Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

『もっと知りたい ガウディ』

2020-01-27 22:54:54 | 読書。
読書。
『もっと知りたい ガウディ』 入江正之
を読んだ。

株式会社東京美術から刊行されている
『もっと知りたい 生涯と作品』シリーズの建築家・ガウディの巻です。
彼が手がけた建築物のなかでは、
スペインにてまだ建設中の大作であるサグラダ・ファミリアが一番有名ですよね。
たまにテレビ番組で取り上げられるので、ご存知の方も多いはず。
サグラダ・ファミリアは集大成だろう、と考えていましたが、
彼の死後、サグラダ・ファミリアに関する数々のスケッチや模型が、
スペイン内戦により失われてしまったことによって、
そうではないという見方もあるようです。
弟子たちなどによってサグラダ・ファミリアの模型が復元されたり、
完成予想図を作ったりしたそうなんですが、
手法や精神が失われたままで「ガウディの建築」と言えるのか、
と疑問視する声があることが、本書の最後のほうに述べられています。

有名な、代表作とまで言われるようなサグラダ・ファミリアに、
そんな内情があるなんて知ってしまうと、
残念な気持ちになりますが、
本書では、初期から晩年にいたるまでの
彼の建築を写真と解説文で紹介し、
ガウディの建築家としての生涯を駆け足でたどれる作りになっています。
ところどころ、難しい用語と、幾何学的想像力を使う場面がでてきますが、
構えることはありません。
わかりにくいところを飛ばしても、
ガウディ作品の写真から、響いてくるものがあります。

初期の頃から、ガウディは細部にこだわり、
みっちりとひとつの建築物のミクロからマクロまで
意識しないところはないような作り方をしていたようです。
それは、作風が変わった後期にしてもそうで、
後期のあのうねったような生々しさのある建築でさえ、
イメージ性だけで作られたものではないのか、と
創造というものの認識を新たにするような印象を受けます。

小さなところから大きなまとまりまで、
これはこういう意味合いだっていう意識がはっきりしていて、
その総体としてひとつの建築物ができあがっているような感じを受けるんです。

後期の建築なんて、「すごいところに行ったなぁ」と素人目にも映ります。
でも、それがいろいろ歩き回りすぎて袋小路に迷い込んでしまったのではなく、
新たな、誰も知らない地平を見つけた感覚があるんです。
誰も知らないものが「発現した」と言いたいくらいですが、
たぶん、ガウディからすると、発現ではなくて「発見」になるんだと思います。

こういうガウディの言葉が載っています。

「創造は人間を通して絶え間なく働きかける。
しかし、人間は創造しない。発見する。
新しい作品のための支えとして自然の諸法則を
探究する人々は創造主と共に制作する。
模倣する人々は創造主と共には制作しない。
それゆえ、独創とは起源に帰ることである。」

意訳すると、
枝葉末節よりも幹を見よ、
その幹からあふれ出ているものこそが創造だ、
それでいて、全体にアンテナを張りなさい。
みたいになります。
僕のイメージだとそういう感覚ですね。

本書は、楽しいし、おもしろいし、
感嘆しちゃうし、わくわくするし、でした。
ただ、読んでいて、脱線気味に次のようなことも考えたのです。

先日読了した『砂糖の世界史』では、
1000万人の奴隷狩りと奴隷たちによる、
主に砂糖などのプランテーションで得られた富が
イギリスをはじめとするヨーロッパの強国を潤わせ、
産業革命にも繋がっていったものと説明されていました。
ガウディのパトロンも、製糖業や奴隷狩りで得た潤沢な富を基盤としています。

これだけ、後世の人たちまでわくわくさせるものを創ってきた
ガウディなり芸術家なり音楽家なりも、
パトロンの存在なしでは語れないとすると、
そこには黒人奴隷の人生を容赦なく搾取してきた上で成り立っていた、
という業が浮かび上がってくる。
そういう裏側を見据えようと思えてくるのが、
人生折り返しの時期ならではなのかなあ、と自分を鑑みると思えてきます。

また、乱暴な類推かなとも思うんですが、
すばらしい仕事を残しても私生活ではどうしようもない、みたいなのも、
他者のLifeを搾取してやってる仕事であって、
依存的なものだと言えなくないかな、と。

すごい作品を残したから手放しでたたえよう、とされる人のその裏側で、
いろいろと踏み台にされたものがある。
競争社会でしょ、と言われればそれまでかもしれないですが、
それは都合よく言われただけのものじゃないのかなあ、
と大いに腑に落ちない部分があります。

そういうところも踏まえつつ、
今後の読書や思索に活かしていきたいです。


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それは本当に「矛盾」?

2020-01-25 23:22:39 | 考えの切れ端
最近おもうんです。

「筋が通っている!」とか「矛盾してないね!」とかって、
まあ、その度合いによりけりなんですけども、
表面上、そうやって上手に合一したがために切り離しているものがあって、
その切り離し方が多くの場合、性急ではないかと。
一見、矛盾するものでも、その行間を考えると、
その矛盾のまま飲みこんだほうがベターなんじゃないかな、だとかないですか。

その矛盾の行間を見てみると、
どうやら完全に相反していない矛盾だったと感じるんだけど、
それを今すぐ言葉で表現して説明できないし、
かといってうまい言葉をみつけるには30年かかってしまいそう、
みたいなこともあると思うんですよ。経験上そうです。
で、「直観が大事」っていう主張であり言説でありが世の中にはありますが、
それってこういう場合なのではないでしょうか。

「なんでも言葉で説明してみろ、説明できないことなんか認めないよ」という態度は、
会社なんかではふつうだけれど、
それは会社だからそういう守りの姿勢でいなければならないというのはわかるような、というか。
でも、そういう牛歩的あゆみだと飛びこせないものがあるんですよね、という話なんです。

「言葉で表現できる論理が、基本であり絶対」では、
木を見て森を見ず、みたいになってることがあるということです。
それをやるとスピードは遅くなりますが、
行間があることに気づくのと、行間をじいっと眺めてみることは、
「ほんとう」をわかるために大切ではないでしょうかねえ。
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『砂糖の世界史』

2020-01-24 20:47:33 | 読書。
読書。
『砂糖の世界史』 川北稔
を読んだ。

いまやありふれた、なんのことはない食べものであり調味料である砂糖。
貴重品だった時代までさかのぼり、
どのように普及していったかを、
イギリスを中心にその歴史をなぞっていきます。

もともとはイスラム世界がその製造方法を知っていたのだそうです。
製糖方法はヨーロッパへは門外不出の技術だったのですが、
ヨーロッパを凌駕していたイスラム世界の勢いが弱まってくると、
占領されていたヨーロッパの土地をヨーロッパ人たちは奪い返し始め、
そのときに製糖方法も奪取したのだそうです。
その当時は、地中海の島々やスペインなどのヨーロッパ南部で砂糖きびが栽培され、
それらが砂糖に変えられていた。
重労働でしたが、もはやこういった初期の頃から奴隷をつかって生産されていたと。

このあと、大航海時代からカリブ海での
砂糖プランテーションでの大生産時代を見ていくことになるのですが、
砂糖と奴隷はあわせてひとつといったくらいに密着したものだったようです。
砂糖を栽培しようと思わなければ、アフリカで奴隷狩りもなかった。
そのあと、綿花や茶、コーヒーにタバコなどの
プランテーションにも黒人の奴隷が使われていきますが、
1000万人以上が奴隷狩りによって、故郷のアフリカから連れ去られ、
人権などない生活をさせられていた。
ぎゅうぎゅう詰めの船内では、脱水症状や伝染病で命を落とすばかりか、
連れ去られた恐怖と不安で、海に飛び込んで自殺する人もいたそうです。

そこまでして手に入れたい砂糖。
それは薬とされもしましたが、
やはりその甘味を渇望していたのと、
砂糖を所持していること、味わっていることが、
貴族のステイタスとされたことなどから、
特にイギリスでかなり欲しがられたそうです。

生産するだけ売れて消費されていく。
労働費用は奴隷を使っているからそれほどでもない。
そうやってプランテーションの農場主や商船を持つひとたちは
どんどん潤っていったそうです。
どこまでも儲けたいという強大な金銭欲が、
アフリカの黒人たちや、カリブや南北アメリカの先住民の命を
まるで考えの外にほうった状態でヨーロッパ人たちを突き動かしていった。

そういった罪深い事実の上に、
産業革命があり、
今日の南北問題がある。

本書は、そういったことを、
地に足をつけながら、一歩一歩あるいていくようなペースで、
ざっと知っていくことができる本です。
これぞ岩波ジュニア新書!と言いたいくらいにわかりやすく、
そして内容が薄くありません。

砂糖の歴史を追っていくうちに見えてくる、
ダイナミックな、人間の深い業が、
読者に自問をさせもすると思います。
いいのか、これで、と。
欲望に狂った長い時代の上に、今がある。
その今も、おかしくはないかな?
と考えてみるのも、おもしろいと思います。

良書ですので、おすすめです。


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『カモフラージュ』

2020-01-22 23:30:48 | 読書。
読書。
『カモフラージュ』 松井玲奈
を読んだ。

女優で、元アイドルグループSKE48の中心メンバーだった
松井玲奈さんによる短篇集。デビュー作です。

6篇の短篇、それぞれがすべて方向性の違うもので、
「どんな枠にも柔軟に対応してみせる」かのように、
自分なりの作品を作り上げています。
意欲的で、野心的です。
そして、文章力や構成力、発想力には確かなものがありますが、
たぶん、6作品を書いていくうちにも、
それらのレベルが上がっていっている印象です。

では、いくつか、感想を。
まず、オープニングを飾る「ハンドメイド」を。
僕もちょっと書く人だから気付くようなところはあるんだけれど、
たとえば細かく語りすぎて野暮ったくならないように、
文章に抑制を効かせることってありますが、
それによって行間が広くなりすぎるというか、
伝達不足になるというかはある。
序盤にそう感じたところはあった。
でも、彼女ならではの視点はあるし、
文章もうまく書けていた。
引いて見たときの文章感、
たとえばつまり比喩の比率やタイミングなどがわかりやすいところだけれど、
そういうところだとか、
長いのと短いのとの文章の組み合わせ方だとか、素人ではなく思えた。
芸能人作家だと思って読むと、かなり感心させられます。

そしてなにより、話に血が通って感じられた。
さらに結末部分での統合感がすばらしかった。
伏線は、伏線というより並行するテーマという感覚がしたし、
それらがうまく結合して相乗効果を生んだ上にドッキングの仕方が自然で柔らかい。
知性とかフィーリングとかを併せてうまく使ってる感じです。
読み終えて、題名の「ハンドメイド」がどんな意味合いなのかと考えたのだけれど、
つまりはちらと出てくる「即席」なる言葉の対義語としてなのかなと、
自分なりのオチをつけてみた。
松井玲奈さん、書き続けていくのは大変かもですが、
がりがりやっていくともっと巧みな書き手になりそうだと思いました。

続いて、「ジャム」を。
こういうホラーのトーンのものも書くのかー、とびっくりした。
最初から乱調的な文章があったから、さては内容もと思ったけど、
思ったよりずっとすごかったですねえ。
力が抜けている感じで気持ちよく執筆できている印象なのが恐ろしいです。
松井さんはいろいろなものを読まれているようだし、
映画もスプラッタなのをよく観ているのだろう。
なんか、昔観た『ファーゴ』を思い出しました。
あれのあのシーンが、
けっこうこれのこのシーンと似ていますからね。
しかし、なにしてくれるねんと。
なに読ませるんだよ、って笑ってしまった。

そして、「いとうちゃん」を。
軽快なテンポで語られるお話。
読んでいるほうも、つい前のめりになってしまう。
しっかりした文章力だと思いました。
それまでの二作に比べて饒舌感があり行間が狭い感じがして、それが効果的。
いろいろ試してるってことですよね。
内容もメイド喫茶の中身をわかって書いていて、
そういうのって僕はテレビで特集をみたくらいなものでほとんど知らないですから、
「はー」とか「ほー」とかと頷きながら楽しみました。
松井さん、こりゃ書き手として光るものを持ってますよ。
ちょっと、「やるな」と思って構えちゃいますから。
話を最後にたたむのも上手。

で、残りの三作品については書きませんが、
著者は、いろいろな枠の中に憶せず飛び込んでいって、
だいぶ暴れましたね。
暴れただけじゃなくて、理性でまとめています。
そういうのこそ、巧みさなんだと思います。

帯に、
「誰もが化けの皮をかぶって生きている」
とあるんですが、
本書はこの一言につきますね。
言い得ています。
さまざまなカテゴリーを横断しつつ、
『カモフラージュ』という一冊の本を貫通しているテーマがそれです。
そういうことだってしてしまっているんだから、
間違ってもあなどってはいけません。
煌びやかな世界から、
ネームバリューで文学の世界に飛び込んできたと見たとしたら、
それは見損なってしまっています。
普通に、ひとりの女流作家さんがデビューしたのだ、
と捉えるべきなのでした。


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『「アメリカ50州」の秘密』

2020-01-19 20:20:38 | 読書。
読書。
『「アメリカ50州」の秘密』 松尾弌之 監修 株式会社レッカ社 編著
を読んだ。

「はじめに」の部分からもうわくわくしました。
古いフランス語を日常語として生活している土地があるだとか、
空港にスロットマシーンが並んでいる(1000台も)だとか。
アメリカにはこんな一面があるのか、
と空想の羽がばっさぁと開いて臨んだ読書です。

50州プラス、ワシントンDCを入れて51の項目について
4ページから6ページの紙幅でもって語られていきます。
駆け足ですね。
でも、51項目をふむふむと眺めていく行為、
それも農産物はどうだとか工業はどうだとか、
地形だとか文化だとかをつぶさに読んでいくと、
なんだか教科書を読んでいるような気分になってくるので、
少しずつ読み進めました。
なにも、暗記する必要は無いのですが、
暗記しないと損する、みたいに、
覚えておいたら得だしおもしろいなあという情報だらけなんです。

日本の都道府県全部の特色とか、街の名前と特徴とか、
そういうのすらちゃんと知らないのに、
アメリカについてのものを読んじゃうのかよ、と
自分に突っ込みたくもありますが、
興味があってさらにおもしろいんだからしょうがないです。

それにしても、それぞれの州がほんとうに独自色を持っていて、
こんなにアメリカって複雑というか、多面的だったんだなあと驚きます。
「多即一」っていう言葉がありますけれども、
まさに、さまざな矛盾すら含んだ州たちからなるアメリカという一つの個。
それだけ個として奥深い印象を受けざるえません。
一筋縄ではいかないし、
ダメージをうけても、必ずどこかの地域から立ち直ってくるような
そんな粘りのある国というイメージを持ちました。

ニューヨーク州をはじめとする東海岸の、
アメリカの古さと洗練された感じがあわさったような文化。
カリフォルニア州をはじめとする西海岸の、
開放的で、たくさんの世界的有名企業が本拠にしている華やかさ。

南部には古くから奴隷州として黒人差別をしてきて、
今もその名残が強く残りながらも、
JAZZやブルースやいろいろな音楽が生まれた強い文化がある。
中部には小麦やとうもろこしなどの農業、
牛肉などのための牧畜といった生業がある。

環境問題に敏感で、
環境汚染をしないように気を使っている州もある。
人種差別が盛んだったり、治安が悪かったりする州もある。
尊厳死(安楽死)が認められている州もある(オレゴン州とワシントン州)。

まあ、そういうのを見ていけるんです。

また、州は国みたいに強い権限をもつ自治体なのがアメリカ、みたいな説明を読み、
それぞれ独自色のある州をみていくと、
なるほど日本を道州制に、とか地方分権をとかいう人たちは、
こういうのを踏まえて言ってたのかなあと思えました。
悪くないなと思えました。

まず地方紙を読み、
全国ニュースのニュース週刊誌なんかはそのあとっていうスタイルが
アメリカ人なんだそうで。
ローカルあってからの国・中央であり、なんだそう。
日本は、まず中央・国っていうところに目がいきますよね。
僕はそういう部分では、アメリカのあり方にいいなあと思っちゃいました。

そりゃ、世界をよく知る、広い視野で物を見るのはとても大切なんだけれども、
個人的な幸福感を考えると、
自分の身に近いところから始める意識が強いほうがよいような気がした。
ローカル一色に染まる必要は無くても、
ローカルは捨ておけないし大事っていうスタンスを再考したらいいんじゃないと、
ごく個人的に思った次第です。

300ページちょっとのアメリカめぐりではありましたが、
それでも、「アメリカはとっても広かった」
と言いたくなりました。


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「正常」と「障害」とを考えて見えてくるもの。

2020-01-18 22:43:26 | 考えの切れ端
「正常」っていったいなんなんだ?
って考えていくと、答えの出ないような考え事になりませんか。
正常なんだからちゃんとしなさい、とか、
障害があるからやらせられない、とか、
そういういちいちがわからなくなる。
また、障害の傾向があってそれが周囲を苦しめていることだってある。

障害の傾向があることを自覚させて、
他者のいうことをきかせるだとか自己規制してもらうだとか、
簡単なところではそういう方法が採られると思うのだけれど、
それはやっぱり他者側の都合を優先していて
「迷惑をかけるな」と壁(遠距離)をつくるやり方じゃないかなあ。

だけど、社会としてはそうしないとうまく回らないところがある。
そうしないと社会経済が滞るとか、
個人レベルでは障害傾向のある人もその周囲にいる近い人も労働に差し支えるとか、
どっちを犠牲にするといいか、みたいな選択にぶつかる。
人間が社会的な生き物でありその縛りから逃れられない以上はそうだ。

で、多くの場合、
障害傾向のある人よりも正常傾向にある人を選ぶ方が
社会としては選択肢(可能性)が広がるように見えるから、
障害傾向のある人のほうに規制を強いるようになる。
障害傾向があってものびのびと生きていてほしいけれど、
うまく折り合いをつけるいいポジションってなかなか見つけられない気がする。

ただ、このような思考は、
社会というものはある意味でもう決まりきった前提なのだ、
という固定観念といっていいものに支えられているんですよね。
たとえば日本だと、資本主義の社会だから、
生産性が大事だし効率が大事だし合理的でなければいけない、
と信じ込まされているところがあります。

いやいや、資本主義じゃなくても社会主義や共産主義でもいいんですが、
とにかく社会というものはもう国際競争(国家間の争いも含む)にさらされているから、
国力を強化したり保持したりしていかなくてはならないわけで、
それを最終目的として末端までお金を稼ぎなさいと強いる性格がつよいと思います。

お金持ちっていいものだ、という価値観が浸透すると、
みんながんばってお金を稼ぎだす。
そうやってお金が潤うようになっていくと国力も充実していくでしょうから、
お金を稼ぐことが奨励されるっていうのはあると思います。

話を少し戻して今の話と合わせてみると、
国が他国と張りあうためにはお金が必要だから、
侵略されたり不平等条約を結ばされたりしないために、
民衆にはたっぷり働いてもらって、
経済は大事すぎるくらい大事に思ってもらおうっていう意図があるんじゃないか。
そういう、お金の価値が高い状態が「正常傾向の人」を好む。

障害傾向のある人は正常傾向にある人よりお金を生みにくい、とみなされるや、
お金第一を前提としている社会観が、
障害傾向のある人の生きにくさを助長していくんです。
命、Life、よりも、経済が大事っていうのが
今の動かせざる社会観になっているからってことになります。

だけれど、国家間の緊張関係や争いうんぬんがあれども、
その「経済第一を前提とした動かせざる社会観」というものは、
実は刷り込みであって真理ではないと思うんです。
お金よりもLifeのほうが大事だとして、
コストをかけてでも障害傾向のある人にとっても
生きやすい世の中にしていくほうがきっと真理だと思う。

障害者施設で何人も殺されてしまった事件がありましたけど、
ゆるぎない堅い前提として「お金が最優先」という価値観と
そういう世界観が強固な岩盤のように意識せずとも足元を支えていた。
それは僕も含めた大勢の人の足元も支えていて、
気にすることだってなかったくらい。

だけれど、その岩盤は何かを閉じ込めている。
たぶん大切なものがその奥に眠っている、
あるいは苦しみながら幽閉されている。
岩盤に穴をあけることが無理でも、
奥に眠るものを想像することはできるし、
そうやって意識の上に乗せたことで変わることはあるかもしれない
(必ずあるといいたいくらいですが)。

だから、お金第一の今の世界って、
人にはやさしいものじゃないのは当り前、ということになりましょうか。
よく言えばもう「ゲーム」なんだけど、
ゲームの世界に行ったきりそこから戻ってこなかったりしますからね。
なかなか、難しいものです。
何にしても、切実さすらゲームに放りこまれてしまうのは、
やれやれ、と思っちゃいます。

正常傾向と障害傾向を区別しているのには、
効率とか合理的だとかの
経済的な価値観からの働きかけって大きいのかもしれない。

……まあ、はっきりとはわからないですけど。
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『職業としての小説家』

2020-01-12 14:30:09 | 読書。
読書。
『職業としての小説家』 村上春樹
を読んだ。

長きにわたって第一線で活躍しておられる、
小説家・村会春樹さんによる、
まるで継承のための本のようにも読めてしまう本です。
(本人はあくまで自分のために書いているようではあるのですが)

継承しに来る者は拒まず、
でも、バトンを取りに来たからには全力が前提条件、みたいな感じです。
賞の選考委員をこれまでやらずにきたことに
後ろめたさを感じることもあるという村上春樹さんの、
選考委員をやることではないかたちでの社会的責任としての態度かもしれません。

自分にとって大切なことを書けば重くなる。
自分にとって大切じゃない事をかけば軽くなる。
というような方法論には考えさせられました。
試す価値がすごくあります。
ただ、大切じゃない事を、どれだけ自分がわかっているか。
ちゃんとわかっていないと書けないようなところってあります。
だからといって、出まかせで書いてしまうこともなかなか難しいのです。
明らかに浮いてしまったり説得力が無くなってしまったり。
そうならない範囲での大切じゃない事をしぼって書くだとか、
範囲より外に出過ぎないことだとかが大事になりそうだなあと感じました。

そこらへんとも関連してなのですが、
村上春樹さんは作家スタイルを
「結婚詐欺」と揶揄されたことがあるそうですが、
ご自身、小説家は手品師みたいなところがある、というようにおっしゃっています。
なるほど、ですよね。
言い方ひとつで角度を変えて物事を捉えられます。
詐欺はいやだけど手品をするのならいいか、という気持ちは役立ちます。
今度試してみようという気になる。
それで、さきほどの、大切じゃない事を書く際にも、
範囲を過ぎてしまう場合だったなら、
詐欺ではなくて手品として「すかす」ことなく芸としてやってみればいいかもしれない。

すかす、といえば、
村上春樹さんは、デビューした頃から慣れてくるまで、
すかすように作品を書いていたようなところがあるそうです。
でも、正面突破する作品のほうに価値を感じて、
そちらへ転じた、と。力量もついてきたし。
最近でも、すかすことが文芸の作法みたいな感じの審査員っていますけれども、
まあ、それもその人のクセであるということですね。
僕は力量はまだまだだけれど、気持ちは正面突破の方を向いています。
そっちの方向で力をつけていきたいです。

とまあ、村上春樹さんご自身をお手本としたり、
彼の考える小説家像について、いろいろと
「小説家」について見ていく本です。
村上春樹さんはかなりの読書家でもあるので、
その小説家像には言外にですら含蓄を感じるくらいです。
そこに僕自身を当てはめてみると、
まあ、ぴったりな部分と真逆な部分が半々かもしれないです。
小説家の素養だとか資質だとかを問われると、
大したことが無い。
でも、型にはまろうとは思わないので、なるようになってゆきます。

そんなわけでしたが、
エッセイであっても、村上春樹さんの文章って、
なんだかしっくり気持ちが良いのです。
そんななか、長編に掛ける時間と熱の量のすごさには脱帽するくらいでしたし、
さまざまなトピックに、好奇心が刺激され続ける読書になりました。
僕はハードカバー版のを読みましたが(ずっと積読でした)、
今は文庫版でも発売されているので、
手頃なのがよろしいかたは、そちらでこの本に触れてみてください。

著者 : 村上春樹
スイッチパブリッシング
発売日 : 2015-09-10

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『幸いは降る星のごとく』

2020-01-07 23:27:52 | 読書。
読書。
『幸いは降る星のごとく』 橋本治
を読んだ。

女芸人不毛の時代から、女芸人ブームがやってくるまで。
その時代を生き延びていった女芸人たちの物語。

帯に、椿鬼奴さんが
「主人公の女性芸人に、あの芸人に似てるな、
あの後輩こういうとこあるな、わかる!と
フンフン共感しました。」
とコメントを寄せています。
で、読んでいると、最後の方に
「阿蘭陀おかね」という女芸人が登場するんですけれども、
これは椿鬼奴さんをベースにして書いているんじゃないのかな、
というキャラクターでした。

主人公コンビのモンスーンパレスにしても、
なんとなくですが、オアシズの二人が連想されて、
まあ、もっと過剰にキャラクターを作り込んでいる感じですが、
現実のお笑い業界事情をちゃんと見ていて
書いたのかなあと思うところ。

物語の語り方、構成については、
結末がもうほんと、最後の最後のところでオチがついて、
そこに収束するものはあるんだけれど、
小説の面白さとしては、ただ雑多(ではないかもしれないけれど)な
あれこれの記述・描写にあると思いました。
くだけた感じで構成されていますかね。

自己完結がいけない、っていうのがよく出てきたんですけど、
今の時代って、自己完結するのが楽っていう方向に
たとえば40代以上の世代にとっては進んでいっていないかなあと思いました。
僕自身も、自己完結で何が悪いんだろう、って思いますから。
とはいえ、僕が考えている自己完結は完全に完結していないでしょうけども。

ときたま、著者の、世のあれこれに対する造詣の深さが
キラリと光るところがあるんですが、
小説というものにとって、そういうのって本当に必要かな?
という疑問も抱きました。
チラっと光のがそういう経済だとか社会だとかに対する答えめいたものだと、
なんか、それは違うようにも思えてしまう。
頭の良し悪しもあって、僕はそうでもないからなのかもしれないけれど。

橋本治さんの小説は二つ目の読書でした。
また、そのうち違うものを手に取ろうと思います。


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謹賀新年2020

2020-01-04 13:29:10 | days
あけまして、おめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。

昨年は、読書60冊、原稿500枚の目標を立てたと思うのですが、
読書は56冊、原稿は約100枚で終わってしまい、
早い段階から、目標は遠い蜃気楼のように
追いかけても絶対に届かないものになってしまっていました。

なので、今年は目標を立てないことにしますが、
Do the Best!の気持ちです。
量もさることながら、執筆面では向上することを第一にします。
読んで楽しいエンタメを書き、これはと思ったら硬派なものにも挑戦したいです。
すこしわかってきたので、エンタメをやりたいのか何が書きたいのか、
混然としすぎるのは避けられそうです。
あとは、小説的技法、ミクロ(一文一文)でもマクロ(構造)でも
意識して力をつけていきたいですし、
遅まきながら、少しずつわかってきたところがあるので、
ちょっとはできるんじゃないかなあと思いもしています。

昨年末にはカクヨムにエンタメ1万字短編『ランベイビー、ラン』をアップしました。
ちょうどWEB短編賞の募集広告がツイッターに流れたのを見て、
書いてみようと思い立ったんですよね。
なんていうか、自分をパロディにしているわけじゃないんですけど、
手持ちの材料で料理した感じの短編になっていますし、
それこそ、これまでで一番のエンタメにすることができました。
最初の1000文字くらいを書いた時点で設定メモを見つめながら、
こうやったら話がエンタメとして趣のある方向へ流れていくなあと気付いて、
ちょっと迷ったんですが、そっちを選択したんです。
それは、そっちのほうが断然歩いたことのない道だったので迷ったんだと思いますが、
選んでよかったわあ、と心から思います。選んでなかったら人生変わってる、くらいに。
自画自賛する気は無いんですけど、けっこう気に入っていますし、
「これたぶん、誰かに読んでもらっても面白いぞ」
と感じています。
おすすめなので、興味を持って頂けたら読んでみてください。
『ランベイビー、ラン』

また、平成31年ぎりぎりに掌編『平成』を残せましたけれども、
『ランベイビー、ラン』は、
令和元年ぎりぎりにも爪痕を残すためにちょうどよい機会だったのです。
どっちも同じ2019年に書いたものにはなるのですが、
元号で考えると違うので、個人的に記念作品みたいになります。

今年は目標を立てないとさっき言いましたが、
それでもどこか文芸誌の新人賞か地方文学賞に応募するつもりです。
執筆をやっていきながら、例年通り読書を中心に本ブログを更新していきますから、
今後ともご贔屓にしていただきたいです。
よろしくお願いいたします。

そんなわけで、以上、新年に言いたいことでした。

皆さまのもとに多くの幸せが訪れる2020年になりますように。
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