今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

1144 小牧(愛知県)城山へシンボルロードをゆっくりと

2024-01-03 11:38:23 | 岐阜・愛知・三重
コマキと聞けば反射的にナガクテと続くほど、中世の「小牧長久手の戦い」は耳に馴染んでいる。しかし、では小牧はどこにある? と問われたら、恥ずかしながら私は答えられない。犬山からの帰途、地図を眺めていて途上の小牧駅を見つけ、慌てて下車する。長年の懸案を解消する好機である。440年ほど昔、秀吉と家康が睨み合った10キロほどの距離を、私は15分間の電車の旅で移動した。無残な戦など連想できない穏やかな平野である。



小松駅に降りると、東西に広い「シンボルロード」が貫いている。その道路を跨いで幅20メートル、高さ14メートルの巨大なアーチが架かっている。小松線は小松駅の手前で地下に入るため、駅周辺は空が広くてアーチが映える。その広い空に向けて4本の柱が中央でクロスし、その上で向き合っている男女は街の発展を願っているのだそうだ。146000人ほどが暮らす街だから大きな地方都市ではあるが、愛知県ではさほどの規模ではない。



シンボルロードを西へ、ゆっくり歩いてみる。前方に見える小高い丘が小牧山なのだろう、1563年、美濃制圧を狙う織田信長が、拠点とする小牧山城を築城した丘である。そして家康が秀吉と対決するため占拠、改修して陣を敷いたのはその21年後のことだ。真新しい市の図書館と、市民会館のような巨大なビルが連続する辺りが中心街なのだろう。綺麗に整えられた街並みだが、よく見ると中心部の空洞化を窺わせるような空き地も目につく。



やがてシンボルロードの行く手を遮るように、神社の杜が現れる。「郷社」にしては立派な境内の小牧神明社だ。清洲から小牧へ居城を移した信長が、守護神として清洲の神明社を分祀したと由緒書きにある。晩年は自らが神だと宣った信長だが、30歳前後のこのころは、神頼みをする人間らしい武将であったわけだ。小牧4年で岐阜城に移り、9年後に安土城を建てて天下に号令し、その6年後、本能寺に斃れる。小牧の日々から20年後である。



信長が城下を整えてから460年、小牧山城界隈は閑静な住宅街が広がり、信長の居館跡だという広場では満開の「四季桜」が冬陽を浴びている。ウォーキング中のおじさんに「山頂までどのくらいでしょう」と訊ねると、「ゆっくり歩いても20分あれば」という。「行けるかなあ」とつぶやくと、「わたしらは3周はします」と軽く応じる。ためらい歩くわたしを追いかけてきて「今日は木曜日だから、歴史館は休みかもしれません」と教えてくれる。



旅先でのこうした親切は身に沁みる。途端に「いい街だなあ」と思う。ようやく山頂にたどり着く。といっても標高は86メートルでしかない。それでも平野部にポツンと蹲る丘は四方を見晴らせ、10キロ北方の犬山城も、18キロ南東の長久手古戦場も見えているのだろう。山頂では往時の砦の発掘調査が行われている。天守閣を模した歴史館は誤解を生むから壊した方がいい。信長や家康が築いたのは、戦いの仕掛けを満たした砦だったはずだ。



江戸時代、宿場町として賑わった小牧は、現代も高速道が交錯する交通の要衝だ。街の南には県営空港と航空自衛隊の基地がある。犬山城下を歩いていたら、「小牧法人会会員」という札を掲げる事業所を見かけた。小牧は愛知県北部経済圏の要の街なのだろう。中心部にいささか空洞化が見られるのは、街のどこかに賑わいが移ったからだろう。名古屋の衛星都市として、歴史も自然も豊かで人は親切だ。暮らすには良い土地だと感じる。(2023.12.21)






















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