Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

『にほんご歳時記』

2023-05-28 18:56:02 | 読書。
読書。
『にほんご歳時記』 山口謠司
を読んだ。

日本語から感じられる季節感にまつわる全100項の雑学的エッセイです。春から冬まで、25編ずつです。

夏目漱石が落語の影響を受けた文体であるとか、台風は昔は颱風と書きさらに昔は野分と言ったとか、枯れ尾花の尾花はススキのことだとか、日本の四季にまつわるなにげないのだけれど僕なんかは全く知らない雑学の数々が興味深かったです。さらに、蚊取り線香のあの渦巻き型を思いついたのは明治期の女性であったとか、ラジオ放送が始まったのが大正十四年でその影響で寄席が減っていったとか、エピソード的雑学もいろいろ語られています。

歳時記というくらいだから季語についてのエッセイなのだけれど、俳句に限らず、和歌や古典、中国の漢詩まで引いていろいろな「にほんご」に秘められた雑学を光の当たるところに引き出してくれている。ひと項目2ページの分量で読みやすいですし、なかなかおもしろいです。

松尾芭蕉の俳句と、清少納言の『枕草子』が多く引かれています。在原業平も何度かでてきました。僕が感じたのは、なんていうか、平安時代の和歌にこめられている心情ってぐっとくるものがあるなあということ。表現力がすごいですよね。今でいえば、切実な「LOVE SONG」の数々といった感じ。

というわけで、日本語というものを鍵にして開けた扉の先に知る、日本の面白いところ、佳きところを味わえる本でした。


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性格は直らない?

2023-05-25 12:56:03 | 考えの切れ端
「あいつ、性格悪いよね」なんて言い方で、とある友人・知人、果ては芸能人や著名人のことについて否定的に言うことがあると思います。でも、「性格が悪い」という見立てはあんまり正確ではないと思うのですが、どうお思いになりますか? 正確ではないとするならば、どう捉えるか。「あの人って、世界観や人間観がちょっとおかしく感じる」。こっちのほうがほんとうに近そうじゃないでしょうか?

自身にしても他者に対しても、多くの人は「悪い性格なんて直らないよ」って思っちゃうものでしょうし、実際、性格をターゲットに自分で頑張ってみたって、他人に指摘してもらったって直らないでしょうけれど、世界観や人間観を変えるほうだったら、性格を変えるよりまだ変わる可能性を感じるのは僕だけかしらん。

世界観や人間観がよりやさしいものへ、というか、建設的にとらえられるものなんだってわかって変われば、その影響で性格は変わりますよね。たとえば認知行動療法は、そういったふうな考え方の上でやることなんでしょう。というわけで、人の性格の基盤のおおきな部分には、世界観や人間観がありそうだ、ということでした。おそまつさまです。
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『つながる脳科学』

2023-05-23 13:49:37 | 読書。
読書。
『つながる脳科学』 理化学研究所 脳科学総合研究センター 編
を読んだ。

「つながる」をキーワードに、九つの視点から脳の仕組みを知ったり考えたりする本です。難しいところはありますが、おもしろいです。エキサイティング。ディープラーニングがニューロンネットワークを元にした、脳をモチーフにしてそこから発展した仕組みであることも述べられています。でも、作っておきながらディープラーングがどうしてこれほど上手くいくのかという仕組みはよくわかってないそう。

さて、シナプスやニューロンが情報を扱う仕組みからはじまり、空間や時間の認識がどう行われているか、嗅覚のメカニズムはどうなっているのかなどを、どのような仕組みの実験を用いてそれらを解き明かしていったか、その創意工夫の面から始めて述べられていくものが多いです。なかには理論先行の研究分野もあり、その分野での手法や姿勢も語られています。

では、ざっとですが、二点ほどとくに惹きつけられた部分について、読みながら考えたことを書いていきます。まず一つ目は恐怖記憶です。怖い体験をしたのち、それと同じシチュエーションに出くわすと、脈拍が上がったり身体が強張ったりしてしまうものですが、その源の記憶です。

恐怖記憶は扁桃体でつくられ、それを消去する作用を持つ消去記憶は前頭前皮質(前頭葉の前部分の領域)で作られる。しかし、消去記憶が作成されたからと言って恐怖記憶は無くならないのだけれど、消去記憶がそれをカバーしてくれる役割であるらしいのでした。恐怖記憶は不安障害やうつにつながる恐れがあるものだということです。そういう面でも、前頭前皮質が大事だなというところへと、読みながらの考えは繋がっていきます。

前頭葉は、理性、認知、意欲などの分野を受け持ちます。認知力が弱まっているだとか理性的にふるまわず感情的になりやすくなっているだとか、そういうのは前頭葉の衰えなんだと考えられるところです。で、前頭葉が弱まると消去記憶も弱まるのではないかという推測が出てくる。前頭葉が弱くなると、恐怖記憶の効力ばかりになってしまうのではないでしょうか。

恐怖記憶の効力ばかりになってしまえば、不安障害やうつになりやすくなるかもしれない。となれば、たとえば強迫症が酷くなるのも、前頭葉の衰えが理由のケースがあるんじゃないかなあと思うのです。強迫症で暴力が生じるなんていうのは、まるっきり前頭葉の衰えっていう感じがしてきます、あくまで素人の推論ですが。

そうなると、前頭葉を活性化させるために、読書をして読解力をつける、っていう手段が思いつきます。読書が、恐怖記憶と対抗するひとつの防具になるんじゃないだろうか。あと、不安定じゃない環境も大事だと経験的に思いはします。

次に強く惹かれたのは、脳の病の治療についての章です。これは精神疾患や神経疾患の章なのですが、それらの疾患は脳の器質的な病気だと捉えることができるという大意のもとで話が進んでいきます。今の技術では器質的な病的変化がわからない精神病も含めてです。そして、技術的に変化部分がわからない自閉症などは遺伝子異常をみていく、とあります。

この考えはまさに「医学」の考えだろうと思うのですが、前提として現在の社会の仕組みをゆるぎない「是」としていて、無批判にそこから立ち上った考え方でもあるしょう。でも別の視座として、社会の在り方や仕組みが病気を生んでいる、すなわち社会病とでも表現するようなものが精神疾患であるとする考え方もあるわけです。

もしかすると社会の在り方が精神疾患を生んでいるのではないか、という疑いから生まれる見方は「疫学」的見方でしょう。社会を主体として精神疾患を見てそれを直すのが「医学」で、人間を主体として精神疾患を生まないように考えて社会に働きかけていくのが「疫学」ではないでしょうか。

社会は揺るぎない「是」であるとして、その社会の影響で変化した脳の部位を直されて社会に適合する形にされるだとか、遺伝子すらその社会に適合する形に直される、だとか、社会に合うように人間を矯正する「医学」って、ちょっと怖く感じられるものがあります。

研究段階においては懸念材料として認識されはするのだろうけれど、倫理的議論は後回しにされがちなんだと思います。まずはそれでいいと僕は考える方なのだけれど、だからこそ、ある程度まとまった形の研究が本書のようにアウトリーチ活動として出てきたときに、受け止めた一般人があげた声がフィードバックになるのはありなのではないでしょうか。

と、考えていたら、本書の末尾にこうありました。引用します。

__________

脳と行動の関係については、その轍(対策が後手に回ること)を踏まないよう、今のうちから議論を開始したほうがよいと思っています。科学の進歩によって、私たちの心と行動を作る脳のメカニズムが明らかになることはとても素晴らしいですし、エキサイティングなことです。だからこそ、脳科学の発展を社会にとって有意義なものとして生かしていくためには、さまざまな分野、立場の人々の対話が必要です。今こそ、脳科学と社会との密接なつながりと、広い視野が必要になってきているのです。(p313)

__________

まったくそうですね。


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基本的人権≒個人の秩序。

2023-05-20 09:55:35 | 考えの切れ端
ふと、「基本的人権」の言い換えを思いついたのでした。それはなにかと言えば、「個人の秩序」です。そうやって言い換えを想定してからまず秩序とはどういうものかを考えていき、個人と言うレベルの秩序に当てはめて考えてみる。そうすると、「基本的人権」がよりわかりやすくなると思う。秩序は、安全や安心、そしてその範囲内での効率性を担保するという良い点があります。「個人の秩序」としてみれば、自身の安心や安全、自分と言う単位でする仕事の効率性を生むものだとなります。おまけに、安心や安全ゆえなのかもしれませんが、幸福感や充実感もえられると思います。

で、他者によるものである他律性が個人秩序をつっつくと、秩序で得られる安全や安心が揺らぎます。くわえて、仕事の効率性もゆがめられる。だから、多くの人は他律性を嫌うのです。しかしながら、他律性を排す、イコール自律性を持つこととはならないんです。感覚的にこれはどうも違うと常々考えてきましたが、やっともっとよい言い方へとたどり着きました。「他律性を排す」=「個人の秩序を持ち、保つ」。

秩序はそれに沿わないものを排除したり修正・矯正を強いたりします。個人の秩序でそれをやると、他者の秩序が自分の秩序を脅かすから、その他者に他律性を発揮してしまうというケースが思い浮かびます。そうならないため、「個人の秩序」のイメージは、壁に囲まれたものとするとうまくいくかもしれない。そんな、壁に囲まれた自己を持つ個人同士にはできるだけのフェアなコミュニケーションが必要になる。現在、世の中に跋扈する「自己利益のための行動」は、それを求めるよりまずこのフェアなコミュニケーションを前提とするほうが、社会全体は生きやすい場になります。社会的な生き物として、まず社会の利益や全体的な幸福(理想を求め過ぎず、できるだけの幸福ですけども)を基本的事項としてルールのように優先することで、生きやすさの方向へと世の中の有り方は変化するんじゃないでしょうか。ただ、社会こそを優先! なんていうふうに行き過ぎてしまうのはよくないです。犠牲になってはいけない。欲望の部分に関するところでは、社会を優先するといいのかな、と思います。

というところですが、幸福感や生きやすさは、「個人の秩序」を持ち、守ることから得られるもののように考えられます。そして、それは基本的人権を含むものなのではないでしょうか。というか、ニアリーイコールなのかもしれません。

最後に。「関係性においての自律性」っていう言葉に触れたことがありますが、これについても、「関係性においての秩序」、ととらえてみると、より少人数のグループでの秩序に基づくものであると捉えることができます。介護は、介護者と被介護者との関係性の自律性が大切なんて言われていることがあります。お互いが納得して、一方的に決められるのではない、関係性においての秩序を築き上げられると好いのでしょう。
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『街とその不確かな壁』

2023-05-11 06:55:29 | 読書。
読書。
『街とその不確かな壁』 村上春樹
を読んだ。

滑り出しは慎重な感じがしました。50ページくらいまで読むと、でももうすっぽりとその世界の内側に、いつの間にやら無自覚に深く入りこんでいることに気づきました。思いのほか森の奥まで足を踏み入れてしまっていたみたいに。そして、物語の中の時間の流れ方と読んでいる時の自分自身の時間の流れ方が、すうっと同期していくその感覚がとても好ましい。

__________

というのは、その香りは私を知らず知らず深い夢想の世界に誘っていくように思えたからだ。人の心を枠組みのない世界に引き込んでいく気配がそこにはあった。(p270)
__________

という文章があるのですが、小説がまさに自己言及しているかのように感じられました。ぐうっと物語世界に引き込まれていく感覚が、まるでこの文章のようです。物語が少しずつ遷移していくその仕方のきめ細かさという点にはほんとうに恐れ入りました。

さて、ネタバレの感想になります。これから読もうとしている方は要注意です。単刀直入に核心部分に触れていきます。その分、本作品の豊かな味わいについては削いでしまっているので、僕の分析や感想のその外側には、僕の語りの100倍以上の豊潤さを感じさせる物語世界が広がっていることはお忘れなく。




終盤、イエロー・サブマリンの少年との会話で、「街」にいる主人公と少年は、虚空に浮かんでいるような状態なんじゃないかという仮説が立ちあがります。物語の内に住まう人々からすればそういう視点での語り方になるだろうけれど、この物語の読者からしてみれば、この「街」自体が、というか、最初に書かれた「街と、その不確かな壁(1980年)」という作品自体が、虚空に浮かんでいるような存在であって、それを、人間存在や現実世界といった血が通っていたり土臭かったりするものに連結すること、このモチーフと架橋する行為を成したのが、今作『街とその不確かな壁』なのではないか、という気がしました。

影とは何ぞや、どうして影と本体は引きはがされているのか。そして壁とは何なのか。つまりどういったメタファーなのか。ひとつの読みとして、二段階で考えられると思うのです。個人のレベルと、社会のレベルでです。文学作品にこういう分析をしてしまうと、まったくもって味気ないのですが、メモ書きのように書いていきます、ご了承ください。

「街」で暮らすことは、個人のレベルでいえば、殻にこもり、自身の純粋な部分だけで生きていくこと、つまりごみごみとして生臭い現実の世界とは決別して、自己完結した世界で生きていくこと、そう言ったことを意味するようにも感じられます。ここでは、影という存在は、その人の現実性なのかもしれない。現実性(そこには社会性といったものが少なからず含まれている)を門衛がナイフではぎとり、別々に分離させて、その本体だけしか入れないのが「街」です。「街」は、古びていて、荒れていて、寂れていて、かなり貧しい。でも、そこでは、経済的な豊かさはなくとも、充足を得ることができる。貧しくとも、まず、やっていけるのです。さらにいえば、好きだった少女と会える幸福感までがある。
それでですが、そういった「街」に籠もることは、単純に「逃避」であるとは決めつけられないことだと思うのです。物語の最後に、主人公には街から出て行く時期が訪れますが、やっぱり、自分を回復する、という作用を求めてその「街」に入ってきたのだと思う。壁は、そのための防御壁です。しかし、主人公の認識の届くか届かないかのところで、壁は微妙に形を変えたり、行く手を阻んだりします。そこはたとえば、壁があれば単純に防御壁としての機能しか見出さないのは、人間側の都合に合わせた勝手な解釈と決めつけであり、物事にはやはり両面的だったり多義的だったりする性質が備わっているものでしょう。ですから、壁もまた例外ではなく、街に取り込んだものは、そこから出そうとしないのです。それは、行き過ぎた母性がそうであるように、保護と囲い込みとがあるのです。子離れするのが難しい、みたいな心理に近いのだと思います。

さて、もう一つの、社会のレベルでの見方ですが、壁で囲まれた世界、それは社会だと仮定して読み解くことができるとも思うのです。この、「街」にいる私たちは、社会で暮らしている私たちなのです。そして、社会で暮らしているということは、人間性のある部分を社会に渡してしまうことを知らず知らずに要求されてそれに従い生きていることなのではないか。
壁で囲まれていることで、私たちは恩恵を受けている。壁で囲った町は、秩序という安全と安心、秩序による効率性への基盤という役割を持っています。私たちは、何の気なしに、自然とそういった世界に生きていますが、果たして、本来の人間性というものからその一部分を社会に差し渡していることを知らないのではないか(また、秩序は、その意向に沿わないものを排除する性質がありますし)。「街」が影をその内部には入れないのと同じように、人間性のすべてを社会は受け入れていない。ほとんど自覚することもなく、この社会で暮らすということは、影を引き剝がされて生きていくことになっている。なので、街から出て行くことは、「ポスト現存社会」ともとらえることができると思うのです。現存の社会体制から出て行くときに、それを受け止めてくれる人たちがいるかどうか。影と一体となって、つまり人間性を十全に回復した人が、弾かれないくらいの許容力を持った、新たな世界を作っていくことができるのか。そこが、物語の範囲外で求められ、委ねられるものだと解釈できそうに僕は思いました。

では、ここからは余談のようなものになります。イエロー・サブマリンの少年が、主人公やコーヒーショップの女性に生年月日を聞き、「水曜日」と教える場面があります。図らず、その二人は水曜日に生まれたということでした。実は僕も水曜日の生まれなんです。昔調べたことがあるし、この読書を機会にグーグルでもう一度調べてみました。マザーグースに「水曜日の子供は苦しいことだらけ」とあると、司書の添田さんが言います。気にすることはないといいつつ。苦しいことが多いな、と僕は笑ってしまいました。

イエロー・サブマリンの少年はサヴァン症候群のようで、読書量は半端じゃなく、あらゆる方向に好奇心が向かっているのか、ランダムに乱読しています。わかっている読書記録のなかには、『ホーキング、宇宙を語る』もありました。これ、僕が小5か小6の頃に父親の書棚から勝手に取り出して序盤だけ読んだ本なんです。マルチバース論のことが書かれていて、学校の授業の最中ひょんなことからそのことについて発言した時があって、先生が興奮してしまったのを覚えています。

そしてですよ、本書の発売日がうれしい。巻末の発行日の記載は4月10日になっていますが、実際に本屋に並んだのは4月13日。奇しくも僕の誕生日なのでした。

こういうリンクというか偶然というかが、より自分に引き寄せた読書体験へ誘っていく感じがあります。通常の読書よりも、自分ごとに近く、親身な気持ちで読めてしまうというような。

村上春樹さんが45歳を迎えてからの数か月、僕は自分の誕生日を迎えるまで16歳でした。この小説の主人公が45歳で、イエロー・サブマリンの少年が16歳であるように。そして、僕が『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』やそのほかの短編集を読んでいたのが、つまり16歳だったと思う。そして、この小説が書きあがったころ、僕は45歳でした。もともと、二人で一人の存在だと、イエロー・サブマリンの少年は言うんですよ。もう、たまらなく顔がほてってきます。


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精神疾患を地域で看るまでのその一歩は。

2023-05-03 11:32:09 | 考えの切れ端
精神疾患を地域で看る、というやり方は、精神疾患は自己責任や家庭の責任というよりも、どうやら社会の在り方が生むものだ、という気づきが、そのことについて市民が思索や議論をしてみたその果てに得られたから、というのはあるのではないかなあと思うんです。社会の在り方にはもちろん「秩序による排除作用」も含まれます。秩序って、それに沿わないものを矯正したり排除したりして保とうとする性質がありますから。

ヨーロッパでは精神疾患を地域で看るといいますし、日本の精神医療は何十年も遅れているといいますし、そのあたりの違いは、市民の間で、社会の在り方や権力、秩序に対する思索・議論がどれだけなされたか、という部分での民度がものを言っているように思います。フランスでは難しい現代思想の本が、思いのほか売れるなどし、そこがフランスという国のすごいところだ、と『現代思想入門』に書いてあったのを思い出します。20世紀の哲学者、フーコーなんかは、権力についていろいろ考えていて、それを知っているヨーロッパの人たちは市民階級にも比較的多いのかもしれない。

民度って言っても、いろんな面、いろんな軸でのものがありますよね。たとえば日本人のここの民度は世界的にもすごく高いのだけど、この部分の民度は最低だ、みたいに。国民性って言っちゃったらそれで終わってしまいそうだけれど、それで済まない種類の物事もあるんじゃないだろうか。それは権力についてがそうだろうし、落ち着いた態度で注意深くなされる洞察や思索、議論は、ゆっくりとであったとしてもなされたほうがいいでしょう。

そういった話をしても恥ずかしくない雰囲気が出来上がるまでには、けっこうな時間がかかるかもしれません。それでも、志ある人たちは、一歩一歩、やっていくんだと思います。僕もそうありたいです。
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