今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

940 関(三重県)街道を遡って行く鈴鹿関

2021-04-12 10:00:05 | 岐阜・愛知・三重
東海道「関宿」である。53次の内、江戸から数えて47番目の宿場町である。ただこの「関」は、7世紀に遡る「鈴鹿関」を受け継ぐ由緒がある。関所に由緒などあるものかと言えばそれまでだが、不破関、愛発関とともに「律令三関」を形成する、ほとんど国家の始まりを伝える関跡となれば、歩く気分も一入である。宿場の中ほど、江戸から百六里に当たるあたりに建つ眺関亭から俯瞰する。街並みの向こうに聳える山が、鬼の棲む鈴鹿峠であろうか。



それにしても「どうして街並みが、こんなによく保存されてきたのだろう」と不思議になるほど、江戸時代もかくや、と思わせる家並みである。多くが現在も使われている現役の家屋である。突然響く重機のうなり音に驚いて格子を覗くと、内部はスケルトン状態にして大改造中だ。こうやって外観は古さを保ちながら、現代の生活が送れるように努力されているのだろう。国の重要伝統的建造物群保存地区を維持していくのは、何とも難儀なことだ。



それにしても、とまた思う。こうした伝統的街路の何と似ていることか。例えば木曽の奈良井宿であり、紀州・湯浅の商人街である。低い庇を通りに延ばし、2階はいっそう軒が低い。江戸時代の平均身長が現代より低かったとしても、圧迫感は相当なものだろう。窓も少なそうだから、昼なお仄暗い。天井が低く、薄暗くて湿気も多そうな木造家屋は、封建時代の家制度にふさわしかったのかもしれない。今はモダンにリフォームされているのだろう。



関宿カルタに「泊まるなら鶴屋か玉屋会津屋か」とある往時の四つ星ホテルは、今も建物がよく残っているけれど、風情はあっても現代的快適さには程遠いようだ。しかし当時の旅人にとっては憧れの旅籠であったわけで、憧れの指標は時代と共に変遷することを思い出さなければいけない。英国でコッツウォルズの古い村を歩いた時、昔の農家のあまりの狭さ、小ささに驚いたものだ。生活水準は時代の経済力を反映し、暮らしを縛って推移する。



通りの中ほどに桶屋があって、中年のオヤジが手際よく桶を仕上げている。明治の創業で4代目だという。「桶重」の看板と軒瓦には「器」の刻印が。「そんな瓦はウチだけだ」。口数は少ない上にぶっきら棒で、職人のイメージを絵に描いたような姿で伝統的建造物群に溶け込んでいる。壁にずらりと懸けられた道具類が見事だ。長い竹ざおを器用に操って表戸を開ける。そうやって街道を行き交う人々を感じながら、桶を作り続けているのだろう。



鈴鹿関は長い間、正確な所在地が確定できなかったようだが、近年の発掘調査で、現関宿の西のはずれあたりに往時の建造物の痕跡が確認され、ようやく関跡の一部として国の史跡に指定された。今後は関の範囲の特定が進められるのだろうが、現在の宿場町が収まるほどの大きな遺跡地が確認されるかもしれない。畿内を守る柵として建造された役所が、国家の拡充とともに役割を終え、やがて街道の宿場町へと変遷して今に至ったのだろう。



かつて関町と言ったこの宿は、今は合併して亀山市に含まれる。街を貫く国道1号は、昔の旅人がたどった北寄りの道筋を峠に向かう。一方、関西本線はここで旧東海道と離れ、まっすぐ西の奈良、大阪に向かう。関西「本線」は名古屋と大阪を結ぶ主要な鉄路だと思っていたのだが、単線でしかも亀山からは電化もされていない。私はそののどかな列車に揺られ、柘植駅を目指している。今回の旅の主目的地「油日」へ乗り継ぐためである。(2021.4.3)











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