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Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

『陰影礼讃・文章読本』

2025-03-31 00:16:31 | 読書。
読書。
『陰影礼讃・文章読本』 谷崎潤一郎
を読んだ。

昭和8年に書かれた名エッセイ『陰影礼讃』と、翌年に書かれた文章道を説く『文章読本』の二作品を合わせたもの。他に、『厠のいろいろ』他二篇を収録。

『陰影礼讃』は、当時の西洋化していく居住環境への違和感からはじまって、自然すたれていく和の美的感覚「陰影」をその手の中に取り戻すように言語化し認知し直すエッセイでした。

電灯の明かりでぱあっと隅々まであたりを照らし出すのではなくて、燭台の灯などがぼうっと明かりを作り、部屋の中に闇のグラデーションのあるのが日本家屋の有りようです。僕にも相当うっすらと、そういった昔の暗い家の記憶があります。50年近く前に住まわれていた田舎の家というものにはそういった陰影は当然のものではなかったでしょうか。

現代でも、「陰影」の美が好きな人は、部屋の中で間接照明を使います。カフェなど飲食店でもそういうところは多いですよね。「陰影」がいいんだ、とは言いません、「ムードがあっていい」なんて言い方をされるのが一般的かもしれない。

今回、このエッセイからもっとも学びがあったのは金についてのところでした。和の工芸品、漆器などに金を使ったのは、それが闇に浮かび上がる工合や、暗闇の中で燈火を反射する加減を考慮したものだと思われる、と書いてある。金を使うなんて昔の人は趣味が悪いと思うことがあったのだけど、それは木を見て森を見ないことだったようです。また、漆器自体の黒さも谷崎は褒めていますし、陶器のようにカチカチ音が鳴らないところもよいのだ、としている。

闇の支配の強い空間で、光を集めながら反射する金細工をあしらった屏風などがあるさまを想像すると、そこには金による反射がかえって闇を濃厚にしている絵が頭の中に浮かびます。その空気中の酸素を追いやってしまうような濃厚な闇と金の息苦しさをともなう印象は、ともすれば狂気を呼び覚ます危険な情調をつくり出すものがあるように感じられます。そこから考えると、陰影の美というものは、闇に隠されることの静寂や落ち着き、瞑想に誘い込む効果があるいっぽうで、精神を異界に誘う資質も感じられて、すなわち陰影は狂気と繋がっていると言えるところもあるのかもしれないです。

では引用をしていきます。

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が、美と云うものは常に生活の実際から発達するもので、暗い部屋に住むことを余儀なくされたわれわれの先祖は、いつしか陰影のうちに美を発見し、やがては美の目的に添うように陰影を利用するに至った。事実、日本座敷の美は全く陰影の濃淡に依って生まれているので、それ以外に何もない。西洋人が日本座敷を見てその簡素なのに驚き、ただ灰色の壁があるばかりで何の装飾もないと云う風に感じるのは、彼等としてはいかさま尤もであるけれども、それは陰影の謎を解しないからである。(p32)
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→陰影は、日本の自然環境に合わせて作られた日本家屋のなかに意図せず見いだされた美だということですね。ピンチをチャンスにするみたいなものに近い逆転の発想がそこにあったわけです。ただ、暗いのがいいのだ、といっても、暗がりに居続けると現実には緑内障になりやすい。年をとればとったなりに、そんな「美に殉ずる」ようにはあらず、割り切って生活するのがいいのではないか、と僕は思うほうです。「陰影」は楽しめるうちだけ楽しめばいいのではないですか。


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われわれ東洋人は何でもないところに陰影を生ぜしめて、美を想像するのである。(p47)
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→こういった東洋人ならではの感覚は、西洋人の間ではない感覚のものだから取るに足らないものだ、とするのではなく、彼等にはわからないものだけれど美としての価値がしっかりとあるもので、それは揺るぎない、とする姿勢が感じられます。世界の主人公は科学的な西洋人だとする傾向が、当時の西洋化していく時代のなかで、そしてそれまで西洋以外を植民地化していく強い力を持った西洋人への劣等感や憧れによって、もたらされていったような気がするのですが(それは現代にも少なからずそういう向きはあるでしょうが)、東洋人だってこういう豊かな感性があって、決して劣等な存在ではないのだ、とある意味西洋世界に踏みにじられた東洋人としての自尊心を再び立ち上がらせる意志のつまった言葉でもあるかなあと思いました。

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その他日用のあらゆる工芸品において、われわれの好む色が闇の堆積したものなら、彼等の好むのは太陽光線の重なり合った色である。銀器や陶器でも、われらは錆の生ずるのを愛するが、彼等はそう云うものを不潔であり、不衛生的であるとして、ピカピカに研き立てる。(p49)
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→西洋人は光を好み、闇を悪しきものとする。こういった感覚は現代の僕らでも、西洋の神話をモチーフとしたRPGなどのゲームでも感じられてきたことです。また、それによって、光を貴び闇を嫌うという心理が作られてきたかもしれない。これがそれ以前の日本ではどうだったか。たとえば仏教では、人間はどうしたって影をひきつれている存在だ、と説いていたりします。光が濃くなれば、影も濃くなりますし、光か影かの一方だけの存在ではないのが生きものだとしている。そういった感性、人間観と、この引用部分はつながるところがあるような気がしました。



次に『文章読本』。

これが目からウロコの連続でした。「なんだか、いちいちわかるよ、谷崎パイセン! 谷崎ニキ!」と言いたくなるほどです。

東洋的な寡言と簡潔による名文が志賀直哉の「城崎にて」を例に谷崎潤一郎が論じている箇所があります。対比されるのは、西洋的なおしゃべりの文章。とにかく克明に言い尽くさないと気がすまないのが西洋的な文章なんです。谷崎潤一郎が言うのは、言葉で言い尽くそうとして言い尽くせるものではないし、言葉という型にあてはめてしまうことには害悪があるということ。これを基本として踏まえたうえで、『文章読本』は書かれている(p243あたりがこの部分です)。そして、芸術的な文章と実用的な文章との区別はない、という態度でいます。

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文章の要は何かと云えば、自分の心の中にあること、自分の云いたいと思うことを、出来るだけその通りに、かつ明瞭に伝えることにあるのでありまして、手紙を書くにも小説を書くにも、別段、それ以外の書きようはありません。(中略)そうしてみれば、最も実用的なものが、最もすぐれた文章であります。(p129)
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→文章術の基本中の基本を、ベタなんだけどでもベタではないように認識させてくれるところでした。迷いが起きたときにここに立ち帰ることができるのだと思うと安心感があります。


他に「そうそう!」と思ったのが、文章の音楽的な要素、視覚的な要素。前者は、読んでみてリズムがあるかどうかで、これは天性の感覚で書かれるものだと谷崎は論じていました。後者は、漢字で書くかかなで開くか、送り仮名やルビはどうするか、など、文章をぱっと目で見た時の印象、心理を考えようということでした。そういったところは、まとまった文章を書くようになると気にするようになりますけれども、谷崎はしっかり書いてくれているなあとこれまた目からウロコです。

そして、テニヲハを略してしまうのは田舎者らしいというところには、はっとしました。東京人は下町言葉を使っていても略してはいないと谷崎は言っている。真にたしなみがある者ならば、テニヲハをちゃんと入れるのだとあります。なるほど、思い当たります。田舎者としての自分がずばり思い当たるのでした!

さまざまな大切なトピックがまだまだありましたけれども最後にこれを。文章術のひとつなのですが、文章に間隙を入れるというのがあります。隙間を埋めずに読み手に任せたほうがいい、と。これ、とっても大事だと僕も最近考えるようになりましたからここにシェアします。






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