Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

『新訂版 タモリのTOKYO坂道美学入門』

2021-10-18 19:20:59 | 読書。
読書。
『新訂版 タモリのTOKYO坂道美学入門』 タモリ
を読んだ。

雑誌『TOKYO一週間』に連載された内容を書籍化したもので、もともと2004年発刊の本書を、そのなかで紹介するお店の情報などを新しく訂正した2011年版です。

日蓮入滅の寺で、そののち勝海舟と西郷隆盛が江戸開城の話し合いをしていただとか、八百屋お七の悲恋の話だとか、東京というか本州の土地にはいろいろと歴史が眠っていますね。この本、東京の史跡に興味のある人へのガイドブックとしても最適ですし、楽しく読める良書でした。

八百屋お七の話はもしかすると有名な話なのかもしれませんが、僕にとっては初めて知る話でした。江戸の大火のおりに家が焼けた十六の少女・お七は、近くの円乗寺に避難してしばらくそこで暮らします。そのうちに、その寺のイケメンの小姓に恋をする。それから一年後、家が再建されてお七の一家も寺を後にするのですが、お七は小姓が忘れられず家に火をつけてしまいます。家が燃えれば、あの小姓のいる円乗寺でまた暮らすことができるだろう、と考えて。しかし、お七は捕えられます。当時、放火は大罪。お七の周囲からは減刑の願いの声が上がるものの聞き届けられることはなく、彼女は市中引きまわしのうえ火あぶりに処されたのだそうです。そんな彼女のお墓は、今も円乗寺にあるのだそうです。

暗闇坂や幽霊坂、富士見坂などは数か所から数十か所に同名の坂道があったり正式名とは別名のものとしてあったりするようですが、そういう坂道も含めて、急坂であったり長い坂道であったりはしていても各々の坂道にきちんと名前がついているというのが、北海道の田舎町在住の僕にとっては信じ難いところでした(まあ、東京にも名無し坂もあることはあって、その写真も掲載されてはいますが)。さらに、各坂道にはそれぞれに謂われがあったり歴史が眠っていたり、土地の抱えている背景がとても濃密です。僕が受験生のころ、道民は日本史に弱いといわれていました。それは、北海道は明治以来の開拓地であり、移民たちの子孫が住むその土地のもつ歴史が浅いし、それに史跡だって少ないですから、日本史になじみがないせいだと聞いたものです(似たような意味で、日本の地理にも弱いと聞いた気がします)。

この、ある土地の持つ濃密さを楽しんでしまうためのとっかかり、または目印を坂道に見出しているようなところが本書にはあります。坂道に目をつけると、おのずとそこいらの歴史にも目が届いていって楽しい。そればかりか、坂道の春夏秋冬の風情をめでることもできます。本書は『坂道美学』とタイトルにありますから、まずはそういった景観としての坂道を楽しむのが、僕のこの記事の書き方とは反対に、先になっているスタンスでしょう。

文章が実に楽しいのですが、タモリさんによる坂道写真にも味があります。犬が倒れていたり、新聞紙が散乱していたりする写真がたまに笑いを誘いながら、その場所の空気を閉じ込めておきながら肝心の坂道をメインにちゃんと収めているような写真だと思いました。

僕はアイドルグループの乃木坂46が大好きで、大きく取り上げてられているかなという期待があったのですが、残念ながら乃木坂への言及はわずかでした。別名に行合坂、膝折坂、幽霊坂があることくらいだったでしょうか。

最後に、タモリさんによる「よい坂」の条件四つを。
1.勾配が急である。
2.湾曲している。
3.まわりに江戸の風情がある。
4.名前にいわれがある。

知的な刺激のあるたのしい東京ガイドブックを読んでみたい方にはとてもおすすめです。


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『マダム・エドワルダ / 目玉の話』

2021-10-08 01:08:04 | 読書。
読書。
『マダム・エドワルダ / 目玉の話』 バタイユ 中条省平 訳
を読んだ。

20世紀前半から中ごろに活躍したフランスの作家・バタイユの代表小説二作品の新訳版です。どちらも性描写が多く、内容としても中心に性がある作品で、とくに『目玉の話』においては、ある種の極まで到達した性の感覚を扱っていて強烈な読書体験になる作品でした。分量は短いのですが、読んでは考えまた読んでは考えしながら、少しずつ嘴でつつくような読み方をして自分なりに消化してみた次第です(全消化とまではいってないでしょうけれども)。

まず『マダム・エドワルダ』。娼婦との一夜の話です。娼館からも抜けだしてパリの街中にさまよい出て、快楽と危険の線上を行く物語は続いていく。暗い色味で写実的、でも幻想性を帯びた、エロスがテーマの絵画を何枚も何枚も続けざまに眺めているような読書体験でした。アート作品と呼んだほうがしっくりくるような文学作品だと思います。

そして『目玉の話』。これは厄介です。性欲にまかせた変態行為を重ねる思春期の男女の話なのですが、その精神性には妙なくらいリアリズムを感じます。思春期の、「そのあとどうなるか?」よりも今やってしまいたい衝動の強烈さがまずひとつそこにはあります。序盤の段階で、それが退廃的ではあってもニヒリズムではないのは、まだ若い人たちによる「追求の姿勢」があるからだと思います。もしも社会性が身についてまでこのような性の変態行為の追及を行っている大人がいたら、それは社会へのニヒリズムになるのではないでしょうか(しかし、後半ではエドモンド卿という大人の変態人物もでてきて、彼はニヒリズムとはまた違う印象を持っているのでした)。

物語のタイトルになっている目玉やゆで玉子などの楕円性のたんぱく質でできた白い物体をシモーヌが好み、性的な遊戯に使いたがるのですが、このモチーフについては本書の解説に譲るとして、この記事では物語の中で繰り返される性的遊戯の変態行為について考えていきます。

社会性が身につくより先に興味と性欲の底知れぬ高まりを見せるのがたぶん男であり、女でもあるでしょう。その性欲を肯定することで暴走が始まり、そのうちそれが追求の様相も帯びてくる。その変態行為が社会的な規範から逸脱しているものでも、思春期のアンバランスさのなかで、何かの間違いだったり、あるいは何かが噛み合ってしまったりすると(ヒロイン・シモーヌような女の子と仲良くなるという偶然がこの場合そう)、一般の人間であっても主人公たちのようなことにならないとも限らないのかもしれません。

後半部。シモーヌのつてで主人公たちの庇護者として登場するエドモンド卿がでてくるあたりで気付くのは、いつのまにか主人公とシモーヌはかなりの遠い場所まで来てしまっていること。性欲の暴走と追及しか視界になかったので、踏み越えるべきではない一線を越えたことにも気付かなかった、という感じがします(それは読み手も同じかもしれません)。仲間のマルセルが死ぬことになった経緯に大きく自分たちの性向が関係していることに気づくのも、すべて終わってからです。「そのあとどうなるか?」よりも今の衝動を優先して、そうなってしまった。

人生には似たような「一線の越え方」は珍しいものではないと思いますが、その些細ではない大きなひとつが、こうして地上の性的狂騒の「水面下」で越えられていった。考えているより先に、知らず時間が過ぎ去っていくように一線を越えるという感覚です。そしてエドモンド卿というキャラクターは、主人公たちのようにいつしか一線を越え、自分の意思で追求したものに逆にとりこまれてしまったかのような人格形成の道を歩んで、結果その完成をみた人物ではないのか、と読むこともできます。角度を変えてみると、エドモンド卿は退廃的な領域にいる人物ですが、思春期の主人公たちがこのままその道を進んでいくとそうなってしまうはずの人物というポジションと言えるかもしれないです。

本能に忠実に、野生の感覚を第一とするような(それも性欲に対して)在り方が、この物語のベクトルとしてあるように読めます。伝統や常識、世間の目といった既存の社会、その、強固に構築されているがゆえの窮屈さ息苦しさ生きにくさから逃れるための脱線のかたちがこの小説で描かれている性的な変態遊戯という脱線の仕方だと言えるかもしれない。ストレートではない逃避であり、ストレートではない抵抗でもある。それでいてひとつのストレートな地下道あるいは裏道というような感じがします。しかし、終盤、スペインの教会で、若い司祭を性的な冒涜のあげく死に至らしめる流れにまで発展すると、もはやそれは地下道や裏道から這い出て「対決」を始めてしまったことになっていると捉えることができます。

ここで描かれているのは強烈な性欲が中心に回っている物語なのだけれど、著者も読み手もそこでの何に魅せられているのかというと、強い衝動を生み、自動的とでも言うように動かされてしまう、その根源的なエネルギーになのではないか。伝統や制度などが代表的なところですが、そういった抑圧的なものを忌み嫌うからこそ、こういった物語が生まれたのではないか。その時代を下支えしている秩序の重さに耐えかねたのです。

窮屈さや息苦しさなどを先ほど挙げましたが、さらに言えば、それらよりもずっと「つまらなさ」というものを嫌悪すべきものとしてあっただろうし、エネルギーの消耗というか、「(古い伝統や古い制度などの抑圧によって)発揮されずに打ち捨てられる運命におかれるエネルギー」という個人の内に湧き出るエネルギーのその立場に我慢がならなかったのかもしれない。それは、生は大切なものなんだ、との世界観が基盤にあるからだと思います。

というように、性的な変態行為にだって、「生をちゃんとまっとうしたい」「一回だけの生を味わいつくしたい」というような比較的真っ当な気持ちがその底にあるのではないか、というところに落ち着くのでした。

最後の項までいくと、バタイユ自身の幼少時の個人的な体験の反映があるのではないか、と自己分析が語られていて、それはそれでそうかもしれない、と少しすっきりするのです。しかしながら、僕のような角度で解析してみるのも面白いと思い、あえてこうして記事にしてみました。多少、陳腐な部分もあるでしょうが、大目にみてください。


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「安心」が失われているからこそ。

2021-10-05 21:48:26 | 考えの切れ端
ホントに「考えの切れ端」だという印象が、きっと強いだろう、今回の記事です。

不安を避け続けると認知が歪んでいくといいます。認知が歪むと、本来なんでもないものに対してこれは悪いものだ、と考えるようになるのだといいます。世の中、不安に思えるものが多く、不安に思いやすい人も多いでしょう? とすると、皆が不安と真正面から対峙してひとつずつ解消する姿勢でいれば、社会環境は悪化しない? なぜって、世の中の混迷の源には、それこそ全員が持つそれぞれの認知の歪みがあるのではないかという気がすごくするからです(コロナ禍はまた大きな不安ですし、ここではコロナ禍のことを言っているのではないのですが)。

失敗すると恥ずかしいものだし周囲からバカにされないとも限らないし、ずっと「あのときこんな失敗をしたな」言われ続けることもある。でも不安との対峙に対してだけは、そこで下手な失敗の仕方をしても周囲から笑われないというように「不安の心理」の理解が進むと、もつれた糸のような乱れ方をした社会環境はそれ以上もつれないのではないでしょうか。

息のしやすさや風通しの良さ。そう形容されるような社会で生きられるようになるためには、「認知の歪み」が蔓延しないことが大切なような気がします。まったく「認知の歪み」がないっていう状態には誰にもなれないと思うのですが、軽い重いはあるんじゃないでしょうか。不安なために他人にお仕着せるくらい重い、みたいに。

不安がおおかた解消される社会は「安心社会」でしょう。でもそれは無理な話で、と考えて作り上げるのが「信頼社会」や「契約社会」かもしれない。不安を解消できなくても、避け続けないでいる姿勢は「信頼社会」に近いだろうか。また、不安を敵視するまでいかなくても、不安を対象として皆で連帯する社会などはあるかなぁ。

「失われた何十年」だとかと言われたものだけれど、本質的に何が失われたかって「安心」が失われて、それが元に戻らない不可逆的な変化だからこそ次にどうするかを考えなくてはならないのではないかな。立て直しが効かないのは不安への対処がままならないからではないか、と考えるのですが、どうですか?

つきまとう不安。その原因を探って解決して安心を得よう、というのは第一の策かもしれない。でも、山のように不安はあって、さらに時代の進捗とともに新たにたくさん不安となるものが生まれてくる。そうなると、もう日常のメンタリティーじゃないかと思えてくるわけです。あるいはゲーム理論の分野にある「メカニズム・デザイン論」が希望でしょうか。社会の混迷って、不安への対処の仕方のわからなさが実は原因なのかも? 
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