Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

雇用の流動化を考えるときに。

2022-07-24 10:47:22 | 考えの切れ端
雇用の流動化。かいつまむと、転職しやすい社会のこと。人材が流動化すると、産業が発展しやすくなるのではないかと言われていたと思います。しかし、今って雇用の流動化は盛んではないですね?

雇用の流動化が起こりにくいのは、新たな仕事に対する不安のためというよりも、新たな職場で再び自分の立ち位置を構築しなければならないことへのプレッシャーや不安のため、というほうが大きいのではないか。

現場では、つまりひとつの職場の話ではですが、「陣取り合戦」のような、駆け引きや威圧やコミュニケーションなどを含む人間関係のあれやこれやを全力で駆使してその職場での自分の立ち位置を長い時間をかけて確保することが多いように見えます。いわゆる、権力闘争が激しくてつらいというような。

立ち位置が確保できれば、比較的安穏な気持ちで仕事ができる。でもそれまでが大変で、それを職場が変わるたびに、つまり二度も三度も、くり返すのが人々にとって実に重荷だから、他人を蹴落としてでも一つの職場にい続けたいのではないかと思った。

仕事の内容よりも、そういった、職場で自分の立ち位置を確保できるか否かのほうが多くの人々にとっての死活問題で、雇用の流動化を進めたいならば、この問題を緩和なり解決なりしないとならないのではないか。さて、どうしたら……??
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『休息の科学』

2022-07-20 18:29:41 | 読書。
読書。
『休息の科学』 クラウディア・ハモンド 山本真麻 訳
を読んだ。

副題は、<息苦しい世界で健やかに生きるための10の講義>。

休息といえばコレというランキングを10位から順にその効果について一つひとつ分析し解説・検証してくれます。そのランキングは、世界各国18000人からのアンケート結果から得たものです。

最終章に書かれているのですが、いまやアメリカだけでもセルフケア業界の市場規模は4.2兆ドルにものぼるそうです。高級オイルや香り付きキャンドル、高級ブランケット、高価なチョコレートなどなどが例としてあげられています。過激な商業主義との見方もされはするものの、著者はそれでもセルフケアには大きなメリットがあると述べています。それは若い世代が上の世代よりも休息の重要性を理解し始めているあらわれではないか、という点がそれで、本書では休息に隠されたさまざまな事実を、エビデンスを示しながら語ってくれるのでした。そして、本書自体も、セルフケアのカテゴリにおさまる種類の商品であるでしょう。

休息にはこういう種類が好まれていて、こうすればうまくいくから、これがおすすめです、という感じではありません。科学的な視点から分析して、それらから読者自身が自ら取り入れるのです。イニシアチブは読者にあります。「入浴」「マインドフルネス」「テレビ」「空想にふける」などなど、本書で取り上げられる10種類の人気休息方法はすべて、万人に適用できて効果が100%ではないのです。つまり、ここで上げられる休息方法のなかから、自分に合ったものをその効果を十分にあたまでも理解しながら生活に取り入れることができますよ、という体裁なのです。

たとえば、「特に何もしない」休息方法の章で、こんなトピックがあります。p175-176の部分です。フィンランドの首都・ヘルシンキで、1970年代に、平均より高い心臓病リスクを抱える1920~30年代生まれの男性1000人以上が集められました。かいつまんで言うと、被験者の半分は5年の実験期間の間に健康への細かなアドバイスを受けるように指示されました。喫煙習慣を注意されたり、食生活や定期的な運動のメリットについて長々と説かれたそうです。かたや、残りの半分の人たちはそのようなアドバイスはいっさい受けませんでした。その結果が意外というか、なるほどなというか、とようなものだったんです。健康促進のアドバイスを受けたグループのほうが平均死去年齢が低かった。つまり、長生きのための健康アドバイスが、逆の効果をもたらした。というように、「特に何もしない」ことのメリットにあたるところが、上記の文章から学べることでしょう。

また、こんなトピックもありました。
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p171「かつてないほど忙しいように思えるのは、おそらく仕事と余暇の境界線が曖昧になっているせいでしょう。そう命じられたわけでもないのに常に待機しているような自分に気づく人もいるのでしょう。仕事が自由時間をしょちゅう奪うわけでもないのです。単に、仕事が発生する可能性が常にあるのです。緊急かつ必須の用事など入らないであろうときにさえ、私たちは新着メッセージを気にして無意識に携帯電話をチェックしてしまいます。その結果、土曜の深夜や日曜の早朝に仕事関係の新着メールを見つけ、画面を閉じて月曜の朝にまわすのではなく、その場で返信します。もし返信しなかったとしても、頭の中はすでにその仕事に占領されています。これは先進国に限った話ではありません。低所得国でも、一般の人々にとって仕事と余暇の境界線は流動的になっているか、境界線がない場合もあります。」
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仕事に就いていると、つねにスタンバイ状態におかれることを言っているのがわかると思います。経済を回すため、経済競争のため、経済成長のためにこういった状態になるほかない、とも考えられます。そして、そのことが人を疲労させる。だから、休息は大切になるのでした。

また、
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p194
「自宅にいると、タスクに取り囲まれます。ハンガーに掛けてもらえるのを待っているアイロン済みの服の山、接着剤で修理が必要な割れた皿、壁に取り付けなければならないフック、店に返品する必要のある商品。なかには目に見えないのに注意を払わなければばならないものまであります。料金を払い過ぎているなら電力会社を替えるべきかも、自分の年金基金の状況を確認しとかなきゃなど、考え事はつきまといます。これらは「ライフアドミン(生活管理)」と呼ばれ、日常のやっかいもののひとつです。」
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という日常でおなじみのやっかい事について、きちんと言葉にして対象化してくれていたりします。このライフアドミンと、その前のスタンバイ状態を併せて考えてみれば、休日であろうとも、いかに人はうまく休めないものなのかがわかってきますよね。

そのための休息。その重要度が、本書を読んでいると少しずつわかってくるのです。僕が目からウロコだったのは、「テレビ」の章でのこの考察です。テレビがあまり記憶に残らないデメリットについての深掘りの考察です。「人は頭に新しく増えた記憶の量を見て、どのくらいの時間が経ったかを判断する(中略)テレビを長時間見てそのほとんどが記憶に残らないとしたら、時間が経過するスピードは速くなり、人生が目の前を素通りしていくかのように感じるでしょう」とあります。ただ、長時間の連続ドラマのように没入して見るものなんかは記憶に残るし、そういったテレビコンテンツは読書のように「共感力」や「他人の立場から物事を見る力」を養うそうです。それに、テレビによる休息の効能について肯定的なのがよかったんです。僕はどっちかといえばテレビなんて無くてもいいんじゃないかなと考えているほうなんだったんですけど、この本による考察を読んでいると良い意味で考え直すというか昔の考えに戻るというかがあります。

他にも、「読書」の章でも目からウロコでした。

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p312
「読書はふたつの意味で急速になることがわかります。読書することで、ときに自分の心配事から気をそらし、ときにその逆を行うのです。自分の世界から飛び出すときも、思考をさまよわせながらも自分の人生と向き合うときもあります。休息の真髄には、やはりこの衝突があるのです。頭の中で過去に戻ったり未来へ行ったりしながら、自分を逃避させ、同時に自分自身と対面させます。読書は自己認識を排除する方向にも強める方向にも利用できるのです。」

「自分の世界に新しい考えごとを足し、誰か別の人の物語や視点を加えることこそが休息なのだと、気づくのかもしれません。」
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自分のあたまのなかで断片化していた、読書についての印象や感じていたことが、なんとまあ上手に言語化されていることか! ちょっと端的すぎてもうちょっとこれらの周辺部分の文章を読まないとよくわからないかもしれません。そこは本書を実際に読んでみる機会にゆずることとします。

ということで、ちまちまと読みながらも、いろいろな発見のある読書になりました。「自信がなく自分に注意を向けたがらない不安症(p44)」との一節があったのですが、個人的なところで言うと、うちの父親が強迫症だし自分と向き合わない人なので、そういうことか、と納得がいきました。こういうふうに、読者が個人の日常に寄せて読んでみても、なんらかのリターンが得られるのだと思います。もともと本というものはそういう性質のものが多いのだと思いますけれども、本書は特に読む者へ三者三様に作用してくれてさらに実用的と言えるのではないかな。

読んでよかったです。


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短編完成、そして送付。

2022-07-15 09:55:00 | days
もう3日前の12日のことになります。完成した小説を「北海道新聞文学賞創作部門」宛てに送付しました。

今回は85枚の分量になりました。応募規定に「50~150枚以内」とありましたから、どちらかといえば短めの作品ですけれども、これでしたら規定内としては余裕があり、たとえば枚数の原稿用紙換算の仕方が文字数ではなく改行などを含めたものだったとしても十分に収まる範囲です。

原稿は5部そろえて送るのが条件でした。ただ、パソコンから印刷をかけてみると、プリンタからインクが漏れ出てるものがあったり、行がだんだん斜めにずれて印刷されたものがあったりなどのちょっとしたトラブルが発生しました。「印刷して送るだけじゃん」というように簡単に考えていましたので、パソコン原稿で35枚になる作品を5部すなわち175枚をいちいちチェックするとなると、小包にする梱包作業を含めて、暑い部屋で汗をかきながらのひと仕事になったのでした。まあ、ちょっとした作業ではあったのですが、意外と労力がいるんですね……。それで、郵便局で簡易書留にて発送。荷物の追跡で、「受取」を確認し胸をなでおろしております。

作品の中身でいうと、今回は表記ゆれを直すか直さないかでちょっと迷い、無理のない範囲で表記ゆれを残しました。厳格なやり方ですべて同じように漢字にしたり平仮名にしたりなど統一すると、センテンスや段落という単位で見たときに、バランスがよくなく見えたり、もしかすると読みにくいかもしれないと思えたりする箇所がでてきたためです。表記揺れを統一するように、以前はワードの検索置換機能で直したこともあったのです。でも、それだとビジネス文書では理にかなったとしても、文芸作品ではごつごつとしてしまうなあ、と。実際、表記ゆれに気を付けてプロの小説を読んでみると、統一されていなかったりしますし。

内容とその出来でいえば、前回の『春の妻』ほどの切れ味はないものの(これは35枚の作品でしたので、分量的に傾向が違ってくる部分ですが)。読みながらののめりこみやすさでは負けていないし、のめりこんでからラストまでの長さがあり、前作よりずっと作品世界にひたれます。話の展開でも、以前に同じくらいの分量で書いたものよりももたつくようなところがないです。まあそこを逆に言えば、話の横の流れが淀みなくなったぶん、浅瀬の部分が増えたのかもしれない。それでも緩急をつけましたし、作品を縦に読んでもらえる仕組みにも出来上がっていますので、作品そのものの質としては高くなったと自己評価しています。これまでの経験を礎に、構築力は少しずつ積み重ねてこられているのを実感しています。

はじめは「10000字から15000字くらいの作品を、本番へのステップとして練習で」と考えて書き始めました。しかしながら、自分の体調や家庭環境を考えながらだと、時間的に本番の作品をつくるのが難しいのがわかってきたんです。それで、騙しだましではありますが、自由に頭を使って制限なく書ければ、と書いていくうちに、設定の部分が広がり、どうやら80枚くらいになることがわかってきます。とりかかったのは昨年の10月の終わりごろで、実は今年の5月末までには35枚程度しかかけていませんでした。そこからエンジンをかけて、一気に書き終えることができたのです。エアコンがついてない部屋で書きますから、暑くなる前にとやってみたら、なんとかなるものでした。

それで、実は6月の頭に急遽、仕事を決めました。朝8:40~12:40、16:20~20:20の4時間のシフトで働ける販売店でのパートです。これだと、介護や世話、家事をしながら働けますし、読書や執筆にも時間を充てられると思ったのです。が、ここ一か月、なかなか本を読み終えられないでいます。疲労によりそういう時間が減ってしまっている。4時間の仕事だからと思ってナメていたら、動きっぱなしで腰痛にもなるしなかなか疲れる仕事だったのでした。8時間勤務の先輩が「この仕事は疲れる」とこぼしていたくらいで、それなら4時間だとしても新人としていろいろ覚えながらだとこれだけ疲れるのもわけがないか、と納得。4時間だから、仕事の覚えがよくないというのもあり……。それでも、粘り続ければなんとかなるものですからね、こちらのほうも励んでいきます。職場の人間関係に少しばかり懸念はありますけども。

そういったところです。文学賞の締め切りは8/20。10月下旬以降に結果が発表されるそうです。うまく選ばれるといいですけれども。やるだけやったので、あとは待つのみ。待ちながら、いろいろと本を読み、次回作に備えたいです。10月までだったら、次回作の設定くらいは考えてそうですし、ちょっと書いてるかもしれないです。

というわけです。うまくいけばいいねー、という気持ちで本ブログを眺めながら気にかけて頂けるとうれしいです。
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小説は永遠につづく。

2022-07-02 22:59:32 | 考えの切れ端
文芸作品の売り上げが、ここ10年で1/4まで落ちたというニュースを受けて書きます。

文芸作品はセーフティーネットでもあると僕は思うのでした。多様と分散のこの時代に、前時代よりもシェアが減るのは当然なのかもしれない。でも、最初に書いたように、セーフティーネットたりえるものです。でもって、文芸作品を求めるひとって一定数はずっとい続けるものなんじゃないかな。

虚構があるからこそ、現実や人間を理解しやすくなる。虚構は思考実験であり、「それ」があるからこそ説明しやすくなる種類の複雑な問題があるというその「それ」である虚数のようであると言えるのかもしれない。

その虚構が、映画や漫画でいいじゃないか、というのもひとつの在り方だ。かといって、小説がそれらに劣るメディアではないことは知っておいたほうがよいことだし、そこをわかるくらいの知的修練はあったほうがいい。話はまずそれから、としたいけど、それだと門戸が狭いんですよね。

だけど、門戸が狭いことで人を選別しもする。誰でも入ってこられる部屋ではないから、ある人々にとってのセーフティーネットという位置付けになるのかもしれない。

こういった観点をふまえて読む『はてしない物語』は味わい深そうだ。バスチアン少年の居場所(安全地帯)としての文芸作品があり、彼はそれを楽しんで読んだ。それでいて、いいことばかりじゃないんだぞ、ということまで教えてくれる作品でしたね。

文芸の文化はとにかく残していくものであって、そりゃあ資本主義上での金儲け(錬金術)とは相性が悪いのかもしれないし、昨今のコスパ・タイパの風潮のなかではとくに分が悪い。でも、その芯はしなやかで強靭で、さらにいえばずっと未来の奥まで続いていっているのではないか。

文芸の出版はNPOがやる、なんて段階に将来なったとしても書き手は出てくるし読み手はい続けると思うな。まあ、そのうち大ブレイクするなんていう分野ではないだろうし、「伏龍」だなんて言い方は違うでしょうが、それでも雌伏の時代に入っているのかもしれませんね。

それでも、僕は言う。「小説は永遠につづく」と。
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