今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

631 宮古(岩手県)開港し400年の夢の跡

2015-03-18 17:08:35 | 岩手・宮城
宮古とはどんな街だろう。40年も昔のことになるが、盛岡に出張した折り、宮古に駐在する先輩がたくさんの海の幸を担いでやって来てくれて、「地方は面白いぞ」と気炎を吐いた。それ以来、宮古は関心のある街になったのだが、訪れる機会がないまま津波被害を耳にすることになった。今度の北三陸の旅の終着として、宮古の駅に降りた。盛岡行きの列車まで3時間ある。案内所で市街地図を入手し、中心商店街らしき通りに向かった。



おそらく街のメインストリートだったのだろう閉伊街道は、舗道が一部未整備で、雨除けのアーケードもない。営業中と閉まっている店舗が半々か、昼下がり、見渡す限り通りを行く人影は2、3人だ。有線放送だろう、頭上のスピーカーから流れるひび割れたメロディーが耳障りである。お年寄りが3人、ベンチに座ってバスを待っている。近くのホテルの壁に「がんばります中央通商店街」の看板が。震災後に掲げられたのだろうか。



複雑な交差点に出て商店街は終わる。集まった道路を大蛇がうねっているような歩道橋が繋ぐ。形は面白いが塗装は剥げ、錆が浮き出て危うい。その一角に市庁舎が建っている。エントランスの頭上に矢印があって「東日本大震災 津波浸水深ここまで」とある。玄関内の壁には津波襲来時に停止したという時計が「3時24分」を指し、「津波浸水高3.4m」とある。被害を想像して足が重くなる。宮古大橋の歩道に登り、閉伊川を渡る。



頭上のカモメがうるさい。宮古には8種類のカモメが飛来するそうだが、私に区別はできない。隣の宮古橋を歩いて市街地に戻る。上流側に、剥き出しの橋脚が流れに曝されている。JR山田線の残骸だろうか。市庁舎には「みんなのちからで山田線をつなごう!」の横断幕。震災から4年、ようやく翌日が着工式だと、駅裏で式典の準備が進められている。復興は、遅ればせながら進んでいるのだろう。問題は街と市民の元気が復活するかだ。



宮古港は今年が開港400年だという。日本中の主要な城下町が「開城400年」を祝っていたのが2、3年前だから、宮古の歴史はずいぶん古い。その歩みを知る場はないかと観光パンフレットを調べるのだが、ない。近年は地方の小さな街でも資料館やギャラリーを運営しているものだが、少なくとも駅界隈にそれらしき施設は見当たらない。浄土ヶ浜まで行けば国や県の資料館などがあるようなのだが、徒歩で街を観たい私には無理だ。



宮古は岩手県沿岸部では大きな街だが、市民所得の水準はその順位を下げる。人口は6万人を割り込み、財政事情が厳しいのかもしれない。40年前、先輩が三陸の海の幸を担いで山田線に乗り、盛岡までやって来てくれたころは、日本経済は高度成長をひた走って地方も元気だった。ブルドーザーが国土を掘り返すその行く末が、バブル破綻とデフレ転落とは誰も想像しようがなかった。そして地方が、消滅さえ叫ばれるほど疲弊しようとは。



内容の伴わない美術館や博物館なら無くていい。ハコモノより福祉や教育に熱心な街の未来は明るい。宮古はそうした街なのだろうと思うことにする。ただ有数の漁場が眼前に広がり、400年の歴史を紡いで来た港町だというなら、街づくりはもう少し何とかなったのではないか。自ら「若いまち」と名乗る歴史しか持たない十和田市が、見るべき場のたくさんあるのとは対照的であると、東北行脚を終える旅人は思ったのである。(2015.3.6)
















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