Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

『愛するということ 新訳版』

2022-10-29 21:38:04 | 読書。
読書。
『愛するということ 新訳版』 エーリッヒ・フロム 鈴木晶 訳
を読んだ。

どうして愛が必要なのか。僕だったら、愛を媒介として子孫をつくり後世へと生命を繋げていくためで、あくまで手段としてプログラムされたものなのかもしれない、と答えるでしょう、いきなり訊かれたならば。しかしながら、「でも……」とそう答えてしまってから首をひねるでしょう。愛って、そんなに矮小なものだろうか。そしてそんな単一な機能しかもたないものだろうか。人生を楽しくしたり、幸せにしたりするのも愛だとする。それだって、楽しい人生じゃないと生きようという気持ちが芽生えず、生命は滅んで行ってしまうからプログラムされた、と言えるかもしれない。ここで再び、「でも……」とプログラム説の冷たさにたいして疑問を感じ始める。愛っていうものは、生命を巧妙に騙すプログラムで、人生に豊潤さすらもたらすくらい、全力をかけてできているものだとする。生命が愛ありきで設計されたものであっても、人間の知性が世界というものを知り、それを肯定して深めていって完成させるものなのかもしれなくはないでしょうか。これは、才能が、生まれついての先天的なものか、あるいは環境や努力による後天的なものか、という問いに似ています。プログラムはされていてもそれはある意味で「種」であって、後天的に発展させたり深めたりを自分でしていかないとうまく成熟しないものなのではないでしょうか。

本書は、この、後天的な部分を担当する読み物です。とりとめのない愛というものの本質を、愛することととらえ、さらに愛する技術を学ぶことが大切だとしています。愛は、考れば考えるほど、自分の視野ではとらえきれないようなものだとわかってしまうようなものですが、本書は、うまくそこに形を与え、理論化しています。途中、同性愛を否定する箇所や、眠りを疎んじ覚醒をもてはやす箇所などで古さを感じるのですが、それ以外はおおむね読ませるどころか、新たな学びともなる、ひとつの見事な論理として愛というものの姿を知ることができる内容になっていました。

前置きが長くなりました。ここで序盤の文章から一文を引用します。
___

人間は孤独で、自然や社会の力の前では無力だ、と。こうしたことのすべてのために、人間の、統一のない孤立した生活は、耐えがたい牢獄と化す。この牢獄から抜け出して、外界にいるほかの人びととなんらかの形で接触しないかぎり、人は発狂してしまうだろう。孤立しているという意識から不安が生まれる。実際、孤立こそがあらゆる不安の源なのだ。孤立しているということは、他のいっさいから切り離され、自分の人間としての能力を発揮できないということである。したがって、孤立している人間はまったく無力で、世界に、すなわち事物や人びとに、能動的に関わることができない。つまり、外界からの働きかけに対応することができない。このように、孤立はつよい不安を生む。
(p23-24)
___

著者・フロムの心理分析では、こういった「孤立」を解消するために愛があるとされます。また、愛にいたるまでにも、「孤立」を解消する行動を、人はいくつも行うことも記されています。たとえば、外界があるから孤立を感じる、というところに人は気づくのです、おそらく無意識の領域で。では、外界と同調し自分を失えば孤立はなくなるがそれだとどうか、となる。どうして生きているかもわからなくなりそうです。そうならないようにうまくやるには、つまり外界との同調を嫌いながら孤立感をやわらげるには、外界を消し去るほかなくなります。アルコール依存や薬物依存の理由はそうやって外界を消し去るため。外界を消すことは、外界から徹底的に引きこもることで成されるからです。また、祭りなどの非日常の行動も、孤立感を消し去る効果がある。これは、高揚状態と集団の結束のつよまりから孤立感が薄れます。この類いの行為としては、考えてみると、パチンコや競馬などのギャンブルに足を突っ込みすぎることというのは、孤立ゆえに外界を消そうとする行為なのだろう、とわかってきたりします。あとは、創造的活動が、没頭して生産的になることで世界とひとつになるような経験をし、孤立感が無くなります。ただ、人間同士の一体感こそが、偽りでもなく一時的でもない一体感であり、孤立から脱する完全な答えとしての行為が、愛なのだ、と著者はいうのでした。

ここで僕なりに思い浮かんだことは、引きこもることも、外界を消す行為だということでした。孤立から自分を救うための行為ということになります。誰も自分のことをまるでわかってくれないことが孤立だともいえます(孤立とその不安を解消できる機能を備えた社会が作れるのならば最高ですよね)。少なくとも西洋社会では、個人は孤立から逃れる心理ゆえに自ら社会に同調していくといいます。日本はどうだろうかと考える。建前で同調して、隠した本音では同調することで自分をなくしたくないと思ってはいないだろうか。だとすれば、本音を隠したその行為、その心理は孤立感を育てるでしょう。ゆえに不安を呼び、強迫的な行動に繋がりやすくなる。また、不安って認知を歪めるといいます。隠された本音由来の孤立感からくる不安が認知を歪めることで、似非科学や陰謀論にふりまわされやすい心理状態になりやすいのではないかと考えるところです。

愛は与えることだとも書かれていました。ある人が誰かに与えることで、与えられた誰かの中でそれがなにかが生まれるきっかけになり、なにかが生まれたときには与えた人にそれが思わず返ってきたりする。上昇スパイラル、正の連鎖ですね。べたな例ですけど、ライブなんかでのミュージシャンやアイドルと、観客やファンの関係はそれにあたりそうです。損得や犠牲で「与える」という行為をとらえているうちは、うまくいかないということでした。

とても勉強になったのは、父性と母性のところでした。無条件で愛する母性と、自らの言うことを聞くなら愛するというような条件付きで愛する父性。人は成熟すると、自らのなかに母性も父性も自足するようになるというのです。ただやっぱり、ちょうどいい母性と父性との関わり具合があって、そのバランスがおかしいと愛することがうまくいかなくなる、と。神経症的な愛の形になってしまうんです。

たとえば僕は母の介護をしているなかで、強い父権でもって完璧主義と強迫観念で母に接する父がいることで、家庭でのバランスを無意識にとろうとして無条件に愛する母性的接し方をするようになった。でも機能不全家庭で育った僕にそんなことができるのだろうか。まやかしの母性ではないかと疑念がわいてきます。愛することが得意かどうかというと、僕は子どもへの接し方に苦労するほうなので、そこを鑑みるとほんとうは得意ではなさそうなんです。でも、子どもってふつうに闇や悪をかかえているもので、ピュアではないことを知っている(自分の子供時分のことを覚えている)から接するのに苦労するのかもしれない。ある意味で素直でシンプルなのが子どもの可愛いところ。でもピュアな感じでの善とは違うでしょう。親を含む大人などの他者が子どもである自分をどうみているかをちゃんと知っていてそれを利用して演じたり嘘をついたりし、自分の思う通りにする。混み入った罠を思いつき実行したりもします。

神経症な愛のひとつの例として、以下の引用をしておきます。
___

「投射のメカニズムによって、自分自身の問題を避け、そのかわりに「愛する」人の欠点や弱点に関心を注ぐといった態度にも、神経症的な愛の一つの形が見られる。この場合、個人が、集団や民族や宗教のようにふるまう。この手の人間は、他人のどんな些細な欠点も目ざとく見つけ、他人を非難し、矯正することに忙しく、自分の欠点にはまったく気づかずに平然としている。」(p151)
___

後述に「自分が支配的だったり、優柔不断だったり、欲張りだったりしても、それを全部相手にかぶせて(投射して)非難し、性格によって、相手を矯正しようとしたり、罰したりする。」とあります。こういう人、いますよね。母性や父性との関わり方がうまくいかずに大人になったからではないか、と本書を通読するとそう考えてしまいます。

最後に。
愛の技術を磨くには、「規律」、「集中」、「忍耐」、「技術への関心」がカギになると書いてあります。そして、これらは様々な技術を会得するのに必要なものだし、愛の技術もそれらと同様なのだ、と解説されていました。なるほど、そうかもしれない。気が向いたときだけやるのではなく、規律をもって、気が向かなくてもやりなさい、というところが耳に痛かったです。

おまけとして。
他者に無関心でいることが現代の特徴だとして、その無関心を通り道にナルシシズムへ行き着くのではないのでしょうか。相手の事情を考えられなくなっていき、自分の利益ばかり主張するのがナルシシズムの一面です。客観性が弱い。それだと、まともな「愛する」行為がわからなくなっていく。偽りの愛ばかりになるのでしょう。本書では、客観性がないということは理性がない、ということになる、とありました。そして、謙虚さは理性の証みたいなものなんですよね。なるほどなあ、と肯くばかりで。


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『嵐のピクニック』

2022-10-26 12:14:20 | 読書。
読書。
『嵐のピクニック』 本谷有希子
を読んだ。

13の短編が収録されている。まず2つの作品を続けざまに読んだとき僕は、ずっとこれを求めていたに違いない! と目の覚めるような想いとともに、自分の読書脳と創作脳がほの温かく躍動し始めるのを感じたのでした。わかりそうな人たちに、「ちょっとこれ読んでみ」と前のめりで薦めたい。見つけた!感が泡立つのです。

話を展開をしていくために言葉のバランスを考えたり表現を考えたりしながら書いている部分と、内容や自己に沈潜して書いている部分と、そしてもともとの発想があると思うのだけど、三位一体的でした。そしてぎゅっとして無駄がない。

以下、とくに好きだった3作品についての感想です。

「私は名前で呼んでる」
カーテンのふくらみから妄想と記憶が流れ出す話。こういう、なんともいえない錯覚の渦中にいる感じってあるなあと思う。でも、言葉にできるほど意識の腕が届いていない領域のものでもある。この、書き手の「意識の立ち位置」みたいなものを考えないわけにはいかない。そんなところに立っていたか!と言うような立ち位置から書いている気がした。目を閉じて想像や思考の世界に耽溺しているだけでは書けない。だからといって目をかっと見開き外の世界をつぶさに見つめ続けるだけでも書けない。言うなれば、薄目で外の世界を眺めながら思考や想像ともつながっている意識で書いたような小説、という感じがして、そこを対象化して言葉にしたのがすばらしい。

「マゴッチギャオの夜、いつも通り」
猿山のなかのいっぴきの猿。名前をマゴッチギャオという。その猿山にいっぴきのチンパンジーが入れられることになり、マゴッチギャオはおそるおそる近づいてみる。この作品はもっとも寓意を感じるような話で、印象深い。ラストの締め方に一撃を食らいます、それもやられてしまう一撃ではなく、なんていうか力がわくような一撃です。

「ダウンズ&アップス」
主人公のデザイナーは、自分にこびへつらいお世辞ばかり言われる環境を、とても心地の良いものと肯定している。それも、強固な肯定感で。意見を言う若者を、表向きは物珍しさのために近くに置くようになるのですが、それでも、自己肯定感の恒常性のほうが強かった。意見を言う若者を近づけたのは、ほんとうに、物珍しさのためだけなのか。主人公の心の中にはいっさい迷いがないようではありますが、実は無意識のほうで渇望しているものがあったのだろうなとうっすらと思うのでした。しかし、この主人公の自己肯定感の強さはほんとうにすごくて、読んでいると、主人公が穢れのないくらい潔癖に正しい、と思えてしまうくらい。それほど、この短い話に揺さぶられてしまった。主人公像としては、アンディ・ウォーホルが思い浮かびました。

というようなところです。僕も自分の小説を書くにあたって、真似したいわけではないのだけど、自分の才能をぐいいっと空間の隅々まで伸ばして書くような書き方をしてみたいです。読み手としては興奮するし、書き手としては刺激になりました。よい出合いでした。おすすめです。


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『意識と無意識のあいだ』

2022-10-14 18:18:25 | 読書。
読書。
『意識と無意識のあいだ』 マイケル・コーバリス 鍛原多惠子 訳
を読んだ。

目的不明の思考が自然と生まれ、その思考は意識をさまよい、うつろっていく。授業中、仕事中、いやいや読書中にも運転中にだってそれはあるものです。この作用をマインドワンダリングと呼びます。マインドワンダリングしていると「集中しなさい!」と授業や仕事に呼び戻され、読書中にそれに気づけばハッと意識を正すようにして読書に戻る。運転中のマインドワンダリングならば、もしもそれが深いものならば事故の危険が高まります。「集中しないと!」と目を見開いたりするかもしれません。

時代はマインドフルネスが力を持っています。マインドフルネスは、「今ここ」に集中する方法です。雑念を払い、今を十全に感じることで、生きている実感や充実感とともに、意識がすっきりするとも言われます。ひとつの瞑想法です。対してマインドワンダリングは、「今ここ」に集中しません。マインドタイムトラベルと呼ばれるような、意識の中で過去や未来へと思念を飛ばしあれこれ考えを巡らせるようなことも含まれます。マインドフルネスが正しい行為であると決めてしまえば、マインドワンダリングは取り除くべき悪い行いなのでしょうか。本書は、これまでに解析されたマインドワンダリングのメカニズムをたどり、それらの研究にもとづく論理的な筋を骨子としながらも、数多の文学作品の引用をまじえて味わい深くその意味を語ってくれるエッセイです。

マインドワンダリングが生まれるのは、安静時の脳で活動するのデフォルトモードネットワークという神経網の状態からです。といいますか、デフォルトモードネットワークの状態で脳は何をやっているのか、と考えていくとマインドワンダリングがあった、といったほうがわかりやすいでしょうか。活動してない状態なのに、活動時よりも脳が活発に動いているデフォルトモードネットワークの状態が不思議で、それがどういうことか、と追ってみたら……ということです。

前述のマインドタイムトラベルについて考えを深めるとわかるように、マインドワンダリングには「記憶」が重要なソースとなっているようです。つまり、脳の海馬が関係している。この、海馬を損傷した人を調べた研究によると、マインドワンダリングは生じていないようでした。その人の脳でデフォルトモードネットワークが起こっていないと考えるのは難しいので、デフォルトモードネットワークの活動中にマインドワンダリングを起こすためには海馬の能力が必要だということでしょう。

また、私たちは他者がなにを考えているか知る能力に長けています。これを「心の理論」と呼ぶそうです。他者の気持ちになって考えたり、他者が間違った信念を持っていることに気づいたり、そういったことはシンパシーやエンパシーができるからですが、これらを行っているときは、デフォルトモードネットワークが活性化しており、つまりマインドワンダリングが作用していると考えられるそうです。

その後、本書では、マインドタイムトラベルとマインドワンダリングの性質から、物語を作る能力や夢を見る能力につながることを論じていきます。そして、その先に、マインドトラベルと創造性の関係が浮かび上がってくるのでした。マインドワンダリングは、ランダムに思考が浮かんでくることでもあります。ランダム性というものは、「たまたまやってみる」という行為を生むもので、その結果として、「たまたまやってみたらうまくいった」こともでてきます。これがいわゆる、新しいアイデアが成功した瞬間なのでした。創造的です。この先に何があるのかといったことを知るには、さまよってみることが必要です。思考も同じで、思考をさまよわせる(マインドワンダリング)ことで、考えたことのない考えを発見することがあります。さまようことの大部分は、逸れたり失敗したりすることでしょう。創造的ということはそういったことなんだと思います。

またこの論理を、たとえば読書という行為へと当てはめてみるとします。すると乱読というランダム性にはどうやら効能があるだろうことがわかってくると思います。調べ、深めるための体系的な読書は素晴らしいですが、アイデアの発見、知的領域の新大陸発見のための乱読だってすばらしいと言えるのではないでしょうか。

最後に。
脳には右脳と左脳をつなぐ脳梁という部位があります。その脳梁が小さいほうが創造的らしいそうです。右脳と左脳それぞれが独立していることに理由があるのではないか、と。大きなひとつの枠組みで考えるよりも、二つの枠組みで考えるほうが創造性に繋がるのではないかということでした。なかなか意外ですけれども。


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『良心をもたない人たち』

2022-10-06 21:29:50 | 読書。
読書。
『良心をもたない人たち』 マーサ・スタウト 木村博江 訳
を読んだ。

いわゆるサイコパスやソシオパス、反社会性人格障害などと呼ばれ、分類される人たちがいます。本書の帯を写すと、「一見、魅力的だが、うそをついて人をあやつり、空涙をながして同情をひき、追いつめられると逆ギレする」ような人々です。本書はこのような人々を「良心のない人々」と定義し、その視座から彼らとはどういった人たちなのか、何者なのか、を明らかにしていきます。「良心をもたない人々」は良心がないがゆえに、この世界をゲームとしてとらえ、他者に勝利し支配する行動をとります。配偶者や子どもを支配する例が多いようです。

僕は本書を読みながら、自分の親や自分自身がサイコパスに当てはまるかどうかを考えました。結論からいえば、まるまるすべてが当てはまりはしませんでした。ただ、部分部分で当てはまるものがあり、サイコパスの片鱗があるのかなと感じたりしました。しかしながら、その判断はとてもむずかしいです。いくつかの別角度で考えることを心がけたり、性格というものにたいしてズームイン・ズームアウトみたいに、近寄って考えたり鳥瞰的に考えたりなどして、かなり本気で向き合ってみても、霧がかかったまま明確に結論は出ません。

90年代に発明されたサイコパス診断シートがあるのですが、むやみに自分自身や近しい人に用いてはならない、とされています。僕が「あるいは、」と考えたのは、本書の筆者が本書にあえてぼかしをいれることで、サイコパスの診断を素人がくだせないように仕向けたのではないか、というものでした。そういった仕掛けによって人権を保護したのかもしれない、と考えるのは、僕が「空想好きのお人好し」だからなのでしょうか?

さて。欧米では25人に1人(100人に4人)はサイコパスだというデータがあるようです。サイコパスって珍しいタイプなのかと思ってたけど、統合失調症(100人に1人)より多い症例なんです。しかしながら、そう思いながら読んでいたら、東アジアではもっとずっと少ないと載っていました。集団主義的な文化的な背景、世間とかのしがらみが、単独行動とセットのサイコパスを生みにくくしているのかもしれません。

良心は、寝不足や歯痛などの身体的な不調によって弱くもなるもので、サイコパスのような「良心をもたない」行動へその人の行動を近かせるようです。また、恐怖や不安によっても良心は弱くなる。それと、権威に服従するというもともとの性向を人間は持っているのですが、権威からの働きかけやプレッシャー、服従によっても良心は弱くなり、サイコパスのような行動をとりがちになる。サイコパスは自意識が希薄なことが決定的な特徴だとあるのですが、こういった外的な要因のために自意識が弱まり良心も弱くなるのだろうと考えられます。強迫症で寝不足でという状態だったらほぼ間違いなくその人の行動はサイコパス同等のものになるのでしょう。サイコパスは周囲を支配し他者の人格を壊してしまいます。たとえば、ある人がもともとサイコパスではなくとも、寝不足や不安を原因としてサイコパスと同等の行動をしてしまうのなら、その被害はサイコパスからのものと同等のものを周囲の人は受けてしまい、迷惑そして問題です。ほんとうのサイコパス自体は精神症状と判断すべきものなのか難しいものですが、寝不足や不安を原因としてサイコパスと同じ行動をとっているとわかったとするならば、その源の精神の問題をきちんと治療したほうがいいです。

<つねに悪事を働いたりひどく不適切な行動をする相手が、くり返しあなたの同情を買おうとしたら、警戒を要する>(『良心をもたない人たち』p145)
妻に暴力をふるいながら、俺はなんてダメで情けないんだ、といいはじめ、殴られた妻が同情し始める。サイコパスの常套手段らしいです。どうして同情を買おうとするのか。他者から哀れんでもらうことで、サイコパスは他者を無防備にします。哀れんでいる人間は無防備になるからです。そうやって、好き勝手にできる力を得る。……というように説明がなされていたのだけど、納得がいきます。また、ちょっと想像を膨らませて考えてみると、サイコパスの者がサイコパスだとばれたとき、自分がサイコパスにならざるを得なかった後天的な理由があることを、サイコパスの者は同情を引くように述べだすと思うんです。サイコパスにそう語られた人たちは、そこがほんとうのような気がしてしまってわからなくなりがちではないでしょうか。いちばんのやっかいな点ではないかと。

<サイコパスは完全に自己中心なため、体のあらゆる小さな痛みや痙攣にたいして自意識が猛烈に強い。頭や胸に一瞬感じる痛みがいちいち気になり、ラジオやテレビで聞きかじった話は、トコジラミやリシン(トウゴマに含まれる毒性アルブミン)にいたるまで、すべて自分の身に置きかえて心配になる。その不安と警戒心はつねに例外なく自分自身に向けられるため、サイコパスは自分の健康を病的に不安がる心気症患者のようにもなる。彼らにくらべれば重症の不安神経症患者でさえ、理性的に見えるほどだ。>(p253)

<一般的に彼らは努力を続けることや、組織的に計画された仕事は嫌がる。現実世界で手っ取り早い成功を好み、自分の役割を最小限にする。>(p254)

<なにかに真剣に没頭することや、毎日訓練を重ねて美術や音楽その他の創造的な力を磨くことは、サイコパスにはまったく向いていない。(中略)結局のところ良心のない者は、人にたいするときとおなじように、自分の才能と接する。才能の面倒をみようとしないのだ。>(p255)

また、サイコパスはほとんどつねに単独で活動する。(ここは僕自身、単独行動ばかりなので誤解されるなあと気になったのですが、僕の場合は若いころから自分で自分を閉じなきゃいけない理由があったからなのでした。家族の問題が頭の大半を占めているのに、それを語っちゃいけない、ということで、他者から離れていってそれが板についたのでした)

なかなかわからなくなってくるところもあると思います。現在の資本主義の競争社会だと、ある意味、サイコパスが勝者になりやすいように見えるし、こういった社会の側から、勝者になるためにはサイコパス的行動を、と奨励されるような気配すらあるように感じられるからです。

最後に。本書はサイコパス、つまり「良心をもたない人々」を詳しくみていくことで、反対に「良心」についても深く考えていく作りになっていました。良心とは、愛ゆえの義務感である、とされていました。さらに、良心は抑制を生みもします。僕は最近、自制心って実はとても大切なんじゃないか、と考えるようになりましたが、ここでいう良心による抑制は、僕の考える自制心とニアリーイコールなのでした。まあ、おそらく、サイコパスかどうかっていうところも、多くの人々にとっては0か1か、白か黒か、ではないのだと思います。きっとグラデーションの濃淡のある種類のものです。それも、その時々によっても変化しているのではないかな、と考えるところなのですが、実際、どうなんでしょう……。


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仕事を辞めることにした理由。

2022-10-03 10:47:31 | days
6月からお店のパートスタッフとして働き始めましたが、10月半ばをもって退職することにしました(現在は有給休暇消化中)。その顛末というか、理由について、ここに残しておきます。

<序論として>
まず、働き始めた理由ですが、母親の介護にデイサービスやショートステイを使えないのは経済的な理由だと親父が言い始めたからです。訪問リハビリの回数も、毎週月曜日に来て頂ているのを経済的理由として月に一回分を減らしました。親父に一存です。デイサービスやショートステイを使えないのは、親父が他者に母親を預けることにつよい不安を感じるからなのですが、金銭面に転嫁しました。お金の問題だと言えば、役所からもケアマネからも口出しできないだろうというねらいだと思います。そして、働かずに家にいる僕へ矛先を向け、お金がないのがいちばんの問題だとして、僕を責めたのでした。さらに、車の維持費は出さないと言いだされて、そのために仕事を探したのが大きな理由でした。車自体、親のお金で買ったものなので文句はなかなか言いづらい。処分すると言われても抵抗しづらいわけで、そこを親父に突かれたのでした。しかしながら、いつものように親父は物事を小さく切り取ってからそこにフォーカスして理屈をこねています。木を見て森を見ず、がデフォルトなのです。なぜ僕が働かずに家にいるのか、その理由を無視している。あるいは、僕を怠惰だと決めつけてそのせいにしている。親父は、何もしないでいること、つまり怠けてだらだらしている状態が、いちばん楽で幸せな状態だと考えているところがあり、その価値観で人を見るため、またそれとは別に「隣の芝生は青い」的に他者のことが見えるところに、自分がいちばんいい思いをする状態(怠ける状態)を重ねてみるのだと思います。人は自分の見たいように人を見るものですから(リップマンの『世論』にそのような論述がありましたし)。

僕が家にいる第一の理由は、親父の家族への精神的暴力(暴言・怒鳴る・わめいて責める・常にあら探しをして人を否定する・支配的など)がほんとうに酷く、母親への肉体的暴力にまで及ぶことがあるからです。第二の理由は、親父の暴力によって僕自身が疲弊しているからですし、こういう家の状態で稼ぎに出るには負担が大きいし、家でも休息が取れないからです。第三の理由は、もう10年以上前になりますが、親父が働いていたころに家事をして母の様子を見守るために無職でいて、こういう状態から将来を考えたときに執筆業でなんとかしたほうがベターだと考えてその道へシフトしたからです。まあ、後述する第四の理由として、執筆業の道へシフトしたことによる影響が大きいのだと思いますが、いわゆる仕事、広義でいう事務的な仕事(書類処理に限らず、決まったシステム通りの範囲内でその仕事を覚えてこなすような仕事)が向かなくなったことがあります。事務⇔創作と言われるように、どうやら正反対の道だったようです。

2015年に親父が退職するやいなや態度が急変し、僕を厄介払いするようにいきなり月の小遣いを断たれ、勝手にやれ家から出て行けというような態度を取られるようになります。母親の調子が悪くなるいっぽうで(父親の暴力が原因だろうと考えています)、そんな母親の介護を父親一人でできるかどうかが甚だしく疑問だったので、家にずっといるようになった父親が母親の介護になれてうまくこなせるようになったのを見届けながら(僕がサポートしつつです)、ソフトランディングするように僕はパート労働をしながら執筆をし、親父には母親の介護をしてもらおうと考えていました。でも前述のように親父は態度を硬くして、母親の介護も家事もすべて一人でできる、と言い切るのです。僕も腹が立ちますから、それじゃやってみろ、と。でも、冬場はストーブの周りで母親が自分を失ってうろうろすると危ないので(火傷したことがありますし、ストーブを倒しそうになったこともあります)、たまたまあった夏場だけの仕事をすることに。それがコロナ前までの話です。コロナの時代になって家にいるようになると、僕の体調が悪くなり、昨年などは2月末から10月末くらいまでめまいや頭痛やふらつきや急な低血圧による具合の悪さに悩まされました。そして、今年は少し持ち直していたのですがそれでも体調不良といえる状態のなかで、お店の仕事に就いたのでした。

以下、ここから、仕事を辞めることにした理由を3つの方向から書いていきます。



<家庭環境に問題があること>
・朝からガーガーと声の限りに親父が母親に怒鳴り、母親は母親で調子が悪く意思疎通もできない。そういう状態から出勤すると、あたまがぐちゃぐちゃでさらに真っ白になります。仕事を覚えたりこなしたりが難しかったです。それと、僕が働くようになってから母親を起こす時間が10分早くなりました。僕への嫌がらせなのか、というように、そのぶん、親父が怒鳴って僕が疲弊する時間帯が増えました。僕は8時20分出勤で、6時15分に目覚ましがなります。朝一でシャワーを浴びて、野菜サラダと目玉焼きと果物のカットと前日味噌汁の残りを温めなおして三人分の食事の準備をします。そして僕だけが食事をはじめ、食後に自分の食器を洗い、それから生ごみや資源物などのごみを集めて家のすべてのごみ箱を空にし、収集日ならばごみ出しをする。次に歯を磨き、仕事着に着替えてネットをチェックして家を出ていました。けっこう時間がかかるものなんです。その流れの中で、怒鳴りや暴言が吹き荒れていました。そこに介入しなければならないこともたびたびでした。

・夜、眠れなくなりました。以前から母親の調子によって夜中でもおかまなしに起こされているので、目が覚める癖がついてはいました。3時に目覚めて朝まで眠れないだとかがしょっちゅうです。また母親の調子によるものだけではなく、親父は、夜中だろうが人が寝ていようがおかまいなしにでかい声でしゃべったり怒鳴ったりします。気を使って声をひそめるなんてしません。さらに、自分がトイレに起きた時など、僕の部屋の前の扉の横に置いてあるゴミ箱の横でギャーギャーでかい音を出して痰を吐くので、そのつど僕は目が覚めました(これについては、このあいだ訴えてみた結果減りましたが)。くわえて、家のことや自分のことを考えるだけでも大変なところに、仕事を覚えたり考えたりしなければならなくなり、それが過覚醒のような状態に向かわせたのだと考えています。

・帰宅したり休日だったりしても親父が怒鳴っていますし、母親が寝ていても居間で親父がひとりでしゃべっているので、うるさくて神経がひりひりします。「こわいこわい(疲れた疲れた)」とか、今からやることをいちいち言葉にするだとか(「トイレに行くか」「歯を磨くか」「薬は飲んでたかな」など)、かけ声だとか、痰を吐いたりだとか、いろいろとうるさくてこっちは休息にならないし、読書も執筆など何かをやるにしても集中できないのでした。



<職場に問題があること>
・少人数の職場で求人をずっと出していますが、古株の人によるパワハラ職場の傾向がありました。他者を責める感じの人がほかにもいます。自分が正しいという立場から、攻撃的に接してきたり責めてきたり。100%僕が悪いという話しぶりでした。お互いの言葉や考えの食い違いがあっても、それも僕が悪いという話しぶりで、自分が悪いとは言いません。おそらく「責任の所在を明らかにする」の規律が支配しているんです。その影響で、過失割合が100か0かの白黒どちらかにされてしまうっていうのはあります。責任の所在を明らかにしなくてはいけないという体質が、なすりつけや転嫁を生むんだとも思います。過失割合が60:40みたいに宙ぶらりんの状態や、過失割合がよくわからないあるいは悪いのかどうかもわからない場合でさえも、白黒つけて責任の所在をはっきりさせないと落ち着かない、というように。

・人を誉めない職場でした。

・たとえば、品出しをしていて棚の上からものを補充していても、誰からがやってきてその瞬間しかみないで「上から補充してください」と言ってくる。「いや、今出したところで」返しても、まだこれも出るとか言い張られて、相手は自分を曲げません。応援のアナウンスがかかったとき、僕より近い人が動いたのを見たので僕が動かなかったら、それを知らないだろう人が、「応援に行かなきゃ!」と僕を責める。疲れているせいもあるだろうけれど、言い訳や口答えになると思い、飲みこむ場合がほとんどでした。これはよくない態度ですが、なにせ、こっちは新人で教えてもらう立場で、不均衡な間での立場です。こういったところから心理的安全性は脅かされ、パワハラ傾向が普通になっていきます。

・僕になにかを教えようとして話をされても、向こうはひとつのことを伝えるつもりで不足なく伝えていると思っているようでも、僕にしてみたら、言われていることが様々な意味にとれるので、わかったとは言い切れません。すぐさま、ここはどういう意味か、と聞きたくても、話の途中で口を挟むな、と言われて、長々と聞いているうちに何が疑問だったか忘れてしまう。忘れてしまうのは、体調が悪いことも関係しているかもしれません。

・なんでもなすりつけられている感じで、僕も面倒くさいのではいはい受けてしまう。

・○○の仕方、ちゃんと覚えていてください!、とある人が言い、肝心のそのある人はそれを覚えていないだとか。押し付けられてる感があります。

・ある先輩が休憩中にレジに並び、前の客が商品券を使ったので数えたりクリップで留めたりして時間がかかると、小さい声で「早くして…!」と文句を言いました。なんだ、と思いました。もともと、その人は何かを教えてくれて僕がつまづくと、何もしゃべらなくなりコミュニケーションががとれなくなってその人から離れないといけないような状況になる人でした。

・責める、当たる、なすりつけるがひどかった。これは家庭でも親父がそうですし、母親にもそういうところがあります。

・気になるので再度考えますが、責任の所在をはっきりさせる、という体質がゆがんで、あいまいな案件でもすべてひとりを責めて被せるだとかに繋がっているのではないか。

・店内放送で応援を頼もうと受話器をとるも、電話口からはピンポンパンポーンの音声が聞こえるものの、店内に響いていなかった。2回試してもだめで、大声でレジ応援お願いします、頼んで同僚に来てもらった。これをあとで、古株の人たちが集まっているときに告げると、ある人は「声が小さいからじゃないですかー?ちゃんと鳴ってましたよー?」と、こちらの勘違いのせいにするし、事実と違うことをあたかも事実のように言ってなすりつけてきました。言い方も慇懃無礼に似た感覚で、感じがよくないのです。



<僕個人に問題があること>
・もともと疲労している状態だった。一年に原稿を1000枚かけてこそふつうのところ、100枚弱しか書けないような環境と健康状態だった。だから、一年に1000枚原稿を書けるくらいならば、外でも働けるということになると思う。

・支配的な親の元で育ち、その環境のまま生活してきたことで、たとえば過度に気を遣うようになってしまっていて、それが疲労を強くしていた。リソースの8割くらいを他者に気を使うことに向けていて、仕事には2割くらいしか力をさけない。外で働くと人に気を使うことでまず疲れる。エネルギーやリソースの大半を消費してしまうのでパフォーマンスが落ちる。

・ずっと親からそうされているので、責められたり当たられたりなすりつけられたりしやすい。

・じっくり考えるタイプなので、すぐに答えを出すことにためらうし、すぐに出す答えにブレや不適当さが多くなってしまう。おそらく試行錯誤やアイデアをひねりだすための頭の使い方になっていて、あえて誤りや逸脱を選ぶところがあるんだと思うのです。そういったところを社会性を考えて客観的に見てからアウトプットしなければならなくて、そこでスピードの遅さや求められる答えの出なさにつながっている。「そんな面白みもなくて、もっとほじくりかえしたほうがいいような答えに、スピーディーに落ち着くようなことをみんなやってるなんて信じられないし、僕にはできない」といった感じだ。だからそういう職場での同僚とは、話が合わないどころか頭が合わない。効率性、事務性とは正反対のあたまの性質になっているようなのです。



<最後に、まとめ的に>
商売ってもの、お店ってものも「事務」の範疇にある仕事なんだな、と学びました。というか、世にある多くの仕事っていうものは、事務色が濃いものなのかもしれないです。僕はいつの間にか、そうとうに事務とは相いれない人間性になっていました。事務の対義語は創造(創作)という言葉を読んだことがあります。まあわかりやすく大げさに単純化してみせたコントラストなのでしょう。とはいえ、事務分野に頭が働かないことから、僕は事務分野にほんとうに背を向けて創作の方向へ歩いていたことを身をもって知ったのでした。決意というより覚悟して臨んできましたが、覚悟には諦めが含まれているわけで、なにを諦めたかというとその大きな一つが「事務分野への適応力」だったのだろうと、今回気が付きました。昔は事務的な仕事もごまかせるような器用さを持っていたものですけど、いつしか小説に両足をつっこむようになったことでその器用さを失ってしまった。引き替えだったのです。そういった自分自身的な要素もこのたびの退職には理由として大きくあります。くわえて職場だってよくなかったし、家庭にだって大きな問題があります。と、ここ半月くらいときどき内省していました。

合わないこと、似合わないこと、無理なことを続けるとやっぱり体調は悪くなる。後頭部から側頭部を中心とした圧迫感のある頭痛に、首から上、頭部にかけての筋疲労めいた違和感。目の下のクマとその重さ。不眠。そんななかでの少しずつの内省です。効率とかスピードとか、そういった軸で職場ではみんな動きますが、僕はじっくり疑って考えたくなる。すぐに答えを出すことに躊躇するし、誤りや逸脱を徹底的に間違いとするなんて僕には無理だった。僕にとっての創作ってそういうものです。

ありがたいことに、オフラインの関係で意見をくれる方がいます。僕は実家を出たほうが、ほんとうはいちばんいいという意見を複数いただきました。僕一人で考えても、偏ったり視野に入っていない大切なことがあったりすると思うんです。なので、こういう意見をいただけると、とても助かります。多謝!

「健康状態が100%ベストのときじゃないと決断してはいけない」 (松下幸之助) 
そうじゃないと決断を誤るのだそうです。決断のコツだと。録画して最近見たスイッチインタビューで物理学者の佐治晴夫さんが紹介していました。いまの僕にはびびっと刺さった言葉です。
ということで、もう少し体調が回復するまでいろいろ物事の方向を決めるのはやめておくことにします。そして、少しずつ、読書を再開するつもりです。長くなりました。個人的な話をここまで読んでくださってありがとうございます。なにか、類推的に他者の役に立つことがあればなあと思います。
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