清流が流れ来る彼方を望むと、峰はさほど高くも険しくも見えない。しかし幾重にも重なる山の深さを知るには人はあまりに小さく、背伸びしても到底無理だ。山梨県の東北端、丹波山(たばやま)村に来ている。297世帯527人が暮らす面積101平方キロの村は、97%が山林で、そのうち約70%は東京都の水源涵養林である。眼前の丹波川は遠く笠取山に発して奥多摩湖へと下り、多摩川になる。つまりここは都民の水源の村なのである。
奥多摩駅を午前7時に出発するバスは、1時間かけて山道を登り、終点の丹波山村役場に到着する。平日は3本しかないバスは、これを逃すと次の便は午後2時過ぎまでないので、私は朝5時前に家を出てやってきたのだ。出発時は5、6人の登山客と乗り合ったものの、途中の停留所でバラバラと降りて行き、山梨県に入ると間も無く、乗客は私一人になった。丹波山村の公共交通機関はこの路線バスのみで、山梨県側からはそうした便はない。
役場は始業前で、村はひっそり静まっている。向こうから小学生が3人、連れ立って登校してきた。在校生12人の丹波山小学校の子供たちだろう。役場から出てきたおばさんが目ざとく見つけ、明るく声をかけている。村人は顔見知りが当然といった様子で、他所者の私に対してさえ、出会ったおじいさんもおばあさんも、軽く会釈して「おはようございます」と挨拶してくれる。過密な街で暮らしていると、こうした清々しさには出会いようがない。
丹波山は甲州金山の一角を担う産出地で、武田氏時代には丹波千軒と呼ばれる賑わいがあったという。江戸時代には甲州裏街道大菩薩越えの宿場として、旅人を迎えた。街を貫く国道は、新宿と甲府を結ぶ青梅街道で、大菩薩ラインの愛称がついている。村は「関東で一番小さな村」を標榜しているけれど、島嶼部を含めた全国の村では、人口が少ない順では12番目ほどになる規模らしい。ただ道路舗装は行き届き、風景の秘境感はさほどではない。
人口は、戦後しばらくは2000人を超えていたものの、高度成長期以降は流出が続いた。500人規模の自治体経営はどのように行われているのだろう。今年度当初予算は16億1177万円で、歳入のほぼ半分は地方交付税だ。自主財源の乏しい村の財政運営は厳しいだろうが、それでも村は支出を切り詰め、計画的に積み立てを続けたのだろう、4月に素晴らしい役場を竣工させた。太い梁が美しく組み合わされた大屋根は、村民の集いの場だ。
一見して他所者と分かるであろう私が役場に闖入すると、仕切りのない執務室から「こんにちはー」と声がかかりドギマギする。しかし迷惑がられる様子はないので、広い階段を登って2階に行ってみる。そこは気持ちのいい空間が広がり、椅子やテーブルが点在している。お年寄りが集い、子供たちが遊び、災害時には村の拠点になるのだという。観光客も歓迎されているようで、私は図書コーナーで奥多摩や甲斐の民俗と歴史を学ぶことができた。
この村の名前も存在も知らなかった私は2年前、小河内ダムを訪れた際、「バスはこの先まで通じているが、今は崖崩れで通行止めだ」と聞き、「この奥にまだ村がある」と驚いた。外界とのつながりが途絶え、人々はどんなに心細かっただろう。村民は復旧に向け、クラウドファンディングを募って協力したという。心細さを、互いの笑顔で消しているのが山の暮らしなのかも知れない。村営温泉で汗を流し、昼寝をしながら帰りのバスを待つ。(2023.7.7)
奥多摩駅を午前7時に出発するバスは、1時間かけて山道を登り、終点の丹波山村役場に到着する。平日は3本しかないバスは、これを逃すと次の便は午後2時過ぎまでないので、私は朝5時前に家を出てやってきたのだ。出発時は5、6人の登山客と乗り合ったものの、途中の停留所でバラバラと降りて行き、山梨県に入ると間も無く、乗客は私一人になった。丹波山村の公共交通機関はこの路線バスのみで、山梨県側からはそうした便はない。
役場は始業前で、村はひっそり静まっている。向こうから小学生が3人、連れ立って登校してきた。在校生12人の丹波山小学校の子供たちだろう。役場から出てきたおばさんが目ざとく見つけ、明るく声をかけている。村人は顔見知りが当然といった様子で、他所者の私に対してさえ、出会ったおじいさんもおばあさんも、軽く会釈して「おはようございます」と挨拶してくれる。過密な街で暮らしていると、こうした清々しさには出会いようがない。
丹波山は甲州金山の一角を担う産出地で、武田氏時代には丹波千軒と呼ばれる賑わいがあったという。江戸時代には甲州裏街道大菩薩越えの宿場として、旅人を迎えた。街を貫く国道は、新宿と甲府を結ぶ青梅街道で、大菩薩ラインの愛称がついている。村は「関東で一番小さな村」を標榜しているけれど、島嶼部を含めた全国の村では、人口が少ない順では12番目ほどになる規模らしい。ただ道路舗装は行き届き、風景の秘境感はさほどではない。
人口は、戦後しばらくは2000人を超えていたものの、高度成長期以降は流出が続いた。500人規模の自治体経営はどのように行われているのだろう。今年度当初予算は16億1177万円で、歳入のほぼ半分は地方交付税だ。自主財源の乏しい村の財政運営は厳しいだろうが、それでも村は支出を切り詰め、計画的に積み立てを続けたのだろう、4月に素晴らしい役場を竣工させた。太い梁が美しく組み合わされた大屋根は、村民の集いの場だ。
一見して他所者と分かるであろう私が役場に闖入すると、仕切りのない執務室から「こんにちはー」と声がかかりドギマギする。しかし迷惑がられる様子はないので、広い階段を登って2階に行ってみる。そこは気持ちのいい空間が広がり、椅子やテーブルが点在している。お年寄りが集い、子供たちが遊び、災害時には村の拠点になるのだという。観光客も歓迎されているようで、私は図書コーナーで奥多摩や甲斐の民俗と歴史を学ぶことができた。
この村の名前も存在も知らなかった私は2年前、小河内ダムを訪れた際、「バスはこの先まで通じているが、今は崖崩れで通行止めだ」と聞き、「この奥にまだ村がある」と驚いた。外界とのつながりが途絶え、人々はどんなに心細かっただろう。村民は復旧に向け、クラウドファンディングを募って協力したという。心細さを、互いの笑顔で消しているのが山の暮らしなのかも知れない。村営温泉で汗を流し、昼寝をしながら帰りのバスを待つ。(2023.7.7)
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