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暁庵の茶事クロスロード

茶事が好きです。茶事の持つ無限の可能性に魅了されて楽しんでいます。2015年2月に京都から終の棲家の横浜へ戻りました。

引っ越し作業中に旅へ・・(1)高遠と絵島

2025年08月07日 | 

     (木曽駒ケ岳から南アルプス・仙丈岳方面を望む)

 

夏休み中の課題である「ブログの引っ越し作業」中です。引っ越し先はHatena Blogです。

記事の移行は終わりましたが、写真の移行にどのくらい時間がかかるのか見当がつきません。写真が7000枚近いので、1枚1分として計算すると4~5日かかりそうです。

・・・それで後はPCにお任せして、予定していた1泊2日の旅へ出ました。

8月3日(日)朝5時40分に横浜の我が家を出発。

東名高速~圏央道~中央高速を走り、諏訪で高速を降り、杖突峠を越えて高遠城を目指しました。運転はツレですが、杖突峠への山道は車酔い防止のため暁庵が運転し、9時半頃に高遠城に到着しました。

高遠城は諏訪氏の支族である高遠氏の居城でした。天文14年(1545年)、高遠城は武田信玄によって攻め落とされ、以後は武田氏の支配下となりました。

天正10年(1582年)、織田信忠を総大将とする織田軍は武田の領内へ侵攻、高遠城を包囲します。高遠城城主・仁科盛信は織田軍を相手に最後まで奮戦し、城を枕に壮烈な討死を遂げたといいます。武田氏滅亡が間近に迫るなか、武田氏にとって最後の意地をみせた戦いになりました。

  (往時をしのばせる深い堀跡・・高遠城)

深い堀や曲輪が残っていて、往時の面影をしのびながら、今は桜樹がたくさん植えられている高遠城内を汗だくで散策しました。本丸跡に高遠城主・仁科盛信(武田信玄の五男)を祭る神社が建立されています。

     (信州高遠美術館のエントランスの壁画)

城近くの信州高遠美術館を訪れました。暑さにうだりながら中へ入ると、そこは別世界。冷たいウェルカムジュースをカフェ「パレット」でご馳走になり、息を吹き返しました。折しも、地元の作家さんたちの「ふうけいのまにまに」が8月2日から始まったばかりです。

流木に彫られた像が展示されていました。作者は星野郁馬氏です。

ガラス壁の向こうの景色に溶け込んでいるような不思議な空間、まさに「ふうけいのまにまに」でしょうか。

木像の一点一点の表情、木の味わいや趣きが違っていて、ある像は五百羅漢や修行僧を、ある像は唐代のふっくらとした女人像を連想しました。まるで現代の円空仏のよう・・・。

 

 

それから高遠と言えば、江戸時代に起きた「絵島生島事件」の絵島が遠流となったところです。

この地で大奥の大年寄りであった絵島がどのような後半生を過ごし、どのように死を迎えたのか・・・気になっていました。高遠歴史博物館に隣接する「絵島囲み屋敷(復元)」を訪れました。絵島囲み屋敷の解説文を記します。

 絵島(江島)は7代将軍・徳川家継の生母、月光院に仕えて大奥に入り、やがて出世して大年寄となり大きな権勢を掌握するに至ったが、事件を起こし高遠に永々遠流となった。

 絵島事件は、正徳4年(1714)正月十二日、月光院の名代で芝増上寺の前将軍家宣の霊屋へ参詣した帰途「山村座」で芝居見物し、刻限に遅れて帰城したことに端を発する。

 家宣の正室・天英院と月光院の勢力争いなども拍車をかけ、絵島のほか死罪二、流罪十、その他大勢の人々(七十名以上)が罪に問われ、当時としては非常に大きな粛清の嵐であった。

 月光院の口添えにより減刑され高遠へ遠流となった絵島は、最初ここより4キロ上流の非持(ひじ、伊那市長谷)の囲み屋敷に入れられたが、享保4年(1719)この花畠に移された。そして寛保元年(1741)4月、六十一才で病死するまでこの囲み屋敷で幽閉生活を送ったのである。

 この囲み屋敷は残存する古図により昭和42年(1967)ほぼ同じ地点に復元されたものである。

絵島の部屋は南側の八畳ひと間(庭に面した2方の廊下には格子戸がはめられています)、湯殿と厠(かわや)が隣接していました。他に番人詰所、下女詰所、台所などがありました。高遠藩の藩士が番人として5人交代で監視し、下女が身の回りの世話をしました。

高遠藩での取り扱いに関する文書(幕府と高遠藩の問答)が展示されていて

 食事は朝夕の二食で、一汁一菜
 着物は木綿のみ
 冬でも火鉢だけ
 たばこは出さなくてよい
 硯や紙は出さなくてよい
 酒は出さなくてよい

   (2メートルの塀には忍び返しが設置されていました)

食事は朝夕の二食で一汁一菜なのに、38歳頃から魚を食するのを絶ったそうです。

書を書くことや手紙のやり取りも許されず、読経に明け暮れる日々を送りました。晩年になり許されたのが、日蓮宗の蓮華寺への参拝だったようです。

享保7年(1722)、「絵島生島事件」に関与したほとんどの人々が減刑、赦免されたことから、高遠藩は絵島の赦免を幕府に働きかけましたが、受け入れられず、寛保元年(1741)4月、絵島は亡くなりました。享年61歳。蓮華寺に墓があります。

27年間八畳ひと間に幽閉され、想像を絶するような絵島の生活ぶりですが、彼女の言葉(思い)は何一つ見事に抹殺され、残されていないのです。幕府という組織の背後に、怨念のような誰かの強い意志(指示)を感じるのは私だけでしょうか?

唯一、絵島その人が使用していたという机と座布団が高遠歴史博物館に展示されていました・・・嗚呼!

   (絵島が使っていた机と座布団)

 

      引っ越し作業中に旅へ・・(2)へつづく   (3)へつづく

 

 


引っ越し作業中に散歩へ

2025年08月01日 | 暮らし

 

今日は令和7年8月1日、台風9号が小笠原諸島にいるせいか、涼しい東風が吹いていてしのぎやすいです。

昨夜から重たい腰を上げて、夏休み中の課題の「ブログの引っ越し作業」に取り掛かっています。引っ越し先はHatena Blogです。

記事の移行は終わりましたが、只今写真の移行中です。

時間がかかりそうなので、古い記事を読み漁っていたら・・・左京区カフェ探検 「猫町」に出合いました。

ブログの記事の一部を下記に転載します。

カフェ「猫町」へ向かいました。
「猫町」は、友人の挙げてくれた左京区カフェ探検の候補から名前に惹かれて決めました。
店名は、萩原朔太郎の小説「猫町」から名付けられたとか。

「猫町」へ行ってからインターネットで小説「猫町」を読んでみました。
とても短い、朔太郎の夢と倒錯に満ちた、詩のような小説ですが、
次の部分がまるで左京区の「猫町」界隈のようで気に入っています。

小説「猫町」より一部転載します。 

   ・・・私は道に迷って困惑しながら、当推量で見当をつけ、
   家の方へ帰ろうとして道を急いだ。
   そして樹木の多い郊外の屋敷町を、幾度かぐるぐる廻ったあとで、
   ふと或る賑やかな往来へ出た。
   それは全く、私の知らないどこかの美しい町であった。

   街路は清潔に掃除されて、鋪石がしっとりと露に濡れていた。
   どの商店も小綺麗にさっぱりして、磨いた硝子の飾窓には、
   様々の珍しい商品が並んでいた。珈琲店の軒には花樹が茂り、
   町に日蔭のある情趣を添えていた。

   四つ辻の赤いポストも美しく、煙草屋の店にいる娘さえも、
   杏のように明るくて可憐であった。
   かつて私は、こんな情趣の深い町を見たことがなかった。
   一体こんな町が、東京の何所にあったのだろう。

   私は地理を忘れてしまった。
   しかし時間の計算から、それが私の家の近所であること、
   徒歩で半時間位しか離れていない、
   いつもの私の散歩区域にあることだけは、
   確実に疑いなく解っていた。
   しかもそんな近いところに、今まで少しも人に知れずに、
   どうしてこんな町があったのだろう?
                                        

「どうしてこんな町があったのだろう?」を京都へ置き換えて読んでいます。

 

今読むと、「こんなブログの記事があったなんて!」 

当時を懐かしく思い出しながら、しばしブログ散歩(京都時代へタイムスリップ)へ出かけました。ご一緒にいかがでしょうか?

  「左京区カフェ探検 「猫町」

  左京区カフェ探検  ミモザ荘

  夏期講習会 猛暑の中で

  夏期講習会  誕生日

  旧暦の七夕の茶事ー1   ー2   ー3

 

 

午後になり、近くの石川公園へ散歩ランチへ出かけ、涼しい風が吹きわたる東屋でランチと昼寝をしました。

台風9号の影響でしょうか? ポツポツと雨が降り出し、散歩途中のスタバで雨宿りです。

家まで10分ほどでしょうか、帰る途中に夕立に出会い、ガレージへ飛び込んで雨宿りです。雨脚は激しくなり、祇園祭の占出山でバケツをひっくり返したような夕立にあったことを二人で思い出しました。少し小降りになった時、

「返さなくってもかまいませんので、この傘をお使いください・・・」と、後ろの家の男性がビニール傘を持ってきてくださいました。ツレと二人でも大丈夫なくらい大きな傘でした。

「ありがとうございます! 助かります・・・」

久しぶりの散歩で温かな人の情けに触れて、とてもステキな散歩になりました。  

 

 


続き薄茶(大板常据)の稽古・・・一客一亭

2025年07月27日 | 稽古備忘録・・・東京教室の稽古

   (稽古の写真はないので手持ちのものです・・・三渓園の百日紅)

 

7月22日はS先生の東京教室のお稽古でした。

東京は35℃の猛暑日でしたが、S先生はじめ15名が集まり汗水厭わずの稽古が行われました。きちんと着物を着て出かけるので大変なのですが、行ってみれば「あ~ぁ!今日も好いお稽古だったわ!いろいろ学ぶことが多かった・・」と感謝です。

その日の科目は、真之炭、真之行台子、続き薄茶(大板常据)、名水点、平花月(釣瓶使用)、貴人清次濃茶付花月、その中で暁庵が客として入らせて頂いた続き薄茶(大板常据)のことを書いておきます。

 

    (こちらは我が家の名水点の稽古にて)

大板は中置によく使われますが、常据でも良く、その違いについて前回話題に上り、それでI氏が大板常据で続き薄茶をしてくださることになりました。大板を使うときには風炉や釜は小ぶりのものが良いそうです。

客は暁庵、一客一亭です。

大板(常据)に唐銅道安風炉、釜は真形だったと思う・・・二文字押切の灰形が美しく整えられ、火が見えないように白い前土器(まえかわらけ)が逆さになっていて、ご亭主(水屋もI氏)の心遣いを感じます。水指は趣のある朝鮮唐津、茶入が置かれています。

主菓子が運ばれ、続き薄茶の濃茶点前が始まりました。

茶入の仕覆が脱がされると、S先生から質問が・・・「仕覆の置く位置は?」

大板は中置のイメージが強く、すぐに「建水の上では?」と応じると、「大板でも常据の場合は、常と同じ水指の左横に仕覆を置いてください。置けると思いますよ」

    (こちらはY様宅の大板の設え・・・飯台の茶事にて

仕覆の中から現われたのは黒中次、秘かにI氏らしい洒落れた趣向だこと・・と感心しました。いつものように美しく端正な所作にうっとりしていると、茶香が漂い、濃茶が出されました。

すぐに取りに出ようとすると、S先生から「楽茶碗ではないので古帛紗が出ますし、一客一亭なので少しゆっくり目に茶碗を取りに出てください」

ゆっくり取りに出て、I氏が隣に座るのを待って茶碗を間に置いて総礼。「古帛紗を拝借いたします」の挨拶をしてから濃茶を頂きました。とてもよく練られた濃茶は甘味の中にも程よい渋みがあって、美味しゅうございました。

I氏に古帛紗ごと茶碗を手渡し、飲み終わって茶碗を置くと、「大変美味しいお茶でございましたが、お茶銘は?」「柳桜園の長松の昔でございます」「まろやかな甘みの中に程よい苦みがあって、お練り加減も素晴らしかったです。ご馳走様でした」

一生懸命感想を伝えていたら菓子のことをお尋ねするのを忘れました。主菓子は瓢形の錦玉羹、中に小豆と求肥が彩りを添え、上品な甘みが記憶に残っています。

茶碗の拝見を乞い、I氏は点前座に戻り、中水を一杓入れました。(釜に水を入れる時、その意味についてその都度よく考えるように・・・といつもS先生が言っていますが・・・)茶碗で総礼。

続き薄茶なので、ここで茶碗のことをお尋ねしました。茶碗は李朝の御本呉器のようにお見受けしましたが、作者は李方子(まさこ)さん。(日本の元皇族で、 1901年11月4日、梨本宮守正王と同妃伊都子夫妻の第一女子 として誕生。 1920年(大正9年)4月28日、皇族に準じる待遇をうけた李垠(旧大韓帝国、 高宗第七皇子)に嫁しました)

「続いて薄茶を差し上げます」

干菓子が運ばれ、今度は薄器(大海)と青楓画の茶碗を持って入って来られ、薄茶点前が始まりました。稽古とは思えないステキな御趣向が嬉しかったです。薄茶茶碗は妙全作で銘「清風」でした。干菓子は名前を忘れましたが、大徳寺納豆が味を引き締めて美味しかったです。

(永楽妙全は14代得全(1853ー1909)の妻の悠(ゆう、1852ー1927)。妙全と称し、得全亡き後の19年間家業を継承し、優美な作品を残している)

水指の蓋が閉められると、「茶入、茶杓、仕覆、薄器の拝見をお願いします」と四器の拝見をお願いしました。

茶入は黒真塗の中次、尼宗哲作でした。(尼宗哲(1862-1926)は八代宗哲の四女、九代宗哲の妻。九代没後、長男が別居したので家業を継ぎ、大正の茶道隆盛期にあって千家好みの大半を制作した)

竹の中節の茶杓は、上杼の片身代わりの景色が味わい深く、真精院(千猶鹿(ゆか)、十一代玄々斎の長女、十二代又みょう斎の妻)の御作で銘「涼一味??(未だ思い出せません)」です。

仕覆は「正倉院紅牙(こうげ)撥鏤(ばちる)尺文錦(じゃくもんにしき)」、薄器は大海でした。

暁庵が客だったので、個性豊かな女性作家さん達の素晴らしいお道具組で一客一亭のおもてなしをしてくださって、とても稽古とは思えず・・・感動しました。

最後に大板の水指側に柄杓と蓋置が荘られ、四器を水屋に下げて、稽古が終わりました。

猛暑の中、心に残る稽古となり、ありがとうございました!

 

   (野紺菊の鉢を増やしたので咲くのが楽しみです)

 

 


文月の稽古だより・・・奥伝の自主稽古

2025年07月21日 | お茶と私

 

梅雨が明けて陽差しが照りつける中、近くの小学校へ参議院選挙の投票へ行きました。

テレビでは「不要の外出は避けて熱中症予防をしてください」のテロップが流れていましたが、投票後にコンビニでおにぎりや飲み物を買って、石川公園まで散歩し、そこで散歩ランチしよう・・・とは、私の運動不足を心配したツレの提案でした。

投票して小学校の校庭を横切ると、強い陽差しと暑さにクラクラしだし、散歩ランチは無理とすぐに諦めました。

それに今日は奥伝の自主練習をしなくては・・・なのです。

 

  (果肉植物が魅力的なガーデン)

文月に入ってから奥伝の自主稽古に追われていて、嬉しい悲鳴かしら?  

教室の文月の奥伝は大円真ですが、行之行台子をご希望の方が3人、大円真をご希望の方が3人、そして明日の夜(現地時間ではお昼頃)はスウェーデンのOさんがオンラインで真之行を稽古します。

流石に奥伝が3つ、それも入れ替わりに続くと頭の切り替えが大変ですが、順番や所作の確認や奥伝の解説のためにも数日前に自主稽古をするように心がけています。

夜8時過ぎ、冷房をしっかりきかせた茶室に1時間~2時間籠ります

思い立った時に(実際は間近のことが多いです)気軽に自主稽古できるように切合朝鮮風炉(電気)を使っています。

先ずは準備、これがすらすらと出来るとお点前もすらすらできるような気がします。

   (最近、果肉植物が気になっています・・・)

気持ちを集中させて奥伝の稽古に入りますが、途中で迷ったら先に進まずにノートやメモで確認します。迷ったことは生徒さんも同じだと思うので、どうして迷うのかを自分の中ではっきりさせるように、説明できるように考えます。

迷う個所は他の奥伝と違う、特徴のある箇所のことが多いので、3つの奥伝を教えていると、その違いをしっかり理解して生徒さんへ説明できるので、今回はとても好い機会となりました。

いろいろ疑問の箇所もはっきりして解決したら、もう一度稽古するのですが、膝や腰が疲れたら無理をしないで別の日にします。

夜の静かな茶室に籠っての自主稽古、奥伝に限らず大好きな貴重な時間です・・・。

7月24日が文月の最終稽古日、8月は待ちに待った夏休みです。

   (こちらは徳島県の太龍寺ロープウェイです)

お茶から離れてリフレッシュしたい・・・と、8月上旬に木曽駒ケ岳へ登る(もちろんロープウェイで・・)ことになっていて夏休みの楽しみの一つです。

「また、9月に元気にお会いしましょう!」

 


7月の好日会・・・七夕(薄茶席)

2025年07月18日 | 茶事・茶会(2015年~他会記録)

        (写真がないので手持ちの写真です)

つづき)

濃茶席から薄茶席へ回りました。

濃茶席より広いので約20人がゆったりと座れ、点前座が良く見えるお席でした。

寄付の床には酒井抱一筆の短冊が掛けられていて

   素麺にわたせるはしや銀河

銀河はあまのがわと読むそうです。この句に因んで席主・岩﨑氏は「点心の椀盛に是非素麺を使ってくっださい」と辻留さんに注文されたことをその後の点心席で伺いました。魚素麺、短冊玉子、車海老が入った椀盛は冷たくとても美味しゅうございました。

本席の床は、七夕和歌漢詩の懐紙で黒田長興と江雪宗立の合筆、団家旧蔵です。

   七夕にひかえてたむくる玉琴の

   しらへをならす 秋の夕風

   双星交会夕 乞巧奇楼東

   幸奏無紘曲 窓前松有風

黒田長興は黒田長政の三男、黒田藩の支藩・秋月藩主です。江雪宗立は江戸時代前期の僧で、沢庵宗彭や江月宗玩に指示し、宗玩の法をつぎ、寛永21年京都大徳寺に住持しました。正保4年筑前(福岡県)秋月藩主黒田長興にまねかれ,古心寺をひらきました。そんな二人の交流がしのばれる七夕和歌漢詩です。ちなみに席主岩﨑宗瑞氏は大徳寺派祥雲寺のご住職、祥雲寺は福岡藩黒田家の江戸の菩提寺だそうです。

    (大好きな手水場・・・地蔵寺・羅漢堂にて)

花と花入が心に残っています。

大きな素朴な南蛮甕蓋に満々と水が張られ、縞葦、半夏生、甘茶が楚々と生けられています。鉄の鐶2つが花留めになっていて発想の素晴らしさに感心しました。

お点前さんが茶道口で挨拶して薄茶点前が始まり、棗や茶杓が清められた頃に干菓子が運び出されました。

その頃に席主の岩﨑氏が席へ入られ、「濃茶席と意気投合して七夕の趣向になりました。実は七夕のようなロマンチックなものは苦手でして、7月と言えばお盆なので供養の茶会は得意なのですが・・・」 どっと笑いが満ちて、席が和やかになりました。

干菓子は蛍のせんべいと水の型物(京都の亀屋伊織製)です。

薄茶が点てられお正客様が頂くと、次々と水屋から薄茶が運ばれ、美味しく喉を潤してくれました。薄茶は「一滴翠」(小山園)です。

主茶碗は六閑斎手造の赤楽茶碗で銘「青海波」(不見斎甲書、淡々斎外箱)、替え茶碗は御本三島と安南でした。

最後に拝見した七夕仕様の点前座のことを書いておきます。

道安風炉(宗元造の古いもの)に古天命真形釜が掛けられ、胴に牛地文がありました。

棚は糸巻(在判箱)、水指は笹耳、白釉のかかった仁清作でした。

並べられた薄器は嵯峨棗、嵯峨蒔絵は藤で黒田家の家紋とのことでした。

茶杓は、不見斎作(共筒箱)で銘「千代(せんだい)」です。何かエピソードがあったのですが・・・思い出せません。

蓋置は白呉須の夜学、美しくも珍しい夜学蓋置でした。

すっかり忘れていた七夕のひとよの逢瀬を濃茶席と薄茶席で2回も堪能した好日会でした。

この後に辻留の点心席で遅い昼食を美味しく完食し、帰途につきました。

 

うだるような暑さの中、茶友4人で近くのサイゼリア席で一休みし、ドリンクバーで喉を潤しました。

ちょっと気が滅入ることがあったので、茶友に悩みを聞いてもらったり、アドバイスを頂いたりしました。

好日会も良かったけれど、最後のサイゼリア席で茶友から元気をもらい、明日からまたお稽古をがんばるぞ!という気になれました。 アリガトウ! 

 

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