「昔話と日本人の心」 河合隼雄著 岩波書店
「日本人の原罪」 北山修、橋本雅之著 講談社
「昔話は全人類の共通と言ってよいほどの普遍性と、その属する文化に特徴的と思われる側面とをあわせ持っている」(前者より)
昔話の夕鶴の中に、鶴が機を織っているのをいるのを見てしまい、見られた鶴は立ち去ってしまう場面がありますが、後者の著者は「見るなの禁止」と呼んでいます。
昔話には、こういった場面が数多くあり、見られていけないものを見られた者は、直ぐにそこを立ち去ってしまいます。
こうした心情を読み説き、日本人の心を探ろうというのが本書の狙いと思う。
「禁止は人間の好奇心の挑発である」(前者より)
というように、見るなと言われれば見たいものである。
それらは甘美な匂いとともに人間の好奇心に入り込んでくる。
でも、見られた方は「恥」を感じて、サクラの華が散るように姿を消すか命を断つか、それが日本人の美学である。
そこで問われるのは、見るなと言われながら見てしまった方である。
そこには「罪」が発生して、「罪悪感」を感じてもらわないといけない場面であるが、
日本の昔話には、そこが問われることはなかったりする。
僕は陰口は大嫌いな男ですが、それは「見るなの禁止」のように、
陰口を言うなと言われればいいたくなるように、そこには甘美な匂いが存在し、
それでいて「罪」「罪悪感」に問われなかったりします。
ブログの「炎上」や「勝ち組負け組」など、そこに罪や罪悪感が存在すれば、そういった行動や言葉は生まれることはないのに、我々はそうしたことをしてしまいがちだ。
被害者側の散華が美学というのもあるだろうけど、その反面、加害者側の残酷性も伏せ持っていることも認識する必要があるのかもしれない。
「このように、「ケガレ」や<罪>を「水に流す」という神話の<この国>独特の解決方法は、そのまま日本において、<罪>がどのように受け止められたのか、あるいは受け止められなかったのかという、<罪悪感>を考えるうえで重要な意味を持つと考えられる」(後者より)
桜の花が潔く散る美よりも、散らした風に「罪悪感」を感じてもらいましょう、ということだと思う。
「日本人の原罪」 北山修、橋本雅之著 講談社
「昔話は全人類の共通と言ってよいほどの普遍性と、その属する文化に特徴的と思われる側面とをあわせ持っている」(前者より)
昔話の夕鶴の中に、鶴が機を織っているのをいるのを見てしまい、見られた鶴は立ち去ってしまう場面がありますが、後者の著者は「見るなの禁止」と呼んでいます。
昔話には、こういった場面が数多くあり、見られていけないものを見られた者は、直ぐにそこを立ち去ってしまいます。
こうした心情を読み説き、日本人の心を探ろうというのが本書の狙いと思う。
「禁止は人間の好奇心の挑発である」(前者より)
というように、見るなと言われれば見たいものである。
それらは甘美な匂いとともに人間の好奇心に入り込んでくる。
でも、見られた方は「恥」を感じて、サクラの華が散るように姿を消すか命を断つか、それが日本人の美学である。
そこで問われるのは、見るなと言われながら見てしまった方である。
そこには「罪」が発生して、「罪悪感」を感じてもらわないといけない場面であるが、
日本の昔話には、そこが問われることはなかったりする。
僕は陰口は大嫌いな男ですが、それは「見るなの禁止」のように、
陰口を言うなと言われればいいたくなるように、そこには甘美な匂いが存在し、
それでいて「罪」「罪悪感」に問われなかったりします。
ブログの「炎上」や「勝ち組負け組」など、そこに罪や罪悪感が存在すれば、そういった行動や言葉は生まれることはないのに、我々はそうしたことをしてしまいがちだ。
被害者側の散華が美学というのもあるだろうけど、その反面、加害者側の残酷性も伏せ持っていることも認識する必要があるのかもしれない。
「このように、「ケガレ」や<罪>を「水に流す」という神話の<この国>独特の解決方法は、そのまま日本において、<罪>がどのように受け止められたのか、あるいは受け止められなかったのかという、<罪悪感>を考えるうえで重要な意味を持つと考えられる」(後者より)
桜の花が潔く散る美よりも、散らした風に「罪悪感」を感じてもらいましょう、ということだと思う。