〈了〉



参考文献
『石炭博物館ガイドブック』 NPO法人 炭鉱の記憶推進事業団 編 
『法然親鸞一遍』 釈徹宗 新潮新書
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『陽だまりのこちら、暗がりのとなり』 第四話

2024-03-11 05:15:00 | 自作小説20
         *

 そんな出来事のあった日の夜でも、意識を席巻するあの夢は容赦なかった。僕は人を殺めてしまった想いに、やはり苛(さいな)んでいた。無条件にそんな夢の中へと放り込まれる。
 自分が罪を犯したときの記憶はなかった。具体的に思い出せることはなにも無いのだ。にもかかわらず、自責の念と、取り返しのつかないことをしたという想いだけが胸に充満し、全身を脱力させる。
将 来への希望は塵となり風のひと吹きで消え去ってしまう。そのあとすぐに無風状態の時間が訪れるのだけれど、その時間が表現しているものがまさになんら混じりけのない絶望というやつで、それはたった数十秒のワンシーンのたかだか五分の一を観ただけでも、無理やり泣かせようとしてきているのがわかるベタなドラマくらいわかりやすくそこに存在していて、心底嫌になった。
 何日か経った平日の休みの午前中、間柴瑤子と待ち合わせをしていた。待ち合わせといっても、僕の自宅前まで彼女が車でやってきて、苺をもらうだけなのだけれど。
 十一時に行くね、とのメッセージだったのだが、実際に来たのは十二時近かった。ごめん、急な仕事がなかなか終わらなかった、と瑤子は両手を合わせて遅れたことを謝った。僕は、この間、ピーターパン・シンドロームと言われたことに思いのほかショックを受けたのがあって、瑤子の顔を見ると、ついまた思い出して気になってしまう。
「この間さ、ピーターパン・シンドロームって言ったじゃない。あれ、けっこうぐっさり刺さったよ」
 抗議しようかしないか迷った末に、する方へと気持ちがわずかに転じてのことだった。
「え、そうなの、ごめんごめん。深く考えてなかったのよ。ほんと、悪い。許して。そんなに気を悪くしないで」
 瑤子はさっきよりも力を込めて両手を顔の前で合わせて謝る。立てた手と手首のところで直角に曲がった腕の肘が横に張っている。けっこうな力が入っていた。本気で謝ってくれているのがわかって気持ちがゆるまるのを感じた。
「そんじゃ、まあ、いいや」
「ごめん。ごめんよー。もう言わないから。でもさ、喬一ってけっこう気にしいなんだね」
 瑤子はちょっとにやつくように口角を上げ、ゆるめた目許の表情でじっとりと僕の目を見つめてくる。
「気にしいって」
「いやいや、冗談よ。でもなんか、かわいいんだよね。いやいや、これも冗談だけど」
 瑤子は機嫌良さそうに高らかに笑うと、僕の働くスーパーで売っている苺パック換算で言えば3パックはあるたくさんの苺の入った大きなタッパをくれると、手を振って帰っていった。少しだけイラついたけれど、瑤子らしい茶目っ気だった。
 気にしい、って言われたか。この言葉が、懐かしい広中佳(か)苗(なえ)を思い起こさせた。同じことを何度か、彼女にも言われた。久しぶりに思い出す広中佳苗。『枕草子』の好きなあの広中佳苗。大学生の頃に付き合っていた彼女だ。
「ねえ、喬ちゃん。最近さ、なになに〈じゃん〉って言わないじゃない。なんで急に?」
 佳苗が何かを聞いてくるとき、おずおずと顔を覗きこむようにする場合は、僕が不機嫌だからで、このときもそうだった。
「この前、佳苗ちゃんが言ったでしょ。ずっと北海道育ちなのになんで横浜言葉なのって」
「それでなの? 横浜言葉が多いよね、ってちょっと言っただけなのに」
「そうだっけ? なんかさ、よくないのかなってずっと思ってる」
「よくないなんてそんなことないよ。気にしすぎなんじゃないかな。気にさせたのは悪かったけど、喬ちゃん、気にしい」
「そんな、気にしいってわけでもないよ」
 自分が気にしいだなんてまるで想定していなくて、即座に突っぱねてしまう。佳苗は僕が戸惑い、ちょっと心を乱している様を見逃さずに、しげしげと僕の顔を覗きこみ、珍しいものを見られた喜びに口元を緩めてさえいる。「今の喬ちゃん、よき顔をしてますよ」なんて憎らしいことまで言った。
「性格悪いよ」
 不仕付(ぶしつ)けに言ってやったのだが、佳苗の微笑みはますますきらめいたし、ついには僕も笑ってしまった。
 佳苗にはそういったふうに踏み込んでくるところがあったが、いつもどこか凛として明るい女だった。彼氏の僕に弱音を吐いたりもしなかった。精神的に独立した女性という気がして、僕は彼女を高く評価していたし、強く惹かれた。佳苗という光に照らされて、闇の世界にいた僕は、目がくらむようにして、小さな迷いを持ち始めることになる。闇の世界に安住していた僕が迷い始めたのは、佳苗の発する光に揺さぶられたからだ。
 佳苗とは警備員のバイトで出合った。彼女は警備会社の事務所で事務のバイトをしていた。たまに現場から事務所に寄ることがあって、僕はそんなときに彼女に気づき、声を掛けた。話してみると大学が一緒だったし、学部が違いはしたけれど同学年だった。それから学食でいっしょにご飯を食べたり、お茶を飲んだりするようになった。自分の本性を偽りながら、つまり闇を隠しながら。
 密閉するようにまでして闇を隠した自分で他人と接するのは、新鮮な経験だった。いや、というよりも、ずっと昔、思春期になる前まで作動していた、埋もれている思考システムを懸命に発掘し、再起動して実戦で使っているような、緊張感のある経験といった感覚のほうが強かった。
 それでも、佳苗との関係はうまくいった。佳苗は初めての性行為の相手になった。ほどよく肉のついた佳苗の美しい裸体を眺めたとき、自信が持てなくて少しばかり慄いたのを覚えている。それでも、佳苗がやさしく促してくれたので、行為をまっとうできたのだった。佳苗は初めてではなかった。
 僕はその当時、佳苗に溺れてしまいたかった。それだけじゃなく、もしかすると、佳苗を自分のコントロール下に置いてしまいたいという支配欲もあったかもしれない。でも、佳苗は絶妙に距離感を保ち、やんわりと拒否したり、ときには拒絶をしながら、自らが、そして僕が、お互いのために依存を深めたり犠牲になることのないように振る舞った。ずぶずぶの関係を佳苗は嫌った。
 付き合い始めて二ヵ月近く経った秋が深まった頃、学食でご飯を食べ終えてからも席を立たず、今度、シリーズもののハリウッド・アクション映画の最新作を観に行こうか、という話をしていた。そこへ、僕の数少ない友人の二人がテーブルの脇を通りかかり、こちらへ手を挙げて挨拶をしてきた。黒髪の長髪と、金髪の短髪だ。佳苗に対する思考システムと彼らに対する思考システムはかなり違うものなので、僕の気持ちにはふたつに引き裂かれるような痛みが走ったし、振る舞い方がまったくわからなくて焦りはじめもしていた。
 二人ははばからず佳苗を視線で舐めまわす。誰が見ても不快に感じるようなにやけ方をしている。いつものように彼らに対して自然な応対をしていたならば、僕も同じようなにやけた笑みを浮かべていたことだと思う。僕ははっとし、急ブレーキを踏んだ。普段の思考システムをここで立ち上げてはならない。友人の一人、黒髪のほうが言った。
「あれ? 喬一さん、この方はどなたなのかな? まさか、お付き合いなさってるんじゃないですよね、俺らになんの紹介もないのですが」
 丁寧さを装ったぎこちない言葉遣いが、僕と佳苗の間の空気を汚染しだす。
「ああごめん、そのうち紹介しようと思ってたんだ」
 友人二人は吹き出す。金髪のほうが言った。
「ちょっとまって、なに、喬一、その態度、いつもと違いすぎねえ」
 二人はさらにげらげら笑う。まずい、と思って佳苗を見ると、軽く顔をしかめている。黒髪のほうが言う。
「それで、お二人はいったい、あの、どこまでのお関係で?」
 僕はいら立って、会話を断つべく、たまらずこう言った。
「悪い、二人だけにしてくれないか。今度、いろいろ説明するから」
 二人は、わかった、じゃあな、またスロット行こうぜ、と去っていった。何度か振り返り、大きな動作で僕らの関係を茶化すようにし、軽く嘲るみたいにして。頬杖をついた佳苗が聞いてくる。
「あの人たち、喬ちゃんの友達なの? あんまり感じが好くなかったけど」
「なんていうか、まあ、友達なんだけど」
 うまくかわせる言葉が出てこなかった。佳苗の、ふうん、と言ってしかめた眉がとがって感じられ、胸がちりちりと痛んだ。でもすぐに、まあいいけど、と曇りの無い表情に戻ってくれて、僕はほっとした。
 あの二人からは、その後、しつこく佳苗との関係を聞かれた。いつからだ、とか、エッチは週何回ペースだ、とか、下世話なことばかりだった。僕もそういう仲間だったのだから、彼らを非難することはできない。それでも、今度俺らと四人で遊ばねえか、という誘いは速やかに断った。
 つるんでいた友人たちに、恥ずかしさを感じる。そして、佳苗の前で、それまでの自分でいることも恥ずかしいと感じる。そんな変化は、佳苗という光に接したからであることは間違いなかった。
 それから僕と佳苗は、友人たちにつきまとまわれることが多くなった。住む世界の違う彼らは、その彼らの世界の尺度で接してくる。それはそれまでの僕だって安住していた世界の考え方であり、やり方だった。だから、僕は「よせよ」なんて二人を突っぱねはしても、それはじゃれあいの範疇を越えない生ぬるいもので、佳苗との二人の世界は汚されていくばかりだった。友人二人からすると僕の態度はとりすましたものだっただろうし、佳苗からすると二人だけでいる時よりも不純さの度合いの濃いものだっただろう。
 佳苗は清少納言が好きだった。清少納言は自分に悪い噂が立ち、自分が大切にしたい人との関係に誤解をもたらすようなときでも、自分から弁明や説明はしない人だった、と彼女は言っていた。佳苗は笑って、こう言った。癪に障ったらしいから、と。やせ我慢でもあるけどね、とも続けた。
 僕は自己弁護ばかりしていたように思う。それもぼんやりと、曖昧にだ。佳苗は去っていった。癪に障ったのだろうか、出会いそして過ごしてきたときと同じように、晴れやかな表情で、最後に「さよなら」と言って。
 僕はそれから、春はあけぼの、からはじまる最初の段しか知らなかった『枕草子』を本屋で手に取ってみた。でもやっぱり、最初の段しか読まなかったのだけれど、夏は夜、のところを何度も読み直した。
 夏は夜がよくて、満月が出ている頃はとくによく、闇が支配的な新月の夜であっても、蛍が飛び交っている様子がよい、一匹や二匹が闇に舞っているときなんて風情がある。
 佳苗は、僕が闇に覆われていた時期に出くわした満月だったのだろう。月の光線に照らされたことによって、僕はそれから長く迷いだす。就職して、仕事終わりに地下鉄駅構内で人が倒れた現場で美しい女性に叱責されるまで。佳苗によって迷いを見出していなかったら、あの叱責での自己否定を経て、前向きに自分の生き方を考え直すことはなかったように思う。鉄壁だった闇の囲いに、確かな亀裂を生んでくれたのが佳苗だったのだ。
 昼食のあと、瑤子からもらった苺を家族で食べた。小粒で、甘みと酸味のバランスの好い、とてもおいしい苺。心が躍る。でも、一度に食べきれる量ではなく、半分ほど冷蔵庫に仕舞うことになった。
 苺の一粒一粒のおいしさは、まるで蛍の光の粒のようだ。そういう光を、僕は愛でることができるようになっていた。闇の中に潜んでいては自らの姿すら視認するのは難しく、そうすると生きている実感を得ることも難しくなってしまう。光は、生きていることを教えてくれる。
 正直に言うと、ときに闇は人を落ち着かせもする。そんな闇に舞う蛍の光。わあっとその光の粒に胸の裡が湧きあがると、本来あるべき姿を思い出させてくれる。心がなごんだり弾んだり、それは人それぞれだろうけれど、気分良く生きていく上でのプラスの影響が光にはあるし、人は本来そういったベクトルにある生き物ではないのだろうか。蛍の光は、そんなベクトルに気づかせてくれる。
 生きていく過程でつまずいたり、ねじくれたり。そういったことはよくある。それでも立ち上がって光の場を志向していくのは、闇の底に溜まる黒々とした虚しさに抗うことだから。虚しさを振り払ったその先に向かうことだから。
 人が自らを救うきっかけになりうるものとしての、物言わぬ光がただそこにある。活かせるか活かせないかは、その人に委ねられている。
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『陽だまりのこちら、暗がりのとなり』 第三話

2024-03-10 05:15:00 | 自作小説20

 車中ではまず、牧さんと自己紹介をしあった。牧さんは一月に六十九歳になり、仕事は数年前までコンビニのオーナー兼店長を務めていたそうだ。もともと自営業だった自分の小さな酒屋を二十数年前にフランチャイズのコンビニにし、今は息子夫婦に経営を譲っているのだ、と。顔なじみの客の多いまずまず安定した利益の出ている店で、このご時世でも安泰なほうらしい。自己紹介が僕の番になり、スーパーの従業員をやっていることを教えると、同じ商売だね、と牧さんの顔はほころんでいた。
 何年目なんですか? と聞かれて、二年目になったばかりです、と答えた。その前はどんな仕事をされていたのですか? とさらに聞かれた。
「Uターンするまでは札幌に居たんです。いくつかの職には就きましたが、目立った職歴はありません」
 正直にすらすらと出た。職歴の無いことを見下すなら見下せばいいや、という半分やけになった気持ちと、頼まれてガイドを引き受けているのだから簡単にこっちを馬鹿にできるものか、という挑発的な気持ちが、べったり背中合わせになって勢いづかせたのだと思う。
 牧さんはどうだったかというと、そうですか、とそれまでと同じ口調で頷くだけ。その後も僕に対していい加減な扱いなどせず、それまで通りの率直でなおかつ親しみを覚えさせる態度で接してくるのだった。運転席からたまにこちらをちらちら見る目の色にも変化は無かった。
構える必要が無くなり、それまでずいぶん肩に力が入っていたことを知った。間柴瑤子が突き付けてきたように、まさかピーターパン・シンドロームの言葉が飛び出してくることはないだろうけど、と考えてはいたのだけれど、僕の頭の中ではその言葉が意に反して連呼されていたのだ。
 それから牧さんに、炭鉱博物館についての予備知識になりそうなことを話した。小学校高学年の頃に社会科の授業で教わった内容からの話なのだけれど、案外記憶していることに自分が頼もしく感じられた。石炭はメタセコイアという針葉樹が地中に埋まり長い年月をかけて炭化したものなのだとか、この土地の地質調査をして石炭を見つけたのは明治時代のお雇い外国人だったアメリカ人だったとか、意外とすらすらでてくる。牧さんは僕の言葉にはっきりとした相づちと、好奇心ありげな深い吐息をもって応えてくれた。
 わずかな知識を一通り伝え終わると、僕と牧さんは少しの間、沈黙した。僕が小学生だった頃のこの町にはまだまだ炭鉱が動いていたし、人口は二万人を超えていて、つまり現在は六千人超だから、3倍以上にあたる規模を誇っていた。最盛期には十一万人を超えていたらしいのだけれど、それは僕がまだこの世に生まれ出る可能性すら無かった昔の時代だ。
 親が炭鉱で働く子たちは、堂々としている子がほとんどだった。それどころか、自分の階級は高いのだ、と踏まえているかのように威張り散らす子もいた。それはもしかすると、威張り散らすような性向の子がたまたま、炭鉱夫の子だったに過ぎなかったのかもしれない。でも、炭鉱夫というのはこの町では偉いのだ、という周囲に満ちた空気に、建設会社社員の息子の僕はうっすら気づいていた。昭和後期に生きる町の人たちの間には歴然と力関係が存在していたのだった。明文化されない階級意識があり、当たり前に差別があった。僕はそのような町の空気を吸いながら育ったのだ。
 牧さんに詳しいナビを求められて我に返る。そこの脇道に入ってください、あとは道なりです。そう教えて、三分ほどで駐車場に到着した。博物館の建物はそこから三十メートルほどの急坂を上ったところにある。
 じゃあ、行きましょうか、と軽い足取りの牧さんは、上り坂で無口になり、呼吸が忙しくなった。ウォーキング慣れしている僕でもなかなかきつい坂道で、「堪えますね」と出した声にも大量の呼気が混じる。そのとき、上から話し声が聞こえてきたので見上げると、下ってくる青く短い髪の若い女が居たのだった。スマホで自撮りしながら、活舌よく大きな声で喋っている。二十代半ばくらいだろうか。黒皮のジャケット、いかめしいバックルと白いパンツ。立ち止まって撮影角度を変え、二階建ての博物館の姿を背景にしたり、今度は入口の向かいに並ぶ何本かの樹木を映しながら、「これがさっき解説したメタセコイアなんですよー。石炭になった木。すごいですねえ」なんてやっている。一列になって左側に寄った僕と牧さんの横を、女は自撮りとお喋りを続けながら通り過ぎていく。「ほんとうに真っ暗な、闇の世界の坑内で石炭を掘りだして、地上に持ち帰ったわけで。とても危険な仕事だったことは想像に難くないというか。そうやって危険をくぐり抜けてゲットした石炭は、闇からの栄養と言ってもいいんじゃないかな。……なんて、ちょっと気取った言い方ですね、ごめんなさい」。僕らとの位置関係をいつのまにか視認していたかのような滑らかな動き方だった。
 僕らが入口の重いガラス製扉まで来たときにはもうあの女の明るい声は聞こえず、牧さんが、「ああいう人、実際にいるんだね」と架空の存在を何かの間違いで目にしてしまったような言い方をする。僕自身もああいった仕事の最中の人に出くわしたことは無くて、「動画配信者って、珍しかったですね」なんてそっけなく答えた。
 受付で牧さんが入場料を払おうとすると、町民だった僕は免許証の提示を求められ、無料になった。一階の展示ルームには五十センチ四方ほどの石炭のオブジェがある。ただの大きな石炭の塊といえばそうなのだが、てかてかに黒光りするくらいに磨きこまれている。この町で採掘される石炭は実に良質で、最盛期には北海道の石炭生産量の20%を占めた、と解説板に書いてあった。牧さんはこの町が石炭で繫栄していた同時代を生きていて、時代の趨勢(すうせい)を知っていたし、壁にかかっている戦後から昭和中期にかけての、いくつもの写真パネルを見て懐かしがっていた。僕はガイドをするように頼まれていたが、博物館までの道案内が終わってしまうともう出番はないなという気になっていた。博物館に公開されている具体的な情報の量と奥深さを読解する能力は、おそらく牧さんと同等でしかなくて、役立てるとするなら、その情報について対等な立場で話し合う相手になるしか余地はないと察したので、努めて牧さんに話しかけることにした。
 階段で二階に上がると、展示は石炭の多岐にわたる利用方法の解説から始まり、石炭から石油へと国の施策が転換されて町が斜陽を迎えていったことや、戦時中までの朝鮮人や中国人の強制労働、ガス突出や坑内火災などの事故、炭鉱労働者と炭鉱会社社員の間の格差と差別などの、負の側面を見学者に問うてくる内容へと変わっていった。簡単に白黒つけられる問題でもなく、僕と牧さんは、気の乗らない議論を続けながら、少しずつ疲れていった。
 二階の展示が終わり、そこから地下へ降りるように指示する案内板があった。エレベーターに乗ったころには石炭関連の話題に触れるのはもう嫌になって、今回のガイドにあたっての信条からは反するのだけれど、僕からはなにも話しだせなくなっていたし、牧さんだって一言も発しなかった。物憂げな僕らは借りてきた猫のようにエレベーターで運ばれた。
 エレベーターの箱から降り、地下に足を踏み出すと、傍らの棚にヘルメットが置いてあり、僕らは緩慢にそれを装着した。そこからは明治から現代までに至る採掘作業の変遷をたどる、貧相な蝋人形によって再現された展示を見る真っすぐな道になっていた。なんとも薄気味が悪く、ここでも僕らはほとんど言葉を交わさなかった。牧さんは覇気がなくなった目で瞬きを繰り返していて、へたり込んできているに違いない気分をもはや変えたそうに見えたし、そんな牧さんの様子に共鳴するもののあった僕もおそらく同じような陰鬱な表情をしていただろうと思う。蝋人形たちに勝るとも劣らず、僕たち二人も貧相な面持ちへと変貌していった。
居心地がいいですよね、なんて痛烈な皮肉を言おうかどうか迷ったが、牧さんの顔を見てそれはやめにしておいた。息詰まる展示ゾーンを抜けると、最後の展示となる模擬坑道の入り口に行き着いた。
 照明は最小限しかついていなくてとても暗く、足下だって砂や小石の模擬坑道の有り様だった。しかし牧さんの目の輝きが復活しだしているらしいのが声の調子からも伝わってくる。薄っぺらくなっていた存在感がふくらみを見せる。
「坑道を歩けるなんて、ちょっとできない体験だよね」
「ですね。大昔に実際に仕事していた坑道だそうですよ」
 牧さんは喜んでいるけれども、僕はそこに満ちた暗闇が気障りだった。それは息苦しさのようなもので、一瞬、ここの空気で肺を満たすことすら躊躇われもした。体内を侵食されてしまいそうな不気味な不安があり、そんな暗闇へのなにかしらの抵抗感が瞬時に生まれ出たのだ。でもそれは気苦労のようなもので、いつも通りに呼吸をしたって、少々埃っぽい匂いのする空気を吸い込む程度に過ぎないのは頭ではわかってはいたのだけれども。
「牧さん、これ、一人だったら心細くなりそうですよね」
 僕は後ろの牧さんを振り返って、足を滑らせてバランスを崩したりしていないか気にする。手すりから手を離せない。牧さんは一歩一歩足場を確かめながら後ろをついてきていた。暗闇のせいで、上っているのか下っているのか判別が難しい。
「ほんとだね。まるで安全装置を外された場所に突然、移されてしまったような気がするしね。でも、ここで実際に昔の人たちは作業してたんでしょ。当時の雰囲気の何割かは当時のままここに保存されてるんじゃないかっていう思いがしてる。勘違いなのはわかっているけど。でもそれこそ明治期や大正期なんかは、ランプ片手に真っ暗闇の中へ足を踏み入れての労働だっただろうからさ、メンタルの面でもかなりの過重労働だったろうなあ」
 ところどころで息継ぎを挟みながら、牧さんはそう言った。闇の中をランプの灯りを頼りに石炭を掘り、地上にもたらした人たち。時代を超えて、そんな現場に僕らは立っていた。
 僕にも思うところがある。この町の来歴をあらためて知ったことで、いくつか気づいたことがあったし、アナロジーとしての小さな発見もしていたのだ。
模擬坑道から抜けると、身体にまとわりついていた暗闇の余韻を、降り注ぐ陽光がすっかり洗い落としてくれる気分だった。世界が元に戻った思いがした。
 僕らは二人とも、どちらから促されるでもなく自然と、うわーっと大声を出しながら背を伸ばした。そうして、また自然とお互いを見合って、小さく笑いあった。さっぱりとした達成感だった。

 牧さんの車に戻り、エンジンをかけた状態でしばらく休んだ。
「どう思いました? 私はねえ、やっぱり二階の展示の重々しさが堪えましたよ。でも、模擬坑道を歩けたことはいい経験になりましたね。全体としてはなかなかボリュームがあったかもしれない」
 座席のヘッドレストのあたりで腕を組み、そこへ頭を乗せるようにした牧さんが、前方の風景を眺めながらうっすらと微笑んだ。目じりに深いしわが寄っている。
「僕も同じく二階の展示は堪えたんですが、それでも外国人強制労働者への差別、炭鉱労働者と炭鉱会社社員との差別、炭鉱従事者と一般市民との差別といったところが気になりました。どうしてかというと、そういう町で育ってきたんだな、ってちょっと残念な思いがしたし、僕の中にも自然とそういったものが、つまりこの町の世間から受け取ってしまったものがあるんだろうな、と思えたからです」
「荒くれ者やならず者と言われるような人たちも多くて、全国からさまざまな人たちが吹き溜まりのように集まった町という側面もあったんだねえ」
「そうですね。で、今や離散していく方向にある。人口は六千人台ですから。長い日本の歴史からみたら、刹那的な町なのかもしれないですよ」
 なるほど、と牧さんは同意してくれた。
「歴史の泡沫(うたかた)の町、か」
 そう言いながら、牧さんはエアコンの設定温度をいじって風量を抑えた。助手席からずっと運転席のほうを向きながらしゃべっている僕の脳裏に、入口のあたりで擦れ違った動画配信者の女の言葉が不意に思い浮かんできた。
「牧さん、覚えてますか、青い髪の女の人」
 牧さんは、ああ、と間の抜けたような声を出すと、記憶を探るように視線が虚空を舞った。
「動画配信の仕事の真っ最中だったね」
 ようやく牧さんがこちらへと体の向きを変えて、僕らは向かい合うかたちになった。僕は話したいことのイメージをぐるりと簡単に頭の中で確かめると、青い髪の女の言葉をなぞった。
「まず、闇の世界である坑内で掘りだした石炭を、地上の世界に持ち帰った、って彼女が言っていて。その話の最後に聞こえたのが、石炭は闇からの栄養、っていう言葉でした」
 牧さんは小さく何度も相づちを打った。僕は続けた。
「石炭の使い道の展示があったじゃないですか。けっこういろいろあるなあ、と見てたんですが」
「暖房の燃料として使えたし、蒸気機関の動力にもなったし、火力発電所の燃料として電気を生むし、ガスも取れたし、肥料や医薬品なんかの化学製品にも加工されたってあったね」
 記憶力がいいな、と思った。
「ほんと、あの人の言ってたように、闇の世界から栄養分を頂戴してきたっていう感じがしました。エネルギー源が闇の世界にあって、そこから採掘してきたものが、光の世界で生きるには欠かすことのできないものとして役立つっていうふうに、僕も彼女の言葉を繰り返してみながら考えていたんです。ちょっと話がややこしくなるんですが、これって、一人の人間を例にとってみても同じことじゃないかって思えて」
 牧さんはまじまじと僕の顔を見つめてくる。
「うん。それはおもしろい話だと思うよ。闇の中に、闇の化身のような漆黒の石炭が眠っている。その闇の化身が地上の世界のエネルギーになる。まずそういう話だったね。それで次の話だけど、一人の人間だって闇を抱えているわけだ。表沙汰にできないような闇を抱えていたりする人も多いもんだよ。そこから反省して学ぶことって、闇から石炭を発掘して地上で活かすことと似てるんじゃないかっていう。そういうことかな?」
 話が早いな、と牧さんに驚きながら、言いたいことをもう少し言葉にしていく。
「そうなんです。さらにですよ、博物館という存在自体が、石炭の歴史を闇に葬らないための抗力となってるじゃないですか。じゃないと、学べないから。学びを放棄してしまうから。たとえば、闇に葬る、っていう言い方がありますが、これって放棄することでしょう? この町は、過去に生んでしまった闇の数々を闇に葬ってしまわないで、光の世界、要は地上の世界でエネルギーにしようとする姿勢でいますよね、博物館の存在を使って」
 牧さんが大きく頷いてくれた。僕はさらに言葉にしていく。
「なんていうか、博物館で扱ってる種類の闇は、光のエネルギーにまで昇華させるのは難しい種類のもののように考えられてしまうんだけれども、でもそこから何かを抽出してそれをエネルギーに変えるために頑張ろうとしている姿勢、というふうにもとれると思えるんです。または、将来の世代のエネルギーになるかもしれないから、今はせめて残す努力をしているというような。その意志表示としての博物館でもある」
 もやもやっとしていたものをだいたい言葉にすることができた。まだなにか、そのもっと先に大事なことがあるような予感があったのだけれど、そこをはっきりさせるところまでは到達できなかった。それでも牧さんには響いてくれたようだった。
「あなたが言ったことはおもしろいですよ、とても。そうなんだなあ、エネルギーって闇からくるものが多いのかもしれない。その由来をたずねてみれば、たいてい闇に辿り着いたりするのかもしれない。興味深いね。それはそうと、あなたはこの町で生まれた方なんですよね?」
「そうです。僕の母方の祖父が炭鉱夫でした。まだ若いときに亡くなったので、会ったことはないんですけどね」
「ああ、そうでしたか。そりゃあねえ、あなたがこうして一つの知見をここで得たのは、運命的なものじゃないか、って思いました」
「この町に生まれたことで無条件に背負ってしまうものとの対決なんだと思います。別に戦わなくたっていいんでしょうけど、どうしてなのか僕はこれを闇に葬れないみたいで」
 自分でもそれとわかるような苦笑いがこぼれ出る。笑顔の牧さんに肩を叩かれた。
「まあでも、あなたが言ったように、闇の部分を闇に葬らないっていう役割を担った博物館がこうやってあるんだから、孤独ではないと思いますよ」
こういう町に僕は生まれ育った。大人同士や子ども同士での階級意識のみならず、子どもと大人の関係にも階級意識や差別意識があり、それに抗う意識もまたあったのだろうと思う。そしてそれは子どもたちの間だけの意識よりも、もっと複雑だったのではないだろうか。ある子どもがある大人を見つめる目。ある大人がある子ども見つめる目。それは数多くの個別の組み合わせの中のひとつひとつとしてその都度生じるもので、この町の世間の中をおそらく生きづらくもしていたのかもしれない。いや、それが生きやすかった人も多くいただろう。重ねがさね、複雑な世間だったのだろうと思う。
 牧さんとはそれから名物のカレー蕎麦を食べた。注文して運ばれてくるまでの間に僕たちは電話番号の交換をした。蕎麦は、濃いめの味つけのカレーだしがとろりとして熱々で、相変わらずの旨さだった。牧さんにも満足してもらえたようで、とてもおいしいねー、という力強い一言のあと、勢いよく啜っていた。
 牧さんがかなりの映画好きだという話を聞いたり、接客小売業の将来について話し合ったりしながらダムへと向かい、見学が終わると道の駅までの道筋を教えて、僕は自分の家の近くの道で車を降りた。道の駅は僕の家からでも車で五分程度の場所にあったからだ。もう午後三時近かった。牧さんは何度も何度も、ありがとう、と握手を求めてきて、また来ます、と手を振りながら去っていった。どうしてもと言われたけれど、ガイド料は辞退した。牧さんの車が遠くのカーブを曲がり終えるまで僕は手を振っていて、そんな自分の様子にずいぶん照れたのだけれど、最後までやめなかった。
 さて、帰ろう、と歩きはじめると、道の傍らにムスカリが何本も身を寄せ合って咲いているのが目に入った。今年はほんとうによく咲き誇っている。

 
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『陽だまりのこちら、暗がりのとなり』 第二話

2024-03-09 05:15:00 | 自作小説20
          *

 夕飯はとうに済み、両親と三人分の食器洗いを終えて風呂にも入り、上りしなの風呂掃除もやり終えて、Tシャツと下着という恰好で自室の布団に寝そべっていた。
 かつて、どれだけの闇を知っているか、で他人と張り合おうとしていた時期があった。スマホのニュースアプリの画面を眺めながら、それとはまったく関係なく大学生の頃を思い出していた。悪友というべき二人の男と僕はつるんでいて、彼らとだけは張り合っていたのだ。彼らはその後、どのような人間になっただろうか。
 それにしても、瑤子が僕をピーターパン・シンドロームと見なしていただなんて、実に心外だった。外からはそういうふうに見えてしまうらしい。ネット世界からの闇の見聞が多かっただけで、まともな社会経験の乏しい、おそらく世間離れしているに違いない自分が、他者からどう見られている存在なのかがわかる出来事だった。
現実世界は自分が思うよりもずっと僕のことを見ているもので、なおかつ一方的に規定してくる性質がどうやらあるようだ。困ったことに、見えているところだけで想像を膨らませ、思い込み、決めつけてくるきらいがあるように思う。世間の平均的な感覚って、そうじゃないだろうか。
 それが現実と呼ばれるものだ。そして、強固な世間というように言い換えが利く。ときとして暴力性を帯びる世間。
 軽い雨が降ってきた。タッチパネルをタップするみたいに屋根を叩く雨音だ。スマホを机の脇に置く。朝、ウォーキングのときに拾った石炭の塊の隣に。照明を落とすのも面倒で、明るいままごろんと布団の上に転がり直し目を閉じた。埃っぽい畳の匂いがいつもより鼻につく。
 ピーターパンか。大人になれないだなんて。
 それだけの強力な重力を持つ子ども時代にずっと繋ぎ留められて生きていくのは、おそらく苦しいだろう。それだけにとどまらず、ピーターパンは周囲の人たちをも苦しめるのだと思う。なんであいつはああなんだ、と言いたくもないことを陰で言わせてしまうのだ。たとえ本人に自覚がなかったとしても、本人の心の奥底の、さらにもっと底の場所では、ピーターパンはちゃんと自分の生きづらい苦しみを真正面から感じているのではないだろうか。他人に、なんであいつはああなんだ、と言われてしまうピーターパンの振る舞い自体が、子ども時代から逃れられないための無意識があげる、悲鳴なのかもしれないのだから。
 幼かった頃の記憶をなにか思い出せないか、想いを過去へと飛ばそうと努める。保育園に通っていたころ、保育士のお姉さんが他の子をちやほやするのに、顔立ちがぱっとしない自分はぞんざいに扱われた日々が甦ってきた。先生! とお姉さんを呼んでみても、こちらを見る彼女の顔はいつもほとんど真顔だった。どうして他の子たちには笑顔なのに、僕には微笑んでくれないのだろう。そう戸惑う気持ちが作用したのか、よくわかりはしないのだけれど、お昼寝の時間に眠れた試しは皆無だった。
 おそらく僕はピーターパンとは正反対だ。小学生以降をざっと思い浮かべても、重力を生じさせるくらいの魅力的な子ども時代を過ごせていないのがわかる。子ども時代なんてすべてくしゃくしゃに丸めて焚き火にくべてしまいたいくらいだ。執着心の湧いてこない子ども時代なのだから、僕は大人になれない子どもとして、繋ぎ留められていない。
 でも、待てよ。ひょっとすると、だからこそピーターパンになる可能性があるのかもしれない。満足のいく子ども時代を過ごせていないから、子ども時代をやり直すべく、肉体的に大人になってからも、子どものように振る舞ってしまうことがあるのかもしれない。そうやって、子ども時代に構築されるべきだった自分自身の内側の秩序のようなものを、不完全な状態から完全なそれへと育むために、仮の子ども時代に居続けるのではないのか。凛としながら社会と戦っていくためには、自分個人の内的な秩序ができあがっていないといけないと思う。その終わらないあがきが、大人になれないという結果なのかもしれない。そんな仮説も浮かぶ。
 十代の後半に闇を食らっていた僕はどうだ。闇を食らうという問題のある行為は、ピーターパン的な二種類の方向とはまた別のケースだったのかもしれない。
闇を食らう行為はある種の、代替行為だったのではないのか。大人になるための健康的な道を選ばなかった僕にとっての、大人になるためのオルタナティブな道だったような気がしてくる。それは白日に照らされた道ではなく、トンネルの中のように暗くじめじめした道のほうだったのだ。

 雨音は止まず、少しずつ深みを増していく。存在感を強めた音が耳に届いてくる。音の粒たちをそれまでは皮膚で弾いていたはずなのに、その雨音はいつしか体内に少しずつ少しずつ最初はめり込むように、そして器用に痛覚をはずしながら沁み込むように内部へ突き刺さり始め、その深度を深めるのを身体で聴いた。その細かく軽い音が浸透しつくすとき、つまり音たちがすべて貫通していくとき、僕は解体し始める。そんな確信めいた空想の状態に至った意識で、さらに雨音を聴き続ける。今夜、どんな眠りがやってくるのか、僕にはわからなかった。不安も期待も、なにも無かった。
 いつしか、雨音が気にならなくなった。しばらく僕は、何をということもなく、とりとめなく何かを考え続けていた。考えがある程度進んでいっても、その軌跡は僕の記憶にストックされない。ただただ、流れていく川のような思考だった。外で家の周りに敷いている砂利が踏みしめられる音がした。雨による音ではないな。そう意識を、それまでの移ろう思考から逸らした瞬間、まだ外では雨が降り続いていることに気づいた。再び、ざりざり、という音が聞こえた。狐か鹿がやって来ているのかもしれない。目を開けてみた。
 照明のスイッチを切った記憶は無かったのだが、部屋の中は真っ暗だった。仰向けの身体を捻じ曲げ腕を伸ばし、枕元の定位置にある目覚まし時計の上部ボタンを押してライトをつけた。照らされた盤面を見ても時間はわからなかった。ライトが付かなかったわけじゃない。時計の針が、かくっ、かっくん、かっくんかくっ、と乱雑なリズムでいびつに動きながら逆回転していたからだ。これはなんなのだろう。それでも気味の悪さよりもまだ冷静さが勝っていた。時計の針の不規則な動きはもちろんとても奇妙だったのだけれど、それよりも部屋の中に何者かの気配が満ちていて、反射的にそちらへと注意を張り巡らせたからだと思う。空き巣か何かだろうか。
それよりも、僕はいつ寝入ってしまったのだろう。雨音を聞きながら、形にならない考え事をし続け、気が付いたら部屋の中は真っ暗にされていて、信じがたいことに息をひそめた誰かがいるらしい。寝入った隙を突かれてしまった。ざっ、ざざざっ、と外では砂利の上を歩く音が素早く動いている。音の正体は野生動物ではなく、もしかすると人間の可能性だってある。
 男による低い声が聞こえた気がした。暗闇の隅々に目を凝らしてみる。すると、窓の上のほうに、ぼうっと白く浮かび上がる細長い楕円の輪郭を見つけた。
「隠してはおけない」
 今度は声の内容が分かった。楕円は次第に顔へと変化した。それは白い仮面だった。能で使われるような、昔風の化粧を施した女の白い肌の仮面。横に軽く広げられた真っ赤な唇の間から、わずかに歯がのぞいている。その女の仮面からなのだろう、また男の低い声がした。
「隠し通すことは不可能だ」
 暗闇の中に浮き出た仮面は弱々しく発光してほの白く、こちらに正対し僕を見据えている。僕は動けなかった。いや、正確にいうと、動くことを瞬間的に自分で禁じていた。動いてしまうことで、今は保たねばならない、とどうしてなのか直感しているその均衡が崩れてしまうような気がしたからだ。僕は身じろぎすることを控えた。
「君の深い罪」
 動かない唇でそう仮面がゆっくり言ったとき、気分が急速にざわついた。
「君の深い罪のための贖いを求めにきた」
 仮面がもう一度そう言ったタイミングで、また外の砂利が踏み鳴らされる音がした。閉じた両方の脇の下が熱くなっていて、汗でずいぶん湿っているのがわかる。怖い、と思った。
「幼い頃を覚えていないのか。幼い頃に君が家庭で受けてきた仕打ち。それがずっと繋がっている」
 過去が急速に甦ろうとしている気配を感じた。頭からすうっと血の気が失せていく。それとともに、甦りつつある過去が意識の上に燃えている炎を叩き消していき、無念さと諦めの混じった煙をもくもくと立ち昇らせていって、立ち向かうための気力を削いでいく。燃えるものの無くなった気持ちは身体とともにずしりと重くなった。 
 僕はずっと、両親の言うがままの人生だった。お仕着せに従わないとよく怒鳴られたし、叩かれることもあった。それが当然で、自分で自分のことをどれだけ決めていいものなのかも、ほとんどわからなかった。小学校の高学年になって、ようやくはっきりと周囲と自分との違いを感じ取った。僕はクラスメートたちよりもずっと親の干渉を受けていたし、自分で自分のことを決められない体質になっていたのだった。まもなく反抗期を迎えていったが、やっとのことで少しずつ芽生え始めた主体性は道を逸れ、闇に沈潜し闇を獲得するためばかりに発揮された。そのように繋がっていったのだ。ああ、そうか、と空っぽの気持ちで納得した。だからなのか、と本来ならばすぐに吹っ切ってしまいたい何もかもを飲み込みながら、心の裡に視線を向ける。僕は、がらんどうでずしりと重い、まるで空の酒瓶のようだった。
 仮面がにやりと笑ったような気がして目を凝らしたが、実際にはそのようなことはなく、半笑いの形に固定された表情は変わらず、白く浮かび上がったままだった。
「外では」
 仮面の声が少し高くなったような気がする。僕は力の入らない身体のまま、仮面を直視している。
「外では君の深い罪を突き止めた、腕よりの警官たちが待ち構えている。観念したほうがいい」
 もう砂利が踏み鳴らされる音は聞こえなくなっていたのだが、そうだったのか、警官たちが包囲しているのか、じゃあもうどうにもならないだろう、と立ちどころに諦めの気持ちになる。もはや従うしかない。
「君の罪は重い。人殺しの罪」
 封印された記憶がほじくり返されようとしている。意識の上にのぼらせてはいけない、たぶん血みどろの記憶を、仮面によってどうやら掘り起こされてしまう。やめろ、と言う間もなく。拒否も抵抗も試みる前に。ただもう、眼前に突き付けられたその受け入れられない事実を、認めるしかないと思った。外の警官たちの前へ姿を現し、自首するべきなのか。
「あれは違う。あれは僕がやったんじゃない」
 言ってみると、それはまったく正しい言い分だった。だけれど同時に、それは言い訳だ、と奥底のほうにある気持ちが主張する。
 仮面が小さく笑い声を立て始めた。低い声が徐々に高まり、小さな笑い声が甲高い女のものになった。そして激しさを増し、耳をふさぎたいくらいの哄笑へと変わった。不意に置時計を見た。時計の針は止まっている。秒針も。さっきみたいに逆回転すらしていない。
「捨て去るのだ」
振り返ると、仮面の姿が無い。その空間には闇があるばかりで、ぼうっとその闇を見つめていると空間がぐるぐると回転し始めた。耐えられなくて目を閉じたのだが、閉じた瞼の内側にも僕の部屋の姿が映り、猛烈な回転を続けている。逃れられなくて、体をねじってあがいてみる。それでも、仮面のあった位置のふくらんだ暗闇を、閉じた眼の中で僕は見続けていて、どうにも視線を外すことができない。
 そうしているうちに、だんだん意識が薄らいできた。寝入ってしまうときの感覚だ。その成りように僕は身を任せる。はたして、すうっと意識が薄れたそのとき、目を開いた僕は煌々と明かりのともる自室にうつぶせで寝転がっていた。置時計が示す時刻は零時を少し過ぎている。しっかりと等速で右回りに秒針が動いているのを見て、僕は大きく安堵の息を吐いた。気が付くと、Tシャツの脇の下や胸のあたりがだいぶ湿っている。額や鼻の下ににじみ出ているぬらぬらした汗を指でぬぐう。まるでほんとうに罪を犯したかのような気分だったな、と振り返る。実に嫌な夢で、妙にリアルな夢で、でも不快な気分は回復する方向へと、上昇軌道に乗ろうとしていた。

 だけれど、その日から三日間、毎晩うなされた。
 夢の中での僕は、深い罪を犯していながらもそれを隠し続け、捕まらず、そして裁かれずにいた。世間を欺きながら、いつ自分の罪が周知のものとなるのかとひたすら怯えていた。バレないように細心の注意を払って周囲と普段通りの話をし、危険そうな場面ではめまぐるしく頭を回転させて、嘘をつき取り繕った。夢の終わりではいつも、容疑者とされて警官たちに追われ、逃亡しながら目覚めた。
 印象的なのは、その夢の始まり方だ。日常をいつものように過ごしていて突然、心の底のほうからぬぼうっと浮かんでくるなにかがある。黒くねばねばした塊のようなそれがどうやら、消去することなど不可能な、過去に犯した罪の悔恨だった。僕は、あるときにとんでもない罪を犯している。それは今までは、まるで休火山のように寝静まった記憶として存在して、思い出すことができなかったものだ。なぜならおそらく自己防衛のために無意識がその力を用いて本能的に封印していたからで、どういうわけなのか、唐突にその封印が解かれ火山活動を再開し、受け入れらない過去が黒い噴煙として立ち昇っている。
 時の柱に刻まれた事実は改変などできない。ただそこからの影響をじっと受け続けるだけなのだ。逃げも隠れもできるものではない。変えようのない過去の事実はつまり、人生には人生を都合よくリセットなんてできないことを意味する。リセットできたと考える者は、目を逸らしているだけ。どんなに辛くても受け入れなくてはいけない。
 不意に目を覚ました過去のこの罪によって、気力がどうしようもなく削がれていく。とてつもなく重大な過ちを犯してしまっていた、と初めは思う。自首して裁かれなければいけない、と感じ始めもする。でも僕にこの平穏な日常を捨て去る勇気や覚悟は生じてこない。僕の今の人生には、たとえ平凡だったとしたって、なにがしかの可能性がいろいろな方面にまだまだあって、それらを求めていく自由を投げ出すわけにはいかなかった。この期に及んで罪を隠し通そうだなんて図々しいに違いないが、それが嘘偽りのない僕という人間の姿なのだった。まったく狡猾だった。
 夢の中では疑うことなくそう思いこんでいる。現実には犯していない罪にさいなまれる毎夜の夢だったが、あの白い能面のような仮面はそれから一度もでてこなかった。あれはたぶん、僕の心が生み出した化け物なのだろう。でも、なぜ、と思う。若かったときに求め続けた闇からの復讐なのだろうか。

 今日も朝から、ウォーキングのために屋外に出ている。シフト制なので、平日におもむろに休みの日がある。雲の少ない暖かで穏やかな日だった。蝦夷春蝉のじりじりいう直線的な鳴き声が、そよぐ風よりずっと速く届く。道すがらの水仙やムスカリはまだまだ満開で、園芸が盛んな一軒家の前を通ると赤や黄のチューリップや白や藤色の芝桜が咲き誇っているのを見られもした。
 いつものウォーキングコースを十五分ほど歩いていると、それは住宅地の細い道から国道に出たばかりのところなのだけれど、道端でボランティアのゴミ拾いを一人でしている坪野さんに出くわした。今日もファイターズの帽子。白地に水色の横縞の長袖スウェットと、濃いグレーの綿のパンツだ。好天のおかげで伸びのびとして爽やかな気持ちだったのが、ぷしゅうと音を立ててもおかしくない勢いでしぼみ始め、渋く縮こまる。また詮索されるかもしれない。職歴にならない時期には部屋で一人、自問自答の日々を過ごしていたなんてことを、もしも正直に打ち明けてみたとしたら、奇矯な奴だ、と怪訝な目の色で見られかねない。世の中というものの性質として、内向的なタイプだ、とバレるとそれだけで他者からの良くない想像を招き寄せてしまいがちなのだ、と僕は察している。鋭いカーブボールがするっと軌道から逸れていくように、他人の内向性を目の前にすると態度が露骨にがらりと変わる人はわりと多い。気構えをした。
「おお、喬一君か。今日も歩いているのか」
 坪野さんは顔を上げると、首にぶら下げているくたびれたタオルで鼻の頭を拭った。しょっちゅう屋外でなんやかやの作業をしているからか、張りの乏しい肌が浅黒い。
「まだまだ腹の肉が落ちないので。坪野さんもお疲れ様です」
 カラスが鋭く啼きながら頭上を通過していった。このカラスのようにわめき啼きたい気持ちこそ無理やり圧し留めてはいるけれども、僕も早くこの場所を通過したかった。
「こうやって拾ったって、しばらくすればまたけっこうな量が散らかる。ゴミを道端に捨てていくのに抵抗感ってないのだろうか。なあ?」
 煙草を吸っていた時期、路上で吸殻を投げ捨てたことが何度もあった。この会話の流れだと素直に言いにくいのだけど、あえて言ってしまう。
「実は僕も若いとき、煙草をポイ捨てしたことがけっこうあるんですよ。たしかに抵抗感はありますけど、いいや、と思って捨てちゃうんですよね。煙草と一緒に善い気持ちもかなぐり捨ててしまうっていうか。悪い事、してました」
 こうやって煙草のポイ捨てを自分の悪事だと単純に認めて言いのけることで、それ以外のもっと酷い悪い性質、つまり自分の闇の部分に触れられないためのカモフラージュができるような気がした。僕はポイ捨てくらいの闇しか秘めていない人間ですよ、というふうに。
 坪野さんはみるみる目じりを下げる。
「喬一君は正直だな。俺も若い頃にハイライトの吸殻をさ、気にしないでそこらに捨ててたな。他人のことは言えないな」
 ははははは、と顔からはみ出るくらいに笑ってから、坪野さんは火ばさみのようなもので草むらに絡まる濡れ汚れたマスクをつかみ、ゴミ袋につっこんだ。お互い道徳に反していた部分が思いがけず分かち合われたことで、なんだか仲間意識のようなものが坪野さんとの間に生まれ始めているような気がした。まずまず悪くない気がしてくる。坪野さんはいったん手を休めて何かを思い出そうしている様子だったが、まもなくまた喋りはじめた。
「ゴミを捨てていくみたいなモラルに反する行為をちょっとやるのはな、おそらくは人間が成長していく段階で通る道なんだろうな。自分を弁護するわけじゃないんだが、なにかしら道を逸れた経験をしてみないとわからんこともあるよな。それが痛手になったり、あとから悔やんだりして得られるものもあるだろうし。逆にいえば、なんにもモラルに反さないでさ、善行ばかりで歳をとっていったら、傲慢で薄情な人間になるかもしれなくないか。疑いようなんかないくらい自分が正しいっていう自信に満ち溢れたような、な? 俺はもう八十近いけどさ、自分が正しいと思いこんでいるかいないかで言えば、ちょっと危ういんだよな。それでも、そういう正しいんだっていう自信が視野を狭くしたり、他人に攻撃的になったりする原因になるだろうってことには気が付いているんだよ。それだけは少しマシかな? どうだろう? いくらか引いた目で見てみれば、こういう悪さは通過儀礼なんだろうなって思うよ。まあそうはいっても、これは当事者本位の見方でしかないからな、迷惑をかけられる側のことももちろん考えないといかんよな」
 若い頃いじめてしまった男子高校生を思い出していた。ほんとうにどうしようもないことをしてしまった。彼に対して僕は詰んでいる。もうどうにもくつがえせない行いだ。
過去の行いに締め上げられ始めたところで、白い軽自動車が道端に止まり運転手が僕らに声を掛けた。坪野さんと二人できょとんと立ち尽くしていると、運転手が降りてきて、あらためて「すみませんが」と言う。六十代後半くらいに見える痩せた男だった。坪野さんは、あれ? と言うと首を前に突き出したまま固まるのだった。そして、おたく、なんて言ったっけ、と男を見つめる目を皿にした。男も男で目を丸くしながら坪野さんに近づいていき、大きく口を開けて、あー、あー、という声だけで応えていたが、やがて言葉になった。
「いやあ、映画祭のときの方ですね。やあ、またお会いできるなんて。おかげであの時は間に合った。お世話になりました」
 白髪の混じった毛が立つぐらいの短髪で、銀縁の眼鏡をかけている男は、坪野さんの軍手をはめた両手をつかみ、ぶんぶん上下に振り回すように揺すっている。されるがままの坪野さんだったが、皿になっていた目つきがやがて平常のものに戻っていった。
「そうだね、去年の夏だよね。そうか、間に合ったのかい」
 振り回される両腕にも坪野さん自身の意思が戻り、男との熱烈な握手の形に変わっていた。男は萌黄色に紺色のラインの入ったネルシャツを着てジーンズを履いている。こざっぱりとしてカジュアルだったし、髭もきれいに剃られていた。
 僕の町では毎年、映画祭が催されている。東アジアからの出品作品の多い映画祭だ。真冬だったり初夏だったり開催時期はころころ変わるのだけれど、一年に一度の開催という体裁は保たれていた。
 男は牧さんといい、小樽の人で、今回は観光目的で道央の旧産炭地であるこの町を再訪したそうだ。
「それで、まず博物館に行くつもりだったのですが、場所がいまいちよくわからなくて。地図をみても、今どこにいるんだろってわからなくなって。あ、カーナビは壊れてるんです。画面が真っ暗なまんま。まあ壊れてなくてもうまくいじれないんですが。こういうの得意じゃなくてね。そんなものだから、教えてもらえませんか? 昨年と同じようなことになってまた申し訳ないんですが」
 牧さんが左手で自分の頭頂部あたりをぽんぽんと叩きながらそう言うと、坪野さんが応える。
「教えてあげるけどさ。今日は博物館だけなのかい? 他にも回りたいところがあるんじゃないの? まあ、方々で道を尋ねればいいんだけど、それも大変だろうしなあ」
 牧さんは博物館のあとにこの町名物であるカレー蕎麦を食べ、そのあとダムを見て道の駅に寄って帰りたい、とのことだった。
「なあ、喬一君。博物館からダムまではどのくらいかかるかな」
 自分の町のことでも、観光のこととなるとふだん考えないことだった。博物館だって、小学校の社会科見学以来行ったことがないのだし。
「まず、ここから博物館までが30分くらい。そこからダムへ行くとなると道を途中まで引き返してそこから左へ道を折れてしばらくかかりますし、1時間ちょっとでしょうか」
 そうだな、と坪野さんは肯く。牧さんは向かって左の眉を少しだけ上げた顔を曇らせている。
「私にわかる道だといいんですが。本来ならスマートフォンを使うべきなんでしょうが、方向音痴に加えて機械音痴でね、使い方がいまいちわからなくてどうにもならんのです」
「なに、道案内の青い看板にでてるから。あれを見落とさなければ大丈夫だよ。運転してるとでてくるでしょ」
 だよな、と坪野さんは僕に同意を求めてきて、異論はないので、そうですね、と返す。でも、牧さんの表情は晴れず、顎についた薄い肉をつまみながら、ふーん、とか、うーん、とか唸るばかり。
そんな牧さんを見つめていた坪野さんが、ふっと僕へと視線の向きを変えると、見入るようにしてくる。僕は嫌な予感がして反射的に目を逸らした。
「ガイドするか。喬一君」
 その場で感じる嫌な予感というものは、どうしてこれほどよく当たるのだろう。
「え、僕がですか。博物館に行ったのってもう三十年近く前ですよ」
「いやいや、道さえわかっていればいいんだよ」
 言いにくかったが、坪野さんこそ適任ではないですか、とまかせようとしたのだけれど、坪野さんは、自分は午後から診療所に行く予定なのでね、と牧さんに説明している。牧さんも牧さんで、希望を見出したように、それまでと打って変わって表情が晴れている。左右の眉尻も柔らかく下がっていた。
「都合さえ問題なければ、私もお願いしたいです。博物館の入館料も、昼食代も持ちますし、それに少しですけどガイド料も差し上げますから、どうでしょう、お願いできませんか?」
 半呼吸すら置かずに坪野さんも詰めてくる。
「喬一君、これから用事はあるのか」
 用事は無かったし、でっちあげられるような用事も急には思いつかなかった。なかば押し切られるようにして、僕はガイドを引き受けてしまった。

 二人にはその場で待っていてもらって、僕は身支度のために一度帰宅した。ジャージからベージュのチノパンツと薄手のグレーのパーカーに着替え、財布や携帯電話をポケットに詰め、両親にいきさつを告げて家を出る。すると不意に、もう十年以上も前になる厳しい真冬の、小便臭い地下鉄駅構内で起こったある出来事の記憶が甦ってきた。それは、二十代後半に見えた美しい女性との苦い記憶でもあった。
 二十一時を過ぎていたと思う。人がまばらなホームに仕事帰りの僕はいて、どこを見るわけでもなく、あちこち視線を移ろわせながら列車を待っていた。すると、背後で、どしん、と鈍い音がした。振り向くと、年配のサラリーマンが倒れている。右半身を地面につけ、上半身と下半身がすこし捻じれるように横たわっていた。
僕は周囲を見回した。人が倒れたよ、誰かがどうにかするんでしょ、そういう気持ちだったと思う。自分がここで応急の対処をするなんて、犯してはいけない間違いのような気さえした。何が起ころうとも、僕はその何かに一切関わらなくていいと線引きされた側の人間で、関わるのは他の誰かだと決まっているはずだ、と。
 視界の外から濃灰色のパンツスーツに同系のコートを着込んだ女性が小刻みな速い足音と共に現れて、倒れた男に歩み寄った。長い黒髪の美しい、細身の女性だった。その場からのフェードアウトを考えていた僕は迷い始めた。女性は倒れた男に声を掛けた。大丈夫ですか、聞こえますか。それから、呼吸があるか、脈があるかを確かめている。僕は女性の手助けをする気があるかのような動きだけの振る舞いをした。彼女の近くで手を出そうとしたり、同じようにしゃがんでみたり。仕草のみの、何をするべきなのかまったくわかっていない偽りの、救助行動をまねる動きだった。傍目には、おたおたとして情けなく映っただろう。そのうちさすがに気まずさを感じ始めたので、タイミングを見計らいその場を立ち去る気でいた。でも、集まってきた人たちの輪の中から自然な動きで脱け出ることが難しく、その場に居続けることになってしまった。
 彼女は現場の近くに寄ってきた大学生ぐらいの年格好の男に駅員を呼んでくるよう指示すると、倒れた男のネクタイを緩め、ワイシャツのボタンをひとつふたつ外し、縮こまるように曲がっていた脚を伸ばす。そして男にさらに呼び掛けを続けた。
 駅員が来て、それから救助隊員の人たちが来た。倒れた男は、その頃には意識を取り戻していて、はじめは気怠そうに、現在の自分の状況が飲み込めず不思議そうな目をして、ぼんやりと思案に暮れているふうな表情だった。そのうち隊員がはきはきとした口調で呼び掛けると弱々しくではあったが、答えを返していた。やがて男は担架で運ばれていったのだった。
 僕はそれよりも、美しい女性のことが気になっていた。よかったですね、あなたのおかげですね、と声に出さずに目だけで語りかけるようにして彼女に微笑みかける。すると、きつく睨み返され、こう言われた。
「何もできないのはまだしょうがないとしても、立ち去ろうとするなんてなんなのよ。あなた一番近くにいたでしょう。助けられる人がいないか呼びかけたりできなかったの」
 僕という人間の本性が見抜かれ、わかられていた。それはそうかもしれない。この、ほんの短い何分かの土壇場に、僕は本性を表に垂れ流していたのだ。それでも僕は、まだ誤魔化しが効くと思って、取り繕うべく何かを言った。彼女はかっとなって大きな声で僕を叱責した。それがどんな言葉だったのかは覚えていない。確かなことは、彼女の叱責が僕の魂を強くひっぱたいたということだった。僕は自分でもはっきりとわかるほどのぎこちない歩様で、その場から離れた。この一撃によって僕の大切な細い芯の一部分が砕けていて、ずっと遠くの乗り場までなんとか移動しても、気持ちは寄る辺なく宙に浮いたまま落ち着かず、胸が不穏な息苦しさを訴えた。どんな人間にも顔を見られたくない気分だった。到着した車両に乗り込み、空いていた座席に腰を埋めると腕組みをし、マフラーを口元が覆われるくらいまで引っ張りあげて目を閉じた。
 この時から僕は自分を本心から、駄目だ、と思うようになったし、それまでとははっきりと違う自分を見つけだすためのよすがとして、少しずつ本を読むようになっていった。この出来事が、それから続いていく自己との対話への決定機になったのだ。その対話なくして闇を突き放すこと、つまり闇の対象化は無理だったと思う。今の自分への変節、それは良い意味での変節なのだけれど、それはなかっただろう。闇の場から光の場への回帰は望めなかった。
 いや、光の場への回帰という言い方は間違いだ。光の場に回帰できているとはまだ言えないのだから。僕のいる場所は、陽だまりのこちら、暗がりのとなり。
 牧さんが笑顔で僕のほうを見て手を挙げている。相変わらず何もできはしないけれど、僕は紙一重のところで立ち去らずに前へ進んだ。その違いは嬉しかった。

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『陽だまりのこちら、暗がりのとなり』 第一話

2024-03-08 05:15:00 | 自作小説20
 晴れ渡り、空気の澄んだすばらしい朝でも、今日一日つまづくことはない、と約束されたわけではない。
 坪野老人に呼び止められて、しまった、の心の声が顔に出てしまった。振り向く自分の右頬が軽く引き攣ったのだ。たぶんまた昔のことを尋ねられてしまう。
正直に話すとややこしくなる僕の暗部を、どうやら坪野さんはその憎たらしい嗅覚で探り当てているらしかった。きまって気安く、好奇心だけでずいずいと踏み込んでくるのが坪野さんだ。僕という藪に蛇はいない、とあっさり決めつけているかのように。
完全になめられているんだよなあと思いつつも、ただそうやって安牌扱いされているがための心理的な組みやすさはあった。まず、頼み事はされない。いわゆる味噌っかす扱いなのだ。
 でも、そうではあるのだけど、坪野さんを僕はやっぱり苦手としていた。年齢はたしか七十五を超えていて、町内でも顔が利き、よく意見の通る坪野さんだからこそなお、雑な応対はできないのだから。
「おはよう、喬(きょう)一(いち)君。どこか行くところかな」
 五月の暖かな南東の風が時折強く吹き抜けていきもする中、色黒で皺だらけの細い顔をいっそうくしゃくしゃにしながら、若干僕を見上げるようにする坪野さんだった。ファイターズの野球帽を被っている。手に入れたばかりなのかもしれない。まったく型崩れしていなくて、坪田さん自身とのコントラストがずいぶん不釣り合いに感じられた。
「ウォーキングです。最近、腹回りが気になっちゃって。ダイエットしてるんですよ」
 それではまた、と挙げた片手で断りを入れ、そこから歩き去ろうと足を踏み出しかけたところだったが、坪野さんの、まあ待て待て、の手振りで制してくる勢いのほうが断然勝った。
「仕事はどうだ。順調か」
 僕は来年四〇歳になるのだが、長く続いた仕事は無く、自立しきれないその末に札幌からUターンし、今は地元の田舎町のスーパーでパート勤務をしている。二年目になったばかりだった。
「もう慣れました。まあ気になるのは、仕事の中身というよりも、最近なんだか売り物の値段が頻繁に高くなっていくことですかね。物価ってこんなに突然、まるで遠慮なしに上がっていくものなのか、って驚くというか」
「まあな。物価高は世界的な流れだからしょうがないんだよな。だけど、賃金が上がるスピードが遅いよ。そのうちちゃんと物価高に見合うくらい上がっていくだろうが、その狭間なのが今だろうな」
 しゃべる坪野さんの腕組みをする姿につられたのか、いつの間にか僕も同じように腕組みをして向かい合っている。
「賃金、上がるんでしょうか」
「欧米各国の最低賃金なんて日本よりずっと高いみたいだよ。それらの国々じゃ、上がった賃金に合わせて物価が上がっていくのが当然だからさ。日本がそういう国々と貿易で付き合うのが避けられないのは、なんていうか、この世界の在りようとして揺るぎない仕組みなんだから、日本だけその流れに乗らないでいるとどんどん差が開いていって、ますます苦しくなっていくよ。グローバル経済って、運命共同体みたいなところがあるんじゃないのかな。足並みを合わせないと、とんでもなく転落する」
 あまりそのあたりの話に明るくないので、はあとか、ふうんとか、なんとなく適当な返事をしつつ聞いていた。でも、坪野さんの話はどことなく説得力のあるものだった。日本だけ賃金を上げずにやっていくとしたら、江戸時代みたいに国を閉鎖して、自給自足するほかないのではないだろうか。それはそれで行き詰まりそうだけれど。
 このまま、帰郷したての頃そうだったみたいに、僕の個人的な領域に話が向くことなく終わればいい。深入りするより先に話を切り上げたい、と心の隅で考えていると、「ところで」と坪野さんは容赦なく、僕の触れられたくない領域の門をこつこつとノックし出したのだった。
「喬一君は札幌でどんな仕事をしてたんだっけ。アルバイトが多かったって前に言ってたが。正規の仕事もしてたんだろ」
 腹の底がかあっと熱くなった。
「ええまあ。でもすぐ辞めましたよ。残業だらけで低賃金のブラックな会社だったので」
 坪野さんは、この道路沿いに建つ一軒家の前庭に植えられている満開のムスカリや水仙なんかよりも、僕のプライベートな話こそがなにより趣深い花々であるとするかのように、僕の顔をしっかと見入る少し濡れた両目を燦然と輝かせていた。そんな張り付いてくるような目つきのまま、「そうかあ、ブラックかあ」と気の抜けた声でぽつりと言った。世界経済にはそれなりに詳しいようだけれど、ブラックな職場についての知識はあまり無いのかもしれないと思えてしまう態度だった。
「じゃあ、仕送りしてもらっていたのか」
「そうです。親から援助してもらってました」
「そうか。粕谷さん夫婦も大変だったな。そうだろ」
「そうですね。迷惑をかけたというか。そのお返しではないですけど、今じゃ家の手伝いもしてますから」
 坪野さんは小さく何度も頷くと、やっと道沿いのムスカリと水仙に気が向いたようで、丸く口を開け後ろに手を組んだ姿勢で、そちらのほうへと小さな体躯を丸めて二三歩近づいていった。
「青紫が深くていいですね」僕がムスカリを褒めると、坪野さんは、うん、と短く応えてさらに前庭へ近寄っていくので、「それじゃ、ウォーキングしてきます」とその隙に無理なく立ち去ることができた。腹の底の熱はまだ引いていなかった。
 一番聞かれたくないのが、仕事に就いていなかった時期には何をしていたのか、だ。曖昧にならば答えられはするものの、この質問をされると、ずっしりと内臓が骨にめり込んでいくみたいな気がして気持ちが悪くなる。そして、どうしても口にしたくないために無理やり省き飲み込んだ事実たちが、駄々をこねる子どものように、体内をじたばたと転げまわるのだ。

 自慢の種のように誇って他人に匂わせていた時期もあるのだから、実に恥ずかしい話なのだけれど、白状すると、深い闇というものの味を、僕は知っている。それがどんな味なのかを正直に告白したならば、それを聞いてくれる人がうっすら顔に浮かべるだろう好奇心のための微笑み、あるいは寄り添おうとしてくれる柔らかな表情の、ぬくもりある色をさあっと失くさせるに違いない。
 当時の、闇慣れした僕にとって、闇はほんとうに滋養のあるたまらない味わいだった。じゃなければ、次から次へとがつがつ貪り食うことはなかっただろう。隠さずに言うならば、そうなる。
 滋養ある旨みと共に、闇が纏う瘴気の、ぴりぴりと知性を切りつけてくる味わいもやはり知っている。肉体面の老化を促すという活性酸素よりも、おそらくずっと強い作用で存在自体を蝕んでくるのではないかという瘴気だ。
 存在自体を蝕むその瘴気とセットになった闇を食らう行為を、若い時分の僕は止められなかった。
 探せばまあ見つかるといったように、闇と括るべき物事が当時のネット世界には多く遍在していた。ネット世界を覆っている日常会話の範囲に収まる程度の薄い皮を一枚めくった、個々人の息遣いが匂い漂うような様々な場所に、ぽつんぽつんと存在していたのだ。
 思春期に特有であるたまの精神的不安定さを導火線として、放埓になった気分の赴くまま、夜な夜な、やっとのことで親に買い与えてもらえたパソコンをいじって気持ちを発火させていると、電脳世界に無造作に、そしてぬくぬくと植生する無数の闇の触手が友好的に僕の肩をたたき、それ自身の在りようや成り立ちについて、気前の良過ぎるほどやさしく教えてくれる。僕はこれを十六歳で知った。
 初めて知った闇たちは、僕を強く惹きつけた。初めて目にするこの世界の真実、とそのときの僕は闇をそう位置付けた。しかし、ほどなく僕はそれらに違和を見て取るようになる。ちょっとした事実に尾ひれがついたもの、そもそもが脅しのもの、なんでもない出来事が改変されたもの、フィクションを剽窃したらしいもの、伝言ゲームの果てのようなものなど、ディスプレイに映された闇は、いや、初めは闇だと判別していたのだけれどどうやら違ったものたち、つまり闇に擬態していたものたちは趣向に富んでいた。
 僕はそれらに「ちょっと待てよ」とひっかかってくる違和を感じとることができたのだった。水面下で操作されたそれらの卓越した心理的計算の痕跡に感づいたのだ。とてもよくできた、でもとても悪い冗談であるエンターテイメント性を、そこから感じ取らないわけにはいかなかった。眼識の芽生え、それが十七歳。
 されど、これは尾ひれをつけたものだろう、とあたりを付けたところを取っ払って読んでみると、そこから明示されていないグロテスクなほんとうの闇が、もしかすればの話だけれど、という仮定の域から出ることはないにしても、僕との望まない苛烈な接触を起こしてしまうことがあった。まるで、ふだんはどこかに隠れている、かなり苦手としている蜘蛛が、部屋の床を走り過ぎていくのを見つけてしまった時のように。唐突な会敵のようにだ。たとえば、人の形をして南極の海中を彷徨うように泳ぐ巨大な生命体の存在が全世界的に秘匿されているのだ、というリーク的な書き込みのスレッドを読んだことがあったのだけれど、実際の水死体をモチーフに広げられた病んだ空想物語だったのではないか、と推察した時がそうだった。一瞬のうちに身体をこわばらせてしまうくらいの気付きだった。そうして、僕は十八歳で胃薬を飲み始めた。
 だからといって、闇から手を引くことはしなかった。闇を食らう、すなわち闇を知る行為を続けることこそが、この世界を知る努力というもので、そうすると、自ら望んで努力しているのだから僕はおそらくストイックな性格なのだろうと信じていたふしすらある。そのようにまるっきりズレた感覚のまま、もっといくらでも、と闇を欲した。闇は脳内のドーパミンと協働し、僕を囲いこんでいったのだ。
 光りあっての闇、と言われる。言うまでもなく物理的にはそうだし、心理表現や文学表現として用いても暗示的な言葉だ。
 たとえば、僕の日常だったこの田舎の高校生活は、男子たちと女子たちとの間での自然な惹かれ合い、いわゆるお互いの戯れたさが、他愛のない善良性、といっていいようなものの上に行われていた。そこには青春らしい一直線に突っ走る不器用で凄まじいエネルギーがあり、単純明快な乾いた会話があり、一晩経てばほとんどがリセットされる屈託の無さがあった。なんというか、そういったすべては光に分類できる物事だったと思う。
 もちろん僕以外の人間、つまりクラスメートたちにも闇はあった。けれども、僕にとってみると彼らの闇は、牧歌的な範囲で済んでいる、取るに足らない程度のものだった。
 悪意のメモ紙を靴箱に仕込むなんていうちょっとした意地悪をしたり、知りもしない都会の事情をでっちあげてまで知ったかぶりをし虚栄心と優越感を満たしたり、中年男性だった担任のいないところで彼の容姿をこき下ろして強がったり。僕の周囲の彼ら彼女らは、なんていうか、闇の部分が稚拙だった。僕はそんな様子を、鼻で笑って眺めていた。無知ゆえだ、と大げさに嘆息までし、自分の闇の深さに満足した。僕の知る闇の豊潤さを知らしめてやりたかったが、高校生の僕はそれらを僕だけのものとして、たまにうっすらと匂わせる程度にとどめた。ネット世界に身を寄せる長い時間が、僕の精神性をそのような闇が深い形質へと育んでいったのだ。
 豊潤な闇を僕はむしゃむしゃと涎まみれに貪り食い続け、世界の成り立ちも真実も誰よりも知っている、と心の裡でだけ豪語し誤解する阿呆な大学生になった。なるべくしてなる者となったのだ。自分は周囲より精神年齢がずいぶん高い存在だと疑わなかったし、同年代の無邪気な言動やふるまいを耳や目にしたときなどは、それらを優越感の着火剤にした。眉を軽くしかめてみせる上っ面の顔つきの裏で、心は躍り上がっていたのだった。
 欺瞞、裏切り、嫉妬、差別、詐欺、盗み、いじめなどの成功例で満ち、自殺や、証拠を残さない他殺の方法までわかりやすく解説されているパソコン画面越しの闇が、夜の深い時分、持ち上げたチューハイの缶に今まで感じたことのないような悦びの震えを伝えた。生きていくには、闇を知らなければいけない。
また、闇は自らを教科書として、僕に処世術を仕込んだ。愚鈍な人間は操らねばならないし、利益にしなければいけない。その上でスマートに振る舞い、大きな波風は立てず、小さな波風は上手に押しとどめる。そんなやり方が正しいと確信していたのに、胃薬を止めることはできなかった。
 札幌で一人暮らしをする大学生になり、初めてバイトをすることになったコンビニで、僕は同僚の大人しそうな男子高校生の外見をいじったり言動をなじったりし始めることになる。ついにネット空間だけでは物足りなくなったのだ。実体験を積んでみることへの渇望があった。
 高校生へのいじり方は、最初はソフトにだった。
「このおにぎり、期限切れ。ちゃんと見ろっていったじゃないか。どこ見てんだ。ぼーっとすんなって。小学生以下か、おまえ」
 些細なミスをしたら大げさに怒った。
「なんでそんな二の腕のところに油染みなんてつけてんのよ。汚えな、相変わらず。ばっちいわ」
 品出しの途中、制服に小さな汚れを見つけたら、不潔の烙印を押してやった。そうやって、なじられることに慣らしていく。それから、徐々に圧力を増していく。いつの間にか、かなりの罵詈雑言を浴びせられても、大人しい高校生は耐えてしまうようになる。逃げればいいのに。かかってくるといいのに。でも、高校生はそうしない。さらには、巧く周りのバイト仲間をも巻き込んでいく。あいつの髪形おかしくないか、なんてことをこそこそやる。しまいに、大人しい高校生は四面楚歌の状態で、何の変哲の無い普段の情況から、その表情を苦痛のためにひどく歪めるようになるのだった。それが、格別なまでの、闇の滋養ある旨みの生まれた瞬間だった。
 これを知ってしまえば、ネット空間でしか知らなかった闇なんて、レトルト食品のようなものだった。こうしてリアルな手応えをもって闇を味わうのは、まるで肉汁したたる高級ステーキ肉に齧りつくようなもので、レトルト食品なんかでは味わえない極上の快感と満足感を孕んでいた。僕は次第に胃薬の必要を無くし、高校生がバイトを辞めると、自分もまたそのコンビニを去った。
 三十九歳の現在になって思うのは、実際にいじめをしてしまう前、もっと早い段階でこんな日常から転げ落ちていたら良かったのに、ということだ。闇へ見切りをつけるのが遅すぎて、色の失せた、腐ってひしゃげた世界観を無理矢理に維持し続け、本来はカラフルなはずの世の中をずいぶん長い間、つまらないモノクロの歪んだ世界として眺めることになった。
 今は悔んだりするし、過去に戻れるものならばやり直してみたくなったりする。とはいっても、長い時が過ぎ、気持ちが大きく変化したからといって、僕自身がきれいさっぱりリセットされたということはない。なにせ、過去は修正できないのだから。時の柱に刻まれてしまったことなのだし、そういった過去を起因として出来上がった結果が、動かしようのない現在なのだから。落ちない汚れをつけたまま、徒労感を覚えながら、それでも悔んだり、償いを考えたりすることを止められない。全力で光の世界の端っこにしがみつこうとするためには、そうする他ないのだ。

 ムスカリの花の色の青紫は痣の色に近い。だなんていう方向へと真っ先に考えが流れ込んでいくのが、繰り返し闇を味わった者の後遺症だ。こういう癖のようなものは、おそらく一生ついて回るのだろう。
 そんな腐った雑念が湧いてくるのを打ち捨てるように、速足でウォーキングを続けた。一度、頭の中を空っぽにしたい。
 住宅地を抜けた。この町を南北に貫く、全体として胡瓜のように細長く弧を描く幹線道路沿いの歩道に出る。ときおり顔に受ける五月の風は乾いて柔らかく、本来は爽やかで心地よいものに違いなかったのだけれど、濃緑色のウインドブレーカーに包まれた白のTシャツが汗で肌にひっつき始めて不快だった。スマホで時間を確認する。自宅を出てからまだ三十分しか経っていない。ウォーキングをするときは、たっぷり一時間以上は歩く決まりにしていた。
 午前九時半を回った今でも、往来する車の数はいつもどおりの少なさ。過疎の度合いはどんどん増している。僕が子供の時分は、幹線道路である国道沿いに酒屋や洋服店、ラーメン屋に小さなファンシーショップまで、個人商店がきちんと商売を営むことができていた。それがシャッター通りとなり、少しずつ建物も壊されていき、ほとんど何も残ることがなかった。道路補修工事のときには若干拡幅され、整った歩道が寂しくつくられた。そこを今、歩いている。
道端に伸び始めたばかりのまだ丈の短い草むらにも、白や黄の水仙が無数に花弁を持ち上げていた。とくに見るでもなく眺めながら進んでいき、やがて工業団地のほうへ伸びる道へと交差点を左に折れた。
 道端の草むらに黒い塊があるのが目にとまる。このウォーキングコースはいつも通る道なのだけれど、今まで気付きもしなかったのに今朝は目を引く、ある物体があったのだ。体を屈めてその塊に顔を近づけると、それが石炭の塊であることが分かった。大きさはゴルフボールぐらいで、光沢がある。旧産炭地の町であっても、この時代に石炭が落ちているなんて珍しい。僕はその石炭を拾い上げ、ウインドブレーカーのポケットにしまった。
 それからいつもながらの速足で、ぽつぽつとまばらに並び立つ工場群に挟まれた道の歩道を往く。すると、後ろから追い越していった黒の軽自動車が、すぐ前方でハザードランプを焚いて脇に停車した。あの車は、間柴瑤子(ようこ)のものだ。彼女とは中学と高校がいっしょで、高校二年と三年のとき、クラスメートだった。歩く速度を緩めて、ちょうど開きだした助手席側の窓に近づく。「おはよ」と運転席から少しこちらへ身を乗り出す瑤子だった。
「仕事かい?」
 実家の板金屋で事務仕事をしている瑤子だから、今はたぶん外勤中なのだろう。
「うん、そうそう。銀行へ行くところ。喬一はウォーキング中だね。今日はこっちの道にいるような気がしたのよね。休みなんだ?」
 影になった車内でも、瑤子のさっぱりと短い髪は明るかった。耳には銀色の、メビウスの輪のようにねじれたピアスをしている。 
「そう、たいてい月曜日は休みのシフトだね。歩かないとほら、運動不足になるし、腹も出てくるし」
「運動不足か。耳が痛いわ。私ら、もうアラフォーだものね。私もなにか考えないとだけど。それにしても、平日に休めるのってうらやましいな」
 瑤子は目元に皺を作って微笑んでいる。
「こっちは土日に休みたいことだってあるよ」
「それって、競馬?」
「競馬もあるけれど」
 立ち止まったために額に滲み出した汗が、眉の上に落ちてくるのを指で拭った。ぬめぬめする汗だった。
「ねえ、喬一。あのさ。喬一ってもしかしてあれでしょ、なんていったっけ。ああ、あれあれ。ピーターパン・シンドローム」
 目元に皺を作った瑤子の両目からこちらへ投げかけられた光が無遠慮なものだった。僕の整理しきれていない闇へ容赦なく射し込まれていく。光の痛みに掻き乱され、視界が一瞬ぶれ、言葉を失くした。そんな僕の取り乱した様子から目を逸らして、瑤子は声のトーンを落として続ける。
「違う? だって、喬一って職歴あんまりないじゃん。それって、そういうことなんじゃないの」
 なんて短絡的かつ無配慮な言い分だろう! 降ってわいた屈辱に耐え、沸きあがる怒りをやっとのことで抑え、ひねくりだすようにして言った。
「そりゃ、たしかにあんまり働いてこなかったけどさ、ピーターパン・シンドロームだなんて、それは勝手な決めつけだわ。そんなんじゃない」
 でも、瑤子は唇を尖らせて、引き下がらなかった。
「じゃあ、なんでずっと働かないできたの? 理由は何よ」
 五月の蝦夷(えぞ)春(はる)蝉(ぜみ)たちの、自らの生を切実に訴えかけるような合唱が、僕らの背景音として途切れることなく響き渡っていて、そのけたたましさと僕のこの揺さぶられた気持ちとの波長が、急激に同調しつつあった。
 人間不信だった。自己との対話の時期だった。その対話なくして、今の自分への変節、つまりは闇の場からの脱却、それはなかったのだ。だけれど、そんなことをここで瑤子にどのように説明しろというのだ。
「難しいんだ、説明するのが。働いてなかったなりにいろいろあったんだよ。特別に考えたいこと、特別に勉強したいことがあったってことだよ。ずっと大人になれなかったわけじゃない」
 口ではそう言いはした。もちろん、ピーターパン・シンドロームだなんて、僕は否定する。しかし、理不尽にラベルを貼られたことに対する怒りとは別に、胸の裡で揺れているものもあった。
「特別に勉強したいことかあ。いや、いいんだけど、別にね、喬一の生き方は喬一の生き方なんだし。わたしがどうこう言うものでもないから」
 だったら不躾なことを言うなよ、と心の裡で呟いて、歯噛みした。おそらく瑤子は、自分の率直さが、どれだけ相手に対して効果を生んでいるのかの見積りが出来ていない、あるいは最初からそんな計算をする気を持っていない。
 この数分でなんだか僕はずいぶん消耗してしまった。感情の高ぶりや乱れを抑えこみながら、一心に平静を装ってはいたが、抑えきれず少しずつ外へ漏れ出していたものがあったと思う。さすがの瑤子も僕の様子から、潮時だ、と感じ取ったらしい。
「ごめんごめん。ウォーキングしてたんだったね。今度さ、六月に入ったらうちの家の畑で苺がとれるから、持ってくわ」
「うん。ありがとう。楽しみだよ」
 自分の声に張りがなかった。瑤子は車を発進させた。
 遠くの電線に止まった小鳥たちが鳴き合っている。小刻みに上げ下げする複雑なメロディをその小さな喉で奏であっていた。それは鋭い音色でもあった。どちらがより複雑に鳴くことができるか、競いあっているかのようだ。
 せいぜいやってろよ、と思う。もう僕は誰とも張り合いたくない。

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