Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

『かもめ食堂』

2022-02-28 22:05:47 | 読書。
読書。
『かもめ食堂』 群ようこ
を読んだ。

フィンランドでおにぎりをだす食堂をはじめたサチエと、そこで共に働くことになったミドリとマサコ、そして常連になる日本びいきの学生・トンミくんをまじえた、ささやかであたたかな物語。

サチエが宣伝もせずにひとり、飛び込みではじめた「かもめ食堂」。おにぎりはさっぱり売れないのだけれど、コーヒーやシナモンロール、パンや軽食は少しずつ注文されるようになっていく。その日々がおおらかな文体でゆったりやわらかく進められていきます。「文学」なんて硬さはありません。「小説」といったようなてらいもありません。なんのひけらかしも、頭のよいところをみせるような技巧もありません。ともすれば、そここそが本作品の心地よさを作りだしている手法となっているのかもしれません。そうなんです、読んでいて、言葉の柔らかさも表現やストーリーの柔らかさも、とても心地よいのでした。

おにぎりをマサコが食べるシーンでは、周りのフィンランド人たちが興味と好奇心から口々におにぎりについて言葉にするさまが可笑しい。
「黒い紙よ」
「白に黒のコントラストの食べ物って、見たことあるかい」
「御飯の積み木みたい」
「あれが、このメニューにあるおにぎりなのか」P169

こういう物語が多くの人に受け入れられることについて、みんな疲れているからじゃないだろうか、なんてことが思い浮かびはするのです。けれども、この物語の味わいこそがおいしく握られたおにぎりのようなんだと気付くと、色合いが違って見えてきます。地味だし素朴なのだけれど、食べるとおいしくて力が出てくる。この物語もそういった味わいがあります。そして、鮭やおかかといった中身の具のようなアクセントも、随所で物語の盛り上がりとしてあるのでした。

また、すこしだけ効いた塩味めいた箇所もでてきます。たとえば、ひとりで店をはじめたばかりの子どものように見えてしまうサチエの様子を外からうかがうフィンランドの人のセリフ。
「児童虐待じゃないだろうね。元気に楽しくするしかないって、あきらめているんじゃないだろうね」P6

上記のセリフを含めて、日常の温度感でさりげなく、「そういうものだからなあ、仕方ないんだよ」としての感覚で、世の中・人の世知辛さが描けているところがあるのが本作品を手にして思わぬところではありましたがよかったところです。ミドリにしてもマサコにしても、そういった境遇・環境にあってフィンランドへやってきています。彼女たちの背景としてあるものは、女性であることでの不利益でもありました。

世知辛さだけではなく、どうしようもできないような割り切れない状況や環境に運命によって身を置かれてしまう大変さも、登場人物の過去つまりその人物の今に至る要因・背景として、さらりと書かれているのもよいところなんです。ある意味、恨みや憎しみで書くよりか、さらりと書かれたほうがほんとうですから。それがおにぎりの塩味めいていました。

といったような、素朴な豊かさを宿した作品です。手にする方は、コワモテで読んではいけませんよ。


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『読む力 最新スキル大全』

2022-02-22 20:42:28 | 読書。
読書。
『読む力 最新スキル大全』 佐々木俊尚
を読んだ。

ツイッターでの毎朝のニュースキュレーションでもおなじみのジャーナリスト・佐々木俊尚さんによる情報の扱い方や仕事術の紹介本であり指南書です。著者自身がおこなっているネットメディアやSNS、書籍などからの情報の取り入れ方や整理の仕方、活用の仕方からはじまり、最適な仕事術の方法で締めくくられています。さまざまなノウハウが開陳されるばかりか、丁寧かつシンプルに解説されている良書でした。わかりやすいこと、この上ないです。

最重要と思われるテーマは、「知肉」です。情報を摂取して得た知識・視点から概念をつかみ、たくさんの概念から世界観をつかむ。そして世界観から掴んでいくのが、自分なりの「知肉」なのでした。自分のものにした「知」という意味になります。

ネットメディアには、浅く広く世の出来事を取り扱うものと、深く狭く取り扱うものがある。また、中立的か右や左に偏りがあるか、などの違いもある。このあたり、弁別がビシッと効いているのは、「さすがジャーナリスト」です。僕を含めて一般的な人は、「このメディアは過激な言葉を使うなあ」だとか、「あのメディアは政権がなにやっても常に批判してるなあ」だとか、尖りすぎて感じられる部分には比較的しっかりとその傾向を認識しはしますが、その他についてはあんまり考えないでぼんやりと各メディアの記事を読んでいたりするだけなのではないでしょうか? 本書を読んでいると、あまりにぼんやりとニュースに接していると、世の中がまったくクリアに見えてこないばかりか、自分自身が偏った見方に染まってしまう危険性に気付くことになりました。今後は気をつけて、できるだけ客観性を増した視座でさまざまなニュースに接していきたいです。

メディアの持つ傾向を弁別するばかりでなく、著者はSNSの性質も看破しそれらを仕訳できていて、実際に使い分けをしているそうです。ツイッターは情報収集用、のように。

SNSの章ではエコチェンバーについても述べられていました。引用すると <エコーチェンバーは「残響室」という意味で、同じような信念や考え方を持つ人々が閉鎖的な場所に集まると、お互いに「そうだ!そのとおりだ!」と言い続けて、ひとつの信念ばかりがどんどん増幅されてしまうことをたとえている> つまり、考えや思想がエスカレートしていったり、ある意味では洗脳のように、その考えに取り憑かれてそれ以外の考えには見向きもできなくなってしまう。これはひとつの認知の歪みとも考えられると思うのです。認知の歪みには不安から逃げ続けるなどの行為が関係するといいますが、「そうだ!そのとおりだ!」というのは一種の不安からの解放で、その不安の解消の仕方は、もしかすると不安から逃げたり避けたりすることと似たような心理体験なのかもしれません。僕にはそんな気がします。

そして、書籍の扱い方については、その読み方も含めて紙幅が多く割かれていました。著者は電子書籍派で、ほとんどはキンドルやタブレットなどで読んでらっしゃるようで、本書でも電子書籍をつよく勧めています。僕のほうは目が疲れやすいし、それこそ目で感じる紙のページの質感のようなものも好きだし、要するに紙の本派なので、このあたりは反発する気でがんばって読みました。ひとつ言うならば、それこそネットニュースの記事にあったんですが、電子書籍だと読解力が上がらないだったか発揮しにくいだったか、そのような内容のものを目にしたことがあります。電子書籍を読んだことはありませんが、パソコンなりスマホなりで文字を読むよりも、紙に印字されている文字を読んだほうが、中身が頭にじわっと浸みわたるように読める感覚はあります。ですから、読解力に差が出るっていうのはあるのかもしれないなあと思うところでした(真偽はわかりません)。

本の読み方のほうについては、その「知肉」までのもっていきかたは、僕の今のやり方と似ていました。僕はこうやって記事化することで、要点のまとめや感想、印象に残った自分にとって大切な箇所などをインプットしたかたちでネットに保存します。自分の言葉でまとめたことですから、あとで読みなおしても、そのときの思考の道はたどりやすく、その本から得た最低限のエッセンスを取り戻しやすいです。取り戻すというか、頭の奥から呼び起こす、に近いでしょうか。そうやってはっきり呼び起こす必要のあるものもあれば、読書体験自体が(つまり著者の論理展開のしかたや発想などといったものが)自分に変化を及ぼしているものもあります。読書の面白いところのひとつはこういうところなのでした。
本書では、「知肉」までの過程を客観的に言葉にしていて、ノウハウとしてはこれ以上ないくらいでした。著者がここで書いたことをまず踏まえて、10冊なり20冊なり、楽しみながらやってみたならば習慣のきっかけになるだろうし、それが続いていくと自分の知力にとってけっこう大きなことになることは、著者ならずとも、僕も受け合います。難しい本や相性の悪い本なんかは、「読むのが大変だー」となかなか先のページまで進まなかったりしますが、そういう過程だって楽しんでしまうんです。急がなくていいですから。そうしているうちに、読める範囲が広がるし、読める深度だって高くなります。

最後の章、仕事術に関しては「マルチタスクワーキング」と名付けた、仕事を小さく分けて(重い仕事と軽い仕事にも分けて)少しずつこなしてく方法が述べられていました。これについても、僕のように介護しながらちょこちょこ何かをこなしたい人にもそれなりにフィットするやり方だなあと思いました。実際、こういう感じで原稿書いたり本を読んだりなどしてますから。ただ、ここまで意識的には考えていなかったところを意識化してアウトプットして共有財のようにしてくれたところが良いですよね。

また、後半では無意識はすごいんだ、っていう部分があります。アイデアの出し方や、それこそ無意識下に知識と知識を掛け合わせて新たな知識を生みだして意識にのぼらせるなどをやってるんだっていう話です。無意識を有効につかう手段についても述べられていますが、僕はこれにもうひとつ、ぼうっとする時間や頭を真っ白にする時間も大事だと言っておきたいです。

著者の佐々木俊尚さんには、ツイッターで彼のツイートに引用RTなどを返したときにRTしていただいたことがたびたびあります。その時々の僕の考え方を正面から取り上げてくれたようでうれしかったですねえ。取りあげてくれたということは読んでいただけたということで、なにがしか、僕の知が彼の「知肉」に影響を与えていたのならば、このネット時代で共有・シェアの時代でこそのある種のコラボレーションのように感じます。今回本書を読んでも最後のところで、僕が何度も書いてきた「自律や他律の話」と言い換えてもいいような話題でしめくくられていましたし、もしかすると、佐々木さんが目にするほんとうに数多くの情報源のうちのひとつに、僕のブログかツイッターかが数えられていることがあるのかもしれないなあ、なんて空想してしまいました。僕が考えを公開で書くのは自分のためにやってることでもあるし、ギバー(与える者)としてやってることでもあるし、誰かのなかで育ってほしいという願いもあります。それでも、なんでもかんでも書いてしまうと創作のネタに困ることになるので少しは我慢しないといけないのではないか、という方向にも傾いてはきているのですが。

さて、良書だったので、おもしろかったで締めたいところではありますが、最後にひとつ(余計なことを?)書いておくことがあります。

「人をけなしたりするマウンティング」はいけないと主張するところが出てきてその論調はもっともなのだけれども、他の部分を読んでいてけなされた気持ちになってしまう箇所が少しでてきたんです。

「これ、けなしてるじゃない??」と思ったところは、たとえばこのふたつ。「一方的な視点だけで物事を判断し、『俯瞰して見ると』、と偉そうなことを言ってる人がいるが」「未読の紙の本を積み上げておいて悦に入る積ん読などという言葉があるが、そんなもの単なる自己満足でしかない」

とくに後者はそれこそ一方的な視点だけで判断されているふしすらあります。僕はかなり積ん読するほうなので、刺激されてしまいました。たとえば「積ん読が増えた」と言っても、僕にしてみれば、雪が積もった、くらいの事実を述べているのとあまり変わりなく、時には喜びもするけれどそれだって、雪が積もって遊べるぞ、と喜ぶのとさして変わりがないのですよ。

マウンティングって、それだけ根深い心理というものというか…………ですよね。自覚がないような意識の薄いところでやってしまったり、それこそなんでもないと思ってやってることが受け手によってマウンティングにされたり。扱いが難しくてセンシティブ。

そういうところにひっかかりましたが、本自体の本筋はすごくおもしろい。ちょっとした瑕疵にめくじらを立てたみたいに見られかねませんが、「攻撃性を否定しつつも攻撃しているじゃないですか」的な感覚があって言葉にしてみました。友だちに「そこ、おかしいじゃないの」と指摘するようなノリです。

(気持ちを隠したりソフトに表現したりしないといけないという文筆業の難しいところなんでしょうか。隠して論調に筋を通すのと、隠さないで矛盾があらわになるままなのと、どっちが誠実といえるものなのでしょうか……。人間っていう存在はいくつもの矛盾を頭にも心にも抱えているものなのだけれども。まあ、本っていうものとは距離感があるし、こういうことが出てきてもあんまり気にするものではないと思ってたいていは流してしまうのですが、そういう見て見ぬふりのベールを脱ぐときが気まぐれに生じたりするのでした。)


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『宇多田ヒカルの言葉』

2022-02-17 22:39:02 | 読書。
読書。
『宇多田ヒカルの言葉』 宇多田ヒカル
を読んだ。

ミュージシャン・宇多田ヒカルさんが20周年をむかえた2017年12月に発刊された全75編の日本語詞を執筆順に収録した本です。

宇多田ヒカルさんの音楽史をじっくりと、そして客観的に眺めていくと、三期に分かつことができることに気付くと思います。本書はそういった分かち方をして、合い間で二度区切りながら全日本語歌詞を掲載していく体裁です。

まず一期は14歳で書いた最初の歌詞からはじまり、1stアルバム『First Love』と2ndアルバム『Distance』までの1998-2001の期間。この時期の歌詞は、10代で書いたものにしても、未熟であるとか稚拙であるとかという言葉を安易にぶつけてしまうならばそれはまるで歌詞を読んでいないことと同義になると思います。自分の脚でしっかりと立ちながら、少女が己の生命まるごとから生みだしているのが彼女の歌詞だからです。少なくはない淋しさや悲しみや怒りや苦しみを感じながら、日々を、きっと力の出ない日などもありながら、しかと生きる道を踏みしめながら生きてきたからこそ書ける言葉たちでしょう。彼女のデビュー当時から僕は彼女の音楽に親しんできましたが、こうやって書籍というかたちでサウンドやメロディーそして声から切り離された形で彼女の歌詞作品にあらためて触れてみると、そうハッとして気付くことになりました。

無限の葛藤と格闘しながら(それはたぶん今だって続いているのでしょう)培われていく強さ。その強さが確かな客観性をももたらしているのではないか、そう判断したくなるような彼女の歌詞にあるプロフェッショナル性。ちゃんと作品として世に見せる・聞かせる体裁をわかっている出来映えなんです。主観が強くて客観が弱ければ、内容だとか印象のバランスが悪くなったりすると思うんです。それにこれは歌詞というジャンルで、さらにどうやらメロディが先の書き方の歌詞だということですから、字数の制限があるなかで作らないといけない。構築していったり整えたりする客観性がしっかりしていないとできない仕事ではないでしょうか。

この時期の歌詞に、僕はひりひりと乾いた感覚を覚えます。そして、芯はあるけれど細い言葉たちだという印象。それはそれでとても美しいのです。でも、そんな歌詞から立ち現われてくる心象なり心理なりが受け手へと瞬間的にずどんと伝わる。乾いた端正な文章だけで終わらず、そういったものが出現するのです。これは、書き手の魂(ハート)が燃えているからだろうし、そうであるからこそ芸術を仕事に出来るのでしょう。

そして、こうしてメロディーや歌声と分離して言葉だけを味わったがためにわかることがありました。宇多田ヒカルさんの声のすごさです。彼女の声でこの言葉たちが発せられると、情感も表現も、その奥深さや謎なんていうものも、100倍くらい複雑かつ豊かになっていることに気付けました。神秘的だと言いたいくらい、不可思議だと首をひねりたいくらいの彼女の声の素晴らしい力なんです。もともと歌声が好きでしたが、より立体的に彼女の歌声というものを理解できたような気がします。

長くなりました。さて、では二期へ。二期は3rdアルバム『DEEP RIVER』、4thアルバム『ULTRA BLUE』、5thアルバム『HEART STATION』の2001-2008の時期です。この時期は、歌詞に作家性が強くなっています。よりフィクショナルで、技巧で築き上げていく歌詞。一期の、身体性に基づくひりひりしたものがちょっと影をひそめている作品がちらほらでてきている感じがします。実験的なやり方を試すなどして、自分の書き手としての力量を拡大していたのかもしれません。「traveling」だとか「光」だとかが大ヒットして、コアなファンが増えた時期でもあるのではないでしょうか。

続いて三期。BESTアルバム『SINGLE COLLECTION VOL.2』、6thアルバム『Fantome』、シングル「Forevermore」、「大空で抱きしめて」、「あなた」の2010-2017の時期です。BEST版のあと彼女は一旦表立ったミュージシャン活動を休止しました。そしてその後、再開します。この時期は一期の、感性的な書き方に回帰しながら、その深度は高くなっているし語彙力も技術も高まっていて、ひとりの表現者として結実した時期であると見てもよいのではないでしょうか。結実しながら、今後、変化したり発展したり進化したりするでしょうが、ひとつの「宇多田ヒカル」というタイプの成熟形となった時期だと僕は考えます。この時期の歌では「真夏の通り雨」が僕のなかではもっとも心を捉えられて、当時から聞くたびにざわざわがおさまらないくらいです。ずっとリピートし続けていたいのですがそれがはばかれるような気もして、消費しつくさないように(消費しつくされない強度のある曲ですけども)大切に聞きつづけています。今回、歌詞だけ読んでも、「ああ、すごいな」と感じ入りました。この時期は、お母様のこともあって、そういった事情を考えながら読むと、また一段と歌詞の理解に近づける気がしました(誤解してしまってるかもしれないですが)。

というようにですね、宇多田ヒカルさんは闘ってこられた方であって、そうした過程で磨きがかかっている。必死に生きてきたら表現者として磨きがかかっていた、というところはしっかりあると思います。もともと容姿がきれいな方ですけど、顔つきもどんどん美しくなっていきますよね。あまりに美しいから、前にNHKの『SONGS』に出演されたときには忘れず録画をし、録画終了後、即効でメディアに保存しました。いつでも見直せます。

それはいいとして。本書は20周年のささやかな記録でありながらも、あらためて宇多田ヒカルという表現者をみなおす、あるいは再発見するための役割すらもっています。彼女の歌が好きだったなあ、好きだった頃があってその頃を思い出すなあ、という方にとっても、正面から向き合って彼女の表現を受けとめようとするならば、とても価値ある読書時間となり得ます。僕にはとてもよい時間でした。……いろいろ聞き直そうかなあ。

エムオン・エンタテインメント
発売日 : 2017-12-09

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『掏摸』

2022-02-16 23:04:03 | 読書。
読書。
『掏摸』 中村文則
を呼んだ。

2010年に大江健三郎賞を受賞した作品。『掏摸』は「スリ」と読みます。財布などを気付かれないうちに抜き取る犯罪やその犯罪者のことを言うのはみなさん御承知のことだと思います。

掏摸である主人公が、裏社会の核からの風に触れてしまうがために陥る運命。そして、運命とはなんなのかを問うような場面があり、悪役である木崎が語る悪の哲学的な世界観に触れる場面がありなど、思弁的部分がありながらも読者を飽きさせず、どんどん読ませていく、力のある作品でした。エンタメの技巧をうまく取り入れた純文学というべきでしょうか。

面白い。こんな質感の犯罪小説は読んだことがありません。一枚めくると透明な水を湛えた灰色の世界が静かに湿って存在しているような。こん棒を握る相手と対峙している緊張感、というと言い過ぎかもしれないけれど、対決中ゆえの目の離せなさに似た読み応えがあります。

とはいえ、社会の境界を越えた反社会的な内容の物語です。よく、作者はそんな境界を飛び越えた意識で書いたなと思う。ちょっと、俗人には飛び越えられない境界線を越えてしまっているような感じがします。境界線を飛び越える躊躇を、本作の中身からすこしも感じさせないところに力量があるのでしょうが、かといって著者にそういう躊躇がまるでなかったかといえば、そうではないでしょう。反社会性に足を踏み入れている精神的な疲弊や恐怖を乗り越えながら書きあげているとみたほうが、ほんとうなのだと思います。

この作品世界の怖いところは二点。まずは、悪役の木崎という男のキャラクターが圧倒的な悪であることにありました。社会とはルールでできあがっている世界ですが、反社会の世界となると、そのルールが怪しい。約束は守られたり破られたりする。理不尽な世界で、命だって軽い。木崎は言います。「歴史上何百億人という人間が死んでいる。お前はその中の一人になるだけだ。すべては遊びだよ。人生を深刻に考えるな。」と。

この言い分は、まるでそれが突飛なことだと言いきれるものではないがために、奇妙な説得力を持っているかのように感じます。なぜなら、商売の世界において、いや現在の経済ありきの資本主義至上主義の世界のビジネスにおいて、そのビジネスのやりようって見ようによっては「利害関係のゲーム」をしている、それもときに人生を賭けてやっているように見えるからです。人を大事にするよりもお金を稼ぐことが優先という性格が強く、その頭脳戦であるマネーゲームはルールをうまくかいくぐりもしながら儲けを得ていこうとしていく。そこに、「すべては遊びだよ。」が重なるのです。

木崎が言っている「遊び」は、経済だけに限らず、政治や権力など、もっと広範な「この世界の支配」について。実際にそういう裏社会であれやこれやが繰り広げられているかどうか、それはもう陰謀論レベルなのだと思うのですが、本作品での犯罪のディテールにある現実感と冷酷さが、それを絵空事だと簡単に読者に判断させず、巧みに物語のなかへと引き込んでいきます。もう見事なんです。このディテールが二つ目の怖さですね。掏摸である主人公のテクニックや思考などの本物感が、実は怖いんです。そして、それでいて常軌を逸していない範囲です。現実の地平のなかで行われている。本書を読み進め読了できるかは、これらの怖さに耐えられてこそです。しかしながら、本書を読んでこそ持ち帰ることができる宝物はあるのです。

あとがきで著者が書いていますが、これはひどい運命を生きる個人による抵抗の物語なのでした。本作品に描かれる犯罪そのものにというのではなく、主人公の行動や意志にたいして共鳴するもののある読者は一定数いそうです。そして、その共鳴を起こしている部分っていうは、現実において、善き社会を考えて構築していく上で、とても大切になる部分と重なるのではと思いました。

中村文則作品は二冊目で、前に読んだ『銃』も面白かったんですが、この『掏摸』にはもうやられたっていうくらい面白かったです。また著者の作品を手に取ろうと思います。


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『「超常現象」を本気で科学する』

2022-02-07 22:48:43 | 読書。
読書。
『「超常現象」を本気で科学する』 石川幹人
を読んだ。

タイトルのとおり、本書では超常現象を本気で科学的に考えていきます。幽霊から始まり、超能力へと移っていきますが、とっかえひっかえするようにトピックを渡り歩くのではなくて、幽霊現象をしっかり考え抜いたうえでそこからの繋がりとして超能力現象へ移り(19世紀末にあらわれた心霊研究の流れを汲むものが20世紀アメリカの超能力研究でした)、そこで得た知見をもちいて再び幽霊現象と超能力現象を眺めるとそこに通低している原理と推測されるものがわかっていく。

本書は「超常現象」と呼ばれるものを科学的に見ていくだけにとどまりません。まず、「幽霊はいるのか」ではなく「幽霊はなんの役に立つか」という実用性の視点から見ていきます。つまり、従来の超常現象観を発展的に捉えなおしているのです。「幽霊はなんの役に立つか」と考えていくことは、超常現象にまとわりつく迷信や無益な不安、恐怖の感覚をはぎとって、現象そのもののエッセンス・本質に近づくことになります。ここまでが本書の中身の半分です。残りの半分は、議論の旅の果てにたどりついた場所で知る「なんの役に立つのか」の解答を論じていくような中身になっています。そこがとてもエキサイティングでした。

交感神経(意識)と副交感神経(無意識)は、お互いに抑制し合いながら、どちらかが優位なときにはどちらかが不活性状態になるというかたちでバランスがとられています。覚醒状態、睡眠状態、夢見状態が知られますが、神経科学等の研究者たちは「第四の精神性」と呼ばれる交感神経系(意識)と副交感神経系(無意識)が両方とも活性化した状態があることを指摘し、超心理学の研究者たちは透視などの超能力現象が「第四の精神性」のときに生じやすいことを主張しているそうです(超心理学とは厳密な科学的手法に則ったやりかたで透視やテレパシーを研究する学問領域です)。

そういったところから考えていくと、どうやら「無意識」が幽霊も超能力も、そしてシンクロニシティやセレンディピティをも生じさせているようだ、とわかっていく。そして、最後に辿り着くのは創造性です。クリエイティブな能力は、どうやら無意識が担当している。そして、社会性つまり社会のいろいろな面を知ること、言い換えれば現実世界そのものの在り様を意識上でしっかり理解していることを前提として、優れたアイデアが無意識からどうやら生まれるのだ、という結論に至っていく。もう「超常現象」を科学する本だとだけ思いながら読んでいましたが、びっくりするような飛躍をしました。裏テーマが「クリエイティブ論」ですから。とはいいながら、そういった展開をしてくれたほうが僕にとってはありがたい読書でした。すごく興味のある分野でしたから。

さて、ここまでで一気に本書の中身を貫いた形になりました。最後におもしろかったトピックをひとつ紹介します。人付き合いにおいてまめに連絡をとったりなど関係を維持し続けることには、気苦労が多くなったりして短期的にみれば損だけれども、長期的にみれば自分の助けになる、という見方がされていました。人生をギャンブルとして見る人の考え方にのっかって論じた話のなかでです。このあたり、乱数や確率の話でもあって僕なんかには身を持ってよくわかる話でおもしろかったです。それに、近頃ではよく、人とのつながりは大事だよなあと思うようになって、これは背中を押してくれる考え方なのでした。

と、そんなところですが、新書タイプの本ですし200ページくらいなのでさくさく読めること請け合いです。超常現象と創造性のどちらにも興味がある方ならば、とても好い読書時間になると思います。また、「無意識」を知りたい人にとってはかなりよく知ることができる入門編でもあると思います。おすすめです。


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『保健所の「コロナ戦記」 TOKYO 2020-2021』

2022-02-04 22:27:25 | 読書。
読書。
『保健所の「コロナ戦記」 TOKYO 2020-2021』 関なおみ
を読んだ。

保健所と東京都庁の感染症対策部門の課長としてCOVID-19(新型コロナ)への対策に立ち向かい、第一線で指揮を執り続けた公衆衛生医師による記録。

第1波などの感染者数のボリュームがあがった時期をひとつの章とし、3月・4月・5月など月単位を節としてすすんでいきます。とはいえ、そういったまとまりには縛られない箇所は多く、その節ではじめて持ちあがった制度やHER-SYS(コロナ陽性者のデータ管理システム)などのシステムが、その後どういった経路をたどっていったか、などがある程度のまとまりとして一挙に記述されていたりします。なので、あれもこれもと目白押しのように様々な改善や問題が押し寄せてくる中、そのどれもを覚えながらその都度また浮上してきたときに「ああ、あれだったか!」と淡い記憶のなかから引っ張り出さなくてもついていける作りになっています。

それでも複雑といえば複雑に感じる部分はあるのですが、それだけ都庁や保健所での本来の現実の状況が、支離滅裂に近いほどキャパをはるかに越えた極限にあり、追体験的な形式で書いたならばその大変さは伝わるかもしれないですが、脱落してしまう読者がでてくるので、こういった、ある程度まとまった単位の連なりといった体裁になったのかもしれません。

さて。保健所は第1波からもう大変なんです。今振り返ると、第1波の感染者数はそれほどでもなかったような気がしてくるのですが、新型コロナとの出合い頭の時期ですから、まったく楽ではない。新型コロナはそれまでに類のない感染力と症状の強さがあり、何よりどういうウイルスかまるでよくわかっていない。そんな新型コロナへの対応は、前例にならうというよりも(3密回避などはペストの時代が参考になるものではありましたが)、そして同時進行なので他国のやり方を参考にするというよりも、自らでやり方を創造していかないといけなかった。現場担当のやりくりの仕方、それはマスコミ対応に現場を指揮すべき者がとられてしまうなどといった非効率な有り方を変更してもらう働きかけなんかもあるのですが、そういった適材適所的に対応する態勢作りから始まります。しかしながら、他の部署との兼ね合いから改善できなくて苦しい思いをし続ける仕事もしばらく残り続けたりする。なかでも、日勤後の深夜、救急隊からの電話への対応などでの消耗は痛々しい。

また、パンクするほど忙しい、都庁の感染症対策部署や保健所では、その人員で処理できる仕事量をはるかに超える仕事が舞い込むわけです。暴力的な仕事量、とも書かれています。職員のなかにはメンタル不調におちいる者も珍しくないくらいだったそう。そこで、医療の人材派遣会社から看護師が派遣されてくる。そういった医療での民間の余剰戦力みたいなものがあるなんて、知らなかったです。ワクチン接種の時も、引退したり退職したりした看護師さんが一時的に復帰してやってくれているのか、と思っていましたが、人材派遣会社があったなんて。でも、平時だったら、職に定着できない看護師さんだったりするのだろうか。一般職の人材派遣のように、社会に世知辛さを感じていた人たちだったのかなぁと思いもしました。

ホテル療養者になる人や自宅療養者になる人への対応の箇所など、さまざまなケースがあります。枕が変わると眠れないからという人や、閉所恐怖症でホテルの部屋に入れないという人など、読んでみると現実を思い起こして「そういう人はいるだろうな」と思い当たりもするのです。でも、そういう人たちに出くわしてみるまでは想像がつかないケースだと思うんですよ。職員たちは、そういった人たちとも話を重ねて解決策や妥協案を導き出してちゃんと療養かつ隔離の方向へもっていく。

今回の読書で大雑把にですが、これはほんとうに自分が考えたこともなかった新しい知見だなぁと、ちょっと恥ずかしいのですが気付かされた点があります。それは日本という国のなかに住む人々の層は、なかなかに複雑だということです。極端なところだと、予防策を取らず、アクティブに行動する層があり、そういった層は感染しやすい。また真逆に、予防策を順守する、まず感染しない層がある。具体的には、高齢者の介護施設の層があるし、夜の歓楽街の出入りが激しい人たちやそこで働いている人たちの層があり、反社会的勢力の層があり、そういった層とは無縁の層がある。第○波ごとに、感染のはじまりや広がりに特徴的な層があったみたいです。第1波はセレブだとか、海外を飛び回っているだとかで、第5波はオールエントリーみたいになってきていた。社会って複雑な人流があって、それぞれ棲み分けているのか、っていうイメージは今回もしかするとはじめてはっきりと意識することになりました。

それと、感染症法について、コロナ陽性になったとき、過去14日間の足跡の報告を怠ったり虚偽の報告をした場合、30万円の罰金が科せられ(暴行罪と同じ金額)、入院中に脱走したら50万円の罰金が科せられる(傷害罪と同じ金額)ことは初めて知りました。

現在、第6波が最大の流行をしていますよね。保健所の職員は大丈夫なのだろうか、と本書を読んだ後だと背筋がぞくぞくしてきます。東京都では1日に2万人くらいの陽性者が出て、都民の100人に1人が自宅療養者になっている計算になるとどこかの記事で読みました。これ、対応しきれないのではないかと。非常にまずい状況なのは間違いなく……。

アメリカなんかは、コロナへの対応を緩和しているという話をツイッターで聞いたものですが、これって「コロナにはお手上げ」対応しただけなんじゃないか、と。日本の場合、それをやると、医療も保健所もパンクしてしまう。

いろいろと嫌な想像をしてしまいます。一生コロナに罹らないでいるのは不可能だとWHOの誰かが発言したようですが、弱毒化して風邪くらいになればまだいいです。現在主流のオミクロン株は従来より弱毒化したなどと当初言われましたが、ツイッターを眺めている感じではそんな生易しいものではないみたいで、症状が出るとインフルエンザよりもずっとつらくて特に高齢者や基礎疾患のある人にとっては命の危険があることには変わらないようです。とはいえ、情報もさまざまなものが流れていて、どれを信用しようかよくわからなくもなる(まだまだコロナの正体はわかっていないから錯綜します)。そして陽性者が膨大なので、それだけ分母が大きくなると重症者や死者も増えてきます。医療のひっ迫も相当なものです。

緊急事態宣言や生活面での規制でみんな「もういい加減、いやになってきたな」と飽きあきしてきた今、もしかすると最大に危ないのではないか。このまま集団免疫まで突っ走って一度おさまったとして、またインターバルをおいてから同じような流行が繰り返されたりしないのだろうか(何度も陽性になる人がいますから、そう考えることもできます)。

というように、気持ちが暗がりへ転がっていきそうになるところで、もうやめておきます。こういった厳しい状況でも、人のために粉骨砕身はたらいてくれた人たちの記録、つまり本書から、どんなときでもくじけない強い気持ちを人間は持ち得ることを思い起こしながら。


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