![070323 070323](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0b/95/c65f45e2686ebaf30eeaa7789e7723ca.jpg)
阿部謹也著『近代化と世間』を読んでみました。
日本社会を語るうえでは「世間」を忘れてはいけないことですが、この「世間」というのは実に厄介なものだなと思います。
この方の本を以前に読んだことがありますが、夏目漱石ほど「世間」を熟知している人はいなかった(?)といった内容でした。
だから、コンプレックスを持ち、文学とはないか?と考え極度のノイローゼになってしまったとか、誰よりも苦悩し続けた作家でもあったのです。
慣習という世間、社会人という世間。
一歩出ればがんじがらめで、夢や希望もなかったりします。
簡単にいってしまえば、世間はしがみつく社会だということ。
だから天下りという、しがみつくムラ社会しか作れない。
(それから外れれば差別と化し、だからやめられない)
本来、大学生活という期間は学ぶ期間であるはずなのに、遊ぶものという風潮がまん延している。(遊びも学びのひとつだと思いますが)
それは、社会に出たら、夢などないと知っているからであろう。
夏目漱石の『我が輩は猫である』を読んでいますが、出だしは
「我が輩は猫である、名前はまだない」で始まります。
あーそうかあ。
この猫は、世間の外側にいるのだなあと思った次第です。
この猫のように、日本社会を外側から眺めてみることも必要かなと思います。
漱石はそれを愉快、滑稽な小説として描き、第一級のユーモア作品に仕上げた。