1755年山形県北村山郡楯岡に貧農農家の次男として生まれる。(のちに江戸幕府普請役)
蝦夷地探検は9回13年におよぶ。
エトロフ島で3か月間ロシア人と過ごしロシア語を学ぶ。その理由としてロシアの国状を知り、そしてロシア帝都ペテルブルグ、ヨーロッパ、アジアを経て長崎に帰還するという壮大な計画を実行しようとしたが、松前藩に知られその計画はとん挫した。
アイヌ語も積極的に学び、宗谷に達したとき、同行した目付遠山金四郎(遠山の金さん)の目の前で、時化の海を手際よくアイヌの人たちを指揮する。
その様子を遠山は「夷中凡百の人事わがものにしたる古つわもの」とたたえる。
シーボルトとも交流があり「勇ましく功多き我人格高き老友」と残している。