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Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

『吉岡里帆コンセプトフォトブック 13notes♯』をブクログにて更新

2025-05-31 10:59:08 | days
『吉岡里帆コンセプトフォトブック 13notes♯』の感想をブクログで更新しました。興味を持たれた方は、ぜひどうぞ。里帆さんの魅力の背景にはどうやら素敵なご両親の存在がありました。

小説執筆のほうは、文章がぴしっと決まりません。手入ればかりしています。よって話が進んでいきませんが、とりあえず第一章は終わりました。このペースだと半年はかかりますねえ。

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ブクログ更新&雑感

2025-05-25 12:19:24 | days
ブクログ更新のお知らせです。
『日本の犬猫は幸せか 動物保護施設アークの25年』の感想をアップしました。

やー、家庭環境のことをずっといろいろ考えて、よくなるようにと実践してきたのですけれども、どうも徒労に終わるものだったらしく。

というのも、うちの障がい者で要介護者の母親の介護を父親を中心としてやっているものの、父親からのいろいろ暴力的な問題が多く、そのために僕のメンタル面でも傷(トラウマ)が出来てしまっているわけなんですね。市役所からの働きかけも功を奏さず、民間の家族会に丸投げされてしまったのだけれど、その家族会に参加する父親本人への効果的な働きかけっておよそ無いようなのでした。

というか、「ほぼ確」でわかってしまいました。父親は「不安障害をもつナルシシスト(自己愛性パーソナリティ障害)の傾向で、なおかつアルコールの離脱症状による影響がみられる」というのが僕の見解なのですが、ChatGPTに意見を聞いたところ、よくなってほしい、変わってほしいと働きかけてもこういうナルシシストにはかなり難しい、と。つまり、変わらないタイプだと言われました。これには思い当たるところがあります。

パーソナリティ障害を解説する本を読んだ時に、自己愛性パーソナリティ障害の患者は、精神科医でも相手にするのを嫌がり、実際関わらない精神科医が多いとありました。関わっても巻き込まれるし、働きかけても患者本人に治そうという意識がないのでどうにもならないことが多い。

だから、僕がとくにこの10年にわたって、「父親が内省することで家庭環境がよくなるし、そうすれば介護にも比較的紛糾することなくできるだけスムーズな感じで関わることができ、そうなれば、生活にがんじがらめにならずに済むので僕は自分の仕事ができるようになる」と考えてやってきたことが、ほぼ無駄だった、となるんですね。厳密には、家庭問題のために考えてきたことや知識が、他の分野で活かされるだろうし、知性の質も上がったし、対人的な考え方も変わったのだけれど、家庭環境が良くなることで僕が仕事をすることができるようになる、という一番の目的に対しては、まったく近づくこともできなかったし、そもそもそういう方向性自体が間違いだった、ということになります。なかなかショックというか、インパクトがありました。

不安障害を抱えたナルシシストのその内面というものはとても不安定で、それこそケアが必要に違いないものなのですが、本人にそういう気は起こらないのです。ChatGPTはいいます。

「→自己愛の脆弱さを守るために他者を否定し、自分を過大評価し続けるという心理構造があり、「自分が悪い」と認めることはほぼ「自分の存在が崩壊すること」と等価になるため、強烈に回避されます。」

「正直に申し上げると、「病的なナルシシストが自分を他害的存在だと自覚すること」は、本人の内側から湧き起こる内省がなければ、極めて難しいです。」

ということなので、父親に変わってもらおうと働きかけることはほぼ無理。くわえて、年齢が高くなり頭が固いのでなお困難です。

じゃあ、僕自身はこの状況で、どう生き抜くか。どう親からの巻き込みを避けて振る舞い、どう自分の時間や精神的安全性を確保するか、に焦点が移ってきます(これまではあまりにエネルギーを自己犠牲的に家族に注ぎ込み過ぎました)。サバイバルなんです。僕個人用の車の保持が難しくなり、処分となってしまったし、そうなると家を離れても交通の便の悪い我が町では立ち行かないんですよね。通院も難しいですし。

で、執筆に賭けていかないと、という答えにたどり着くのでした。足を引っ張られることが多い中で、うまくかわしたりフェイントをかけたりしつつ、ゴール目指して走り抜けられるように頑張っていきます。

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『コーヒーの科学』感想をブクログで更新。

2025-05-17 12:08:42 | days
ブクログにて、『コーヒーの科学』感想をアップしています。読書好きの方、ぜひに。

執筆はまあぼちぼち進んでいるところです。最初の10枚をまずきっちり仕上げるべく何度も手直ししています。近々「一応これでいいかな」と終えたとしても、第一稿があがったときに再び直すのは間違いないのですが、最初の一歩が肝心なような気もして、少し道を進んでいって道標を打ち込んでおくような感覚でやっています。出だしの文体やテンポが決まれば、それに沿って物語が進んでいくでしょうから、この物語はどういう語り口でどういうふうに進むのか、と書き手としてももっとイメージを確かにしておこうか、と。

それで気づいたのが、プロットを書いていないな、と。シノプシスの段階で10枚くらいの分量でした。他、設定やネタなど、資料としての文章をいれると100枚を超えています。それでも、いつか読んだエンタメ作家志望のための新書によれば、プロットの段階から100枚書きなさい、とありました。プロット段階から100枚書いて、それから執筆にはいれば、まずちゃんとしたものが書けるし新人賞だって獲れるだろう、というものでした。

だからなのか、執筆後の直しにかなり時間がかかります。これは最初の執筆分がプロットにあたり、その後の直しがほんとうの執筆にあたっているのではないか、という気がしたくらいです。まあ、なんにせよ、時間をかけて書いていくつもりです。



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ブクログ更新と執筆開始。

2025-05-11 12:23:54 | days
ブクログにて茨城のり子さんの詩集『倚りかからず』の感想をアップしました。よろしければぜひ。

やっと長編小説の原稿にとりかかっています。
3月くらいから今まで、設定やアイデアをテキストファイルに投げ込んだり資料集めをしたりしていました。そのうちにぼんやりと浮かんできた構想があたまの中で形を成してきました。そうはいっても、あらすじ(シノプシス)作りに取り掛かるのはなかなか容易ではなかったですね。ぼんやりしているところはあくまで「ぼんやり」であって、なんら具体性を帯びていませんでしたから。ましてや初の長編作品へのチャレンジです。

『物語の法則』を読みながら、「ははあ」「なるほど」と頷きながら、ぐっとアクセルを踏み込むようにしてあらすじを一気呵成に書き上げた。このとき、あまりにでっちあげになってしまうと作為的すぎて興ざめするんです。今回も短編で構想を練ったときのように、内発的な要素が濃くなりました。それはポジティブなポイントなんです。

最近気づいたのは、創作のスタートにおいて、まず言葉ででっちあげてみるのは手段としてアリだということ。そのか言葉がイメージを喚起してくれるんです。で、次に、そのイメージが言葉や物語を連れてきて、それに沿ってスタート時点のでっちあげを必要であれば修正して再度そこからフィードバックを得る。ぽん、と碁盤に石を打ってみるような感じなのでしょうか。五目並べしかしたことがないのではっきりと言えませんが。

谷川俊太郎さんと大岡信さんの対談本でも言葉が先かイメージが先かの議論がありました。どちらでも詩ができるけれども、どちらが本当なんだろうというような問いがあったような気がします。まあどちらでもおもしろいものができます。イメージが先というような内発的なもののほうが人間性で勝負している感じがするし、言葉先行で作るものは技巧を駆使して作った感じがします。

現時点での僕の創作術は、そういったイメージ先行と技巧先行のハイブリッドなんでしょう。相互に使ってみている、という方法にあたるでしょう。よいやり方だ、という自負があるくらいですから、しばらくそういったつくり方をすると思います。

なんにせよ、執筆は始まりました。焦るとロクなことがないので、意識してゆっくりになるでしょう。それでも、最後まで完走したいです。するつもりです。

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ブクログ更新しました。

2025-05-03 14:52:07 | days
ブクログにて、『物語の法則 強い物語とキャラを作れるハリウッド式創作術』を更新しました。

物語には型というものがあり、その型に従って物語を作ることで、物語然とした物語、すなわち読む者(映画だったら観る者)が自らの気持ちの深いところで受け取れるような物語を作ることができる。その「型」を教えてくれる本でした。Eテレ『100分de名著』でも取り上げられた『千の顔を持つ英雄』の理論やプロップのおとぎ話理論をわかりやすく解説しながら、キャラ作りなど物語を立体的に生きいきとさせる方法をわかりやすく説いてくれていました。目からウロコの本でした。

それはそうと、gooブログのサービス終了で、10月1日に新規投稿や編集ができなくなる、と。それまでにログとりを終わらせないとならないなあ。

あと、前に書いたことがあったかもしれないけれど、そのうち、僕が経験した「ほんとうにあった怖い話」をひとつ更新しましょう。お楽しみに。
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ネコがでましたよ。

2025-05-02 06:05:30 | days
うちでは一台の車を僕と父で使用しているのですが、こないだ、僕が帰宅して車庫に車を入れた後、シャッターを閉め忘れた日があったんですね。もしかするとこの後、夜中に動物が入ってしまって、奥の棚にある工具類や洗車道具類なんかを荒らされるかもしれないな、ともう眠る頃に思い浮かんで考えていたんです。気になるならじゃあ閉めに行けばいいんですけれども、荒らされたってそんなに大きな問題じゃないですからね、実際は。だから寝ました。

で、翌日。車庫の中はいつも通りで、無事だったなとちいさく安堵すると同時に楽観的なほうの自分が「それみたことかー」と高笑いするなか、車に乗り込みスーパーに買い出しに行きました。すると、フロントガラスにぽつりぽつりと汚れがついている。どうやら泥かなにか。

あ、動物だ。

このサイズ感はネコの足。

スーパーに到着してから確認すると、前部ボンネットにも「ぽちぽち」と足跡がついていました。で、後部は無事。天板部についている足跡をみると、助手席側から飛び乗ったみたいです。車庫の壁を伝って「よよい!」と軽々乗っかったのでしょう。

楽しかったか、ネコちゃんよ。

うちの周りには、黒ネコの一族と大きめのトラネコと毛が長くてドンくさいネコが野良として暮らしています。その誰かによる冒険だ。

ネコはシャッターが開いているのを見たために、ふわあっと好奇心が香ばしく立ち昇ったのでしょう。よよい、ひょい、と飛び乗って、フロントガラスから前へ降りていった。軽業師だね。自分の身軽さにたぶん酔っていたね。

でもでも、フロントガラスに残っていた足跡には下へと長く引き伸びたものがひとつあって、それは確実に足を滑らせてついたものでした。「おうおう!!」って焦ったんじゃない? ネコちゃんよ。バランスを崩しちょっとあたふたしたかもしれないその様子を想像してみると、忍び笑いを漏らしそうになります。

人間もネコも動物も、ロボットだってそうなんだけど、そのような「普段の行動からこぼれ落ちたちいさなそそっかしさ」みたいなのは実に愛らしいものだね。ごちそうさまです。
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甘くて苦い、持続可能社会

2025-05-01 19:46:13 | days
自由の名のもとに集った、怠惰、酷薄、無責任、ケチの精神性などがある。怠惰でいるのは自由、酷薄なのも自由、無責任だとしても自由、ケチなのも自由じゃん、っていう。ブログのログとりをしていると昔の記事を読んだりもして、それで昔の僕はこういうのをよくないと思っていたのを再認識したのだけど、そうとも言い切れないと思うのが今の僕。

「これらはダメだからこうありなさい」というように、良識的なスタンスを外部・他者から型にはめ込まれるかたちでは、子どもの教育ならまだしも、自我の確立した大人に対してはなかなかそうは飲み込めるものではないんじゃないのかなあ。

大人は自分でいろいろと考えた末に、その思索が内面化されたかたちで自分の態度を決めたらいい。そうすれば、内発的に「社会的に好ましい」振る舞いができるんじゃないのか。また、人生の初歩の時期つまり成人前までだとかでの様々な経験の影響などから、すんなりときれいな行為をとれない人もいる。

許すことや社会的包摂。そっちのほうの力がまずは要るのかもしれない。我慢とか耐性とかを試されるんですよね。辻村深月さんの短編集『鍵のない夢を見る』に、地域による社会的包摂の話だととれる作品がありましたけど、主人公は我慢が効かなかったんだったなあ。

マネー至上みたいな経済優先の競争社会では、我慢や耐えることは軽く見られませんか。欲望や欲求にしたがえ、とくる。それで経済が回るからいいのだ、とするけれど、文化的な面では貧しくなる部分がでてくるような気がするんです。むずかしいですね。
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「TALES」への投稿完了。

2025-04-22 11:53:11 | days
前回告知しました、物語投稿サイト「TALES」へアップロードした作品への直リンクをここに貼ります。

『きみの家へ、遊びに行くよ』Tales Version.

このサイトが公開されるのは昨日かと思っていたんですけど、間違っていました。さきほど11時より公開されたようです、すみませんでした。

キャッチコピーや、冒頭文だけを試し読みができたりします。
よろしければ、どうぞ。
お読みいただけると喜びます。


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直した短編小説を明日、Talesに公開予定です。

2025-04-20 18:20:04 | days
ここでの更新を止めた読書記録。
その後、ブクログ( https://booklog.jp/users/mask555 )で二冊更新しています。読んでくださっていた方、よろしければ、こちらもどうぞ訪れてみてください。

さて。8年前に書いた短編小説『きみの家へ、遊びに行くよ』の直しを数日前に行い、そのまま、まもなく運用開始されるサイト「 TALES 」に予約投稿しました。どうやらnoteの系列の物語専用サイトになるようです。今年の創作大賞にも参加できるようになっています。先行エントリーでエンタメ原作部門に参加できるとのことで、そこで求められている「ラノベもの」でも「異世界物」でも「キャラもの」でもないのにエントリー。とりあえず作品を登録したので、「えいやっ」という感じでした。
TALES 」は明日公開のようですので、直されて「読めるクオリティにはなった」『きみの家へ、遊びに行くよ ver1.01』を楽しんで頂けたらうれしいです。どうか、ぜひに。約21600字だったと思います。URLがはっきりしたら、作品ページに直リンクしますね。

あと、今年は200枚か250枚かくらいの長編小説作品を書きたくて、設定やら資料集めやらをしている最中です。全部でもう40000字近くなっています。今後さらに、あらすじを決めていく予定で、テーマも複数のものが浮上してきました。仮書きしながら、本稿に移行していくかたちで執筆は始まるでしょう。月末にはそうなっていきそうですね。

体調面では、長い期間の執筆には絶対に耐えられない状態からは脱した感がありますし、しんどいときの頓服薬もありますから、書き始めてマイペースで続けていければたぶん完成にこぎつけると思っています。

当ブログの消滅と、長編作品完成と、どちらが先になるでしょうか……笑
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「goo blog サービス終了」となり。

2025-04-18 11:11:44 | days
「このブログ、終わっちゃうんだ!」とびっくり。数日ほど前でした。

gooブログさんには長いことお世話になりました。発表、表現、楽しみの場として(ときに愚痴をこぼす場として)おおいに活用させていただきました。数えると20年くらい続けてましたね。ありがとうございました。感謝です。記録や思索の場としても活用できたし、よき仮想スペースだったなあ。

そんなわけで、なかなかの量があるこれまで書いた記事たちをどうするかと考えていました。引っ越しデータを作っていただけるということなので、それはマストで作っていただこうと計画していますけれども、それとは別に、「カテゴリ映画」「カテゴリ考えの切れ端」「カテゴリ読書」の記事はとっておきたい。

読書記事はすでにブクログを利用していまして、ここの記事と同様のものを数年前からアップしていました。ただ数年前より以前のものは抜粋だったりブクログだけのものだったりするので更新しなきゃと思っています(試しにほんの少しだけやりましたが)。このブログに書いた読書記事数がちょうど1000で、区切りがいいなあと思いつつも作業を思うとおののいております。

で、とりかかっているのが「カテゴリ映画」の記事たち。これをパソコンのテキストファイルにコピペして残しておこうと。で、ちょっとやってみると、初期の頃の映画記事は文句ばかりです(苦笑)。「いいとこもわかっているはずだから、それを書きなさいよ、昔の自分よ!」と心のなかでツッコミながら作業をしています。

たぶん完璧主義がでてるからだと思うんだよね。作品なんてものは粗のない状態じゃないといけない、という思い込みが強かったんだろうなあ。いいとこがどうこうよりも、失敗がまず皆無じゃないといけないっていう。ここらへんは、生まれ育った家庭の気風がそうなので、完全に影響されていたことがわかりました。

それにしたって、「主演女優が老けた」とか「主演女優が綺麗じゃないし」とか、今じゃ言わないどころか思いもしないだろうことを書いているのだよ。というのもこの頃は人間嫌い(今もその傾向は強いけれど)で友だち以外は敵(今はそう考えてはいません)だったからだ。狭い世界を閉じるようにして生きて、また絶望もしていた。そうであればこういう文章を書く。

一時期よく「若い頃の自分を叱ってやりたい」「若い頃の自分と出会ったら殴ってやる」という先達の言葉と出くわすことがありました。ゆえに、僕はそういう局面に立つことになってもあえてそうはいわず、若い頃の自分を排除しないでいようと決めたものだから、あえてあえて否定はしないでいようと思う。

あと、人に読まれると思って書いてないんだな。

狭い世界に閉じるかたちで順応するとこうなるんです。その当時の僕が立ち、見えていた世界に順応しながら、なめられないように、いじめられないように、と考えて生きるとこうなるんですよ。世界と自分とは相互作用して影響を与え合うものだと思いますけれども、自分の態度を周囲を見て決めて、周囲よりかはちょっとマシだと思って振舞っても、やっぱり悪い態度なので周囲はそこから受け止めるものに反応する形でまた悪い反応を返したりする。それをみて僕は、やっぱし世界はこういうものだと思い込んで順応する、というのがあったと思うなあ。

で、何が足りなかったかって、愛とか情とかです。愛とか情とか、もっというと詩とかにふれる経験が足りなかった。なので、「若い頃の自分を叱ってやりたい!」と叱ったとしたって、叱ってどうこうなるものじゃないしかえって逆効果にだってなりそう。

あと、こう思うんだけど、「若い頃の自分を叱ってやりたい」「若い頃の自分と出会ったら殴ってやる」は、要するに今の自分の保身でしょ(猛毒)。

人間ってのは難しいものだねえ。ただ、こうしてこじれたりしていても、なにかがきっかけで少しずつ、または瞬間的に大きく、修正が効いたりもするんだと思います。


さて。
本ブログをいつ終了するか。サービス消滅の期日までやり通すのかどうか、まだ決めていません。ただ、読書更新はブクログで、考えの切れ端更新はnoteでやろうと思います。ということで、今後はこういう無駄話的更新のみになりそうです。あしからず。

ブクログは ここ
noteは ここ です。
よろしければ、アクセスをよろしくお願いいたします。楽しんでいただけるととてもうれしいです。

本日はここまでということで。


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