読書。
『黄金の壺』 ホフマン 神品芳夫 訳
を読んだ。
ドイツ・ロマン派の異才と呼ばれるホフマンによる初期の傑作。1814年の作品です。ホフマンの作品には怪奇幻想小説の要素があり、超現実的小説の要素もあって、後年前者はポーへ、後者はカフカへと連なっていく。そういった系譜にある作家だと解説にありました。
1974年の翻訳です。文字の小ささはしょうがないとしても、訳自体はとても読みやすかった。簡便で端的な言葉づかいによって小説世界がわかりやすく展開していきます。
怪奇幻想・超現実のシーンが、クライマックスのみならず序盤から繰り広げられます。なんといっても、主人公の大学生・アンゼルムスがはなから外を歩いているだけなのに、老婆がリンゴを路上販売しているお店につっこんでいきます。その弁償として財布ごと有り金すべて失うんですが、そういったポンコツなスタート切るところが作者の度胸と発想とユーモアだなあと思いました。
そんなアンゼルムスはその日、昇天祭だったので美しい女の子たちとわきあいあいの時間を夢想していました。なのに、財布ごとお金を失ったがため皆が集まる温泉地には行けなくなり、果たせなくなってしまいます。彼は、自分はいつもこうなんだ、と嘆きます。そしてこれまでの自分のポンコツぶりを振り返るんですが、これがなかなか可笑しい。こんなふうに、運が悪いキャラクターとして物語の出だしから読者に印象付けているのは、そういうキャラクターだからこそたどり着ける境地と理想郷がある、と最後には物語をもっていく狙いがあったみたいです。解説によると、速筆であるホフマンにしては珍しくこの中編に半年もかけた、とあります。初稿から第二稿へ、第三稿へ・・・と練っていったんでしょう。寓意を込め、多層的にテーマを織り込み、推敲を重ねていったのではないか、と推察します。
そして、嘆くアンゼルムにはすぐさま発狂の様相が見られてきます。川べりに立つにわとこの木に絡みついて上り下りしたりそのあたりを動き回ったりしていた三匹の金緑色の蛇たちの一匹に彼は魅入ってしまうのです。なんと瞬間的に、そのなかの青い目をした蛇・ゼルペンティーナに恋をしてしまいます。それから、わーわー騒ぐんですが、周囲を歩く一般人には指をさされ、気がおかしくなった、とささやかれる。このアンゼルムスのふるまいや混乱ぶりは、まったく精神病のスケッチさながらだと思いました。アンゼルムスはこのシーンの後のいくつものシーンでも、同じように妄想にとりつかれたような奇妙な行動をとるのですが、それを「はみ出し者」「排除すべき者」というような一般的な反応を超えて、詩的な世界に足を踏み入れた男、というように物語は彼をやさしく温かく抱きくるむように展開していきます。妄想をファンタジーへと昇華させているんですね。
その後、火の精霊と魔女との対決にアンゼルムスや彼に恋するヴェロニカ嬢たちが巻き込まれていきますが、エンタメ的要素にもなっていておもしろい。また、物語のテーマとしては愛が中心に据えられています。
本作品で設定されている対立軸というのは、おそらく次のようなものです。「人間性」というスタート地点から誰しもが出発して、多くの人は出世や金銭を求めて躍起になる「社会性」のステージに入っていきます。それが通常の道であり一般的な道であるのは、この物語の当時の世界とて現代世界とて同じでしょう。作者は、人は「社会性」への道のほかに、「詩性」とでも呼ぶべき道も歩めるのだ、とこの物語で示していて、それがアンゼルムスや、彼を取り巻くファンタジーの住人が歩んでいる道なのだと考えることができます。つまり、「人間性」から出発した道は分岐していき、ひとつは「社会性」へ、もうひとつは「詩性」へと繋がっていく。そしてそれらが相容れず対立している。「社会性」の住人は「詩性」の住人を変人とするし、「詩性」の住人は「社会性」の世界では生きていけない。そういった対立軸があると読み受けました。
また、こういった古典を読むと、それもファンタジー要素のある話なのでなおさらなのですが、現代とはまったく違った異世界の物語のようにも感じられがちではないかと思われるのです。でも、立ち止まって考えてみると、この作品が発表された当時としてはこの物語は当時の現代物語であり、そんな当時の現代がファンタジックな異世界と繋がるあたりなんて、当時の読者にとってはかなりスリリングだったのではないか。翻訳を通してではあっても文体も登場人物も生きいきとしていますし、そういった意味では没入感の得られるつくりをした話です。読んでいてなんだか似ている感覚がなぜかしたのですが、僕としては、おそらく当時の人がホフマンを読んで得ていた感慨と、現代人が村上春樹さんを読んで得ている感慨が、同種にあるんじゃないかと思えてきたんです。村上春樹←カフカ←ホフマン、というように彼らの作風の一要素を系譜として遡っていくこともできますし。
まあ、古典として現代に残っているということはとても優れている作品であるというわけですから、そこにさっきも言ったような当時の現代性を加味した上で刊行された当時をイメージすると、読者たちが得た興奮は相当すごかったんじゃないか、と僕なんかはまるで関係ないのになぜかニマニマしてしまうのでした。
『黄金の壺』 ホフマン 神品芳夫 訳
を読んだ。
ドイツ・ロマン派の異才と呼ばれるホフマンによる初期の傑作。1814年の作品です。ホフマンの作品には怪奇幻想小説の要素があり、超現実的小説の要素もあって、後年前者はポーへ、後者はカフカへと連なっていく。そういった系譜にある作家だと解説にありました。
1974年の翻訳です。文字の小ささはしょうがないとしても、訳自体はとても読みやすかった。簡便で端的な言葉づかいによって小説世界がわかりやすく展開していきます。
怪奇幻想・超現実のシーンが、クライマックスのみならず序盤から繰り広げられます。なんといっても、主人公の大学生・アンゼルムスがはなから外を歩いているだけなのに、老婆がリンゴを路上販売しているお店につっこんでいきます。その弁償として財布ごと有り金すべて失うんですが、そういったポンコツなスタート切るところが作者の度胸と発想とユーモアだなあと思いました。
そんなアンゼルムスはその日、昇天祭だったので美しい女の子たちとわきあいあいの時間を夢想していました。なのに、財布ごとお金を失ったがため皆が集まる温泉地には行けなくなり、果たせなくなってしまいます。彼は、自分はいつもこうなんだ、と嘆きます。そしてこれまでの自分のポンコツぶりを振り返るんですが、これがなかなか可笑しい。こんなふうに、運が悪いキャラクターとして物語の出だしから読者に印象付けているのは、そういうキャラクターだからこそたどり着ける境地と理想郷がある、と最後には物語をもっていく狙いがあったみたいです。解説によると、速筆であるホフマンにしては珍しくこの中編に半年もかけた、とあります。初稿から第二稿へ、第三稿へ・・・と練っていったんでしょう。寓意を込め、多層的にテーマを織り込み、推敲を重ねていったのではないか、と推察します。
そして、嘆くアンゼルムにはすぐさま発狂の様相が見られてきます。川べりに立つにわとこの木に絡みついて上り下りしたりそのあたりを動き回ったりしていた三匹の金緑色の蛇たちの一匹に彼は魅入ってしまうのです。なんと瞬間的に、そのなかの青い目をした蛇・ゼルペンティーナに恋をしてしまいます。それから、わーわー騒ぐんですが、周囲を歩く一般人には指をさされ、気がおかしくなった、とささやかれる。このアンゼルムスのふるまいや混乱ぶりは、まったく精神病のスケッチさながらだと思いました。アンゼルムスはこのシーンの後のいくつものシーンでも、同じように妄想にとりつかれたような奇妙な行動をとるのですが、それを「はみ出し者」「排除すべき者」というような一般的な反応を超えて、詩的な世界に足を踏み入れた男、というように物語は彼をやさしく温かく抱きくるむように展開していきます。妄想をファンタジーへと昇華させているんですね。
その後、火の精霊と魔女との対決にアンゼルムスや彼に恋するヴェロニカ嬢たちが巻き込まれていきますが、エンタメ的要素にもなっていておもしろい。また、物語のテーマとしては愛が中心に据えられています。
本作品で設定されている対立軸というのは、おそらく次のようなものです。「人間性」というスタート地点から誰しもが出発して、多くの人は出世や金銭を求めて躍起になる「社会性」のステージに入っていきます。それが通常の道であり一般的な道であるのは、この物語の当時の世界とて現代世界とて同じでしょう。作者は、人は「社会性」への道のほかに、「詩性」とでも呼ぶべき道も歩めるのだ、とこの物語で示していて、それがアンゼルムスや、彼を取り巻くファンタジーの住人が歩んでいる道なのだと考えることができます。つまり、「人間性」から出発した道は分岐していき、ひとつは「社会性」へ、もうひとつは「詩性」へと繋がっていく。そしてそれらが相容れず対立している。「社会性」の住人は「詩性」の住人を変人とするし、「詩性」の住人は「社会性」の世界では生きていけない。そういった対立軸があると読み受けました。
また、こういった古典を読むと、それもファンタジー要素のある話なのでなおさらなのですが、現代とはまったく違った異世界の物語のようにも感じられがちではないかと思われるのです。でも、立ち止まって考えてみると、この作品が発表された当時としてはこの物語は当時の現代物語であり、そんな当時の現代がファンタジックな異世界と繋がるあたりなんて、当時の読者にとってはかなりスリリングだったのではないか。翻訳を通してではあっても文体も登場人物も生きいきとしていますし、そういった意味では没入感の得られるつくりをした話です。読んでいてなんだか似ている感覚がなぜかしたのですが、僕としては、おそらく当時の人がホフマンを読んで得ていた感慨と、現代人が村上春樹さんを読んで得ている感慨が、同種にあるんじゃないかと思えてきたんです。村上春樹←カフカ←ホフマン、というように彼らの作風の一要素を系譜として遡っていくこともできますし。
まあ、古典として現代に残っているということはとても優れている作品であるというわけですから、そこにさっきも言ったような当時の現代性を加味した上で刊行された当時をイメージすると、読者たちが得た興奮は相当すごかったんじゃないか、と僕なんかはまるで関係ないのになぜかニマニマしてしまうのでした。
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