アウトドアな日常

インドアからアウトドアへのススメ

戦争と気分

2009年10月31日 | 読書日記 その7
雑誌「文学界」2月号 ドナルド・キーン「日本人の戦争ー作家の日記を読む」 を読む。

戦前、戦中の日本の気分(雰囲気)というものはどういったものだったのだろうか。
それを知る手がかりというのは、その時の日記を読むというのが手段になり得るのかなとも思う。

なによりも僕は、気分(雰囲気)というものが、心理的に大きな影響をきたすものだと考えています。

昭和19年末、国民の3分の1はこの戦争は負けるのではないかと思っていたそうです。
負けた後には、何が残るのだろう。

関東大震災、戦争直後の焦土と化した土地でたくましく復興を目指した人たちがいた。
その生きる希望というのはなんだったのだろう。

思いどうりに生きられない人もいるだろう、夢破れがっくりと肩を落としている人もいるだろう。
破れた後に、人の真価は発揮される。

国は破れ、山河が残った。
夢破れれば、他の夢がまた芽吹くだろう。
希望という気分は、このようなことを指すのだろう。

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人生は楽ガキ(落書き)だあ! 91

2009年10月30日 | 絵 その10
091030

テレビで浅見光彦シリーズの主人公を見ていると、育ちの善さが全面に出ていて、嫌な出来事があってもスカッと忘れてしまう潔さと他者の心のひだに寄り添う思いやりというものを持っている男なんだなあと思ってしまう。

実兄が警察官僚のお偉いさんでも鼻にかけることがなく、最後には女性に振られてしまう。(ここがポイント^^)

同性にも尊敬される典型的なタイプだろうけど、ネチネチ生きるよりもこのようにスカッと爽やかに生きてみたいものだと思ってしまうのであった。

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小さな声でサヨウナラ

2009年10月29日 | 読書日記 その7
「いじめと不登校」  河合隼雄著  新潮文庫 を読む。

「そして最後の日に、治療者の人が、「もうきょうで終わりやねえ。元気で明るくサヨナラしようね」と言うと、子供が首を横に振るんです。それで、あ、この子はまだ来たがっていると思ってうれしくなって、「どうするの?」と聞いたら、「小さい声でサヨナラしよう」と言うんです。
 それでぼくが言ったんだけれども、別れるときに、なんで元気で明るい声を出さなくてはいけないのか。大人の常識というのは知らんまにそうなっているんです。」(本文より)

イジメはなくさなければならない、と著者は語り、反面、神代以来、イジメの途絶えたことななく、逆にイジメによって生きる力を得ることもあると記す。

問題なのは、際限のない陰湿なイジメであって、それは心まで殺しかねない。

最小限のイジメであれば、受け入れてもいいのかもしれない。
加害者も被害者も、イジメの「最小限」という単位を考える。
考えている時点でイジメも消滅しているかもしれない。

人間30歳を過ぎたら、生きる意味も価値もありゃしない。
だから嫉妬心や欲望も持つ価値もありゃしない。
声を大にして、自分を誇示する必要もありゃしない。

コメント (2)
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人生は楽ガキ(落書き)だあ! 90

2009年10月28日 | 絵 その10
091028

クリエイターというのは、一瞬を永遠にする作業をする人たちのことを指す、と僕は解釈するのですが、それは難しいことではなく、それを困難な作業にしてしまったのは、「優しさ」や「癒し」というものを記号化してしまったからではないかと考えています。

どんな人が好きですか?
とたずねられた時に、「優しい人」という答えが圧倒的に多いと思うのですが、それは記号であって言葉ではない。
お金も記号化された昨今、もはやそれは泡と消えるしかない代物になってしまったのかもしれません。
(そもそも「どんな人が好きですか?」も記号でしかない)


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気分

2009年10月27日 | 読書日記 その7
「戦争する脳」  計見一雄著  平凡社新書

北九州監禁殺人事件を少し調べてみたら、現代の日本でこんな残虐なことが起こるのだろうかと驚愕した。
(気持ちが悪く、吐き気すらしたくなるような事件ですので、知らない方が賢明かも)

著者は、戦争が狂気ではなくそれは日常の延長線にあるのではないかと疑問符をうつ。

吉田健一の「時間」から引用し
「戦前の昭和十年代には倦怠といふ言葉がよく使はれた。もう一つ焦燥といふのもそうで今日ではこの二つの言葉が殆ど用いられないが・・・。」
この崩壊を起こさせた元凶ともいうべきものが、19世紀末の時代の持つ気分だと喝破したのが吉田氏にほかならない(本文より)・・・と記す。

狂気は誰にも存在し、それを増幅させるのは負の気分というものなのかもしれません。
その気分は、癌細胞のように無意識の中に蓄積し、いつしか刃のように他者に向ける。

では我々は、どのように生きればよいのか?
著者は「あの敗戦の日々にあって心に深く心に沁みわたったのは、杜甫の律詩「春望」の一節「国破れて山河あり」であった。今、再び国が破れたら、その時帰る山河はありや、である。」と記す。


この国には、破れたあとに何かが残っているのだろうか。


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