今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

261 丸の内(東京都)・・・ビル街を木枯らし抜けて松の内

2010-01-18 12:34:43 | 東京(区部)

丸の内とは「お城の本丸の内側」のことだから、たいていの城下町ではありふれた地名なのであろう。しかし多分、どの城下町にしても、その名がつく街は特別な一角に違いない。それが「丸の内」というものだ。そして今日、私がいるのは東京・丸の内。まだ松の内だから行き交う人も少なく、丸ビルショッピングモールは閑散としている。丸の内マンは年賀回りで忙しいのか、あるいは深刻な不況で買い物どころではない、という世の中なのか。

一般に「丸の内」といえば「東京千代田区の皇居東方一帯の地」を指すことになるらしく、広辞苑は「内堀と外堀に挟まれ、大名屋敷のち陸軍練兵場があったが、東京駅建築後は丸ビル・新丸ビルなどが建設され、ビジネス街となった」と詳しい。皇居と東京駅。明治が生んだこの二つの存在が、東京の顔を造った。二つを結ぶ「行幸通り」が、日本の街の中でここだけにしかない空間を形成していて、それが「丸の内」なのである。

この街の変貌は激しい。殺風景なビジネス街がブランドショップのプロムナードとなり始めたのは、バブル経済のころだったろうか。「皇居を見下ろす」と論争にまでなった損保会社のビルが、今や高層ビルに埋もれている。変化したのは景観だけではない。この街を、企業戦士が闊歩したのはつい先日のことだ。ビルではグルメを競うレストランが交際費を浪費させ、通りを飾るイルミネーションは浮き世の憂さから目をそむけさせた。

しかし今日の丸の内は、背を丸めた人影が寒々と彷徨する冷えた街だ。国民のほとんどが、これほど重苦しく沈んでいる正月は戦後なかったことではないか。丸ビルの巨大なアトリウムに下がる「日本を今一度せんたくいたし申候」の垂れ幕は、何とも皮肉である。宴の後に、再び「龍馬頼み」とは。ホールでは高知の龍馬記念館のお宝が展示され、岩崎弥太郎の紹介が試みられている。

丸の内が「三菱村」と別称されるのは、明治の中ごろ、財政難から売りに出た国有地の大半を、三菱2代目の岩崎弥之助が買い取って、オフィス街に育てたことによる。このあたりから大手町を抜けて本石町(日銀)、そして日本橋の「三井村」へと歩いてみることは、この国の産業史、財閥史を歩くことである。ビルや企業名をたどることで、資本系列の集中と移ろいを実感できる。

ところで皇居には、九つの門があるそうだが、正門は二重橋(石門)である。そこから行幸通りに続く空間が「丸の内」を特別な存在にしている。しかし皇居の基となった江戸城は、西の「半蔵門」が正面であったと『土地の文明』(竹村耕太郎著)は書いている。古地図に記された「御城」の文字が、西から延びて来る甲州街道に正立していることがその根拠だ。家康にとって、現在の丸の内界隈はどうでもいい土地であったらしい。


丸ビル前で軽く肩を叩かれた。外国人らしい若者が二人、はにかんだ笑顔を浮かべてカメラを突き出している。東京駅を背景に、記念の写真を撮ってくれということらしい。“Where did you come from?”“ Korea!”うれしそうにモニターを確認し、横断歩道を渡って行った。昨今の日本の若者とは違い、さっぱりとした風情がいい。日本の記念に東京駅を背景に選んだ彼らは賢い。東京駅とソウル駅は、設計が兄弟のようなものだからだ。

その東京駅は、目下、大改装中である。1年後には建設当時の3階建て駅舎が復元され、駅前広場もすっきりとして皇居とのつながりをより深める。日本の街の代表格らしく、少しは自慢できる景観になるかもしれない。それにしても鉄とガラスとコンクリートの高層ビル群にあって、古めかしい駅舎の赤レンガが際立って輝くのは、なぜなのだろうか。(2010.1.5)
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