Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

『きりこについて』

2020-07-31 20:38:24 | 読書。
読書。
『きりこについて』 西加奈子
を読んだ。

最初の1ページ目から語り手に、
「ぶすである」ことを疑うの余地すらないゆるぎない真実として語られてしまう、
きりこを主人公に、200ページあまりを使って、
人間の外側と内側をわからせてくれる小説です。

相棒のような愛猫、ラムセス二世に助けを借りながら、
きりこの人生、そして他の登場人物たちの人生は、
多くの人の人生のように難路を進んでいく。
しかし、読み終えたときには、
みんながその難路を自分なりに懸命に足を踏みしめて
進んできた足跡を見渡せるようになっていました。

読書中に立ち止まって考えたのは、
現実逃避っておもいのほか大切なのかもしれない、
肯定するべきものなのかもしれない、ということでした。
自分の身を守るのに、実は現実逃避って大切だなあと読みながら考え直しました。
また、こういうお話を読むと、中盤までなんて子どものあれこれの話なのに、
いや、だからなのかなんでなのか、
自分のオトナの部分がよりくっきりしてくる感覚がありました。

そして、自分の罪業についても思いを巡らせることになっています。
奢りからの転落という要素もあったなあ、
とこの読書で獲得した新しい視点で過去を見つめもしています。
こういうことも、本書の内容や感覚からみれば、
真面目にやりすぎなさるなよ、と作者に言われそう。

本書での作者の書き方って、
堂々と正面から書いている雰囲気が文体からはっきりと漂いでていて、
まるで、地べたを裸足で踏みしめながら光の射す方へ歩いていっているような書き方です。
一歩一歩、確実に、急がずに歩いていくイメージでしょうか。

そして、内面を見つめながらも、ちゃんと社会で生きていくことから逸れません。
社会的な自分と、私的な自分の、両方を立てるポジションをつかんで、
幸せに生きていこう、という作者のビジョンがにじみ出ているように、
僕には読み受けました。
ともすると、私的な自分ばかりが大事なんだと考えちゃいそうなんですが、
そこで踏ん張れるところが西加奈子さんの生命力なんだなあ。
きっと、処世術だってバカにしない作家なんだと思います。

ざっくばらんな筆致とユーモアに誘われていくその先には、
不衡平な女性の地位という、
みんなで話し合われるべき社会的かつ人間的なテーマが横たわってもいました。

西加奈子さんの作品は何冊か読んでいますが、
なんていうか、地熱のようなエネルギーのある方、という印象なんです。
まだ積読に何作品かありますし、また触れてみるつもりです。
本作品も、ところどころですごいなあと思いつつ、とてもよかったです。

著者 : 西加奈子
角川書店(角川グループパブリッシング)
発売日 : 2011-10-25

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『ソクラテスはネットの「無料」に抗議する』

2020-07-29 19:55:55 | 読書。
読書。
『ソクラテスはネットの「無料」に抗議する』 ルディー和子
を読んだ。

古代ギリシャで活躍した、
哲学者の始祖ともいえる哲人ソクラテスとその時代をあえて中心に据えて、
現代の行動経済学や進化生物学、脳科学や心理学での知見を重ねつつ、
現代社会や現代人の特徴を分析し、
良い面や悪い面を浮かび上がらせて考えてみる本でした。
温故知新的ともいえる論説エッセイです。

書名にある『ソクラテスはネットの「無料」抗議する』は
本書の中盤くらいまでの大きなテーマです。
マルセル・モースの『贈与論』を引きながら、
贈与や販売以外でのモノのやり取りは、本来あるべきではないことが示される。

例外として、たとえば現代のオープンソースのアプリケーションなどが挙げられていました。
それらはフリーで誰もが手に入れられはするのだけれども、
入手したいろいろな人によってアプリが改善され、
さらなるバージョンアップがどんどんなされていく、
という、フリーの一番の目的であり、長所がまっさきに目につく仕組みになっている。
そこに参加する人たちは、なぜフリーで労力や知識を提供するのか?
それは、頭脳明晰かつ面白い人たちと協働できることが楽しい、
といった理由がもっとも多いそうです。
フリーで改善のための労力を提供するシステムが無理なくできあがっている。

贈与や販売以外でモノを手に入れることは、現代人にはありふれてしまいました。
僕の経験でいえば、子どものころから音楽CDをカセットテープやMD、CD-Rにダビングする、
というのが最たるものでした。
もちろん、CDを貸してくれた友人にはお礼をしたりする。
互恵性はそういう形で成り立ちはするものの、
肝心の著作者にたいしては「無料」で通してしまっているし、
そこに良心の呵責などもなかったです。

パソコンが普及し、インターネットをみんなが使うようになると、
パソコンソフトをコピーしたり、
それこそアンダーグラウンドのサイトにいろいろなソフトが
ダウンロードできるようになっていたり、
もうちょっと時代が進むと、
ファイル交換ソフトが登場し、音楽ファイルやソフト類など、
なんでも「無料」で手に入れたり交換したりできるようになった
(僕は交換ソフトにはほぼ手を出しませんでしたが)。

こういったことからわかるように、
現代人はモノに備わる霊性に対する気持ちがとても希薄で、
もはや食べものに対してでも、
「命をいただいている」感覚だってほとんどないでしょう。
そこに疑問を呈し、
現代人の人類としての劣化をみるのが本書です。

また、後半部では、
論理とは、議論で相手を説得するための性格が強く、
真理を解説するのではなくて、
説得するために考案するものだ、
とさまざまな論文に依拠しながら解説しています。
もちろん、ソクラテスやプラトンが使う論理である、
「真実の発見のため」という用途は否定されているわけではありません。
著者が言いたいのは、「真実の発見のため」の影に隠れているけれど、
「説得のため」という論理の用途のほうが、
実はよく使われていることに注意しよう、ということだと思います。

そうして、その流れで認知バイアスにも踏み入っていきます。
確証バイアス、ヒューリスティクス、損益回避性などがそれでした。
個人的には、損益回避性の認知バイアスには苦労しているなあと気づきましたね……
(ギャンブルなんかそうですからね)。

最後に一言でいえば、
モノに込められている(あるいは、そう感じる)霊性から、
自らの心理を背けないことが大切だ、ということになります。
前にも記事に書いたことがありますが、
その例として言えるのがトレーサビリティです。
「カボチャに、これを作った人の名前と顔写真がシールで貼ってあるなあ」
ということがスーパーによってはあるんですが、
そうか、この方が作ったのか、と顔が見えて、
ちょっとそのカボチャに特別な温かみを感じもするし、
その農家の方の生活に想像を働かせたりしやすくなります。
そして、「ありがとう。」という感謝の気持ちが生まれもする。
同時に、その農家の方との心理的なつながりが、
一方的かもしれませんが、うっすらではあっても生まれるのです。

そして、互酬性だとか互恵性だとか言われる心理も大切だと説かれています。
感謝としてお礼をする、というのは人間に備わっている性質です。
何か頂いたら返す、という返報性はみんなに備わっています。
一方で、同じような性質の暗黒面として、復讐があります。
「目には目を」の精神もそこにあるのです。
良い面も悪い面も、お返しする性質としてレシプロシティと呼ばれるそうです。
これも、考えていくべきことだとして、
本書で著者が考えを深めてくださいます。

と、まあ、以上ですが、
内容ほど堅い読み物ではないです。
いろいろなトピックがちりばめられていて、
刺激をたくさん受けつつ、そして得るものもある、という種類の本でした。
もっと深読みしたい人は、この本から各方面へ食指を伸ばすとよいと思います。

「優れた戦略家は狡猾なウソつきである」
なんて言葉も飛び出して、なかなか歯に衣着せぬところもおもしろかったです。
また、古代ギリシャ事情にもちょっと詳しくなれます。



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『菅井友香1st写真集 フィアンセ』

2020-07-26 19:31:39 | 読書。
読書。
『菅井友香1st写真集 フィアンセ』 菅井友香 撮影:LUCKMAN
を眺めた。

欅坂46のキャプテン、菅井友香さんのファースト写真集です。
撮影地は、パリでした。

秋元康さんが帯に寄せたコメントに、
「菅井は親に紹介したいタイプの女子だ。」
とあります。
その言葉にあるように、
かわいいし、穏やかそうで、表情が愛らしく、
ほっそりとして手足が長いスタイルのシルエットが美しいし、
でも派手すぎな感じがなく、
もしも家庭に居ると想像してみると空気がやわらぎそうで、
よくすごい魅力的な美人に対して言われる
「トロフィーワイフ」的なものとはまた違う意味で、
仮に自分の彼女だったら親に紹介したくなるような気がします。
菅井さんを紹介されて嫌な人はいないだろう、みたいな感じがします。

僕は乃木坂46が大好きですが、
菅井さんが所属する姉妹グループの欅坂46については詳しくはありません。
それでも、菅井友香さんは魅力的な人だなあと、
テレビや雑誌やネットでお姿をみたり、
記事を読んだりしたときに感じていました。

水着姿やランジェリー姿の写真もあります。
ほんとうに、とってもきれいでしたね。
そういう写真での控えめな態度というか、
それは恥じらいなのかもしれないのですが、
そんな彼女から感じられる温度・テンション感覚が、
彼女の内面というか、私的な部分を垣間見せているようでもあって、
眺めている自分とちょうどよい距離感でいられるように思いました。
これは、いろいろな写真集でもそうなんですが、
被写体のパーソナリティに好いところがあるからこそ、
眺めていて居心地のよい距離感でいられるのでしょう。

巻末のインタビューを読むと、
厳しい家で育ったため、
漫画やアニメに触れる機会がなかなかなかったそうなのがわかりました。
たとえば乃木坂46のメンバーには、
アニメや漫画が大好きな人たちがたくさんいるのですけれども、
菅井さんの場合、『魔法少女まどか☆マギカ』でハマったそうで、
僕もあの作品を劇場版のディスクで見ましたがおもしろかったですから、
ああ、あの作品でアニメ系の分野へ解放されたんだねえ、と思うと
なんだか嬉しい気持ちになりました。

また、お嬢様育ちらしく、長く乗馬をやってらっしゃるそうです。
馬術部にも属していた、と。
馬に乗っている時もそうでしょうけど、
馬房の掃除やカイバやりなどを通じて、
人間以外の生きものと交流するのは精神面を豊かにしそうです。
そこは犬や猫などのペットでも良い影響はあるでしょうけれど、
馬なんていう400~500kg前後の巨体で、
反面、繊細な心をもつ動物と気持ちを通わせてきた人って、
それだけでひとつの立派な教育を受けてきたことになっているのではないか。

で、話をちょっと戻すと、
厳しい家で、学校も厳しくて、お嬢様育ちでっていう、
一般庶民からすると比較的特異な生き方をしてきた人ですから、
内面にも、自分はこういう点で周囲から比べて特異かもしれない、
と自分自身でなんとなく気付くところがあるかもしれない。
その点を考えると、ふつうの若い女性のように
アニメや漫画にハマれたことは良かったよねえ、と思えます。
(このあたりはオースターの『鍵のかかった部屋』を読んだばかりだから
考えたことです。)

というところですが、すべてのページをめくり終えてメロメロになっています。
それも、切なさすら感じるくらいに。

裏の帯には、読者に向けた菅井さん自身の言葉が書いてありました。
「この1冊が、あなたの日々を少しでも明るく照らせたらいいな。」
本写真集を手にとって、
活力が湧いてきた、だとか、元気になった、だとか、
きっとそういう男性は多かったでしょう。
自分の生活に明るい光をさしてくれたので、
感謝の気持ちと共にあるというような。

世の中に、自分の人生を振り返って「誠実です。」
ときっぱりいいきれるような人はいない。
いても、それは勘違いをしていたりするものです。
最初から最後まで誠実でいることは不可能なくらい難しい。
でも、そんなには多くはないかもしれないけれど、
「誠実であろうとしています。」
とちょっと自身無げに思う、ということはできて、
ぐっと勇気を出せばそう口に出せるかもしれない人はいます。
菅井友香さんはそういう人なのではないのかなあ。

僕は「誠実であろう」とする人を尊敬します。
そして、味方でありたいし、大好きなのでした。


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『心の病気ってなんだろう?』

2020-07-24 19:49:05 | 読書。
読書。
『心の病気ってなんだろう?』 松本卓也
を読んだ。

いろいろな心の病気の中身をわかりやすく知ることができるます。
でも「わかりやすく」とはいっても、
それなりの硬度のある内容だから、
読み応えがあって大人でも知的満足感が得られると思います。

心の病気っていうのは、
親とそして親以外をも含む過去の対人関係の影響、
そして現在の対人関係での相互作用での影響でなるものであって、
当人だけの問題では決してないことがわかります
(外的な強い心的衝撃によるPTSDという種類の心の病気もありますが)。

僕の身近に心の病気の人がいることもあって、
この場などに書評や感想を書いていなくても、何冊かそういった本を読んできました。
それらは勉強になるよい本でしたが、それらと比べても本書はより良書のほうだといえます。
「この本がひろく知られるとほんとうに社会がよくなる。」
と思えるほどの、とっつきやすい適度な内容の厚みと範囲の広さです。

精神科医やカウンセラーたちがどうやって心の病気を診断し、わかるのか、
といったところから始まり、
統合失調症、うつ病、そううつ病、強迫症、摂食障害、PTSD、
転換性障害(かつてはヒステリー)、不登校、いじめ、発達障害、認知症の
それぞれの症状や背景、
そしてそれらをふまえた上で、社会をどうしていったらいいかのヴィジョンに終わっていきます。

読んでみると知らなかった知識も多かったです。
自分は貧しいと過度に思いこむ「貧困妄想」、
几帳面さゆえに自分でルールを次々と作り、
それにがんじがらめになってしまう「インクルデンツ」などが主にそうでした。

なかでも、「インクルデンツ」は僕の身近な人にもその傾向があり、
たぶんその人はそううつ病と強迫症と、
その背景に自閉症スペクトラムがちょっとあるのではないかと、
素人判断では思い浮かぶ人なのですが、
自分で決めたルールを周囲の人にも適用させようとする強制力が強く、
すごく大変になるんです。
ここに強迫観念も加わって(つまり背景に強い不安がある)、
どうしてもルール通りにしないと気が済まない、というのがある。

まあ、強迫症の人なんざ、そこいらじゅうにいるなと思うところなのですが、
強迫症の人は、その症状ゆえに周囲から嫌われ、信用を失くしていくと書かれている。
また、そううつ傾向の人もそうなんです。
パニックみたいに気分が変わったときに、
それまでの理性が吹っ飛んでしまい、抑制が効かずに行為をしてしまったりします。
それらが合わさると、約束も破られるし、一線も超えられてしまいます。
だから、信用してはいけない人物に認定されて、
大事なことを話してはならない人物として扱われていくことになります。

本書によると、そううつ病も強迫症も同じ薬が効くそうで、
病院にさえいってもらえると解決にぐっと近づくのでしょうが、
病院にかかること自体が偏見などで高いハードルだったりもしますし、
そもそも自分が心の病気だと自覚できていない場合もありますし、
身体の病気のようにはすんなりいかないことが多いと思います。

僕の個人的な場合だと、
地域包括支援センターに協力を仰いだことがあって、
強迫症をケアすることで、うちの介護もうまくいくから、と主張し、
向こうもなんとなく頷いていましたが、
失敗するリスクを恐れてだと思うのですが、
やるもやらないもなく、うっちゃられてしまいました。

前に保健所の人に来てもらった時にもさじを投げられてしまい、
解決策も無いまま、連絡がプツンと途絶えたのですが、
どうもこっちの役所ってそういった感じなんです。

精神医療のオープンダイアローグや、
福岡市でも役所が取り入れたユマニチュード、
ほか、アサーションなどの技術を
地域包括支援センターなどの公務員のひとたちに身につけてもらって
被介護者だけじゃなくて介護者のQOLを考えた上で、
介護者を指導しケアする、というようにしてほしかったんですが、
面倒がられたみたいです。

家族が促しても、病院やクリニックに行こうという気を起こしてもらえないので、
家族以外のひととのつながりを作ってもらい、
その繋がりをいくつか作り、多方面からうながしてもらえるとうまくいくのでは、
と役所で話をしてきたのですが、流されて終わりでした。

行政にしても、
川の下流で起こっていること、つまり現場ですが、
そこばかりみて対症療法的に策を講じようとし、
策が講じられないなら見ないふりをするというように見えてしまいます。

そうではなく、川の上流で起こっていること、
つまり何故現場でそのような事態になっているか、
背景を辿っていく、ということをしたうえで
策を講じるようじゃないと救えるものも救えなくなる。
そういったことにしても「前例がない」で片付けていたら、
なんのための仕事なんだ、って言いたくなってしまいます。

ちょっと話が脱線してしまいました。
本書が広まってくれたなら、
または、本書の言いたいことが知られていったなら、
困った人のケアもできないような硬直が解きほぐされるのではないか、
そういう期待感を持ちました。

こういう本を書いてくれる人がいる、
出版してくれる会社がある、
読む人がそれなりの数、いる。
それだけでもちょっと嬉しいものです。

本書は中学生対象の質問箱シリーズの一冊です。
僕としては教科書として採用されたらいいのに、
と思えるくらい、推したい一冊でした。


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『鍵のかかった部屋』

2020-07-21 22:48:13 | 読書。
読書。
『鍵のかかった部屋』 ポール・オースター 柴田元幸 訳
を読んだ。

アメリカの作家、ポール・オースター、
その初期のニューヨーク三部作の最後の作品。

妊娠中の美人の妻を残して疾走した男、ファンショー。
彼は自分の残した原稿の処遇を「僕」に委ねる。
そういった切り口で始まる小説です。

この先、ちょっとネタバレになります。

前二作の『ガラスの街』『幽霊たち』と
同じことに再々度挑んでいるのだろうなあと読んでいてわかるのです。
しかし、終盤にかけての展開から、
またしても主人公が混沌と不分明の彼方に行ってしまうのかと推測したところで、
なんとその流れを打ち返してきた。

こうやれたことで、
著者はひとつの大きな壁を乗り越えることができたように思えます。
自分の胸や頭につかえていた大きな岩石くらいの重い問題に、
三作を費やして正面から挑み、
突破口を見つけたというよりか、
ひとつ上の次元をみつけて超えたような感じがあります。
その結果として、その後、
いろいろな作品を書きあげていったポール・オースターがあるのかもしれない。

……という、ベタな解きかたではありますが、
超えなければならない壁との格闘って、
自身の根幹に関わる問題なぶん、
必然的にベタな様相に傍からは見えがちじゃないでしょうか。
その泥臭い闘いを、
ニューヨークという洗練された大都市を舞台に虚構のかたちで練り上げた。
この舞台設定と創作性でもって、
自分だけのものだったはずの問題を作品へと昇華し、
芸術性と普遍性をもたせることができたのだ、と僕には感じられました。

やってることは個人的で、
自分を救わんがため、という目的が9割だろうなあと思えるんですが、
それが逆にクリエイターとして(人間としても)素直な態度であって、
だから、うまくモノづくり(小説づくり)に繋がったのかもしれません。

それにしても彼の文章ってじりじりと書いている感じがして、
その緻密な繋ぎ方が魅力の一つであると思うのだけれど、
そういう書き方でやっていたら、
次に何を書こうかと準備していたものを
忘れてしまわないのだろうか……(しまわないんだろうな)。

こういった小説を読むと、
僕もフロンティア開拓一辺倒かつ自分を救済みたいに、
一本書いてみたいなという気分が立候補したそうにもじもじします。
まあ、それはそれで、書かないというわけでもなく、
かといって明言もせずにおきます。



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『「公益」資本主義』

2020-07-15 18:08:40 | 読書。
読書。
『「公益」資本主義』 原丈人
を読んだ。

英米主導のグローバリズムは、
英米の基準や価値観、考え方を諸国に押し付け、
英米が利する世界になることを理想とする主義だといっていいものです。
そこには、グローバリゼーションの名のもとに、
各国・各地域の多様性をおしのけて一律化をすすめていく作用が生じている。
その波は確実に日本をも飲みこんでいて、
90年前後にバブルがはじけてから敬遠されるようになった「日本型経営」を、
より排斥していく方向に力が働いてきた。

グローバリゼーションを進めたアメリカの資本主義は、
いまや「株主資本主義」と言われます。
株主の利益を最優先事項とし、
会社は株主のものであり、株主の利益を出すために隷属したものだと
当り前のように考えられている。
利益を得るため、それもできるだけ短期間に株主が大きな利益を得るために、
研究開発などの中長期のビジョンを会社に捨てさせて、
短期の利益ばかりを考える戦略をとらせ、
ことによっては従業員をリストラしてまで株主や役員が大きな収入を得る行為をします。
もはや、我利我利亡者といった体です。

こういったスタンスの帰結するところが、貧富の拡大、格差の拡大なのでした。
会社が利益を得ても従業員の給与は上がらず、株主や経営陣に還元されます。

くわえて、ヘッジファンドやアクティビストの存在があります。

ヘッジファンドとは、株価や商品の相場、通貨相場などにおいて、
「将来の理論値と実態との乖離」に着目して資金を注ぎ込み、
利ザヤを稼ぐことを目的としたファンドのこと。(P87)

アクティビストは、かつてのサッポロビールやブルドッグソースに
TOB(株式公開買い付け)を仕掛けたスティール・パートナーズや、
ニッポン放送や阪神電気鉄道の株を買い占めて話題になった村上ファンドのような、
いわゆる「モノ言う株主」です。
しかし、彼らはなんのために「モノを言う」のか。
「健全な企業経営」のためではなく、
その企業が持っている資産の売却や現金の配分こそ彼らの狙いなのです。(P87)

これらが合法的に行われる現行の資本主義、
つまり、ただ金さえ増えればよいという価値観で動いている
「株主資本主義」や「金融資本主義」と呼ばれるもの。
このかたちでの資本主義によって、グローバリズムが広がった日本などの先進国、
それはグローバリズムの旗手である英米も含むのですが、
それらでは中間層がなくなり、スーパー富裕層と貧困層の二極化を生みました。

本書は、こうした現行の資本主義のおかしさをはっきり指摘したうえで、
「株主資本主義」に代わり、なおかつより豊かな世界をもたらす
「公益資本主義」を提唱するものです。

「公益資本主義」は先述の「日本型経営」に立ち帰るような要素のある考え方です。
「会社は株主のものである」ではなく、
「会社は社会の公器である」とします。
株主だけを優遇するのではなく、
従業員、顧客、地域、地球環境などに、公平かつポジティブに働くような主義です。
著者は、この「公益資本主義」をアメリカ人に説いたときに、
「共産主義じゃないか!」と言われたことがあるそうですが、そこは違うと否定しています。
「公益資本主義」は利益あってのものですし、
「株主資本主義」よりもたぶんに持続性もあり、そのうえで収益もそれ以上にあげられるようです。

詳しくは本書をあたってほしいのですが、
格差の進行する「株主資本主義」というものが、
歪んだ資本主義であることを意識できるようになるだけでも違うと思います。

だいたい、株の取引でも昨今はAIにまかせて一秒間に一万回の取引をやっている世界です。
そうやって、実体のない数字上の浮き沈みで儲けようという人たちが富を得ている。
彼らは株価の乱高下こそが儲ける状況なのをわかっていますから、
経済に安定を求めていないようです。

ヘッジファンドだとかでお金を儲ける人は、
人生にどういうゴールを設定しているのかをちょっと想像してみました。
40代で引退して南の島でヨットに乗って……
みたいなアメリカ人のエリートにありそうなゴールの設定をして、
そこからバックキャスティングして生きているとしたら、
ヘッジファンドやアクティビストになるのかもしれなくないですか?
つまりは、社会とどうかかわっていくのが人生なのか、という人生観や、
世の中をどう見ているか、という世界観が、
彼らにとってはそのような生き方を選択させるものとなっているのかもしれない。

とはいえ、
「人生観は自分で築き上げた」というようでいて、
人生観・世界観などの価値観というものは自分ひとりで選択してきたものではなく、
価値観への深い影響の相当の部分は外部によったのではないかと考えもできます。
産まれたときから社会がそうだった、家族がそうだったなど、
特別に意識していない影響があって、
40代で引退して南の島でヨットに乗って……
を理想とするようになるとも考えられるのではないでしょうか。

……と、少しばかり脱線しました。
原さんの著書は前にも一冊読んでいます。
そしてその前には、
WEBサイト『ほぼ日』での対談を読んでカルチャー・ショックを受けていた。
それまで原さんを知らずに生きてきて、
「世の中こんなもんじゃろ」と思っていたのだけど、
原さんの対談を読んでみて、彼の話と彼自身のそのスケールのでかさや、
照らし出す領域の新鮮な開拓感に触れることができて、
ぱーっと頭を刷新されるものがあった。
このような経験を、ぜひ、いろいろな方にしていただきたいです。

本書には、著者自身の経歴を語る章もありますので、
「これって、ほんとうにすごいよ!」と、
圧倒されて笑ってしまうしかない体験をしてみてください。

最後に、
今年2月の甘利議員のWEBコラムにて、
原さんの「公益資本主義」に触れながら、
アメリカで主流の「株主資本主義」が変節を迎えているとありました。
これは好い流れですね。


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『新版 枕草子 上巻・下巻』

2020-07-10 22:57:06 | 読書。
読書。
『新版 枕草子 上巻・下巻』 清少納言 石田穣二 訳注
の二冊を読んだ。

初めこそ原文と訳文を比べながら読みましたが、
ほぼ現代語訳で読んだのでした。

ユーモアやウイットをごく自然なふうに駆使しながら、
美しいものやおもしろいものや笑えるものなど、ポジティブな事柄を中心に綴っています。
ただ、ユーモアやウイットを自然なふうに駆使するのは作者の清少納言だけではなく、
登場する宮中の人物たちそれぞれもそうなのです。
当時は、落ちついた所作と態度で発する、余裕を持ったユーモアやウイットを
「優雅」と呼んだみたいですね。当時の優雅は知性とぴったりとくっついているようです。

また、書き手のやわらかでこまやかな心の動きや感性と、
時代や地位からくるであろう、うっすらとした無意識的な傲慢さとが、
文章の背後に残っていました。
こういうのは、ほんとうのところが知れて勉強になります。

読んでみてとくに心に残ったのは、犬が打たれる話、雪山の話など。
そして、たびたび中国からくる使者が難題をふっかけてきて、
中国と日本の宮中の間で知恵比べをする逸話にも、
へえー、と思いました。

自由恋愛の世界でもあって、夜な夜なあちこちで逢引が行われている話も多く、
平安の貴族たちは、思っていたよりもずっと眠らない世界に暮していたんだなあ、と知りました
(『源氏物語』について授業で話を聞いたときに
平安時代の眠らない貴族事情を知ったのがほんとうの初めてで、
それを思いだす感じでもありました)。
あとは、夏のかき氷はいいなあ、だとか(洞窟で作ってたはず)、
胸を悪くして寝ている若くきれいな女性(主君の中宮定子かな?)が、
吐くために身を起こすさまがいたいたしくて美しい、だとか、
清少納言のユニークで素直で感性のゆたかなところに触れることができます。
後者の「吐くために身を起こすのが美しい」というのは、
たぶんに嗜虐的にそういっているのではなく、
慈しみやエンパシーと絡んでの言葉だと解釈しました。

そして、読んでいるとその時代のかれらの世界にシンクロする気分になれるのがおもしろかった。

こうして、ちびちびとゆっくり『枕草子』を読んでみると、
僕自身の回復と充電がすすむような感じがしてきました。
おまけに自分にくっついていた雑多なあれこれが、
いつのまにか落ちていて身軽になっているような感じがしてくるし、
違う地平が見えてきた気さえしてくる。
……ということは、これはつまり、
現代の空気がいかに毒気を帯びているかを物語っているのではないのか。

まあ、そこのところは当時にしてみたって、
政争があり、きまりやしきたりが窮屈だったりもしたでしょう。
僕が「隣の芝生は青い」的な気分になったために、
現代より平安時代が輝いて見えたのかもしれない。
でも、平安貴族世界の息遣いを近くに感じられるこの作品を読んで、
そんなふうな、現代の毒気から遠のいた気分、つまり清浄な気分になれるのには、
もともと先入観としてある「現代人のほうが賢いし利口だ」という思いが、
作品内の貴族同士のやり取りから感じられる彼らの知性や、
背後にある成熟した文化的な空気感によって払拭されると同時に、
楽しめる作りになっているがためなのだと思いました。

『枕草子』という平安時代的洗練のなかには、
「河原で、陰陽師に人にかけられた呪いのお祓いをしてもらっているとき、胸がすっとするなあ。」
なんていうのがふつうにでてくる。
「もののけ調伏」なんていう言葉もふつうにでてくる。
清少納言が生きていたのはこういう世界なんですねえ。

また、しなやかで油っけのなさが、それこそ「和風」というように感じさせるし、
それゆえに読後感がどこか、ちょっぴりはかなげに感じていいのかなと思えるところがある。
当時の仏教の影響だってあるのかもしれないです。

『枕草子』は当時の帝のお妃である中宮定子のための随筆だと言われるところですが、
読んでみると随筆といったものの、作為的に書かれている感じのするところがあります。
巻末の解説を読むと、
解説者自身は「無条件に随筆であるとする立場にはない」とのことでした。
つまり、空想やフィクションが混じっているのでしょう。
このあたりを鑑みて、僕のごく個人的な評価にはなるんですが、
「『枕草子』は、私小説的エンタメ(随筆形式)。」とくくってみることにしました
(僕としてはフィットするんですが、どうでしょうね?)。

自分に悪い噂が立ち、
大切にしたい繋がりを持つ人に誤解されないためであっても、こちらから説明や弁明はしない、
なぜなら癪に障るから、というのがどうやら清少納言なので、
もしも当時マスメディアがあってインタビューすることができても、
彼女の創作の秘密は明かされないような気がします。
最近の『枕草子』評論には、紫式部の清少納言批判から考察して、
清少納言は、こんな美やおもしろさばかりを享受したり書いたりしていられる環境や境遇にはないはずで、
絶望さえみえている過酷な状況下にいたのに書いたとするものもあるそうです。

個人的には、これはなかなか納得がいく説じゃないだろうかと思いました。
「意地」というか、「それこそが創作」というか、
身辺のごたごたを超えて、そして感じさせず、ですから。
『枕草子』は仕えていた中宮定子の格を上げるためでもあったでしょうが、
生活が苦しくなるのに反比例してすごい作品をつくりだしていった
モーツァルト的な創作の精神もあったのではないかと推察できます。
つまりは、モノを作り出すタイプのひとつの型として珍しくはないわけです。
……しかし、そうはいっても、いまとなってはどうやったって真実はわかりませんけれども。

今回、日本の古典を読みましたが、僕としてはかなり珍しいことなのでした。
たぶん、日本の古典は学生時代以来に触れています。
古語をきちんと読めなくてもしっかりした現代語訳があるわけだし、
読んでみれば堅苦しくない内容だし、それどころか新世界が開けてしまう。
こうやって、少しずつ、自分の狭い了見が崩れていくのは喜ばしいです。
そのうちまた、日本の古典を手に取ろうという心づもりになりました。





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