アウトドアな日常

インドアからアウトドアへのススメ

まじめというふまじめ

2009年05月09日 | 読書日記 その5
「負け犬の遠吠え」      酒井順子著   講談社
「永遠のドストエフスキー」 中村健之介著  中公新書
「まじめの崩壊」       和田秀樹著 ちくま新書

「女性は、年齢を重ねていくにつれて「恐く」なっていく生き物です。
どのような恐さか。これは、詳しく説明するまでもあるますまい。底意地の悪さや容赦のなさやあけすけさが加齢とともに身につき、周囲に恐怖心を与える。
これは女性特有の現象と言えましょう。」(「負け犬の遠吠え」より)

「人間が善や美を好みながら同時に、人をいじめて楽しみ自分に危害を加えない相手については残虐をもひそかに好む、異様な、いわば病的な生き物だと思わせる事実がおそるべき規模で迫ってきたとき、人々はロシアの作家ドストエフスキーの小説に共感するようになった。」(「永遠のドストエフスキー」より」

女性に限らず、人は加齢と共に「恐く」なっていく生き物だと思いますが(もちろん逆の人たちもいますが)、ドストエフスキーは、自らを病気と自覚し、人間も病気であると定義しました。

「日本人がある日突然、ふまじめになったということではありません。
これは長年続けられてきた「まじめ批判」の影響が大きいのではないかと私は見ています。」
「日本ではお金がインセンティブになったことで「まじめの崩壊」が一気に進みました。」(「まじめの崩壊」より)

僕らはなんの為に生きているのだろう、そんな自覚さえも忘れてしまった。
トルストイの「戦争と平和」の中に、世の中を変えようと思ったら精神の利息(開高健の言葉より引用)を持った人たちが集まり行動する、といったことが書かれていたと思う。

沢山の規則を作るよりも、善人を多く作り出す方が世の中は変わる。
幸福は簡潔な数式でしか導きだせない、と思う。


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エコ

2009年05月08日 | 読書日記 その5
「偽善エコロジー」 武田邦彦著 幻冬社新書

たとえばレジ袋。
石油の不必要な成分を活用したものであり、レジ袋を追放すた結果、石油の消費が増えるということもあるらしい。
「レジ袋の量」ー「エコバッグの量」+「専用ゴミ袋の量」

たとえば割り箸。
マイ箸を持つことは、ただのエゴと手厳しい。
割り箸は、端材を使っているので森林を育てているので、どんどん使って欲しいと記す。

僕は基本マイ袋、マイ箸を使っていますが、こうした行為がゴミのポイ捨てなどを防止する効果もあると思います。
願わくば、石油の不必要な成分、端材を他に有効活用できないのかを思案してもらいたいものですが・・

他にも、「ダイオキシンは危険だ」検証「危なくない」
「狂牛病は恐ろしい」検証「危なくない」
「古紙、牛乳パックのリサイクル」検証「よくない」など。

著者は最終章で「心が満足していると物は少なくなる」と書き、「環境のため」と思ってきた生活を、「人生のため」という生活に切り替えてみて下さい、と記します。

人にとって、基本的なエコロジーというのは、「安全な食べ物を、必要なだけ食べ、食べ残ししない」ということなのだと個人的には思っています。


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つまらないものですが・・

2009年04月18日 | 読書日記 その5
『こんな日本でよかったね』 内田樹著

「「格差社会」というのは、格差が拡大し、固定化した社会というよりはむしろ、金の全機能が過大評価されたせいで人間を序列化する基準として金以外のものさしがなくなった社会のことではないか。」(本文より)

「「金のことをつねに最優先に配慮する人間」は私の定義によれば「貧乏人」であるので、格差社会の是正のために「もっと金を」というソリュージョンを提示し、それを支持する人々は、論理的にいえば、これまでもこれからも未来永劫に「貧乏人」であり続ける他はないと思うからである。」(本文より)

「社会が安全になったせいで、命の重さについて真剣に考慮する必要がなくなった社会では、逆に命が貨幣と同じように記号的に使われる。」(本文より)

先日の新聞の中に、オホーツク海の深海の温度が0.6度上昇していて、研究者は背筋の凍る思いがしたという記事がありました。
0.0幾らでも大きな問題があるらしいのですが、その温度差を我々は記号としか捕らえることが出来ないというのが、金を最優先にしか考えてこなかった人間の愚かさなのだろうか。

人類にとっては、環境というものを最優先に考えなければならないのに、それでも目先の経済にしか目がいかないというのは、記号化された社会の惨めな行く末なのだろうか。

あえて環境面から見た人間を評価の対象にすれば、包装紙で着飾った粗悪品なのであろう。

昔の日本人は「つまらないものですが」と謙遜しながら、贈り物を差し出した。
その贈り物には、虚飾など施されておらず、心のこもったものであったに違いない。

記号化されていない世の中の方が、人を見つめる目は暖かかったのだろうと思う。


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嫉妬

2009年04月15日 | 読書日記 その5
『「哀しみ」という感情』 岸田秀著 

著者は、自我は本能が壊れた人間が生きてゆくために必要不可欠であるが、本能と違って現実的根拠はなく人為的に作り上げた幻想であり、基本的に不安定であり欠陥がある。
その自我を支えるためには色々と面倒な作業が必要となり、自分は優れているとか、価値があるとか、人々に尊敬されている、ある人に愛されている、社会に必要とされている、などと信じることができなければならない、と記す。

「ようするに、人間は、自分は優れた価値ある存在であるという自我を信じて生きてゆけないわけだが、この自我像を脅かすのは、自分より優れ、自分より価値がある他者である。
この他者を自分より下に引きずりおろしたい衝動が嫉妬である。」(本文より)

「嫉妬の地獄から脱出する道はあるのだろうか。・・
ごくありふれた方法しかない。
嫉妬している時には嫉妬していることを素直に認めることである。自分が相手より劣っていると感じていることを素直に認めることである。」(本文より)

「階級制度に規定された身分に基づいて「身の程を知る」のは嫉妬されないために有効であったかもしれないが、それがあまりにも不合理であったことは今や明らかである。
しかし現代においても、自分の能力の限界や努力の不足による「身の程を知る」ことは必要ではなかろうか。」(本文より)

嫉妬の処方箋としては、著者が記すように嫉妬する自分を認識し、嫉妬される相手も認識するしかないのだろうけど、そもそも人間というものは、それほど優れた生き物ではないことも認識すれば、嫉妬するという感情もだいぶ薄れていくような気もします。

人間は、嫉妬されないように振るまい、それでいて優越感に浸りたいという矛盾を抱えた生き物であるわけで、生涯においてこの悪癖を抱えながら生きる人間も多い。
自分はそうにはなりたくないと思っても、陰湿な嫉妬を認めたくないがために、そんな自分に目をそむけ他者を見くびる。

人間はどうしようもない存在なのだから、せめて人を喜ばそうという思いがあってもいいのだと思う。
それが人としての、誇りなのかもしれない。

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ハンドリング

2009年04月12日 | 読書日記 その5
「サラリーマン残酷物語」  風樹 茂著 中公新書
「心と遺伝子」       山元大輔著 中公新書

幸福とは、どういうことなのかと考えてはいるものの、なかなか答えが見出せないでいます。

ラットの実験では、頭をなでなでされた(ハンドリングというそうです)子は、社会性豊かで、ストレスに対する耐性もあり、行き過ぎた攻撃や過度の恐怖を示さないようになるそうです。

育ちの良い人は、幸福に一歩近づいた感じがしますが、育ちが悪かった人はどのように幸福になればいいのだろう。

現在の日本は鬱社会といってもいいのだろうけど、その中でハラスメント行為が平然と行われていて、なんとも住みにくい。

社会資本や生活資本が整っていながら、なぜ幸福感を持つことができないのか。

今の僕にできることは、美しい記憶を積み重ねることしかできないのだけど、その記憶は日常の様々な場面に潜んでいると思っている。

そう、このブログを書いている今も・・

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