Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

『Little Star ~KANNA15~』

2015-04-30 00:01:01 | 読書。
読書。
『Little Star ~KANNA15~』 橋本環奈 撮影:レスリー・キー
を読んだ。

「天使すぎるアイドル」として話題になりブレイクした、
橋本環奈ちゃんの1st写真集を眺めてみました。

かわいらしい等身大の15歳の女の子という感じ。
セーラー服や着ものを着ているショットなどがあります。
どんな衣装を着ても、環奈ちゃんらしい透明感は損なわれず、
かえって透明感が際立つような気さえする。

どんなことを考えているんだろう?
と興味をそそられる度合いが強いタイプの女の子に、
僕なんかには感じられるのです。
深く考えすぎず、それでも年相応にはものを考えていてほしく見える。
そういうところとともに、ポップ感と清潔感を感じさせる女の子
ということになるでしょうか。

テレビで前に彼女を何回か観たことがありますが、
ハスキーな声なので、最初はイメージと少しずれがあったんですが、
すぐに慣れて、慣れるどころかそのハスキーな声が好きになってしまった。

ちゃきちゃきとしっかりしていそうでも、
ガラス玉みたいな女の子にもみえるので、
芸能界という世界にいながらでも、
大事に大人になっていったらいいなと思います。


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『飛ぶ教室』

2015-04-29 12:26:06 | 読書。
読書。
『飛ぶ教室』 エーリッヒ・ケストナー 山口四朗 訳
を読んだ。

1,2年前に重松清さんの作品中に出てきたことで知ったのですが、
児童向け文学の傑作と言われる『飛ぶ教室』を読みました。
80年くらい前の、ナチス台頭前夜の時代に出版されたドイツの作品。

面白かったですねー。
読んでいて泣きそうになるのですが、
無理やりなくらい急角度でぐいんと曲がって泣かせるようなスタイルではなくて、
読んでいるうちに、じんわりと涙腺にくるというか、
薄いベールが一枚はがされて(それも気づかない間に)、
その見せられた真実にぐっとくるというか、そういう感覚で
胸に訴えられてきます。

主人公たち5人の少年、そして2人の大人、
それぞれが血の通った好人物であるのですが、
美化されていなくて、等身大の人間として描かれている。
そして、大人も子どもも、気持ちの良いくらい、
素直なこころの有り様をしています。

作品としては、けっこう威勢がよくて、
それでいて、ベースには純粋さがあるような、
酸味のそがれていない100%オレンジジュースみたいな
おいしさのある作品です。

まえがきに書かれていますが、
作者は子どもが幸せ一辺倒の存在ではないことをしっかりわきまえている。
大人の涙以上に重い涙を流す子どもだっているし、
子どもにだって不幸はちゃんと存在する、というようなことを言っています。
その通りだなあと思い、僕もそういうことを忘れず、
うそんこの思索でもって子どものことを考えたりしないように
気をつけようと思いました。


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『行動分析学入門』

2015-04-26 15:32:51 | 読書。
読書。
『行動分析学入門』 杉山尚子
を読んだ。

心理学の一種である「行動分析学」の入門書。
専門用語もでてきますが、なかなかどうして読みやすいです。

どういった種類の心理学かというと、
本書から例を出せば、
冬場にこたつで朝食を取る家族のなかで、
高校生の男の子が左手をこたつにいれたまま、
ごはんを食べているというのがあります。
それで両親は男の子を「行儀が悪い」「だらしがない」のを理由にして、
両手で食べるように叱るのですが、
実は「行儀が悪い」「だらしがない」というのは理由と考えるべきではなく、
実際に理由でもないというのが、行動分析学の捉え方。
本当の理由は、男の子の席はドアの近くで、他の家族の席よりも2℃も室温が低く、
寒いのが理由で左手をこたつに入れたままごはんを食べるようになっている。
実験では、この弟の近くにストーブをもってきてやると、
ちゃんと左手をこたつから出してごはんを食べるようになっています。

このように、「こたつに左手をいれたままごはんを食べる」という行動の、
その随伴性を考えていくのが行動分析学です。
本書の大事なキーワードである行動随伴性とは、
<行動の原因を分析する枠組みで、行動とその直後の状況の変化との関係をさす>
とされています。

よって、さっきの例のように、
「行儀が悪い」「だらしがない」だとか、
「意志が弱い」「やる気がない」「欲求不満」
などの理由づけは本当の意味ではなくて、
それは行動にラベルを貼ったにすぎない、となる。
タバコをやめられないのは意志が弱いからだ、
と、心というものに原因を持たせるのは間違いだということ。
ただ行動にラベルを貼ったにすぎないものを、原因としてとらえるのが
不幸の始まりなんですね。

____

「意志」や「やる気」や「性格」は行動に対してはられたラベルであり、
実体はそれが指し示す行動と同じであるから、
これらが行動を説明する原因ではないのである。
ラベルを使えば、いちいち実体である具体的な行動を言及せずに、
ある程度の情報を伝えることができるし、便利な場合も少なくないから、
そのこと自体は問題ではない。
しかし、それを行動の原因と考えてしまうことには大いに問題がある。

ラベリングの危険性はこれ以外にもまだある。
行動にラベルをはる時、多くの場合、人は無意識のうちに
「こころ」を想定し、その「こころ」が問題行動を引き起こしている
と考えてしまう
____

と引用しましたが、そういうことになります。
そして、ラベルを貼ってそれを原因だとしてしまい、
非難するというのが問題なんですよね。
そんな個人攻撃の罠にはまらないための新しい見方を持とうというのも、
本書のねらいのひとつでした。

と、簡単な感想ですが、すごく面白かったです。
おすすめ。


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『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』(映画)

2015-04-23 14:03:21 | 映画
ティム・バートン版『バットマン』で
バットマンことブルース・ウェインを演じた
マイケル・キートン主演の映画、
『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』
を観てきました。

過去の人気三部作『バードマン』で有名になった往年の俳優役が、
そのまま主演のマイケル・キートンに重なって見えるようになっている。

ネタバレになるので、どの映画に似ているとかは言いませんが、
僕がかつて好きだった映画にちょっと似た風味があります。
したがって、驚きのようなものはあまりないのですが、
はらはらする臨場感のようなものがありましたね。
カメラで追っていく時間が長く、
ひとつのシーンがすごく長く撮影されているんじゃないかと
錯覚してしまうような、そして実際にそういう長いであろうシーンも多くある映画です。
クライマックスの部分はちょっと、そうだろうなあというシーンになっていましたが、
だからといってこの映画がつまらないわけではなく、
一つ一つのシーンの濃密さというか重量感が特徴的で面白かったように思います。

主人公の娘役のエマ・ストーンが魅力的なのですが、
その役柄もまた、僕にはなんだか心ひかれるような、
妙な吸引力のあるキャラクターでした。
なんでかわからんけれど、かすかに惹かれているというような。
そして、めんこい。

マイケル・キートンは『バットマン』で一躍スターになりましたが、
その役を掴むきっかけにもなっている同じティム・バートン監督作の
『ビートル・ジュース』も面白いです。

でも、当たり前だけど、マイケル・キートンも年を取ったね。
僕もいい歳になってるわけだ。

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『ドラゴンボールZ 復活の「F」』(映画)

2015-04-21 23:48:53 | 映画
ドラゴンボールの最新作映画を観てきました。

どんぴしゃのドラゴンボール世代です。
その前のDr.スランプも世代です。

前作の『神VS神』は観にいこうと思いながらもいけなくて、
テレビで放送されたのを観ていました。
それで、今作はその続きみたいなものですから、
まあ、知らないキャラがでてもきましたけど、
ついていくことができました。

それで、特典として、
ジャンプコミックス最“神”刊というのがもらえました。
普通のコミックスよりも薄いですけど、
きっとこの映画の内容のコミックス版なのでしょう。
まだ開封していません。
(追記:開けたら脚本でした)

終わった夢に、まだ続きがあったという感覚でしたかな。

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『暇と退屈の倫理学』

2015-04-19 15:31:20 | 読書。
読書。
『暇と退屈の倫理学』 國分功一郎
を読んだ。

人生につきものの、暇と退屈。
いったい、それらはどういうもので、
どう対処していくのがもっとも上手な方法なのだろうか。
暇と退屈を東西の哲学者などの言葉を引き咀嚼しながら、
つぶさに多角的にみていって、最後には著者なりの結論がでる。

途中から読んでみたり、
半分くらいまで読んでしばらく間を空けて、
ちょっと内容の記憶が薄れていたことろに読みなおしたり、
そういう読み方だとついていけないような種類の本ではある。
かといって、難しくて手に負えない種類の本ではない。
序盤から少しずつ平明な言葉を使っていながらも、
論を構築していく種類の本なので、
途中から読んでもわからないというこなのだ。
情報の羅列で、ひとつの章ごとに、
ぽっきりと区切られているのではないということ。
それで300ページ超のボリュームなので、
取り上げられるハイデッガーやラッセルな「環世界」について何も知らないと、
けっこう頭がパンパンに張りつめてしまう。
僕は、著者の國分さんがNHKで哲学の特別番組をやったときそれを観ていて、
「環世界」だけは理解していたので、そこは助かったのだけれど、
ひとつの読書としてみてみると、「環世界」がでてくるところで
驚きを感じなかったのが、読書体験として残念でもあるところだった。

ネタバレにもなってしまうのだが、
序盤から、ラッセルの言う退屈を克服する手段としての「熱意」が挙げられて、
僕はもう、それだ!と得心したようになってしまい、
読み終えた今もなお、僕個人としては「熱意」という行動、
そのキーワードは的を射ていると思っている。
著者の最後の結論からしても、それは当たらずと言えど遠からずではあった。
著者の結論と総合して考えてみると、
「よく生きよ!」ということに突き当たる。
楽しみ、熱中し、よく笑え、というような。
そして、それこそが贅沢であるだろう。
著者も触れているが、戦争や飢餓、貧困などのために、
そういった退屈克服に取り組めない人もいる。

また、ハケンなどの非正規雇用の増大は、
小泉元総理の一声で決まったかのように思っていたけれど、
その根本原因は消費者の消費行動と、
その消費行動と共犯関係にある生産戦略にあったことがわかって、
なるほど!の意味で的なユーリカ!がでたりもしたし、
僕がけっこうここで書く、
「個人主義の意訳は自助であって利己ではない」っていう考えが、
ルソーのところで自己愛と利己愛としてでてきて、
いいパスをもらったかのようでもあった。

暇と退屈を哲学して、それを乗り越えるというより、
上手に付き合っていこうとするために役立つ論考でもあり、
少しずつ構築されていき最後には大きな建築物のようになる論考を読むことで、
読者もその思考の追体験をすることにもなる。

「暇つぶし・・・」と思って読んでみたら、
その跳ねっ返りとして、暇つぶしに過ぎなかった時間が、
「暇つぶし観」を大きく変えてしまうような力を持った本だと思った。

僕は普通の『暇と退屈の倫理学』を読みましたが、
現在は増補新版の本作が発売されているようなので、
手に取る方はそちらを手に取るのがベターだと思いました。
簡明さのなかに注意深さがある本。


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『AKB商法とは何だったのか』

2015-04-17 15:27:54 | 読書。
読書。
『AKB商法とは何だったのか』 さやわか
を読んだ。

昨今、アイドルグループがたくさん存在して、
「アイドル戦国時代」などと言われているようですが、
そのなかでもAKB48を中心に、その批判的に言われる
「AKB商法」とは何なのか、そして何だったのかを語る本です。

僕にとってはAKBなんて、気づいたら売れていて、
その歴史はよく知りませんでした。
それが、この本では一応のところ、
詳しめに2005年の結成時まで振り返って、その発展を教えてくれます。
けっこうな苦労をして、成功を約束されていたわけじゃないけれど
こんなに大成功したグループにあったんだなあと感慨もあるくらいです。
そして、その大成功までの戦略に、AKB商法と呼ばれる
販売戦略、人気拡大戦略があったということです。
それは、本書をかいつまむと、
AKB48だけに限ったものじゃないことがわかるのですが、
本書で触れられていないのには、今はどうかわかりませんが、
盛りだくさんの特典がついたCDなりDVDなりの単価が
高めだったことも挙げられますね。
そのあたりの記述、説明は無かったのですが、
まあ、惹きつけられる中核のファンなんかの
心の弱みに付け込んでいるんじゃないかとする批判はあるでしょうね。
本書でも、倫理的な問題に帰結するというような書き方がされています。

AKBまでのアイドルの流れとして、1971年デビューの南沙織さんから
ずっとアイドルというものを追っていくところもあります。
当時のアイドルとはどういうものだったか、
そして、どうアイドルのイメージと戦略が変遷していったかの記述は、
なかなか読みごたえがあり、おもしろかったです。

そして、最後はDD(だれでもだいすき)の話。
僕はもう、アイドルにたいしてはこの姿勢ですね。
ひとりとかひとグループとかにしぼって、
ストイックに応援するのは、自分に無理をしている気がする。
かといって、熱中するほどではないんですけどね。
たまに写真集やCDやDVDなどを買う程度で。

そうそう、Perfumeもアイドルということでしたが、
いまはもう、ダンスと音楽の質が高いので、
テクノユニットと名乗られても全然違和感がないです。
僕はPerfumeが好きです。

いろいろなデータと、客観的でわりと多角的な視点からの解析と、
軽めのニュースサイトのような文体ですが、なかなかに読ませてくれます。
この本はいい仕事していると思えました。


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連載を終えて。(ごあいさつ)

2015-04-16 14:55:40 | 自作小説3
小説『虹かける』はいかがだったでしょうか。

400字詰め原稿用紙換算で93枚ある、
ちょっと長めの短編だったので、
全部しっかり読んで下さった方はいらっしゃるかなあ、と
わからんちんなところではありますが、
アクセス解析をみてみると、アクセスゼロではないので、
きっといらっしゃるのでしょうね。
ありがとうございます。

伝えたいこと、表現したいことがあって書いています。
読むという行為をしてくださったことには、
心から感謝しますし、しっかり伝わったよと心の中ででも
言ってくれるような方々には大感謝です。
さらに、楽しんでもらえていたら嬉しいです。

主人公の虹矢たちの目には、
社会って灰色の世界に映っている部分ってあると思ってるんです。
そりゃ、空は青くて、緑は美しくて、
世界はすばらしいと思えるところは大きいのでしょうが、
人間社会というものにうまく参加できずにいた彼らだったので、
こと「社会」というものには色彩の美しさをみることはできていません。
よって灰色の世界の住人だったわけです。

そんな彼らが夢みた一獲千金でしたが、
夢を託したレインボウアローの敵役がシルヴァールーラーという葦毛の馬でした。
シルヴァーなんて名前ですが、葦毛の馬ですからつまりは灰色です。
ルーラーは支配者という意味ですので、灰色の支配者つまり、
社会のメタファーでした。
虹矢たちが灰色の社会に打ち勝って、
色のついた社会をみられるかという戦いでもあるレースがジャパンカップだったわけです。

最後の方では、茜が灰色のニット帽をぐぐっと被り直すところもあります。
そこも、残念だけれど、メタファーとして、
また灰色の支配を甘んじてしまう様子を書いたつもりです。
しかし、僕は彼らには悲観をしていないのです。
それは最後の最後での虹矢の独白めいたところの内容に拠ります。

全体を通した文体の感じとしても、
内容にある現実の冷たさからそのまま同じように悲壮感を感じさせるようにはしていなくて、
生命力、こころの種火の部分のエネルギーを感じさせるかのようになっているはずだと
自分では考えています。
それはたとえば、最近よく聴いているビリーホリデイの歌声のように、
暗い歌や切ない歌を歌っても、明るさを失っていない、
光のさす方向を向いて、どこか諦めないようで軽くて深い歌声のようであればと思っている。
そのあたりの表現はまだまだ未熟なところもあるのでしょうが、
完全にそうできていないわけではないです。

最後に、この作品の作風がはたして『文學界』に応募するに
値するものであったかどうかは疑問符がつきます。
しかし、一次も通過しなかった(通過者40名くらい)ことは
重く受け止めたいです。
それでも、この結果を今後に役立てたいですし、
書いたことで成長できたとも感じているんです。
一時的にかもしれないけれど、読解力もまあ上がりましたしね。

そういうわけですが、
読んで下さった方々、本当にありがとうございました。
読んでくださる人がいたということが励みになります。

それでは、Fish On The Boatは通常営業に戻りますが、
また何か書いちゃうような気もしているので、
どこかに応募するか否かはわかりませんが、
そのときはまたやってるよーだとか
記事にするでしょう。
そのときはまたよろしくお願いします。

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『虹かける』最終話

2015-04-15 00:01:00 | 自作小説3
 4


 九月になって、カズは工場のアルバイトを辞めた。愚痴れよな、と言っておいても、なかなか愚痴るのは好きではない性格らしく、ストレスを許容量以上までたくさん溜めこんで、ついにチェックメイトのような状態になり、辞めた。
「しばらく休んだらいい」
とぼくも茜もカズをいたわったのだが、返す言葉で、
「賭け金を減らしてしまって申し訳ない」
とカズはうな垂れるのだった。茜も、発掘調査の期間が終わった後、新しい仕事が見つからなかった。ぼくは
「まあ、しょうがないよね、当初より少ない額で勝負しようと思うけど、どうだろう」
と茜が何かお詫びめいたことを言いだすより先にメールで意見を求めておいた。そして同様のメールをカズにも。二人とも、ぼくが了承するのならやりたい、というような返信だったので、予定通り、十一月下旬のジャパンカップで勝負することにして、その旨をさらにメールした。

 引きこもりがちだった三人の人間が、いきなり何か仕事をやり出して三人ともすんなりいくというのは、やはり難しいことだったのかもしれない。ぼくらは明らかに息切れしだしていた。思い返してみると、お金を稼ぎながらもまるで遊ぶということをしていなかった。これはカズにしても茜にしても、たぶんそうだろうという気がした。カラオケに行っただとか、本やDVDを買っただとか、おいしいものを食べにいっただとかは全くなくて、それぞれに淡々とお金を積み立てていく日々だった。夏にジンギスカンはしたけれど、頑張っているわりには遊んでいない。リフレッシュができていなかったじゃないか、と、今さらながらに気付くことになった。なんて愚直だったんだろう。そうやって反省の気持ちに動かされるまま二人を、アウトレットモールまで買いものにでも行かないか、とメールで誘ってみた。二人は馬券計画に頭を捉われていたし、唐突だったこともあって、なんで買いものなんだい、だとか、買いものに使うお金なんてない、だとか、返信してきたのだけれど、
「最近のぼくらは心を擦り減らしすぎてないか。気持ちを殺伐とさせてまで計画にこだわることもないんじゃないかな、どうかな」
とツイッターで問いかけると、それはその日の夜の十一時過ぎだったのだけれど、朝までの間に二人から、ニジがそういうのなら行ってもいい、というようなリプライが来ていた。じゃ、雨天決行だよ、とぼくが休みの火曜日、それは五日後のことだったが、日取りを連絡しておいた。すると、途端に楽しみになって、今まで重りをつけて生活をしていたんじゃないかと思えたほど、それから足取りも身体も軽くなったのだった。なんだこれは、と思って、その元気がわいてきた様子を二人に伝えると、二人も似たような感覚で、カズなどはそれまでのどんよりしていた気分とは逆方向に気分の針が振れ出して、眠れない、とまで言っていた。やっぱりそうだった、ぼくらには遊んで楽しむ行為が不足していたのだ。
 当日、朝早くからぼくらはJRの汽車を乗り継いで、着いた駅から今度はバスに乗って、アウトレットモールへ向かった。着いてみると、平日の午前中にも関わらず、何十台もの観光バスと乗用車が駐車場に所せましと止まっていて、モールを歩く人の数もかなりのものだった。茜は楽しそうにいろいろなお店のたたずまいと商品の服やバッグなどを眺めている。カズも、思っていたよりも人手があることに、はじめはちょっと緊張した面持ちではあったのだが、高い天井の開放的なつくりと広さ、そしてモール内に満ちている楽しげな雰囲気に次第に心を自由にしていったようで、ちょこまかと、お店からお店へとみつばちのように渡り歩いていた。そんな二人に後れを取ることなく、ぼくも楽しく店内を見回しながら、歩いていた。おしゃれなカーディガンがある、茜にきっと似合うようなスカートをはいたマネキンがいる、カズが被ったら外向的な感じにイメージが変わりそうなハットがある。とくに、これと買いたいものを決めていたわけではなかったので、店を冷やかすだけの三人組に違いなかったのだけれど、ふと足を踏み入れた靴屋で、茜が一足のスニーカーを手にとって、
「これ、欲しい、買う」
とそれまでの一線を越えると、ぼくもカズも急に新しいスニーカーが欲しくなり、各々、気がつくと好みのものを試しばきしてサイズをチェックし、会計を済ませていた。ぼくは茶色で、カズは水色で、茜はあずき色だった。それからぼくらはモール内で人気のピザ屋にて少し遅くなった昼食を済ませ、そこから事前に調べておいた近場のボウリング場へと歩いた。
「ボウリングなんて、福島に住んでた時以来だよ、ちゃんと投げられなさそう」
と茜が不安を口にするも、表情は明るい。カズは
「俺は、ボウリングやったことないよ、ルールもよく知らない」
というので、それからそのルールの説明を茜と二人でしているうちに、ボウリング場に到着したのだった。茜は上手だった。ぼくなどは百点を越えるかどうか、そこで四苦八苦しているのに、彼女はスペアだのダブルだのをよく取って、百五十点を越えるくらいのスコアを出した。カズは、一ゲーム目こそ六十点そこそこだったのだが、元来、パワーがあるので、コントロールが定まってくると、ストライクを何度か取れるようになって、最後の三ゲーム目には百三十点近いスコアを出して、ぼくを上回ったのだった。どうやらぼくが一番へたくそだ。ガッツポーズを作ったり、ハイタッチをしたり、たえずわあわあ言いながらのボウリングだった。そうやって、ぼくら三人は、三人としては初めて、娯楽というものを心から楽しんだ休日を過ごした。帰りはみんな疲れ気味だったのだけれど、汽車の中でのおしゃべりも弾んで楽しかった。ついぞなかった、充ち足りた日だった。

 そんなアウトレットモール遠征からしばらく時は流れ、紅葉も終わり広葉樹の木々は葉が散って幹と枝だけのさみしい姿になった。初雪も降り終わり、もはや根雪を待ち冬の訪れに備える季節で、吹く風は厳しい冷たさだった。
 十一月下旬の日曜日、ぼくはまた物産館の休みをもらい、カズと茜とともに、バスを使って札幌の場外馬券売り場ウインズへとやってきた。歩いている途中で、ビルの屋上の観覧車の姿が見えてきて、ぼくが指差したときには、三人に笑顔が生まれたのだけれど、それからウインズに入館すると、それが戦闘スタイルなのか自分でもよくわからないが、自然と厳しい顔つきへと表情は変わるのだった。ぼくは黒のジャンパー、カズは濃紺のパーカー、茜は光沢のある黄土色をした薄手のダウンジャケットを着ている。時刻は十二時半だった。ジャパンカップのレース発走時刻は十五時五十五分で、まだ三時間も余裕があるというのに、メインレース以外のレースをやるためなのか、それともぼくらのようにジャパンカップをいまかいまかと待っているためなのか、たくさんの人でビルの中はごったがえしていて、暖房のせいというよりも人々の熱気のせいで暑かった。巨漢のカズは初めのうち、ハンカチで首筋や額や鼻の下の汗を何度もぬぐって耐えきれなさそうな様子だったので、
「ここにいるから、風にあたってこいよ」
と促し、少しの時間ぼくらのいるビルの五階から下に出て、外気にあたりクールダウンをして戻ってきてを繰り返した。
「いよいよだよなあ」
とぼくは誰にともなく言った。さっきから少し速くなってきた鼓動を落ち着かせたく思って呼吸を深くしてみても、なかなかいつものようには戻らない。ぼくらのこの半年間を賭けた大きな勝負だ。いや、賭けたのはぼくらの未来だともいえる。三人で合わせたお金は三十四万円だった。カズが九万円、茜が八万円、ぼくが十七万円という内訳だ。個々の出した額はそろってはいないのだけれども、もしもこのレースで勝負に勝ったなら払戻金を三等分に山分けしようという約束をぼくからしていた。
 あのレインボウアローがジャパンカップに出走することがわかった日、ぼくはぜひ、と二人にこの馬を推薦した。レインボウアローは夏を越した復帰戦のセントライト記念を四着し、続いて同世代だけで競うクラシックレースの最後のレースである菊花賞を十二着で終えた。良い成績とは言えない。しかし、レインボウアローの調教師は「菊花賞は厳しい走りをしなかったのでジャパンカップには疲労は残さずにだせるし、休み明けから三戦目というローテーションで動きも素軽く、よくなっている。それに、ダービーと同じ距離とコースだから力を出せるはずだ」という強気のコメントを出していた。ぼくはそこに期待した。強豪ひしめくジャパンカップだけあって、前日のオッズではレインボウアローは二十一・八倍の八番人気になっていて、カズの家のパソコンでそれを確認したぼくらは、それをどう理解していいのかわからなかった。勝てば、三十四万円が二十倍以上、つまり六百万円を優に超えるお金を手に入れることになるのだが、実際、レインボウアローに勝つ見込みはあるのかどうか、専門家はどう見ているのかを知りたくて、結局、深夜にやっている競馬番組を見終わるまで、急遽カズの部屋にぼくと茜は居残ることになったのだけれど、そのテレビ番組ではどの馬にも勝つチャンスがあるという夢のありすぎる結論で終わってしまって、それじゃレインボウアローにだって勝機はないわけではない、と妙な感じで背中を押されて、自信満々ではなかったけれど後悔はしないことを確認しあい、単勝馬券を買うことに決めた。
 ウインズの階段の端に縦になって順に座って待つぼくらだった。あまり話はしなかった。カズは払戻金を受け取って入れるためのファスナー付きのトートバッグを膝に乗せて両手で抱きしめている。出走までの時間が、長く、長く感じられた。だけど、同時に、出走時間を迎えるのが怖くもなってきた。もうすでに、三人そろって馬券購入窓口まで行って三十四万円分の単勝馬券は購入済みだ。マークカードを記入するときも、お金を窓口に出すときも、馬券を受け取る時も、ずっと手が震えっぱなしだった。責任を持って、その重たい馬券をジャンパーのポケットにしまい、緊張のため汗で湿った手で上からずっと押さえていた。たまに、茜がオッズを確かめにフロア内のヴィジョンを見に行った。レインボウアローのオッズは前日から比べて、少し人気を上げたようで、最後に見たときには十八・一倍の七番人気に落ち着いていた。そして、ついに、その時刻を迎えた。ぼくらはフロアの端にある大きなヴィジョンに映し出される映像をなんとか見逃さずにいられる場所に移動して立っていた。

 快晴の東京競馬場で演奏されるファンファーレの音がスピーカーから聞こえ、出走馬十八頭すべてのゲート入りが終わる。芝コースのコンディションは「良」。それぞれのプライドを賭けた二千四百メートルのレースが始まろうとしていた。がしゃんとゲートが開く音がして、各馬がいっせいに飛び出したその中で一頭だけ、出遅れた馬がいた。八番のゼッケンをつけたレインボウアローだった。ぼくは声もなく、息をのんだ。先行戦法が得意な馬だけれど、後ろから追い込む戦法だって得意かもしれない、まだわからないぞ、と自分を勇気づけ、馬を信じ、横の二人をちらと横目で見てみると、やはりぼくと同じように、馬を信じているような、決心を固めたような、そんな強いまなざしでヴィジョンを見つめていた。
 レースは、およそひと月前に行われた大レースである秋の天皇賞を逃げ切り勝ちしたゼッケン三番のマキシマムターボが引っ張っていた。いや、引っ張っているどころか、一馬身、二馬身、三馬身・・・と、どんどん後続との差を広げ、大逃げ戦法に打って出ている。マキシマムターボを除いてはほぼひと固まりの馬群となっていて、その馬群の前の方の位置取りに英国からやってきたゼッケン十五番、一番人気の凱旋門賞馬シルヴァールーラーがいて、その走りは、ぼくの目にはなんとも貫録のある落ち着いたもののように映った。そして我らがレインボウアローは最後方でじっと我慢のレースをしている。このまま最後方で力尽きてしまうのか、それとも、未知数の瞬発力をみせてくれるのか、それはまだまだわからなく、どきどきするよりほか仕方無かった。フロア内はざわついていて、実況中継のアナウンサーの声がところどころ聞きとれない。左回りの東京競馬場のコースの一コーナーと二コーナーを走り抜け、十馬身以上、後続との間に差をつけたマキシマムターボが前半の千メートルを通過したようで、アナウンサーはそのタイムを読み上げる。五十八秒四。ぼくらの後ろでレースを見ている眼鏡の二人組の男の一人が「速過ぎる、潰れるぞ」ともう一人に短く言うのが聴こえた。
 灰色の葦毛馬シルヴァールーラーはやはり落ち着いたまま、騎手の指示通りなのだろう、四番手の位置取りをずっとキープしている。その走っている様子からも頭の良い馬なんだろうな、と素人目にも感じられる。馬群は向こう正面の直線を抜けて、三コーナーから四コーナーに入って行った。ぼくのどくんどくんという鼓動はどんどん高まっていく。きっと、カズと茜も同じだろうなと思いながら、レインボウアローから目を離さずに、頼んだぞ、という祈りに似た願いを込めた。まだ、マキシマムターボは十馬身くらいのリードを守り先頭をひた走っている。シルヴァールーラーはマキシマムターボの逃げるペースに自分のペースを乱されてはおらずにレースをしているようで、じっくりと、勝利を射程圏内に入れたかのような戦略で一頭抜き去り、三番手に順位を上げた。さすが、と言っていいようなレースぶりだ。マキシマムターボが四コーナーを通り抜けて直線の入り口に入ろうかとする時には、二番手以下の集団すべての馬がペースアップしており、レインボウアローも例外ではなかった。レインボウアローはカーブを曲がりながら、二頭抜き、その前の馬と馬体を合わせながら、先団目がけてぐんぐんと位置取りを上げていっていた。馬たちの掻きあげる土の塊が宙を舞うのが見えた。
 そして、もっとも早く直線コースに入り、内ラチ、つまり内側の柵に沿って粘りを見せていたマキシマムターボを追って、二番手に上がったシルヴァールーラーは、まだ騎手が腰に鞭を放っていないにもかかわらず、もはや三馬身差ほどまで詰め寄せていた。前半に飛ばして逃げたために、もう余力の残っていないマキシマムターボは足取り鈍く、しかし、一瞬、天皇賞馬の意地を見せ、並びかけてきたシルヴァールーラーを抜かせまいと並んで走ったのだが、そこで鞭の入れられたシルヴァールーラーはもう一段階スピードを上げ、先頭の座を奪ったのだった。そのとき、もうこのレースはシルヴァールーラーに勝たれたかな、と大勢の人はそう決着を想い浮かべたかもしれない。後続から追いすがってくる馬たちの脚色は一様で、先頭との差は縮まる気配がない。いや、しかし一頭を除いて。
 シルヴァールーラーが勝利を確信するかのように先頭に立ってもスピードを緩めずにゴール板を目指していたそのとき、中団に並んで走っていた四頭の馬込み、その間に隙間が空いたのだった。そしてその後ろから青い帽子の騎手を乗せたレインボウアローが縫い出てきて、その四頭をぱっと抜き去り、その瞬間から放たれた七色の矢と化して、王者のオーラをまとった葦毛のイギリス馬を目がけ、飛んで行ったのだった。その七色の矢と化したレインボウアローの瞬発力はすさまじく、シルヴァールーラー以外の他の馬たちはまるで、走っているのではなく止まっているだけのただの障害物だとでも言うように、歴戦の強者であるはずの彼らを簡単に一頭二頭とどんどん抜き去っていくのだった。
 ゴールまであと百メートルのところで、先頭を行くシルヴァールーラーとレインボウアローの差は二馬身しかない。ぼくのどきどきは最高潮に達し、顔も熱を帯びていた。カズと茜のことも忘れ、レインボウアローの奇跡を見届けようと、心の底からヴィジョンにくぎ付けになった。シルヴァールーラーの外目を走るレインボウアローのほうが、脚さばきが良かった。一完歩、一完歩、獲物を捉えるため、一番でゴールを駆け抜けるために人馬一体となって差を縮めていく。だが、そこでシルヴァールーラーは、さらに激しくなった腰へのムチに応えて、驚いたことにもうひと伸びして見せた。そのため、その差、半馬身が縮まらない。このままゴールしてしまうのかと思ったそのとき、レインボウアローは、きっと己の限界を超えた意地かなにかで、それはサラブレッドの本能の力かもしれないが、
最後のひと伸びを見せ、なお王者に喰らいついたのだった。そして、その振り絞った力でシルヴァールーラーをついに、かわした。が、それはゴール板の前だったか後ろだったかが判然としないところでだった。勢いではレインボウアローがまさっている。ゴール後、両馬の騎手はたがいにガッツポーズを取ることなく、どっちが勝ったかわからないといった体で馬上から一言二言、言葉を交わしていたように見えた。ヴィジョンには、一着二着の欄に馬の番号の記載がなく、横に「写真」と表示された電光掲示板が映し出されている。
 レースが終わった直後、ぼくは言葉を失って呆然とし、ただすごいものを見たことはわかっていて、頭の中は真っ白に近いような状態だった。そんな興奮と驚きに支配された表情でカズと茜のほうに顔を向けると、カズも同じような顔をしながら、でも結んだ一文字の口に力が入っている。茜は目を潤ませていて、すごかった、という形に唇だけ動かした。写真判定によって勝敗が確定され発表されるまでにけっこうな時間がかかった。その間、馬券が当たるかどうか、その結果が相当に未来の道筋を左右するという、運命の渦中にいるぼくらにとっては、結果がでるまで一日千秋ならぬ、一秒千分のような待ち遠しさがまずあった。そこに、歓喜する気持ちと残念に思う気持ちのどちらへも瞬時に変化するようにできている、混然となったくるおしい感情のかたまりが、その発露をやはりいまかいまかと待ちながら飾り立てていた。ぼくの心の内では、わずかに、期待のほうがまさっていた。ゆえに、そうして、ある種の甘い苦しみのような状態にあったのだが、それも、次の瞬間に終わりを告げる。掲示板に五着まで入着した馬の番号が出たのだ。「オーッ」という人々の声が響く。レインボウアローの付けていた番号である八番という数字は、二着のところに点灯した。着差には「ハナ」と出た。勝ったのはシルヴァールーラーのほうだった。フロア内に満ちた大きなどよめきは、きっと安堵のためのものだったのだろう。
そのときにはぼくらはすでに、階段を降りはじめていて、建物内からでようとしていたところだった。ぼくらはお互いの顔を見なかったし、話すこともしなかった。ぼくの目には涙がにじんでいて、きっとカズや茜も同じだったろう。自らの感情、それは強い喪失感に似た種類のものだったが、そういった感情を必死で押しとどめ、逸らそうとし、あふれだしてくるのをどうにか処理するのに苦心したが、こぼれおちるのを止められないものが多かった。外に出るとゆっくりと小雪が落ちてきていた。
 こうして、ぼくらの計画は、終わった。

 計画は失敗に終わっても、容赦なくぼくらの生活は続いていく。あの計画の失敗によって、一時期、ぼくらはどんなにか気怠い日々を過ごしたものか。カズに至っては、ほぼ一日中、布団の中で過ごす日が何日か続いたようだ。希望ばかりを見ていたせいか、跳ね返ってきた現実によるショックは大きかったのだ。でも、街を囲む山は白くなり、クリスマスも近づいてきた頃のある夜、ぼくら三人は久しぶりに神社で待ち合わせをして集まり、それから、個人経営の小さな食堂に入って、ラーメンやそばを食べながら、あの日までの道のりを振り返ってみた。引きこもりがちだった日々から、まったくの別世界である《労働する世界》に足を踏み入れることになった、そのきっかけは、馬券計画だった。それまで縁のなかったお金というものを稼ぎだし、嫌だったり辛かったりしながらも、それらに負けたり打ち勝ったりして、そういうことが、生きているんだ、という種類の忘れかけていた実感をもたらしたような気がする。引きこもりがちだからこそ、日々を送っていても感情が揺らぐ経験も少ない。だからこそ、ジャパンカップでレインボウアローの走りに心を揺さぶられたのは、お金を失った大きな対価となったんじゃないか、とぼくらは話をした。そこまでの道のりだって、悪いことだってあったけれど、結果的に平板な人生よりずっと面白かったんじゃないか、と、そんな感想も、三人で共感を持って共有した。そんな中、
「でも、いまのところだけどさ、家にいるのがいちばん落ち着いていいな」
とカズは本音を漏らした。
「『オズの魔法使い』みたいだね。冒険が終わって、おうちがいちばんだわ、ってドロシーが言うの、知らないかな。わたしたちも、冒険してたんだよね」
と茜がやわらかい目もとの表情で問いかけるのを聞いて、
「そうだね、ずっと引きこもって暮しながら、うちがいちばんだ、っていうのとはわけが違うと思うな。そのセリフを言えるのは、冒険して感情を揺さぶられた者だからこその、安心を得た気持ちだよ、たぶん」
とぼくが引きとった。
 食堂を出ると、粒の大きな雪が顔にあたり、一面に降りそそいでいた。
「明日の朝は積もるかも」
と、茜が灰色のニットの帽子を深くかぶり直す。そうして、ぼくらは帰りしなに、『オーバーザレインボウ』を鼻唄で合唱したのだった。冷たい冬の夜の外気に、その唄声はよく通って響き、もしかすると降る雪を小さく振動させていたかもしれない。本格的に雪の季節になった。雪は虹を生まない。ぼくらはそんな虹なき世界を何カ月も過ごさなくてはならない。だけれど、虹というものの存在を忘れることはおそらくないだろうと思う。冬が終わり春になり、雪が溶け始めて、やがて雨が降る。そんな雨の後にいつかかかるであろう虹を、きっと三人で眺めよう、いや絶対に三人で眺めよう、別れ際、そうぼくらは約束した。

 あの日、三人が力を合わせて購入した三十四万円分のレインボウアローの単勝馬券は、ぼくが、責任を持って保管している。その馬券は透明なアクリルのフォトフレームの中央に堂々とはめられている。そしてそれは、ぼくらの歴史であり、経験であり、力を合わせた証拠である結晶のようなものだ。この先、きっと、ぼくら三人は当時を忘れそうになった頃にこの馬券を取り出して眺めたり触ってみたりなどし、あの時とあの時までの思い出を思い起こして、苦い気持ちを噛みしめたり、触発されて元気になったりすることだろうと思う。フォトフレームに収められたそれは、ある種の記念碑的な存在になったのだ。過去から現在、そして未来へ流れていく時間上にぽとりと落とされたマークが、記念碑である。それは、その当時の、とある瞬間である《あの時》に、いろいろなその当時の意味を付着させて凝固化したものだ。ぼくらが振り返って、その記念碑を眺め、そこから抽出される意味を思い出して再体験し、だから今、自分はこうなんだ、と自身の由来を知る。ぼくらの記念碑によって振り返ることができるその由来は、この世に生を受けた時点のものでもないし、たとえば小学校ではじめて賞状をもらった時点のものでもなく、いたって、より自然発生的に生成されたポイントからのものだ。だから、一見、あやふやで、頼りげのない生の記憶の部分を記録したポイントのように思われるかもしれないが、どうだろう、そうだとしたって、こんなにも生きていた瞬間を凝縮した記録ポイントを持てる人というのはこの世界にどれだけいるといえるだろうか。食堂で、三十四万円の対価は心を揺さぶられたことだとぼくらは結論付けるように話したけれど、それだけではないのがどうやら本当らしい。もっと、ぼくらが考えていたよりもずっと深い意味を持った、人が心に持つ種火に関係するものだと、うっすらとだけれど、今はそう思えている。
 あれからツイッターやメールで話すのだけれど、ぼくら三人が共同で、カフェなのか雑貨屋なのかまだわからないながらも、とにかく何かお店をやってみないか、というのが話題になる。特に茜の本気度が高いようだ。そして、今度はギャンブルの力を借りようとはせずに実現したい、という気構えだったりする。
 ほら、やっぱり記念碑は、いや、記念碑に宿っているものは、ぼくらの生き方に影響を与えているみたいだ。きっとこの先も、ずっとずっと、永久に、ぼくらが心の種火を使って虹をかけようとしたことは、消え去ることはなく、まるでお守りのように、力を与えてくれるものへとより昇華していくのだと思う。そして、いまはまだ、ぼくらは未熟だけれど、いつか、本当に虹をかけることができる日がくる、その時まで少しでも動きつづける、見つづける、考えつづける、そうでありたく思っている。

【終】
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『虹かける』第三話

2015-04-14 00:01:00 | 自作小説3
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 神社で三人で会った日から、つまり、あのとき茜に会ってからだんだんと、そして今では彼女の魅力のために抑えがたいくらいの性衝動を感じるようになっていた。少しずつ貯まってきたお金はもちろんこれから大勝負するときのための資金になるわけだけれど、ちょっとくらい使ってもいいだろうという気にさえなってきた。それも、ススキノの風俗店へ行ってすっきりするために使いたかったのだから、かなり性欲に囚われている。そんなものだ、男なんて。
 思えば、大学時代に、ゼミの仲間から人数合わせのために呼ばれた合コンで知り合った二つ年上の准看護師の女性とセックスをして以来、女の素肌に触れていない。その女性はとても話のしやすいタイプで、男に慣れているような口のきき方と笑い方をした。その場で強気になって食事に誘ってみたらほとんど逡巡もせずにオーケーをくれて、その食事の夜には簡単に部屋までついてきて、そして寝た。ぼくの性器を含んだ口の中の吸いつく感覚、先端を撫でる舌先の感触が強い印象として残っている。そして行為にうつって、絶頂を迎え射精したときの満足感というか達成感というか、気の抜けるようなやり遂げた感じは、自慰の時よりも何倍も強かったし、そこで得られた満ち足りた癒しの感覚は他では味わえないようなものだった。できることならば、あのたまらない感覚をたまらない茜と味わいたい。茜とだったら、きっと、人生で一番の快感を得られそうだし、同時に彼女にもそういった気分を与えてやりたいと思った。
 でも、たぶん、ぼくが茜に告白したならば、その瞬間から、ぼくら三人の仲間関係からは、瓦解を決定づけるように親密さという大切な要素が失われて、壊れていくような気がする。そして、仲間関係が壊れたならば、それから茜との行為によって性欲を満たされることもあるまい。そう考えて、やはり今のままの関係をとりあえずは維持していく方がいいのだろうな、と性欲にがんじがらめの頭で計算してみたりした。そんなわけだから、計算してみても、勃起はなかなか収まらなかった。

 そんな撞着したような日々を経てなのだが、七月の下旬になってからぼくは二人にメールを入れて、休みの都合がつく日に例の川原でジンギスカンをやろうじゃないか、と持ちかけた。仕事の様子などの近況もききたいし、との文言も添えて。どうしても茜と同じ空気の中に居たくてしょうがなかった。いや、空気になって茜に吸い込んでもらって体内に入りたい、くらいの、十人が聞いたら十人すべてに気持ちが悪いと言われてしまうような、本当に変態的な心理状態にも片足を突っ込んでいるほど、彼女をつよく切望していた。だからといって、二人だけで会うとぼくとしては相当気まずい。ひとり昂った気分でなにか変なことを言ってしまって、茜に怪訝な顔をされてしまうかもしれないし、その可能性はたぶんに高いと思えた。なので、気やすく茜と接しているカズの存在は不可欠だったし、カズに対してだって会って話をしたい気持ちはあるわけで、そう考えると、やっぱり三人の仲間なのかなあという気がしてくる。ぼくの性欲はなんとかしてぼかしておいて、とにかく食べて喋ってを楽しもうという気持ちのほうに変化してきた。せっかく三人してお金を稼いだのだから、ストイックを気張らずに、目的の前に少しくらい楽しんだっていいだろう。ほどなくして二人から休みの日取りを書いたメールが届く。茜もカズも、土日の二日間が休みだった。
 ということはぼくの休みが問題だ。商売柄、なるべく土日は休まないようにと言われている。でも、このジンギスカンの会なんていうのはよくある集まりというわけではない、滅多にない機会だ。それでなくても、自分はアラサーと呼ばれる年齢になっており、心構えもなくあっという間に三十代に入っていくのだと思われる。大事な仲間と三人だけでジンギスカンをして、そのままたき火を囲んで喋りながら夜を明かすという経験をせずに、どんどん歳を取っていって、そのまま同じような機会に恵まれずに、そのうちそういうことを出来ないような状態になっていくことだって考えられる。それは空しい生き方だとは思わないか。できるかできないかわからない未来よりか、今できるというその「今」を大事にするべきなんじゃないだろうか、と、なんとか休みを取る方向へと思考が傾いていった。「今」を大事にしよう、なんて他人から、それも上から目線で働きかけられることもあるけれど、ぼくはそういう他律的な意味での「今」を大事にするようなことはちょっと違うと考えているところがある。やっぱり自分から感じる、「今」なんだ、という気持ちに従うという自律的なやり方が、本当に心から誇れるような自分自身の生き方なのだろうし、その生き方にこそ責任というものだってはっきりと持てるものなのだと思う。とにかく、大事な「今」だ、というように考えが落着して、ぼくは次の日店長に、言いにくかったのだけれど
「どうしても、仲間とこういう催しは初めてなので」
とお願いして、八月最初の日曜日を休みにしてもらった。繁忙期である、子どもたちが夏休みの日曜日を休むなんて、まったく空気を読まないというか、他の人たちに迷惑をかけてしまう行為なのだけれど、馬券計画のために思いがけずやってきた、それまで長く引きこもりがちだったぼくらにとっては帰ってきた青春、もしくは遅れてやってきた青春のように感じられるものを久しぶりに体験することを、労働の神様がいたなら、よく頑張ってやってるからご褒美だ、ときっと許可してくれるものだと我田引水に想定することでなんとか気持ちを整理した――とそんな心の動きをちょっと客観視してみると、自分はけっこう奉公するタイプなのだな、とそのとき思い当たることになった。こんな性格だと、もしも過重労働を強いる会社に就職してしまったら骨までしゃぶられるかもしれないとぞっとしたのだが、ぞっとしておきながらも、そんなことになったらすぐに辞めるだろうな、根性ないし、と気が付いて、どろりとした生ぬるさが心を覆っていったのだった。

 集まる当日の土曜日は、三時半までの仕事なので、退勤してから一度帰宅し、着替えなどを済ませて五時に川原に行くことになっていた。そんな都合だったから、茜とカズには事前に、肉とか野菜とか飲みものとかジンギスカン鍋とかの買いだしをしてもらった。自転車で川原に向かう途中、きっと茜たちはもう焚きつけたたき火を囲んで、いつものように歌を唄っているんだろうな、今日はなにを唄っているのだろうかと想像し、楽しさとうらやましさが一緒になって頭と身体いっぱいに張りつめてきて、それによってペダルを漕ぐ足にいっそう力がみなぎって回転を速めた。
 だが、着いてみると、予想とは裏腹に、二人はそれぞれうつむいて黙りこくり、折り畳み式のイスにちょこんと鎮座している。なんだ、喧嘩かな、と心配になって、それまでの楽しさとうらやましさが、パンクしたタイヤから漏れ出る空気よりもずっと速く、しゅうしゅうと音を立てる間もなくその光景を見るやいなや直ちにぼくから抜けていった。
「お、お、おう」
と、どもりながら声をかける。茜は何も言わずに手を挙げてこちらを見る。カズはやや遅れて、
「おつかれさん」
とかすれた声を出した。
「なんか、静かじゃないか。喧嘩でもしてるの」
とおそるおそる訊いてみると、二人は首を横に振る。
「なんだよ、どうしたんだよ、元気ないな、二人とも、おいおい」
と大きめの声ではやしたててみると、なんとか、寝床から起き上がるように二人のテンションはやや上がっていったような表情になった。さらに
「せっかくなんだから楽しもうよ、なあ」
と笑顔であおってみると、茜もカズもなんとかいつもの親密な雰囲気をやっと醸しだし始めて、よかったあ、と安心すると同時に、笑顔あるところに幸せがやってくるという社長の朝礼の言葉がちらりと頭をよぎった。三人で笑顔になって、幸せを掴もうじゃないか。
 燃料となる枯れ木をブロックで囲んでそこに新聞紙を詰め込み火をつける。いつもならそれだけのたき火のところだが、今日は備長炭も買ってきてもらっているので、いつもよりも長く火を囲んでいられるだろう。鍋を設置して肉や野菜を乗せる。さあて宴の始まりだ。いつもと変わらぬ心安い感じに一応はなった二人とともに、まずはペットボトルのジュースで乾杯をした、ぼくらの計画がうまくいきますように、という願いを込めるのを忘れずに。
食べながらそれぞれの近況を報告し合おうと思っていたのだけれど、川原に着いた時の空気が空気だったのでなんとなくそれは避けて、インターネット上で流れている最近の面白いトピックを紹介してまずはカズと茜にノッてきてもらうのを期待した。ぼくは、カラスの寿命は通常は十年から三十年もあって、それ以上生きる個体もいるらしく、そうなると人間の言葉を解するようになるものもいるらしい、という最後のほうは本当だかわからないような話をした。でも、茜は、どおりで、と首肯く。
「きっと、人間のやってることの意味がわかってたりするよね。お通夜とかお葬式にカラスが集まるでしょ。もっと言うと、それ以前に、死んだ人が出た家の周りの電線にも、そうとわかってる感じで大勢集まるよね」
「あのちっこい脳みそでねえ」
とカズが羊肉をほおばりながらあいづちを打つ。ぼくは
「人に対する識別能力もかなりのもんだよ。カラスってたまに人の頭を蹴飛ばすんだけどね、上空から急降下して。大学とかでもさ、一年生が狙われることが多いみたいなんだよ。その地区に初めてやって来た人間に対して、たぶん、先輩面してやってるんだと思う。よく見てるし、わかるもんだよな。ちなみに蹴飛ばされると血が出るよ。首の負担もかなりのもんだ」
そう、ちょっとした知識を披露すると、茜には
「さては前に蹴飛ばされたな」
とバレてしまった。そんなこんなで、場は少しずつ温まっていき、続いてカズからもネット上の面白い話題やニュースが飛び出して、笑いの花が咲きながらどんどん時間は過ぎていき、いつしか夏の薄曇ったような夕闇が迫る時刻になっていた。
 もういい頃かなと思い、カズに、さっき元気がなかったけどどうした、と問いかけてみた。何でも話せよ、相談に乗る、と。彼はいくらか口を開くのを重そうにしていたのだが、やがて話しだした。それは、工場にあまり慣れなくて、仕事が遅いことに周囲から文句というわけではないのだけれど、厳しい顔つきとか目つきとかがよく向けられて、最近だと、投げかけられる言葉にも険があるように聴こえて、毎日自宅に戻ってきても、疲れが抜けないし眠りも浅いし、どうやらストレスを抱えてしまったということだった。カズの困った顔が、苦悶をたたえた彫像のように、本当に救い難い表情に、炎によって照らし出されて見える。
「そうだったのか。大変だったな、カズは。なあ愚痴っていいんだよ、茜にだってさ、俺たち仲間なんだし。そのほうが健康的だと思うし」
と鬱屈しそうなカズの心境を思いやって、もやもやを解き放つ方向へ誘おうとする。茜も、そうそう、言っていいんだよ、いくらでも聞くよ、とやさしい。
「ありがとう、やっぱり、二人と友達で嬉しいよ。一人だったら潰れてるところだわ。今度から愚痴らせてもらうか」
とカズは苦笑いする。一方、茜の元気の無さはどうなんだろう、カズと似たようなことなのかなと思って、なにかあったんでしょ、と訊くと、うつむいたり顔を背けたり、なかなか告白しようとせず、そのうち、
「わたしはあとで」
と、話を打ちきった。
 そこで沈黙が訪れるかと思いきや、おもむろにカズが、唄おう、唄おう、とぼくと茜に催促しだした。茜はすぐにその気になって、
「それじゃ、『やさしさに包まれたなら』唄おっか」
と歌を指定する。荒井由実の名曲だ。たき火を囲んで人気のない静かな川原で、大声を張り上げるでもなく音程重視にささやかな感じで唄う『やさしさに包まれたなら』はよかった。それは夏の夜の蒼黒い闇を柔らかく波紋のように波うたせ広がっていくかのようにして、消えていく唄声だった。唄い終わると、ぼくらは何も言わなくなった。パチパチというたき火の音の存在感が増す。
 しばらくして茜が、思い出したように持ってきたエコバッグから福島産の桃を取りだしてぼくとカズに一つずつくれた。それまでけっこうな《間》に対して、無理にというわけではなくて自然なかたちで、呼吸だけをするように黙ってそのまま座っていたせいか、ぼくはなんだか自分の部屋に居るときのような、誰に気兼ねするでもなく寛いでいるときの気分になってきていた。他人といると、まるで自動的にちょっと元気な自分になったり、いわゆる《つくった自分》に、その他人がいつもつるんでいる茜とカズであっても少なからずなってしまうところがあるのだが、その《つくった自分》の膜が一枚べろんと剥げて、むき出しの、ほとんど素の自分になってしまったかのようだった。これは、カズや茜のような親しい仲間ではない他人と、長い時間顔を合わせていてもなることでもある。そうしてそうなる時には、会話していても、普段とは違う発想の言葉が飛び出したりする。それは、ややもすると、現実的な考えに基づいていることが多い。そんなテンション感覚でも、福島産の桃のおいしさにはストレートに感銘を受けた。
「うまいよ、茜、桃ありがとうね。やっぱり福島の桃って鉄板だよね」
と感嘆していることを茜に伝えれば、カズも
「今度から福島の桃は箱で買うわ。で、朝昼晩、毎食桃でいいわ」
とおどけているのだか本気なのだかわからないのだけれど、興奮気味にそのおいしさを讃えながらそう宣言して、それについて茜は
「そんなに一気に食べたらおなか壊すよ」
と笑ったのだが、それはとても嬉しそうに見えた。
「検査でも検出限界値未満だったりするんでしょ」
と茜に質問してみると、彼女は笑顔のまま
「そう。大体そうみたいだよ。だってね、農家の人たち、苦労したし、かなり工夫もしたみたいなの。だから、そのかいあって安全でおいしい桃なんだよ。胸を張って全国にお届けできる」
と強く言いきってくれた。いまだに残っている風評被害、しかし、ぼくらにはまったくの、どこ吹く風の悪い評判であった。
 そして、そんな会話の雰囲気のその流れのまま、ペットボトルに詰めて持ってきていた水で桃の果汁のついた手を洗いながら、ぼくは再び茜に、ねえ、仕事でなにかあったのかい、と訊ね、愚痴っても悪態ついてもいいからさ、言ってごらんよ、聞くから、と続けた。茜が少しためらうのが見てとれた。言いづらいことなのだろうと、そこだけは見当がつく。だが、茜は心を決めて、じゃ、言うけど、と話し始めたのだった。切れ長の涼しげな目もとが、きりりときつくなった。
「いやな男がいるのよ。北郷大学の大学院生でね、調査員のリーダーの教授の助手をやってるやつなんだけど、最初はいろいろ教えてくれて、いい人かもなんて思っちゃったんだけど、急にね、ちょっと二人だけで話がしたいって言いだして、強引に木陰に連れて行かれてみたら、お金欲しいんだろって言うわけ。え、と思って、でも全然なんでそんなこと言うのかわかんなくて黙ってたら、五千円やるからキスさせろ、だって。ムカッときたんだけど、そこは耐えてその場を離れたの。でも、次の日もその次の日も、もうしつっこいの。なあ頼む、だの、八千円にしようか、だの。ずっと無視してたんだけど、エスカレートしてさ、今度はやらせろっていうんだよ、二万円でいいだろ、すぐ済むからって。なに言ってんのこいつと思って、わたしに触れたら放射能が伝染るけど、いいの、わたし福島の人間だけど、ってためしに言ってみたら、悔しいけどそいつひるんだんだよ、信じたんだね。そしたら教授がね、そのときだけわたしたちが喋ってるのを近くで聞いたみたいで、なにやってるんだってなったわけ。そんでさ、追い詰められた院生の男がなんて言ったと思う、わたしがそいつを誘ってたんだって言い逃れしようとしたの。もう信じられなかった。でも、教授はウソだってわかってくれて、そいつに怒ったんだけど、でも、そいつ、まだ助手として残ってるんだよね。処分は調査が終わって大学に帰ってからなのかもしれないし、もしかしたらかわいい弟子だからとかで、あとで無かったことにされてしまうのかもしれない。ほんと、立場弱いよ、女でアルバイトでってさあ」
聞いていてびっくりした。なんという目にあってたんだと怒りがこみ上げて、いつしか握りしめていた左右のこぶしが震えるほどになっていた。カズも眉根を寄せていて、話を聞き終わるなり
「むごいな」
と一言こぼした。
「でもね、調査はお盆前までで終わるの。それでもう顔を見なくて済むようになる。給料もそこまでだからなあ、また仕事探さなきゃなんない」
と茜はそう結んだが、ぼくは
「もっと前に言ってくれればよかったのに。辞めたって良かったんだよ」
と抗議せずにはいられなかった。茜は苦笑いで、ごめんごめんと謝り、でも、意外と根性あるのかもわたし、と強がるのだった。
 それからはまた、面白い話からそうでもない話までいろいろ喋ったり、ネタがなくなるとしりとりだとかの単純なゲームをしたりしながら夜を明かした。東から上がってこようとする太陽は短い時間だけ朝焼けを作ってみせ、その瞬間、茜はやっぱりその景色を、たぶん震災のときに重ねるようにして見上げていた。
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