今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

893 福知山(京都府)時は今水を治めて福知山

2019-12-26 16:47:17 | 滋賀・京都
由良川は京都・福井・滋賀の府県境に発し、京都府北部をうねうねと西へ、旧丹波国に点在する盆地を繋いで潤して行く。流れは福知山で大きく北東へカーブし日本海を目指すのだが、私は川面が曲がるちょうどその辺りの堤にいて、下校する自転車の高校生を見送っている。彼らと川面を隔てるように、土手と並行して雑木林が延びている。ただの藪に過ぎないけれど、実は由緒正しく「明智藪」の名が付けられている。



アズマエビスの私などにしてみれば、丹波と聞いて思い浮かぶのは丹波焼に黒豆、それに大江山の酒呑童子くらいのもので、どうも具体像がつかめない。それは古代、この辺り一帯を指していた「丹波」が、律令制が整うにつれ丹後、但馬などに分割され、さらに現在は京都府と兵庫県にまたがって「丹但」とか「三丹」といった呼称まであって、実にややこしいのである。いずれにしても福知山はその中核的都市らしい。



京都駅から山陰線は亀岡、園部と北上し、由良川に出会って綾部、福知山へ丹但エリアを蛇行して行く。城崎温泉でようやく日本海に近づくのだが、この間の風景はおしなべて特徴の薄い小さな山ばかりだから、車窓は退屈極まりない。時折り現れる川が眠気を覚ましてくれるものの、流れているのかいないのか分からない程の緩やかさで、こちらもメリハリに欠ける。狭い盆地が現れると駅があり、小さな街を通過する。



福知山盆地は綾部市も含み、この山中ではひときわ広い。北の宮津・舞鶴方面、西の朝来・豊岡方面、南の篠山方面と、それぞれの道路・鉄道が交差する福知山は、古くからの交通の要所である。だから丹波を賜った明智光秀はこの地に城を築き、福知山と名付けて城下町を整え、由良川の治水に努めた。「明智藪」はその遺構だ。「他所ではいろいろ言われるけれど、ここでは名君ですよ」と土地の人は言う。光秀のことである。



日本海からの水運で大いに栄えた福知山だが、交通の要所は水の集積地でもある。古くは湖だったという地勢はいくら堤防を築いても水害には弱く、街の歴史は大水害による水没の繰り返しであった。明智藪の下流に市の治水記念館がある。建物は明治初期から続いた呉服商の町屋で、当番のおじいさんが「裏の堤防を越えてきた由良川の水が、ここまで達した」と2階の居間の襖を指差して見せる。「28災」の痕跡だ。



昭和28年9月の台風13号は、由良川の水位を7.8mまで上昇させ、戦後の改修途上だった堤防を楽々と超えた。市中心部の広場に設置されている28災浸水位表示板は、私の遥か頭上である。それでも人々は立ち上がり、光秀時代からの福知山音頭を踊り、堤防神を祀り、城山に3層4階建ての大天守を再建した。そんな城下を歩いていると、武士が築いた街というより、商人のエネルギーをより強く感じるのである。



明治まで福知山を治めたのは朽木氏である。初代の殿様は市中に御霊神社を建立し、光秀を配神として認めた。朽木氏は琵琶湖西北・朽木谷の出。浅井の裏切りで死地に陥った信長が、京に逃れた際に越えたのが朽木であり、それを扶けた功で一族は大名に取り立てられた。それから130年ほどを経て、子孫は信長を討った光秀を祀ったのである。福知山民衆の光秀への思慕が、それほど強かったのであろう。(2019.12.19)


























コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 892 伊勢山(神奈川県)古式... | トップ | 894 豊岡①(兵庫県)懐かし... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

滋賀・京都」カテゴリの最新記事