読書。
『ユリイカ 総特集*奈良美智の世界 2017 VOL.49-13』 青土社
を読んだ。
2017年刊行。ずっと本棚で寝ていました。
アーティスト・奈良美智さんの特集。作品のカラー写真はいわずもがな、奈良さんとの対談やインタビュー、寄稿、論評、そして奈良さん本人による紀行文や半生記まであります。全255ページたっぷり楽しめます。
奈良さんの絵の有名な特徴といえば、前髪が短くぱっつんで目つきのきつい小さな女の子がちょっと小生意気なポーズをとっているものがまず浮かびます。それでもってロックな感じがする。
美術畑の話を僕はまったく触れてきていないから面白さ満点でした。たとえばこういう話なんかもあります。古代ローマの博物学者・大プリニウスによると、絵画の起源とは恋人との別れを惜しんだ少女が壁に映った恋人の影をなぞった行為に始まるとされている。その歴史的信憑性より、肖像というものに愛する者の不在を嘆き、その代わりを求めて影をなぞる精神性が始点となっているのが興味深いところなのだと。採録された加藤磨珠枝さんの奈良美智展覧会での講演より。
では、引用をしていきます。
__________
古川日出男:でも、そういう危険がないと、物って作れないですよね。やっぱり僕も自分でM的な環境にいたいのは、やれないことをやろうとか、もう潰れるところに行こうとか、そうしないと何かが終わっちゃうような設定にしないと。
奈良美智:そうなんですよね。倒れるから立ち上がる。うまく言えないけど、立ち上がるということが自分の中ですごい大切で。
古川:立ってると倒れない、立ち上がれないってことですよね。
奈良:立ち上がるとき使う筋肉というのが、自分が一番好きな筋肉なんです。歩く筋肉よりより、立ち上がるときの筋肉。歩いているときもいろんなことを考えられるんだけど、それよりも立ち上がるときの一瞬の、頭の中では何も考えない状態。その何も考えない状態に入ってくるひらめきが自分が求めていることに近くて、考え続けて答えを出すよりも、本当の自分の考えというのは何もないとき、寝てるときの夢の中とか、ふとしたときにやってくるんじゃんないかな。年をとったから確実にそう思えるようになってきた。若いときは単なるひらめきでしかなくて、よく考えると、いや、これは俺の考えじゃないわ、とか。
でも、今ひらめくことは割と全部つながることなので、それが立ちあがるときに来ると「しめたな」と思うし、立ちあがるときにそれが落ちてこなかったら、もう一回転ぶ。転んだら来るかなとかさ。
古川:でも、その転ぼうという選択肢を持つのは、普通はなかなかできないですよね。自分が仕事してても、やっぱり転ばなくていい、寝てなくていいところに行きたいから、立ったら絶対もう二度と転びたくないとみんな思ってる。転ばされたら、もうやめようみたいな。(p61)
__________
→小説家である古川日出男さんとの対談部分より。転んで立ち上がるとき、落ちて這い上がるとき、そういったときの人間の、わーっと自身を奮い立たせる力であるとか、自分の全能力を立ちあがるために四苦八苦して使うことであるとか、そういったところにあるものが、創作するものに命を宿すようなところがあるんだと思うんですよ、僕も。転んで、立たなかったら終わりですから、もう尻に火がついているようなときもある。そういったときに「まだまだ!」と立ち上がろうとするときのエネルギーや頭をしっかりつかった工夫ってものが、やっぱり、人間がやるすごい仕事として出てくる感じはします。僕の場合だと、ギャンブルに負けたときにぐっと腹が据わりますね……。
__________
古川:これはやっぱり小説の書き方だと思います。俺がこの世界をつくってるんだと思って書いてる間はまだまだなんです。そのうち、本当にこの原稿の中に世界があって、俺がちゃんと書けてるかどうか、中の人たちに問いかけられてると思ったときに変わってきて、ばあっと書けるんです。その過程と全く同じです。
奈良:うん。だからね、トイレに行くときも「ごめん、ちょっとだけ留守にするね」になっちゃう、ほんとに。(p63)
__________
→小説世界自体から動き出すだとか、小説世界のほうから、ちゃんとやれよと作者に問いかけてくる段階。登場人物が勝手に動きだすのを書きとめるんだ、というのは小川洋子さんがおっしゃっていましたし、村田紗耶香さんも登場人物たちの世界は水槽の世界で、その水槽をじっと静かに眺めてそこで起こることを原稿に書きとめるというようなことをおっしゃっています。それはなんと、絵画の世界でもそうだった、という話の部分でした。
__________
作品集『深い深い水たまり』に収録された自作の詩「嵐の夜に」では、「あの懐かしいおもちゃの兵隊やぬいぐるみ達も、もはや彼らの夢を盗めないだろうか。」と語り、幼少の頃の夢を取り戻す縁となることを、「おもちゃの兵隊やぬいぐるみ」に期待している。(中略)「壁に貼られたポスターの中にいるヒーローたちや、棚に並んでいる時代遅れの人形たちだけが、僕と彼らの密接なやりとりを知っている」。「彼ら」とは即ち作品に描かれる者らのことであるが、その者らと作者である自分との「密接なやりとり」を唯一目撃し、理解する者として「壁に貼られたポスターの中にいるヒーローや、棚に並んでいる時代遅れの人形たち」が挙げられる。(p164)
__________
→学芸員の高橋しげみさんに論考からの引用です。子ども時代に、人形やぬいぐるみと、実際に言葉を発して会話したり、こころのなかだけでやりとりしたりするのは、それほど珍しいケースではないと思います。そこに他者を仮定してやりとりしたり、自分の一部分を投影したりすると思うのですが、そういった経験が自分の想像力ひいてはこころを豊かに耕すのかもしれません。奈良さんの作品がどうやってできあがったのかは、そういった幼少時のおもちゃとのこころの通い合いが関係していることのヒントの箇所だと思います。遠い過去、同じ世界を共有した同志だけが、奈良さんの創作の秘密を知っている。これ、実は音楽家の坂本龍一さんにも僕は感じるところがあります。初期の作品、「Self Portrait」「Parolibre」「マ・メール・ロワ」などの感傷的で美しい情感に満ちた楽曲群がそうです。坂本さんはひとりっ子。奈良さんは年の離れたお兄さんがいますが、ひとり遊びをする子だったそう。
__________
蔵屋美香:例えば、物語性とかエモーショナルなものに訴えるとかというタイプの作品は、美術の持つそうした側面を強く否定した六〇年代から七〇年代のコンセプチュアルな傾向のあと、反動のようにして八〇年代に世界的に出てきたものでした。その流れの中にデビュー当時の奈良さんもいたと思います。(中略)しかし一方で、やっぱり物語があまりに直接的に読者に作用し、下手をすると強烈に感情を操作するかも知れないという警戒感が、八〇年代の知識人にはあった気がします。(p179)
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→学芸員4名による座談会のなかでの発言からです。絵画にどこまで力があるか、やれるところまでやってみよう、というのはまずあると思うんです。それが、やれるところまでやってしまうと、「これはちょっと危ないぞ」というところに到達し始めたのかもしれない。「下手をすると強烈に感情を操作するかも知れないという警戒感」というのは、作品が鑑賞者を支配するということでしょう。または、世の中の空気や流行も支配してしまう力はありそうです。これって、小説の世界でも言われているのを読んだことがあります。強烈に感情を操作してしまうことは、受け手に危害を加えることに近いことなのかもしれない。そこまでのものを作れるかどうかというのはありますが、もしも作れてしまったらどうなる? 感受性の強い受け手がそんな作品に触れてしまったらどうなる? そこに悲劇が生まれないとも限らないですし、そうなれば作り手は罪を負うことになるのかもしれない。なんだか、難しいですね。
__________
思うに自分は、情操教育なんてお坊ちゃま世界からは遠くある。忘れがたい素晴らしい絵に出会ったとか、ある芸術家の話に心打たれたとかも、遠い世界だ。そして、作ることが楽しくてしかたなかったとか、誰かが上手くておったまげたとか、そのようなきっかけがあって今ここにいるわけでは断じてない。けれども、気がつけばずっと制作して生きているのだ。(中略)自分がこの道に進むきっかけが何かあったわけではなく、いろいろな事象が時代の中でフクザツに重なり絡まり合って自分を歩かせてきたのだ。自分にとって制作することは発表するためではない。結果としてそのような形になっているのは事実だけれども、自分が絵を描き続けるということは自分としてそこに在ることを照らしてくれる灯なのだ。そこに照らし出されている自分とは、決して絵を描くだけの自分ではない。(p254-255)
__________
→奈良さん自らのよる半生記より。流されていない人の書く中身だなと思いました。周囲の人たちや世間の空気に自分を捨てて合わせたり、「この場ではこの人たちにあわせてこう言ったほうがいいだろう」というような迎合を拒否している人の言葉ではないでしょうか。それは本音の部分であって、それが強くて芯があるということなんでしょう。ふつうの人たちにとっては、利己的なものや自己欺瞞とはまた違うのだけれど、ウソというものが人間関係の潤滑油になりもします。あまり尖った角を立てず、人を傷つけず、平穏のため、なごやかな雰囲気のため、ウソは活躍します。本音が正義とくっつくととても厄介で、排除や争いなどを生み出してしまいますが、アーティストが語る言葉が本音ばかりであることを考えると(本書座談会にある学芸員の話によると、アーティストは作品や作風についてあえて嘘もつくこともあるそうではあるんですけど)、そこに権力や支配力が生じたりしない場であれば、つまり、一個人として言っているだけなのであれば、本音に気兼ねしずぎることもないのだろうなあ、と思ったりもしました。まあ、本音によってケンカが起きることはかんたんに想像できますけれども、そのくらいのトラブルを避けていてはアーティストではいられないんでしょう。視点を変えて考えてみれば、作品を作るからこそ本音を言うようになるということも思い浮かびます。本音を言うということは、地に足をつけていることであって、そうでなければ流されてしまうからです。作品を作らなければ、あまり本音を語る必要はないかもしれません。と考えていってみても、それとて、本音が先か、作品が先かはわからないところです。もう少し考えてみないといけない。
さて、最後に、はじめにも触れましたが、代表的で独特の作風の女の子の作品群について思ったことを。バージョンAとバージョンBのふたつ考えました。少しだけ角度を変えて考えたものです。言い当てることは無理ですが、すこし近づきたいなという思いで考えています。
バージョンA:
奈良美智さんの絵って、本来は弱っているものというか、おとなになっていくにつれてほんとに弱っちくなっていくものを、さあさあという感じでバンドのボーカルに迎えてバックアップして、歌ってご覧っていってその子の自尊心とかアイデンティティとかを認めてあげることで素晴らしい歌声が響いた感じ。
バージョンB:
多くの人がオトナになっていく過程で、知らずに失っていくもの。弱らせてしまったうえにどこかの奥まった部屋へ流れのままに閉じ込めることになってしまい更にその部屋への道筋がわからなくなってしまったもの。死なせてしまったもの。死なせてしまったことそれ自体を思い出すことができるかもしれなかったそのよすがすらもはや無くしてしまったもの。そういったものたちを何故かコレクションできてしまったみたいな作品たちだとも、ちょっと変わった角度から言わせてもらえばそう言えるんじゃないかと思ったのでした(まあ、わざととってみた角からの見立てですけども)。そしてそれらは、生きている。影をなくしたみたいに、なにか根本的な欠落の気配を薄く秘めているふうでありながら。そのなにがしかの謎が、引きつけてくるものがある。もともと備わった、形状としてのというか、先天的な鋭さを持っているのだけれど、その暴力性の切っ先はたぶん暴力性を発揮するようになる事態に起因する日常の在りようなんかへカウンターとして目に見えるようになって発現したものでしょう。隠そうとすれば隠せるものだけれど、どうしてなのか、彼女たちは小さな鋭さを隠さない選択をした女の子たちなのではないだろうか。彼女たちにしてみればきっと紙一重だったに違いない、隠さないというひとつの選択が、その後のずうっとまでを決定したんだと、僕は思いました。まるで、花が、咲くのを自分で決めたみたいにして。花の開花は、自然にそうなるもののようでいて、実は花もひとつひとつが自らの意志で真剣に勝負したのちなんとか勝つことができて、えいやっ、と咲いているものなのかもしれないのだから。作品からの印象にフォーカスすればこのとおりなんだけれど、これらを作り上げた作家の内的機構を思うと、とても広大なものというか、濃いまま保つことを墨守してきたようななにかがあるような気がしてくるのでした。
『ユリイカ 総特集*奈良美智の世界 2017 VOL.49-13』 青土社
を読んだ。
2017年刊行。ずっと本棚で寝ていました。
アーティスト・奈良美智さんの特集。作品のカラー写真はいわずもがな、奈良さんとの対談やインタビュー、寄稿、論評、そして奈良さん本人による紀行文や半生記まであります。全255ページたっぷり楽しめます。
奈良さんの絵の有名な特徴といえば、前髪が短くぱっつんで目つきのきつい小さな女の子がちょっと小生意気なポーズをとっているものがまず浮かびます。それでもってロックな感じがする。
美術畑の話を僕はまったく触れてきていないから面白さ満点でした。たとえばこういう話なんかもあります。古代ローマの博物学者・大プリニウスによると、絵画の起源とは恋人との別れを惜しんだ少女が壁に映った恋人の影をなぞった行為に始まるとされている。その歴史的信憑性より、肖像というものに愛する者の不在を嘆き、その代わりを求めて影をなぞる精神性が始点となっているのが興味深いところなのだと。採録された加藤磨珠枝さんの奈良美智展覧会での講演より。
では、引用をしていきます。
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古川日出男:でも、そういう危険がないと、物って作れないですよね。やっぱり僕も自分でM的な環境にいたいのは、やれないことをやろうとか、もう潰れるところに行こうとか、そうしないと何かが終わっちゃうような設定にしないと。
奈良美智:そうなんですよね。倒れるから立ち上がる。うまく言えないけど、立ち上がるということが自分の中ですごい大切で。
古川:立ってると倒れない、立ち上がれないってことですよね。
奈良:立ち上がるとき使う筋肉というのが、自分が一番好きな筋肉なんです。歩く筋肉よりより、立ち上がるときの筋肉。歩いているときもいろんなことを考えられるんだけど、それよりも立ち上がるときの一瞬の、頭の中では何も考えない状態。その何も考えない状態に入ってくるひらめきが自分が求めていることに近くて、考え続けて答えを出すよりも、本当の自分の考えというのは何もないとき、寝てるときの夢の中とか、ふとしたときにやってくるんじゃんないかな。年をとったから確実にそう思えるようになってきた。若いときは単なるひらめきでしかなくて、よく考えると、いや、これは俺の考えじゃないわ、とか。
でも、今ひらめくことは割と全部つながることなので、それが立ちあがるときに来ると「しめたな」と思うし、立ちあがるときにそれが落ちてこなかったら、もう一回転ぶ。転んだら来るかなとかさ。
古川:でも、その転ぼうという選択肢を持つのは、普通はなかなかできないですよね。自分が仕事してても、やっぱり転ばなくていい、寝てなくていいところに行きたいから、立ったら絶対もう二度と転びたくないとみんな思ってる。転ばされたら、もうやめようみたいな。(p61)
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→小説家である古川日出男さんとの対談部分より。転んで立ち上がるとき、落ちて這い上がるとき、そういったときの人間の、わーっと自身を奮い立たせる力であるとか、自分の全能力を立ちあがるために四苦八苦して使うことであるとか、そういったところにあるものが、創作するものに命を宿すようなところがあるんだと思うんですよ、僕も。転んで、立たなかったら終わりですから、もう尻に火がついているようなときもある。そういったときに「まだまだ!」と立ち上がろうとするときのエネルギーや頭をしっかりつかった工夫ってものが、やっぱり、人間がやるすごい仕事として出てくる感じはします。僕の場合だと、ギャンブルに負けたときにぐっと腹が据わりますね……。
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古川:これはやっぱり小説の書き方だと思います。俺がこの世界をつくってるんだと思って書いてる間はまだまだなんです。そのうち、本当にこの原稿の中に世界があって、俺がちゃんと書けてるかどうか、中の人たちに問いかけられてると思ったときに変わってきて、ばあっと書けるんです。その過程と全く同じです。
奈良:うん。だからね、トイレに行くときも「ごめん、ちょっとだけ留守にするね」になっちゃう、ほんとに。(p63)
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→小説世界自体から動き出すだとか、小説世界のほうから、ちゃんとやれよと作者に問いかけてくる段階。登場人物が勝手に動きだすのを書きとめるんだ、というのは小川洋子さんがおっしゃっていましたし、村田紗耶香さんも登場人物たちの世界は水槽の世界で、その水槽をじっと静かに眺めてそこで起こることを原稿に書きとめるというようなことをおっしゃっています。それはなんと、絵画の世界でもそうだった、という話の部分でした。
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作品集『深い深い水たまり』に収録された自作の詩「嵐の夜に」では、「あの懐かしいおもちゃの兵隊やぬいぐるみ達も、もはや彼らの夢を盗めないだろうか。」と語り、幼少の頃の夢を取り戻す縁となることを、「おもちゃの兵隊やぬいぐるみ」に期待している。(中略)「壁に貼られたポスターの中にいるヒーローたちや、棚に並んでいる時代遅れの人形たちだけが、僕と彼らの密接なやりとりを知っている」。「彼ら」とは即ち作品に描かれる者らのことであるが、その者らと作者である自分との「密接なやりとり」を唯一目撃し、理解する者として「壁に貼られたポスターの中にいるヒーローや、棚に並んでいる時代遅れの人形たち」が挙げられる。(p164)
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→学芸員の高橋しげみさんに論考からの引用です。子ども時代に、人形やぬいぐるみと、実際に言葉を発して会話したり、こころのなかだけでやりとりしたりするのは、それほど珍しいケースではないと思います。そこに他者を仮定してやりとりしたり、自分の一部分を投影したりすると思うのですが、そういった経験が自分の想像力ひいてはこころを豊かに耕すのかもしれません。奈良さんの作品がどうやってできあがったのかは、そういった幼少時のおもちゃとのこころの通い合いが関係していることのヒントの箇所だと思います。遠い過去、同じ世界を共有した同志だけが、奈良さんの創作の秘密を知っている。これ、実は音楽家の坂本龍一さんにも僕は感じるところがあります。初期の作品、「Self Portrait」「Parolibre」「マ・メール・ロワ」などの感傷的で美しい情感に満ちた楽曲群がそうです。坂本さんはひとりっ子。奈良さんは年の離れたお兄さんがいますが、ひとり遊びをする子だったそう。
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蔵屋美香:例えば、物語性とかエモーショナルなものに訴えるとかというタイプの作品は、美術の持つそうした側面を強く否定した六〇年代から七〇年代のコンセプチュアルな傾向のあと、反動のようにして八〇年代に世界的に出てきたものでした。その流れの中にデビュー当時の奈良さんもいたと思います。(中略)しかし一方で、やっぱり物語があまりに直接的に読者に作用し、下手をすると強烈に感情を操作するかも知れないという警戒感が、八〇年代の知識人にはあった気がします。(p179)
__________
→学芸員4名による座談会のなかでの発言からです。絵画にどこまで力があるか、やれるところまでやってみよう、というのはまずあると思うんです。それが、やれるところまでやってしまうと、「これはちょっと危ないぞ」というところに到達し始めたのかもしれない。「下手をすると強烈に感情を操作するかも知れないという警戒感」というのは、作品が鑑賞者を支配するということでしょう。または、世の中の空気や流行も支配してしまう力はありそうです。これって、小説の世界でも言われているのを読んだことがあります。強烈に感情を操作してしまうことは、受け手に危害を加えることに近いことなのかもしれない。そこまでのものを作れるかどうかというのはありますが、もしも作れてしまったらどうなる? 感受性の強い受け手がそんな作品に触れてしまったらどうなる? そこに悲劇が生まれないとも限らないですし、そうなれば作り手は罪を負うことになるのかもしれない。なんだか、難しいですね。
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思うに自分は、情操教育なんてお坊ちゃま世界からは遠くある。忘れがたい素晴らしい絵に出会ったとか、ある芸術家の話に心打たれたとかも、遠い世界だ。そして、作ることが楽しくてしかたなかったとか、誰かが上手くておったまげたとか、そのようなきっかけがあって今ここにいるわけでは断じてない。けれども、気がつけばずっと制作して生きているのだ。(中略)自分がこの道に進むきっかけが何かあったわけではなく、いろいろな事象が時代の中でフクザツに重なり絡まり合って自分を歩かせてきたのだ。自分にとって制作することは発表するためではない。結果としてそのような形になっているのは事実だけれども、自分が絵を描き続けるということは自分としてそこに在ることを照らしてくれる灯なのだ。そこに照らし出されている自分とは、決して絵を描くだけの自分ではない。(p254-255)
__________
→奈良さん自らのよる半生記より。流されていない人の書く中身だなと思いました。周囲の人たちや世間の空気に自分を捨てて合わせたり、「この場ではこの人たちにあわせてこう言ったほうがいいだろう」というような迎合を拒否している人の言葉ではないでしょうか。それは本音の部分であって、それが強くて芯があるということなんでしょう。ふつうの人たちにとっては、利己的なものや自己欺瞞とはまた違うのだけれど、ウソというものが人間関係の潤滑油になりもします。あまり尖った角を立てず、人を傷つけず、平穏のため、なごやかな雰囲気のため、ウソは活躍します。本音が正義とくっつくととても厄介で、排除や争いなどを生み出してしまいますが、アーティストが語る言葉が本音ばかりであることを考えると(本書座談会にある学芸員の話によると、アーティストは作品や作風についてあえて嘘もつくこともあるそうではあるんですけど)、そこに権力や支配力が生じたりしない場であれば、つまり、一個人として言っているだけなのであれば、本音に気兼ねしずぎることもないのだろうなあ、と思ったりもしました。まあ、本音によってケンカが起きることはかんたんに想像できますけれども、そのくらいのトラブルを避けていてはアーティストではいられないんでしょう。視点を変えて考えてみれば、作品を作るからこそ本音を言うようになるということも思い浮かびます。本音を言うということは、地に足をつけていることであって、そうでなければ流されてしまうからです。作品を作らなければ、あまり本音を語る必要はないかもしれません。と考えていってみても、それとて、本音が先か、作品が先かはわからないところです。もう少し考えてみないといけない。
さて、最後に、はじめにも触れましたが、代表的で独特の作風の女の子の作品群について思ったことを。バージョンAとバージョンBのふたつ考えました。少しだけ角度を変えて考えたものです。言い当てることは無理ですが、すこし近づきたいなという思いで考えています。
バージョンA:
奈良美智さんの絵って、本来は弱っているものというか、おとなになっていくにつれてほんとに弱っちくなっていくものを、さあさあという感じでバンドのボーカルに迎えてバックアップして、歌ってご覧っていってその子の自尊心とかアイデンティティとかを認めてあげることで素晴らしい歌声が響いた感じ。
バージョンB:
多くの人がオトナになっていく過程で、知らずに失っていくもの。弱らせてしまったうえにどこかの奥まった部屋へ流れのままに閉じ込めることになってしまい更にその部屋への道筋がわからなくなってしまったもの。死なせてしまったもの。死なせてしまったことそれ自体を思い出すことができるかもしれなかったそのよすがすらもはや無くしてしまったもの。そういったものたちを何故かコレクションできてしまったみたいな作品たちだとも、ちょっと変わった角度から言わせてもらえばそう言えるんじゃないかと思ったのでした(まあ、わざととってみた角からの見立てですけども)。そしてそれらは、生きている。影をなくしたみたいに、なにか根本的な欠落の気配を薄く秘めているふうでありながら。そのなにがしかの謎が、引きつけてくるものがある。もともと備わった、形状としてのというか、先天的な鋭さを持っているのだけれど、その暴力性の切っ先はたぶん暴力性を発揮するようになる事態に起因する日常の在りようなんかへカウンターとして目に見えるようになって発現したものでしょう。隠そうとすれば隠せるものだけれど、どうしてなのか、彼女たちは小さな鋭さを隠さない選択をした女の子たちなのではないだろうか。彼女たちにしてみればきっと紙一重だったに違いない、隠さないというひとつの選択が、その後のずうっとまでを決定したんだと、僕は思いました。まるで、花が、咲くのを自分で決めたみたいにして。花の開花は、自然にそうなるもののようでいて、実は花もひとつひとつが自らの意志で真剣に勝負したのちなんとか勝つことができて、えいやっ、と咲いているものなのかもしれないのだから。作品からの印象にフォーカスすればこのとおりなんだけれど、これらを作り上げた作家の内的機構を思うと、とても広大なものというか、濃いまま保つことを墨守してきたようななにかがあるような気がしてくるのでした。
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