Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

『絶体絶命でも世界一愛される会社に変える!』

2020-09-23 01:07:16 | 読書。
読書。
『絶体絶命でも世界一愛される会社に変える!』 石坂典子
を読んだ。

埼玉県入間郡三芳町にある産廃業者、石坂産業。
ダイオキシン騒動を乗り越えるどころかそれをバネにし、
ピンチをチャンスに変えるがごとく、
大きく飛躍していきました。
本書は、その道程を社長自らが語る本です。

逆境、逆風のなか、次々と手を打っていきます。
多額の資金をかけた焼却炉をつぶすときであっても、
その意味合いは後ろ向きではありません。
前を見据え、会社を存続させていくための、
「攻め」としての後退だったりします。

それから、社員教育をおこない、
掃除や整理整頓を徹底させるようにしていきます。
産廃業のマイナスイメージをプラスに変えることが、
石坂産業を存続させていくために必要だ、と考え、
打った手なのでした。

それまでの産廃業者といえば、いわゆる「最後に辿り着く仕事」的な業種で、
石坂産業でも、そこに集まる人の素行はよくなく、
休憩所にはヌードポスターが貼られ、エロ本が散在していたりもしたそう。
そこを、二代目の三十代女社長の見回りからはじまって、
徐々に解消していく。
規律とルールで矯正していくような戦略をとります。
この戦略に対して反発する社員は多く、
半年間で4割の社員が退職したそうです。

規律とルールで縛られるのは、僕も嫌いですし、好きな人はなかなかいないでしょう。
会社から、つまり他者からぼお仕着せで動かされること、縛られることを
「他律的」といいますが、「他律的」でいるとどうにも窮屈ですし、
自分で生きている感じがしませんし、幸福感が損なわれます。
そういう環境での仕事は楽しくないでしょう。
しかし、石坂社長は苦心しながらも、
ある程度、規律とルールが浸透してからは、
社員の自律性と自主性を重視する方向へシフトしました。
これだと、働きがいがあるでしょうし、生きていく充実感も得られそうです。
仕事の中身がハイレベルだったり過重だったりすれば、
なかなかそう簡単には自律性と自主性で得られる幸福感以上に、
プレッシャーによる疲労感がありそうなものですが、
その後の社員数増などから、それなりに会社に人が定着しているふうにも読めるので、
うまくいっているのかなあと思いました。

規律とルールについてですが、アナロジーで考えてみても、
子どもの成長へのしつけっていうものも最初は規律やルールでしつけますし、
そしてその後だんだん自律性・自主性を持てるようになっていきますよね。
そういうこととも符合します。
もうひとつ例を出せば、オシム氏が代表監督をしていた頃のサッカー日本代表は、
規律を重視する、という方針から始まりました。
その後、オシム氏が病に倒れなければ、完成形として日本サッカーは、
自律的に構築していく、選手も観客も楽しいサッカーになったのではないでしょうか。
オシム氏のヴィジョンをそうイメージすることは可能です。

閑話休題。
また、石坂社長は、経験値や暗黙知をデータ化し、
細かい情報もデータ化するといったように、
ナレッジマネジメントの方法を用いていました。
そのあたりも僕にはすごくうなずけました。
ノウハウを客観的に明文化されて目にすることができ、
さらに、誰でもアクセスできるようになると、
いろいろな技術や知識が社内で一般化します。
自分がどんな仕事をしているか、
データ化によってちゃんとわかるようになる点だけでも、
それが自分のやる気にも繋がるものです。
もっと興味を持ってデータにアクセスしたならば、
自分の会社がなにをどうやっているのかもちゃんと知ることができそうです。
そういうのは営業職の人だけがしっていればいいことではなくて、
人事職の人も経理職の人もしっていたほうが張り合いが出ると思います。
また、クレーム処理のときにはこういうナレッジマネジメントはとても役に立つと思います。

最後に、二箇所ほど、個人的にぐっときたところをご紹介します。
社長職に限界を感じていた頃の著者が、友人にも会えないことが多くなり、
やっとあえたときにこう言われるのです。
「あなたの人生っていったいなんなの? お父さんが大切なの?
仕事が大切なの?」
さらに、
「もっと自分の人生を大切にしたほうがいいんじゃないの?」
それにたいして著者は
「そんなことはわかってるよ。でも、どうしていいかわかんない」
と心の中で叫んだ、と。
で、その後、一線を超えて、二人の子どもに怒鳴ってしまうシーンがでてきます。

そんな彼女をなんとか繋ぎとめたのが「間」をとることでした。
とある割烹料理屋さんに行くと、室礼(しつらい)という
四季折々を楽しませる飾り付けがなされていたそうで、
他のお客さんたちはそれを楽しみにもして料理屋さんに通っていたのだそうです。
著者はそこで気づきます。
そうやって季節感を感じて「いいね」「すてき」と思えば、
仕事のことで頭がいっぱいになっていても、少しそこから離れる「間」ができる、と。
以下、引用します
_______

悩みをきれいさっぱり解決するなど、とうてい無理な話です。
悩み苦しんでいる人が多いのは、それだけきまじめな人が多いということ。
私のようなきまじめな人間は、悩みと正面から向き合い、
この問題が解決しない限り、自分の人生は一歩も進めないと思ってしまうタイプです。
四六時中どうしたら問題を解決できるかと考え続けますから、
悩みを接近しすぎ、悩みと自分との「間」がなくなってしまいます。
こうなると、悩みはいっそう深刻になり、さまざまな心の病気の原因にもなりかねません。
ですから、悩みにとらわれそうになったら、
気分を変えて「間」をとるように心がけるのです。
_______

見事な発見をされているなあと感じました。
この「間」は、たとえば西加奈子さんは小説『きりこについて』で、
「現実逃避」という言葉で、
その言葉の持つちょっと悪いイメージをわざと転倒させて表現していました。
これも、悩みや悩みの種になりうるものにたいして接近しすぎないこと、
という意味合いです。

僕は個人的に、自分の親の介護で、それこそほんとに、
「でも、どうしていいかわかんない」
という状態なので、一歩一歩なにかやっていくほかないのですが、
たまにノックアウト状態になることがあります。
そういうときは、問題に接近しすぎているんだなあと
今回、わかることができたのはすごく大きかったです。
まあ、本書の本筋とはけっこうそれていますけれども、
そうやって自分なりに何かを得るのも読書の面白みのひとつです!

というわけでした。
わかるひとだけわかるような、難しい本ではなく、
一般向けに、もっというと、
あまり読書しない人が読んでも楽しく読めるように編まれています。
そこは、著者が本気で、大勢の人に伝えたい気持ちをもっているからだと
察することができます。
里山すら整備して、花木園という公園までつくって、
本気で地域に必要とされる会社にしていった著者ですから、
そのあたりについて語られている箇所も多くページが割かれています。
会社を永続させたい! と願って考えて行動したら、
結果としてよい会社になった、という感覚がしました。
おもしろくて、ちょっと心が熱くなる本でもありました。


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『壊れた自転車でぼくはゆく』

2020-09-18 21:23:56 | 読書。
読書。
『壊れた自転車でぼくはゆく』 市川拓司
を読んだ。

以前観た映画『そのときは彼によろしく』の原作者が市川拓司さんでした。
そしてその当時、僕と交流のあったネット友だちたちが
「市川拓司っていいですよね」
と語り合っているのに接し、
そうなのか、いいのか、そのうち読んでよう、
と思いながら、やっとのことで読んだ一冊がこの作品になりました。

読み終えてですが、いやぁ、よかったです。
祖父の人生の物語を知る孫、というかたちの物語。

生きにくさを生き抜き、純粋かつほんものの愛を知り得た、
邪なところはないのだけれど、でも柔弱かつ素朴すぎるくらいの性格で、
さらにはいろいろな不安神経症的であったり恐怖症的であったりする性質のある祖父。
そして、身体の弱いヒロイン(祖母)・真利子の前向きな美しさ。

彼らを包みこんだ光と闇があります。
光は人間的な温かみであり、闇は人間の憎しみや賢しさに起因するものでありました。
この作品に書かれていることでまずハッとしたのは、
冒頭付近でも語られる、
この人間の憎しみが祖父の不安神経症や恐怖症を作り上げているところに繋がっている点です。

世の中、強迫観念を強くもってしまう人がほんとうに多いと僕は感じていて、
それは局面によっては僕もそうです。
そういった強迫観念の大もとには「不安」というものがあって、
それが恐怖を作り上げてもいますし、
DVなどの暴力とも絡んでいると僕は見ています。
それは支配欲や権力欲といった人間の欲望の根源にも
不安が横たわっているように見えるからですが、
そういった不安から生まれ出るものの大きな一つのものとして、憎しみはあるのではないか。
そして、その憎しみが他者に向けられて、そこにまた新たな不安が生まれ、
その不安が憎しみを再生産していく、という図式があるようにイメージできます。
もっと細かく言うと、不安→強迫観念→(昇華しない強迫観念の果てとしての)憎しみ、となります。

この物語で、不安や恐怖、強迫観念をもつ祖父の心理は、憎しみへと至りません。
そこが祖父の強さでした。
自分で負のサイクルを終わらせることができるタイプです。
そしてそれは強固な意志によるというよりも、
性格的に、精神性的にそうであって、
その根本には戦争体験で男性性を打ち砕かれたから、
という原因を見てとるのも間違いではないかもしれない。
仮にそうではあっても、
祖父は、憎しみを持たない精神性をもつ男性へと再生を果たしたと言えます。
祖父は、男性として欠落している、欠損した精神性をもっている、
と評価されてしまうような人物でしょうけれども、
そこには、自分ひとり丸ごとを賭して「悪」を断絶する勇気がある、と感じられもします。
なまっちょろくて、弱弱しくて、全くもってかっこよくないのですが、
根源的な部分での勇気を持っているのでした。
でもって、そんな祖父が愛というものととても近しかった。
素晴らしい女性と結ばれることができた。
ただ、その関係の儚さは、祖父が、自分にまとわりつくものだけでも断絶しようとしてきた
「悪」による作用だった気がしてなりません。
そんなに簡単に片付くようなものではないですし。

……という感想も、この物語の一面しか語っていません。
もっと豊饒なものが、この300ページくらいの作品には息づいています。
たとえば、江美子さんというキャラクターもとても素晴らしかったですね。

最後の方はうぅぅと泣けてしまうので、一人で部屋で読むことを推奨します。

好い読書体験でした。


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『ニッポンの音楽』

2020-09-16 23:11:07 | 読書。
読書。
『ニッポンの音楽』 佐々木敦
を読んだ。

はっぴいえんど、YMO、渋谷系・小室系、中田ヤスタカ....と連なる40年以上の物語。
最初のはっぴいえんどの章では、
これまで何度もかすってきたことのある有名な
「日本語ロック論争」のところでまたいろいろと考えることになりました。

ロックという西洋音楽ベースの音楽形式には、
当然のように歌詞に英語が乗っている。
単語や文章そのもののリズム感や音、
文章の末尾にくる音が日本語と違って一定ではないところが英語の特徴といえる。
つまり、英語は日本語よりも不規則な音を発するもので、
それが音楽的(西洋音楽的)だといってもいいかもしれないし、
実際にそう言うひとはいます。

僕は20歳過ぎくらいのときに(DTMで作曲していた頃です)、
自分が日本語をネイティブとして育っていなかったら、
はじめて日本語をきいたときの響きはどう聴こえるのだろう?
ということをすごく知りたかった時期があります。
それで、ある夜中ですが、独り暮らしの部屋の小さなテレビをつけっぱなしにしたまま、
疲れて床にごろ寝した時、テレビから聴こえてくる日本語がその意味から切り離されて、
音としてだけ耳に入ってきたように知覚できたことがありました。
それは願望によって無理やりそう感じたような、
ある種の妄想的な出来事だったのかもしれませんが、
そのときの感想は、日本語の音って思っていたよりずっとやさしく、繊細で美しい、
というものでした。

ただ、それが音楽的なのかどうか。
日本語が西洋的なポップスやロックのメロディや曲調に乗っかっておかしくはない。
だけど、緻密で繊細なタッチで音程が上がり下がりする美点があるなかでのひとつの欠点は
パンチが効いていないというところだと思います。
と、まあ、ここは音としての部分であって、
歌詞として聴いて意味に沁み入ったり、
音符とあいまって単語が印象的に響いたり、
そういうネイティブならではの効果って歌にはあるので、
だからこそ、ずっと廃れずに日本語の歌が生まれ続けているんだろう、と
結果からもわかるといってよいのではないでしょうか。
(日本語ロック論争についていまさら意見を書くと、蛇足感がとてもあります……)

本書では、日本語の「ロック」として、
はっぴいえんどが嚆矢であったことから始まっていきます。
(当時のミュージックマガジンでははっぴいえんどは断トツの評価を得ていたそうですが、
メジャーな世界ではどれほどのものだったのかはよくわかりません)
キーワードは「内」と「外」です。
邦楽と洋楽といってもいいです。
本書でメインに取り上げられた、
はっぴいえんどやYMOのメンバー、
そして小室哲哉、渋谷系の面々、中田ヤスタカ。
彼らに一様なのは、とくに外のものに通じた弩級の音楽マニアであったということです。
著者はこれを、リスナー型ミュージシャンと名付けていて、
いわゆる歌手のように歌がうまくないけれど味わいはある、
などの特徴を書いている。

そういったマニアやフリークたちに切り拓かれてきたのが
日本の軽音楽世界なのでした。
経済の発展やテクノロジーの進歩によって、
「内」と「外」の格差や時空間差がなくなった現在、
この先はどうなるのか。
そこもやはり、リスナー型ミュージシャンが
世界を作っていくのかなあという気が僕にはしました。


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『新しい高校地学の教科書』

2020-09-12 22:46:53 | 読書。
読書。
『新しい高校地学の教科書』 杵島正洋 松本直記 左巻健男 編著
を読んだ。

科学的な素養を身につけたい、学び直したい社会人や大学生などに向けた、
検定外の『教科書』シリーズの地学を扱った本です。

僕は小学生の頃に何度も読み返した漫画があって、
それは『地球のひみつ』という学習漫画だったのですが、
地学という学問はまさに、
解き明かされた「地球の秘密」を学ぶためのものだと言えるでしょう。
今回、この講談社ブルーバックスの本書を読んで、
なつかしく思いだした部分も多かったです。
そして、当時読んだ漫画以上に範囲が広く、詳細でした。

岩石や鉱物からはじまり、
火山や地震とそれらに関連するプレートテクトニクスへと続き、
地表はどうやって変化していくものなのかについても考えていきます。
それから、生命の誕生の話へと場面は転換します。
地球環境の変遷をたどりながら、
どうやって地球環境が作用して生命が生まれ、進化してきたのかを古代から追います。
そこで語られる、古来から何度か地球が経ている温暖化と寒冷化にも話は及び、
気象や海洋についての知見についての解説へと繋がっていく。
最後に、太陽系と銀河や宇宙、
そしてビッグバン理論とインフレーション理論から宇宙の始まりについて学んで終わります。
構成がよく考えられていて、流れるように読んでいけます。

そればかりか、地球システムというものは、
陸・海・空・地下・太陽などのはたらきが相互に影響をして、
複雑にからみあって地球環境を成していることがわかり、
さながら、芸術的な奇跡のようにすら感じました。
一筋縄では出来ていなくて、だからこそ、しなやかで強靭でもあるし、
逆に繊細である、とも見ることができます。

トピックとしては、
恐竜のいた頃には二酸化炭素の濃度は今よりもずっと高く、
北極も南極も(今とは別の位置に両極があったのですが)凍てついてなかったことや、
大気をかきまわすジェット気流が台風なんて目でもないくらい強風だということ、
波は風が引き起こすこと、
人体を構成する元素の割合が、
生命誕生のホームである海すなわち海水を構成する元素の割合と似ていること
などなどがあったなあと浮かんできますが、
それらについてもさらに一歩、「なぜか?」のもとに掘り進んでいくので、
読み進めると「うーん!なるほど!」と深い息が出るくらいです。

興味深くもなかなか難しかったのは気象についての箇所で、
高気圧や低気圧についてはついていけても、
「コリオリの力」なんかがでてくるとてこずりました。
こういうところは、読解の論理力とイメージ力が問われるんです。

本書を読了すると、
世界のダイナミックさを垣間見ることができたその気持ちが、
宇宙の果てまで広がるような感覚を覚えました。
世界を知るということは、
もしかすると世界との一体感のようなものを
持つことができるようなものなのかもしれないです。
科学を勉強することで、ある種の宗教的な感覚が生じるんですねえ。
また、学ぶことの爽快感が得られもしました。
いろいろ学び直したり知ったりすることってやっぱりいいものですね。


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『すべて真夜中の恋人たち』

2020-09-04 23:08:29 | 読書。
読書。
『すべて真夜中の恋人たち』 川上未映子
を読んだ。

発表する作品たちがすべて賞をもらっている印象のある川上未映子さん。
そして、新人賞の審査員をされていたり、村上春樹さんとの対談本をだされたり、
なんか凄そうだよな、と思いつつ作品には触れずにきましたが、
ようやく、積読になっていたものを手に取りました。

読みながら、いろいろとその都度考えながら、言葉にしようとするも、
つかみきれなくて、腕組みしちゃうくらいなのでしたが、
読み終わった今ならこういいます、「これは、言うことないなあ」。
想像していたよりもずうっと質が高かった
(まあ、僕ははじめての作家の作品はちょっとなめてかかる癖がありはするのですが)。

哲学的でもなく、気難しげでもなく、
日常のニュートラルなレベルくらいの無理のない内容、
そして、言葉自体も閉じ開きでいえば開いた言葉がおおくて読みやすいし、
目やあたまにやさしいしっていうような使い方をして始まっていきます。
言葉は最後まで読みやすかったです。
これは読者にしてみればすらすら読めて好いことだし、
なおかつ、この作品自体を構成する素材としてもちゃんと適っているし、
両立しているよなあと思えました。

「べつにこれっていう話はないけど、いいじゃん。なんか話しようよ。」
主人公・冬子をお酒を出す店に誘った聖からの電話。
この会話が成立する仲を「目指してきた」なんていうと、
堅苦しいし力が入りすぎなのだけれど、
僕も自然とこの感覚をもとめて人と繋がったり接したりしてきたかなあ、
と人間関係にのぞむ好い力の入り具合を再確認した箇所です。
こういう感覚って好きなんですよね。
だけど僕は飲まないから、
聖の言うような誘い文句へのハードルが高めです。
ささっと言えない。
いくぶんの重みが生じる覚悟じゃないと言えない。
まあ、それだって、人生観・世界観によるもので、
肩の力が入っている人生観をもっているほうがヘンなのかもしれない。

はじめに書いたように川上さんの作品に触れるのははじめてで、
ほうほう、こういう文体で書かれる方なのか、と軽い驚きがあった。
もっと、というか、若干の、しかつめらしさを感じさせるような文章を書くのでは
と勝手に想像していた。

あふれだす言葉が流暢にながれていく感じがする。
おおげさな言い方にはなるのですが、
言葉の洪水感があって、そこに強く細い糸がピンと芯として存在している感覚もある。
だけどなんていうか、とても読みやすいのは同世代だからっていうのはあるのかなあ。
また、読書は、文章を読みながら、言葉たちにたびたびひっかかりながら読んでいくものですが、
その抵抗が軽く、だからといって文章が流れていったあとにはしっかり残っているものがあるので、
内容・意味をすくいとるときに、
より主観的あるいは直感的にこっちがなって構わない文体なのだろうかと思えました。
そういう意味で、思いがけずフレンドリーな文体であるな、と。
それと、はじめの1ページ目、詩的傾向のつよい文章がぐんとこころを揺さぶって、
読み手としても好スタートをきれるのです。

で、中盤まで読むと、もうそういう洪水的に感じた言葉の流れは、
そういった体で安定しているものなので慣れてしまい、
読み手が慣れてしまえば小説の基盤として透明になって作用します。
つまり僕は、ミイラ取りがミイラになるみたいに、
小説をいくらか分析しようとしていても、
透明な働きによって分析すべきものを見失い、
小説の方に飲みこまれていたのでした。

そんな「やられた」状態でもち帰った感想はこうです。
「いろいろと丁寧に書いているし、作られている」。
だから、センテンスも内容もシームレスに移動していく感じがする。
その丁寧さは、ふわりともした羽毛のような丁寧さです。
それも、言わぬが花的に、
お客さん(読者)の意識にのぼらない水面下でなされている。
言い換えれば、抜刀せずに鞘におさめたままで真剣勝負できる、
そして今作では実際にそうしてしまった使い手なのです
(もっとも、抜き身でばっさりくるような鋭い箇所や考察はすこしあるのですが)。
とね、ここだけでもそうですけど、全体をぐるっととおしても、
ちょっとやられたな、っていう感じがします。
もちろん、夢中になるくらいおもしろくて、
離れがたいくらい素敵な小説なんです。

最後になりますが、「これはこうだぞ」っていう、
少ないながらもわかりえた部分をもうひとつ。

今作は主人公の冬子視点ですし、
もっともながら彼女を中心としてはいるけれども、
彼女がちょっと我が淡めの、希薄なかんじのキャラクターなこともあって、
他の登場人物たちの世界や世界観、人生がちゃんと彼ら独自のものとして
独立して存在している中で物語に登場しているんだっていう匂いがすごくしました。
主人公は他の考え方や価値観の浸食を許してしまうんです。
そういう主人公だからこそ浮かびあがったところがあるのでしょうが、
個人それぞれを尊重する度合いは、他の作家よりも強く感じました。
対等なキャラクター同士の群像がしっかりしている、といえばいいのでしょうか。
だからこそ、いろいろな個人世界(環世界)の重なった部分が、
この小説で書かれたものでありました。
さながら、冬子の範囲を広く取った集合図のようでした。

というところです。
もう川上未映子さんの違う作品も手に取らないと気がすまなくなってしまった。
この出合いは、ちょっと事件でした。


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