三陸鉄道の田老駅は、入り江を囲む街の後背地にある。高台だから津波もここまでは達しなかったというが、ホームから東の街並みはすべて波にさらわれ、海まで遮るものはなくなった。その海に向かって、幼児がしきりに「じいじいー」と呼びかけている。あたかも海で被災した祖父を偲んでいるかのような光景だが、聞けばそうではなく、里帰りした母子を迎えに来るジィジィが、大漁なのだろうか、海からの戻りが遅れているのだという。
「私の実家は幸い無事でした」という母親が教えてくれた。「ここにはずっと街が広がっていたのです。何もなくなってしまいました」「堤防があったのですが、それをすべて越えて波が来たのです」「向こうの山で工事している所が高台移転先です。工事が遅れ、すでに転出して行った人が多いようです。戻って来る人はどれだけいるでしょう」。新しい道路を、ひっきりなしに工事用車両が往き交う。広大な空き地でクレーン車が首を振っている。
田老は、明治・昭和の三陸津波で二度とも壊滅した街である。そこで長大な堤防で海を遮る策に出て、海面高10m前後のX字状の巨大防潮堤が築かれた。チリ地震では浸水を防いだものの、今度の大震災ではあっけなく崩された。むしろ長大な備えが住民を安心させていたのか「堤防があるから津波は大丈夫だと思い込んでいました。そうした思いから避難が遅れた人もいたかもしれません」という被災者の声が、強く印象に残っている。
工事箇所を避け、堤防の上を歩く。生き残った堤防に応急補強が施され、ここが被災地でなければ、格好の遊歩道であるかのように延びている。そんなのんきな連想は、堤防がクロスする地点に来て打ち砕かれる。波の圧力が集中したエリアなのか、無惨に突破された堤防の残骸が点々と遺されている。露出した堤防の断面は分厚いコンクリート塊で、大変な重量だと思える。それを易々と破壊したエネルギーの凄まじさが伝わって来る。
田老という風変わりな名前のこの街は、東には豊かな漁場が広がり、西は緩やかな丘陵が寒風を遮って、南と北から海へ腕を延ばした岬が程よい船溜まりを形成している。まことに恵まれた天然の漁業基地なのである。入り江と山の間には、わずかな奥行きで海に沿って延びる平坦部が広がって、海の幸で潤う街が自ずから営まれるような地勢をしている。だから人々は、万全だと信じる堤防を築いて、この豊穣の地を守って来たのだろう。
島国日本には、入り江の数だけ漁港がある。海があれば暮らしが成り立ったからだ。漁業を取り巻く環境が変化しているとはいえ、基本的にその構造はこれからも変わらないだろう。そして人々は、リレーされる世代のどこかで、津波は再び襲って来るのだと覚悟する。災害規模を想定することの難しさ。人知を超える自然の脅威。それでもここで生きて行くために、堤防の街・田老は、今度こそ高台の街へと改造されて行く気配である。
前夜は田野畑村の海辺のホテルに泊まった。3階まで津波に襲われたというそのホテルの上階で、満ちるには1日だけ足りない月が太平洋に光りの道を延ばして行く様子を眺めた。あの水平線が盛り上がり、海そのものが襲いかかって来るとは連想し難い穏やかな光景である。帰宅して5日、これを書いている今日は、あの日から4年になったとあらゆるメディアが特集を組んでいる。特集が不要になる日は、まだずっと先だろう。(2015.3.6)
「私の実家は幸い無事でした」という母親が教えてくれた。「ここにはずっと街が広がっていたのです。何もなくなってしまいました」「堤防があったのですが、それをすべて越えて波が来たのです」「向こうの山で工事している所が高台移転先です。工事が遅れ、すでに転出して行った人が多いようです。戻って来る人はどれだけいるでしょう」。新しい道路を、ひっきりなしに工事用車両が往き交う。広大な空き地でクレーン車が首を振っている。
田老は、明治・昭和の三陸津波で二度とも壊滅した街である。そこで長大な堤防で海を遮る策に出て、海面高10m前後のX字状の巨大防潮堤が築かれた。チリ地震では浸水を防いだものの、今度の大震災ではあっけなく崩された。むしろ長大な備えが住民を安心させていたのか「堤防があるから津波は大丈夫だと思い込んでいました。そうした思いから避難が遅れた人もいたかもしれません」という被災者の声が、強く印象に残っている。
工事箇所を避け、堤防の上を歩く。生き残った堤防に応急補強が施され、ここが被災地でなければ、格好の遊歩道であるかのように延びている。そんなのんきな連想は、堤防がクロスする地点に来て打ち砕かれる。波の圧力が集中したエリアなのか、無惨に突破された堤防の残骸が点々と遺されている。露出した堤防の断面は分厚いコンクリート塊で、大変な重量だと思える。それを易々と破壊したエネルギーの凄まじさが伝わって来る。
田老という風変わりな名前のこの街は、東には豊かな漁場が広がり、西は緩やかな丘陵が寒風を遮って、南と北から海へ腕を延ばした岬が程よい船溜まりを形成している。まことに恵まれた天然の漁業基地なのである。入り江と山の間には、わずかな奥行きで海に沿って延びる平坦部が広がって、海の幸で潤う街が自ずから営まれるような地勢をしている。だから人々は、万全だと信じる堤防を築いて、この豊穣の地を守って来たのだろう。
島国日本には、入り江の数だけ漁港がある。海があれば暮らしが成り立ったからだ。漁業を取り巻く環境が変化しているとはいえ、基本的にその構造はこれからも変わらないだろう。そして人々は、リレーされる世代のどこかで、津波は再び襲って来るのだと覚悟する。災害規模を想定することの難しさ。人知を超える自然の脅威。それでもここで生きて行くために、堤防の街・田老は、今度こそ高台の街へと改造されて行く気配である。
前夜は田野畑村の海辺のホテルに泊まった。3階まで津波に襲われたというそのホテルの上階で、満ちるには1日だけ足りない月が太平洋に光りの道を延ばして行く様子を眺めた。あの水平線が盛り上がり、海そのものが襲いかかって来るとは連想し難い穏やかな光景である。帰宅して5日、これを書いている今日は、あの日から4年になったとあらゆるメディアが特集を組んでいる。特集が不要になる日は、まだずっと先だろう。(2015.3.6)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます