Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

『ぼくの好きなコロッケ。』

2019-03-31 21:35:12 | 読書。
読書。
『ぼくの好きなコロッケ。』 糸井重里
を読んだ。

ほぼ日でおなじみの糸井重里さんによる
「小さいことば」シリーズ2013年版です。
このシリーズは大好きで、
でもしばらく読んでいなかったですが、
ようやくAmazonダンボールから出てまいりましたので、
読んだのでした。

いつもどおり、小さいことばがよく響いてきます。
納得したり、それ自分も考えていた!というのがあったり
(そのタネは2013年のこれだったりする可能性はありますが)。
穏やかに、平静に頭を使えばの言葉たちです。

本書の真ん中くらいに、
コロッケへのこだわりと熱情とたぶん愛もたっぷりのエッセイがあるんですが、
いやあ好い文章でした。
ここのところだけ額にいれて飾っておきたいくらい。
そこまで手を伸ばすか、ってくらい伸びのびと、
隅っこや裏側や暗がりにまで言葉が届いていました。
中身の豊かなエッセイの見本ですね。
食べもののエッセイっていうと、
昔読んだ開高健さんのものがありましたが、
熱気的には近いものがあったかもしれません。

また、俺もちょっと不幸になってみたい、
っていう願望ってもってる、みたいなところがありました。
不幸の経験が自分を引きたてるんじゃないかと思うこと、ですよね。
他の人とは違った角度から照明をあびるみたいな。
自分をちょっとドラマチックにする期待が不幸を求める。
でもですね、
本当の不幸というか困難って、都合のいいものではないから実に厄介です。
そこはちょっと、うんうんと同意するには自分はズレてるなあ。

最後の方ではおまじないをみつけてしまいました。
これはとっても使えそうです。
「じぶんなりのせいいっぱい」を「やってみようか」と自分に言ってれたら、
少なくとも、自分は取り戻せると思う、と述べているところです。
これはなんとなく頭でイメージしてみたらしっくりきました。
僕は接客業ですけれど、一対一とか一対一家族くらいだとすんなり接客できるんです。
そのくらいの規模だったら、比較的うまく喋れます。
ただ、30名の高校生を相手にガイドを、だとかになると、
途端にわけがわからなくなり、うまくやれたとしても杓子定規になってしまう。
そこで、この、
「じぶんなりのせいいっぱい」をこころがけたら、
なんだかうまくいきそうな気がしました。
30人だとかのみんなの心象を気にしちゃうからなんだろうなあ。
100人だとかいたらも無理ですからね。
でも、「じぶんなりのせいいっぱい」でいいなら、
なんとかなりそうな気配がある。
このあたりの話は、大勢の客さんを前にしたときの「楽しめ」と
自分に言ってやるという矢沢永吉さんの話につながっていきますが、
僕の場合は、「楽しめ」よりも、
「じぶんなりのせいいっぱい」を考えた方がわかりやすいみたいです。

そんなこんなで、
今回も善き哉~。
小さいことばシリーズは、さらなる抜粋バージョンもありますので、
そちらからお試しになってもよいかもしれないです。
おもしろかった。


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『小説王』

2019-03-29 00:00:19 | 読書。
読書。
『小説王』 早見和真
を読んだ。

つい最近、文庫化され、四月からはドラマ化される作品。
僕は単行本で読みました。
友人にすすめられて買ってから、3年くらい積読だったようです。

売れない小説家・吉田豊隆と、
編集者・小柳俊太郎の二人を中心にした、
アツい文芸活劇です。
僕自身がアマチュアであったとしても小説を書くためなのか、
いや、本好きならば誰でもそうなのかもしれないですが、
時間を忘れて食い入るように読んでしまった作品でした。
文芸に対して直球勝負してます。

小説読んだときに感じる、ヒリつき。
そういったものが大事なところなのだと、
本作品では随所で言われている。
たしかに、読んでみても作品が遠い感じのものもあるし、
一向に仲良くなれないように感じるものもあります。
でもそれは読み手の読み方が浅すぎるためなんじゃないかと
僕なんかは考えていた節はあるんです、
近年になって読解力が鍛えられてきたためか、
どんなものでも売りものならいちおう楽しく読めるので。

かたや、自分の書いたものにヒリつく感じはあるだろうか。
これは僕の作風というか、性格というか、
怒りで書かないせいか、柔らかいものを好んでしまう。
でも、それが面白くて、読み手をひきつけるものならば問題ない。
それが、読み難く、得るものもなく、
すべて文章としてさらされているから質が悪いと評価されるのかもしれない。
評価されるように書くならば、迎合っていったらおかしいけれど、
過去の受賞作を調べたり、自分から寄せていく行為って必要なのかなあと思案しました。

閑話休題。
序盤から憎たらしかったり、食えないなと感じたりする、
付き合いたくないようなキャラたちが、
だんだん面白みのあるキャラに感じられていく。
そういった濃厚なキャラ作りは僕も見習いたいですね。
みんな、ひと癖ありながら、それがスパイスになっているのか、
人間らしいんですよ。
そして、そんな人間くさいキャラクターたちが本当にアツくて、
ここに著者がどのくらいの距離感で本作に向き合っていたのか、
とても興味が湧いてきました。

きっとね、この物語を真に受けて――いい意味でですが――奮起したり、
自分の夢を決めたりする人もいそうです。
そうやってみて、ストレートにうまくいかなくても
ドタバタした人生を送るのって、案外おもしろいというか、
その苦さが人生の醍醐味のひとつでもあります。
いろいろな作家たちが、
いろいろな渾身のパンチみたいな作品を世の中に投げ込みますが、
本作品もそのなかのひとつ。
よい読書時間を過ごせるでしょうし、
その余韻が、読者の背中を押すこともあるだろうと思いました。

著者 : 早見和真
小学館
発売日 : 2016-05-10

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掌編『平成』

2019-03-28 18:00:21 | 自作小説8

 <平成>が終わります、と告げる祝日の朝。
 テレビのニュース番組を眺めている。
 <平成>のおよそ三十年間を振り返ったイメージは、至極、ぼんやりしたものだったな、と僕は思い、食事の席でそう口にした。
 幸子はそれを聞くと、いやいや、<平成>は災害や事件が多かったし、海外でも戦争やテロが悲惨だったでしょ、と苺ジャムを塗ったトーストをかじりながら僕の言葉をあらためる。
 そうか、と思う。
 僕も幸子も、今年で四十歳の同い年。僕らは思春期と、そして青年期とを<平成>の時代にすっぽり包まれて生きてきた。幸子の言うとおり、社会では数えきれないくらいの陰惨な事件が起こってきたし、僕らはたまたま被災することをまぬがれはしたけれど、大震災と呼ばれる大災害は二度も発生した。そういった横綱級のニュース見出しになる大きなものごととは別ものの日常生活レベルでは、しょぼくれていく経済とありふれたものになっていく人々の孤独とを両軸にして、この期間、社会は回ってきたように感じる。
 みんな必死に、そんな回る社会の球体上を激走する自動車を運転して、ハンドルをとられてコースアウトしたり、妙なものを踏んでパンクしたりなどしてリタイアしないように注意深く目を凝らし、絶えず手足を動かしながら、その道の上、頭上の満天の星すらほとんど見上げずに百万キロを超えてぐるぐると走り続けてきた。
 言うなれば、<平成>は耐久レースだったのかもしれない。
 幸子に、それらの考えをかいつまんで伝えると、でも、と濁す。そして、彼女はいつもの大きなハートマートがプリントされたマグカップを口に運び、ブラックのコーヒーを啜った。
 「終わっていくものにあまり興味はないのよ、私には」
 それは余韻をともなって、しばらくの間、僕らの回りを漂った。コーヒーの香ばしい匂いとともに。
 テレビではニュースが終わり、はつらつとした笑顔の女優が画面いっぱいに映し出された朝ドラを放送しはじめた。テレビの脇には、昨夜二人で借りてきたばかりの旧作映画のDVD五枚が入った袋が置かれていて、僕は指さした。
 「そういえば、DVDやブルーレイって<平成>に生まれた大発明のひとつだよね。ビデオテープにくらべて画質も音質も大幅によくなった。<平成>は終わっていくけれど、<平成>に生まれたものは今後も続いていく」
 「そうね。今回借りてきたDVDの中身のほうは<平成>より昔に作られた古いものばかりだけれど」
 「技術は続いていくんだ。脈々と引き継がれていく。<平成>時代に生まれた技術は未来の礎になっていくんだよ」
 幸子がこちらを見ながら黙っているので僕はさらに続ける。
 「そう気付いてみると、終わっていく<平成>の文字とその空気感に対してだけは、やっぱり僕としてはぼんやりしたものとして感じられるな。<平成>という時代、その名前だけがこれからも続いていくことなく、ここで終わりだもんね。実体としてはなにも終わっていくことはないのに、一区切りだもの」
 「それはそうよ。時代の象徴として精一杯勤めてこられた天皇が退位なさるんだからね。大きな一区切りでしょう」
 テーブルに置かれた幸子のスマホが、ブブブブ、と震えたが、彼女はまるでなにも気付いていないかのようにトーストをかじり、横目で朝ドラを眺め続けている。
 ああ、そうだったか、と思いあたる。それは、インターネットも<平成>の技術だったってことにだ。厳密には、<平成>に生まれた技術ではなくて<平成>に一般へと普及した技術、そして、数多の技術と同じように、<平成>が終わってもなお未来へ続いていく技術。
 スマホやパソコンの画面に向かってするインターネット。ウェブのブラウズや、もしくやゲームやSNSなどのインターネットに拠ったサービスの享受。それらの時間、僕らは画面を見てただぼんやりしてはいないだろうか、とぼんやりした頭に浮かんだ。
 「幸子、インターネットもだ、<平成>の技術」
 「そうだったわね。インターネットなんてふつうすぎて、そうだとは気付かなかった」
 「ねえねえ。インターネットに時間を使っているときって、みんなぼんやりしてると思わない? たいした収穫もないことに時間ばかりどんどん吸い込まれていく感じ」
 「わたしは小学生のとき、テレビゲームをしてて親によくそういわれたものよ。でも、ぼんやりしてるというより、夢中になってるんじゃない? 」
 「うん、そうだね。夢中になっている時間もある。でも、ぼんやりしてると言っていい種類の時間もちゃんとあって、それってけっこうなものだろ?その時間の長さよ……」と僕は過去に流れ去ったかなりの量の個人的なぼんやりとした時間に思いを馳せた。
 ぼんやりした時間を過ごすことは、幸せなんだろうか? 僕はどうなのだろう、幸子はどうなのだろう。
 SNSで見ず知らずの人たちも含めたいろいろな人たちとやりとりをすること。やりとりをしなくても、その文章を読むこと。結局、人は人を求めている。プライバシーをお互いに大事にしたいから、できるだけ無関心でいようと孤独を深めてきた現代の僕らは、でも、そのプライバシーをできるだけ保ったまま、他人と関心をもって結びつきたい矛盾のような欲求を抱えている。
 どうしてぼんやりするのを好むのか。いや、好んでいるわけではなくて、関心をもちたいのに、戸惑いや躊躇によるどっちつかずさが、みんなをぼんやりさせるのかもしれない。
 ただ、プラットフォームという名のネットの奥底で、個人のプライバシーがどんどん露わにされ、収集されていくことを、僕らは実感しない。想像が及ばないのだろうとも思うし、もはや、あまり考えたくもない。
 テレビでは朝ドラが終わり、出演者たちがざっくばらんに話をするバラエティショーへと番組は変わっていった。幸子が二杯目のコーヒーを空になったカップへ注ぎにキッチンへと立ち、ほどなくして居間のテーブルに戻ってきた。
 僕と幸子が知り合ったのはインターネット。ご覧のように、今じゃ狭いアパートの一室で同棲している。近いうちに結婚するかもしれない。そんな予感はある。
 SNSで、カポーティの『草の竪琴』について長文で熱い内容を語っていたのが幸子だった。コミュニケーションの本質をこの作品は教えてくれます、と。
 それを読んだときの僕の嬉しさったらない。わかるかな。僕もカポーティが、そして『草の竪琴』が特に好きだったからだ。会ってみてわかったのだけれど、幸子は意外とクールでシニカルなものの見方をする女性だった。そして、どこか疲れて見えた。
 そんな幸子の目に僕はどう映ったか。カポーティが好きだというわりに、話をしてみれば教養は浅いし読書量は少なくて幻滅しただろう。
 でも、なぜか気があった。お互いに淋しかったからなのかな、と振り返ればそんな気がしてくる。
 なにも、<平成>が終わっても続いていくのは技術だけじゃない。僕らの生活だって続いていく。積み重ねられていく。頼りなげではあっても、僕と幸子だってたぶん、いっしょに未来へと続いていくのだ。
 終わっていくものにあまり興味はないのよ、とさっき幸子は言った。
 ちゃんと整理がすんでから終わっていくもの、整理がすまないまま終わっていくものの二種類があると思う。整理がまだなのに終わってしまって、その土台にまた築かれるものもある。足場は心もとないはずだ。それは心の中も、現実の中のたとえば建物だって同じなんじゃないだろうか。そして、続いていくことも。
 幸子はいつしか、足の爪をパチンパチンと切っていた。ちょっとうつむいたときの幸子の顔は僕のお気にいりのひとつだ。伏せた目もすてきだ。ねえ、幸子、と声をかける。
 「今夜はワインでも開けようか? あとでいっしょに買いに行かない? 」
 「どうして? 」
 「この際、いっしょに<平成>をできるだけきれいにたたんでみることにしようよ。飲みながらさ。悪くないと思うよ」
 「いやよ」と幸子はつれない。顔をあげることなく、そのまま足の爪にやすりをかけはじめた。
 「そう言わずに。ね、サービスするから、たんまりと」昔の時代劇にでてくる商人みたいにもみ手すると、
 「なんのサービスよ」と幸子は笑い、わかったわ、と了承してくれた。
  今日は一日中快晴のようだし、窓から月を眺めながら飲めもできそうだ。あ、新月じゃなきゃいいけど、と最近まったく月を気にしたことがなかったことに気付いた。そりゃそうか、僕だって満天の星空さえ見上げない<平成>の民の一人だもの。
 
幸子が洗い物を始めたので、僕は洗濯機を回した。そうやって、いつもの休日が幕を開ける。いったん手を止めた幸子が、小さなオーディオデッキにCDをセットして音楽を流し始めた。それはテイラー・スウィフトの『1989』だった。幸子にとっても、急に湧いてでた今夜の予定がまんざらでもないのかもしれないな、と僕は思った。
 
 【了】
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小説掲載予告

2019-03-28 13:08:04 | days
本日、
夕方以降に原稿用紙10枚ほどの掌編をアップします。

これは、
先日、「アイスムスマイル文学賞」に応募したもので、
テーマは「平成」でした。

しかしながら落選し、
このままこの掌編を闇に葬り去るよりか、
どなたかの目に触れることを望んでの公開となります。

テーマに対して、
ど真ん中の直球を放りました。
球威で勝負、と。
結果、すこーんと打たれてしまいました……。

そんな作品ではありますが、
すぐに読み終えられるものですので、
よろしければ、読んでみてください。

それでは、また後ほど更新いたします。
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登別温泉へ。

2019-03-27 12:04:41 | days
今回は、珍しく旅日記です。

24日、25日の日・月曜日で、
登別温泉に行ってきました。
温泉好きの従兄に誘われて、なのでした。

去年9月の大きな地震の後、
北海道の観光被害を抑えるために、
国が「復興割」という割引サービスを行いましたよね。
今回、僕らがいった温泉も、その復興割の対象で、
従兄がめざとくそのクーポンを手に入れ、
すぐさま使用したのです。
二人で9000円の割引。

まあでも、
この時期って僕は働いていないこともあり、
まったくお金がなく、従兄に借りました……。
もうこの時期って、ここ何年かそんな感じのふところ具合でして。

いつも家で母の介護補助・家事をしていますから、
一泊旅行でも大丈夫かなあと心配していました。
親父は、わかったいってきていい、と言いましたが、
それでも、父と母の二人だけで家に残すのには不安はあります。
スーパーなんかにもなかなかいけないだろうから、
出発の前日に日・月分の食べものを買ってストックして、
なんとでもなるようにはしましたが、
あとは母の加減が落ち着いていてほしいと願うばかり。
場合によっちゃ、修羅場になりますから、いろいろな意味で。
しかし、帰宅したところ、とりあえずは大丈夫なほうだったかな。

出発は午前10時。
一時間かけて、まずは従兄の家に向かいます。
そこから、従兄の運転で、
高速道路を使わずに千歳、苫小牧、白老、そして登別へという道程。
従兄の家につくまでは吹雪いてしまっていて、道路にも雪が残ったまま。
苫小牧から先は雪が少ない地域なのですが、
それでもその痕跡が残っているくらい、よく降ったみたいです。

苫小牧では、大王という店で初めての苫小牧名物カレーラーメンを。
僕の想像では、ラーメンスープのふつうのラーメンの上に、
カレールーがかかっているものでしたが、
実際は、カレーうどんやカレーそばのように、スープがすべてカレールーでした。
そこにチャーシューやねぎがのっかっている。
けっこう腹にたまる感じでしたし、おいしかったです。

続いて白老では、「Maiko's Bake」というタルトを主軸とした洋菓子店で、
アップルパイを持ちかえり購入し、そこではソフトクリームを食べました。
パイは夜中にホテルで食べましたが、これもおいしかった。

そして、登別に着く。



部屋で競馬中継を見て、二人でうなだれながら湯を浴びに。
大浴場は、中央に女性三人の像を囲んだ食塩湯、
周縁にぬるめの硫黄湯や鉄湯があります。
すぐにのぼせるタチの僕は、ぬるめの硫黄湯でまったりと。
それでも、湯を出るとふらつきましたから、危ないです。
食事はバイキングで、
花畑牧場のラクレットチーズをその場でかけてくれる
野菜やウインナーの小皿がよかったです。2つ食べた。
ビーフシチューも好みの味で、おかわりしましたが、
ラクレットチーズ同様、腹にたまります。
デザートにライチなどのフルーツを食べて部屋に着いたら、
おなかが苦しくてしょうがないくらいで、
食べ過ぎ感100%。
それでも、その30分後には室蘭へ向かいました。
目的はボウリングです。

ホテルからだいたい40分くらいで室蘭ディノスボウルに到着。
従兄がディノスのカードを忘れたので、
「いつもは札幌で投げていて」などと説明するも、
新規でカードをつくることに。
ただ、そこでそういう話をしていたため、
閉店の頃には、そこのレーンなどを管理しているようなスタッフさんが、
僕らと話をしにきました。
なんやかや、室蘭のボウリング事情などを聴き、
その場を後に。
12ゲームほど投げたので、それなりに汗をかいたし、筋肉も使ったし、
ホテルの部屋に戻ってほどなく、再度、湯につかりに。

汗を流して、
部屋に戻ってからなぜかテレビでパスタの特別番組を午前2時半までみる。
その間、従兄はスマホのオンライン麻雀で盛大に飛んでました。
就寝!と電気を消してから吐き気に襲われ、
寝付くまで時間がかかりましたが、重大なものでもなく、
翌朝7時に起きて8時にはご飯を食べに行き、
またひとっ風呂浴びに。

チェックアウトし、
若狭いも本店と、魚卵人という店に寄り、
苫小牧でパチンコして、牛丼食べて帰宅。

もうね、日ごろストレスで身体に影響が出てますから、
そのリフレッシュとしてのねらいがありました。
ただ、やっぱり家に帰って二日たつと、またどんよりとしてくるので、
なかなか抜けない疲れとストレスだなと思います。
一泊旅行をするのも、たぶん6年ぶりなんですけど、
日帰りでどこかへ行くぶんにも親父には嫌味を言われたりするので、
今回もなにか言われるかなと思っていたらとりあえずはなんともなかった。
それも、今夜、親父が飲み会だからなんだろうなあと推察されるわけではありますが。

いやー、でも、
たまにこういういたれりつくせりのサービスを受けるのはいいですね。
次は6年後とはいわず、またどこかでまったりしたいものです。
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『自分で調べる技術』

2019-03-19 23:57:17 | 読書。
読書。
『自分で調べる技術』 宮内泰介
を読んだ。

サブタイトルに、
「市民のための調査入門」とあります。

自分たちで自分たちの社会を作っていくことが、
いつからできなくなっているだろうか、
との著者の問いからはじまります。

社会は複雑になり、
決めなければいけない事が一人ひとりではカバーできないくらい
多岐にわたるようになり、
それにともなって、
それぞれの分野にくわしい専門家というポストがつくられ、
彼らが決定を下すシステムになってきた。
ゆえに、現代において社会を作っているのは、
見ようによっては断絶された一人ひとりの専門家の決定である。
それを、少しでも市民の手に取り戻したどうだろう、と
著者は言うんですね。
自分で自分の社会をつくる、
そういった自律性を取り戻すことって、
実は大事なんじゃないかということです。
僕個人の考えとしても、
生活から他律性をできるだけ除くことで、
幸福感は増すものだとしているので、
著者のこちらの考えにも納得はいくところはあります。

本書の入門書としての性質は、
小学六年生くらいから参考にできそうな水準だと思います。
第二章の文献などにあたることについての解説などは、
本当に分かりやすく、そして簡単でした。
しかしながら、本書はちょっと古いので(2004年刊)、
インターネットやパソコンのソフトを使うところでは、
もはや時代遅れになっている部分はあると思います、
スマホなんて文字すら出てきませんし。
それでも、調査するノウハウとしての基本姿勢として
踏まえておける基礎であることはたしかでした。

そうなんですよね、
本書は、基本中の基本を扱う種類の入門書で、
ぜんぜん難しくありません。
ときに練習問題が出てきて、
それを愚直におこなうと面倒ではあるでしょうけど(僕はやらなかった)、
すんなり読めるし、
第三章のフィールドワークのあたりからは、
ぐっと本筋に入ったような気がして面白かったです。
フィールドワークまでいくかいかないかが、
調査しているかしていないかの分かれ目と言えるくらいのところだと思います。
そこのところを解説してくれるのは、
非常にありがたくもあり、
でも実際に、個人としてなにか調べたいと思ってフィールドワークをするのは、
変わった人だと思われそうで腰が重くなります。
僕は小説を書くので、
そのために調べものをする必要って今後もでてきますけど、
なかなかフィールドワークまでは……となってしまう。
そこが勝負の分かれ目なのかなと思ったりもしました。

文献調査をして、フィールドワークをして、まとめて。
そういったサイクルを延々と続けていくうちに、
調査目的のものが、だんだんくっきりしてくるそうです。
一連のそういった連環作業が、
調査目的のひとつの答えを磨きあげます。

また、そういった調査行動と、それらを概念かする思考も、
往ったり来たりを繰り返すものなんです、と説かれていました。
その往復運動も際限がないようなもので、
まるで人生だなあと思うのでした。

あとは、一次情報と二次情報の解説で、
情報というものについてもやっとしていた部分がはっきりしました。
一次情報は、その情報の近いところのものであり、
たとえばお店の経営についてならば、帳簿そのものが一次情報だし、
その帳簿を管理している店主からの話も
一次情報にかなり近いところにあると考えられます。
いっぽうで、二次情報は、その店主から他店の経営についての情報だったり、
噂だったり、ほんとうのところから遠い情報のことを言う。
それらが、インタビューのなかでは混然としているのだけれども、
しっかり仕分けして情報の正確さを見極めるのが大事なんですね。
さらにいえば、インタビューのなかでも、
誘導的な質問をして無理やりしゃべらせた情報の精度はどうだろう、だとか、
こちらの予備知識の無さのために、
浅い情報しか引き出せなかっただとかもあって、
なかなか深いよなあと思うところでした。

こちらがちょっとでもその情報の知識を知っていてそれを話し手に問いかけると、
話し手も話し手で、「おぉ、このひとはちょっと知ってるな」と思って、
話に熱がはいりがちなのが人情。
そうやって知り得た情報がよい質の高い情報のことも珍しくないようです。

市民調査の団体の、
その調査が真っ当で有益であるならば、
たとえばトヨタ財団や日本財団など、それぞれの調査内容にかなえば
助成も得られるようなんですよね。
本気で取り組むなら、そこまで視野に入れてもいいですよねえ。


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『細野晴臣 とまっていた時計がまたうごきはじめた』

2019-03-17 20:05:13 | 読書。
読書。
『細野晴臣 とまっていた時計がまたうごきはじめた』 細野晴臣 聞き手:鈴木惣一朗
を読んだ。

はっぴいえんどやYMOのメンバーだった
ミュージシャン細野晴臣さんと、
同じくミュージシャンの鈴木惣一郎さんとの対談集です。

東日本の震災後である2012年の夏から、
はっぴいえんどのメンバーで、
数多くの名曲を残した御大・大瀧詠一さんのご逝去の年、
2014年の夏までの期間に行われた9度の対話を収録。
その肩の凝らない雑談トークでは、
ユーモアのある冗談やお笑い話から音楽論までいろいろテーマが変わりつつ、
でも、震災後の放射能に関する不安がずっと
うっすらつきまとっている感覚があります。
それでも、人生は絶望するより楽しむものだ、とのモットーがあるようで、
本書で交わされるオフビートのトークは楽しいです。

細野さんは揚げ物が好きだという話では、
食べるとうれしくてうめき声がでるといいます。
それも、高い声の裏声で。
よっぽどお好きなんでしょう。

また、はっぴいえんどのメンバーみんなでうどん屋へいって、
やくざに絡まれた話。
シェケナベイベといえばの内田裕也さんとの関係など、
興味が惹かれ、その興味を満足させてくれる話が、
ゆったりまったりと語られる感じなんです。

本職の音楽の話になると、深い話というか、
当たり前ですが、素人の僕にしてみればまったくしらないような
洋楽の名前がたくさん飛びだしますし、
その説明の言葉がまたいいです。
細野さんのアルバムを聴いても、
けっこうこれがマニアックな種類のものだと思うんですよ。
YMOやはっぴいえんどは聴きやすいですが。
その土壌の豊かさの片りんを、
本書の雑談対話からも感じることができると思います。

YMOやはっぴいえんどをかじったことのある音楽ファンなら、
読んでみて損はないでしょう。
なにより、おもしろいです。

本書は三部作の二作目にあたり、
予定通りならば、三作目が今年に発刊になるようです。
楽しみですね。

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『ジョッキー』

2019-03-14 01:03:17 | 読書。
読書。
『ジョッキー』 松樹剛史
を読んだ。

2002年に刊行された、
第十四回小説すばる新人賞受賞作。
競馬モノです。

主人公・中島八弥はあまり騎乗依頼のないフリーの騎手。
そんな彼を中心とした競馬世界の日常にみることができるのが、
その勝負の世界であるがゆえの様々な人間模様と馬模様。
いつも金銭面で苦悩する八弥がはたしてどう生き抜いていくか。
読了して、この小説世界にでてきたキャラ達と別れるのが
名残惜しく感じられる、おもしろいエンタメ作品でした。

小説を書くのには、出だしが難しいと言われます。
新人賞ですし、そのあたり、少々難があるように感じました。
さらに、しばらくは「読みがたい…」と感じるところも続く。
(そのあたりは自分の書くものとの比較です。
自分のまずい文章と似ているところがあって、
それは直した方がよいように思うものです)
でも、読んでいくうちにずんずん文章がこなれていきますし、
巧みな部分もうまく活きてくるようになり、
存分に物語世界に没入できるようになりました。
もっと言えば、競馬の世界への知見が、
これを書いた当時23、4歳の若者にしては、
尋常じゃないくらいの広さと深みがあり、
そういったものに支えられて、
執筆が弾んでいるように感じられもしますし、
なかなか他人が真似しようと思ってもできない
その調査力、取材力が察せられます。
新人賞を勝ちえたのは、それらの勝利ですね。

知見に支えられたイマジネーションの深さによって、
読者をぐいぐい引き入れていく文章にどんどんなっていきます。
ただ、いくぶん、女性のキャラクターの造形が薄っぺらい。
主人公の後輩騎手なんて、面白みがあり、
でも、憎たらしいところもありながら、
それでも愛すべきキャラクターに仕立ててあるという旨さがありますが、
女性キャラは単調でうわべ的です。
終盤にかけて、若干厚みがでてきますが、
それでも、造形はもうちょっと足りないと思う。

ま、そういった部分があるにせよ、
騎手のテクニックについての描写など、
ふつうは書けないところにも踏み込んでいるし、
どんどん盛り上がっても行きますし、
エンタメとしてよかったなあという感想です。

競馬小説を読むのは、
もしかすると若い頃に読んだ、
宮本輝さんの『優駿』以来。
あの小説はあの小説ですごくおもしろいのですが、
この『ジョッキー』も良さのあるおもしろい小説でした。


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痛みへと続く笑い。

2019-03-12 23:25:11 | 考えの切れ端
ツイッターのTLに、
バラエティ番組でよく行われているのは、
「いじる・いじられる」などの考え方で笑いをとる、
人の尊厳を無視したやりかたで、
その影響を受けて現実世界でも、
「いじる・いじられる」が行われているというような
一連のツイートがありました。
僕は一時期、ほとんどテレビを見なかったですが、
徐々に目当てのアイドルなんかを見るために
バラエティ番組を見始めたら、
違和感と苦痛を感じたのを覚えています。
それはきっと、このためなんです。

だから、好きなアイドルさんのバラエティ馴れに、
淋しい思いをするのってあるんですよ。
それは、素人っぽさがなくなったからっていう理由とは
ちょっと違うのです。
バラエティのあり方は、
「精神的なじゃれあい」としては一方的だし、
人としての大事なところから離れていく「プレー」
という感じがするからなんです。
(芸人さんたちなんか、もっときびしい、
胃が痛くなるいじりをされてますよね)

バラエティ慣れに淋しい思いをするその理由としては、
その人が持っていた
「人としての弱くて繊細だけど美しい部分」
がなくなっていくからっていうのがひとつの理由になるか。
仕事をうまくこなしたい、
もっとうまくなりたい、
売れたい、
と思ってした選択に伴う代償だ。

「代償の伴わない選択はない」
とリンダ・グラットンも書いてたもんね。
この場合の選択っていうのは、
ごはんにしようかパンにしようかみたいなものとは違うと思いますけども。

また、どうしてああいう「いじる・いじられる」の
バラエティ番組が生まれるかというと、
まず先行して学級だとか会社だとかに
意識していない状態で存在した関係のありかたがあったかもしれない、
それが、今日まで幅を利かせていないにしても。
そのことへの恐怖心・不安の裏返しとして今日市民権をもたらしたのだと思う。

不毛な予防接種みたいなものかな?
いまや、そういう「いじる・いじられる」が
ごくふつうのものとして社会に蔓延しています。
まさに社会儀礼のひとつであるかのように。
いじるか、いじられるかしない人って天然記念物だね、
みたいな目で見る人もいます。

こういうのも「社会性」としてみる向きがありますから、
そこを感じとって、
「社会ってなんなんだ!?」って
疑問や怒りや憤りをもつ若い人が一定数でてくるもんです。

そして、いつしか、そんな社会で生きるために、
仮面を被ったりするんですよ。
仮面と分かる人は分かるもので、
分かる人同士では仮面を脱いで話をしたり、という。
そういうのが老獪さに結びついて、
人によっては、姿を見せないレジスタンスみたいになる場合もあるでしょうね。

さて、あなたは、
いじる派? いじられる派? そんなものゴメンだ!派? のどれですか?
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『世界の廃墟』

2019-03-11 20:20:23 | 読書。
読書。
『世界の廃墟』 佐藤健寿
を読んだ。

世界に存在するその界隈では有名な廃墟のなかから
26の廃墟の写真を紹介文でおくる写真集。

序文のタイトルに、
廃墟とは、
「忘却された過去と、廃棄された未来の狭間」とあり、
うまいことを言うもんだなあ、と大きく肯いたのでした。

僕の住んでいる街も、廃墟ファンの人たちが、
その廃れた街並みを楽しみにして訪れたりするんですよ。
ネットにも、「こんなに廃墟になってるよ!」
っていう写真がアップされているページがあります。
そういうのを見ると、
どうも、馬鹿にされているような気がしてくるんですよ。
廃墟になるような失敗をした街だ、
と嘲笑されているような気がしてくるし、
僕のイメージだと、
廃墟ファンって、
とにかく廃墟を通して人間を嘲笑したいんじゃないか、
っていうのがあります。
だから、僕にはそのケはないぞ、と。
でも、小説のイメージやネタとして発火材料になるかもしれないから、
読んでみようかな、という動機で買ったんですが。

それで、本書を眺めてみる。
「忘却された過去と、廃棄された未来の狭間」
なんて形容をするくらいのことはあって、
その写真たちから、廃墟を眺めることでの、
馬鹿にする感じがないのです。
廃墟に対する自分たちの優位の感覚を持とうする気配がない。
これこそ、ほんとうの廃墟ファンの視座だ。

軍艦島とあだ名される、端島であっても、
ヒトラーが一平卒のころに療養した有名なサナトリウムであっても、
地下で石炭が燃えているせいで有毒ガスなどが生じ廃墟になった街であっても、
写真の捉え方が、それらへ、
深い思索対象としての興味を持ってこそのものとなっている。
(ちなみに、僕の街でも、
石炭が何十年前から鎮火せずに煙を漂わせている土地があります)

というように、
先入観としてあった、廃墟に対する、
浅薄な人間が好むものだといったイメージが、
本書によって、
深い洞察と思索が試される現場なのだ、
というものへと刷新されることでしょう。

そして、そう捉えることができてこそ、
創作のインスパイアになる可能性がでてきます。
なかなかおもしろかったです。

しかし、あの、
今日は東日本大震災から8年の3月11日でした。
そんな日には、ふさわしくない本のイメージをもたらすかな、
と読み終えて、感想を書き終えて思うところでもあるんですが、
さきほども書いたように、
深い洞察と思索の必要性を読み手に知らせるような本でしたので、
悲劇を考える上でまずいことはないと思い、
本日のうちに更新することにしましたので、
悪く思わないでくださいまし。


著者 :
飛鳥新社
発売日 : 2015-01-31
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