今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

623 府中(東京都)金持ちの街で観たのは怖—い絵

2015-02-20 21:50:46 | 東京(都下)
「小山田二郎展」を観ようと、府中に出かけた。寒い日が続いているけれど、今週末で終了する展覧会なので、天気予報で「よく晴れる風の弱い日」をチェックし、「本日がラストチャンスだ」と決行したのである。近隣の街に行くのに何を大げさな、と笑われそうだが、車を持たない私にとって、片道1時間の自転車の旅なのである。途中、武蔵野台地のハケの坂道という難所もある。絵に疲れたのか自転車に疲れたのか、とにかく疲れた!

(小山田二郎『ピエタ』)

画家・小山田二郎(1914-1991)の存在を私は知らなかった。キュビズムの影響を受けて画家人生をスタートし、後に特異な心象風景をカンバスに叩き付けた画家だという。晩年、府中にアトリエを構えことから、府中市美術館が「生誕100年展」を企画した。冠せられたキャッチコピーが「戦後の日本美術を代表する異才」というのだから、こと美術に関しては好奇心を抑えられない私には「行かざるを得ない美術展」だったのだ。

(小山田二郎『鳥女』部分)

想像していた以上に、切ない作品が溢れていた。画家は、人間の心の闇には悪魔が巣食うと思っていたのか、黒あるいは青緑の色彩が、異様な人物像を創出している。そして「鳥女」シリーズの眼は何を観ているのか、他者の心の奥底か、あるいは絶望か。小山田は幼児期にウェーバー症候群を発症、顔の一部が変形するという不治の病を抱えて人生を歩むことになった。何とも辛いことだったろう、その苦悩が作品に映し出されている。



結婚し、娘が生まれた40代のころの作品コーナーでは、色彩が豊かになり、穏やかな風景画なども登場するようになった、と安堵したのも束の間、57歳で画家は失踪、家族を棄てて別の暮らしを始める。何が彼を隠遁へと奔らせたかは知らないけれど、作品に見る限り、むしろ暗い激しさが薄らいで行き、どこかユーモラスな線が描かれ始める。多磨霊園近くのアトリエで、夜な夜な死者と交感することで生を超越して行ったのだろうか。



府中市美術館には、文化勲章洋画家・牛島憲之の記念館が併設されている。牛島と小山田の作風は対照的で、饒舌な叫びを隠そうとしない小山田に対し、牛島の風景画はあくまでも静謐、観る者を無言の会話に引き込んでいく。裕福な地主の家に生まれ、天寿を全うした牛島は、その人生も小山田とは対照的に見える。しかし「画家は孤独でなければならない」と言い切った牛島と、小山田は通底する創作への思いを持っていたのかもしれない。



その人生がどのようなものであるにせよ、《描く》才能を持ち合わせた者は幸いである。もちろんそれは絵画に限らず、《創作》する力ということである。音楽でも文学でも、あるいはその他の何でもいい、創作とは、人間にのみ与えられた能力なのだから。ところが人は往々にして、その能力を形に表す術を知らない。だから才能を持ち合わせたわずかな人が、代表して作品に結実してくれるのだ。その作業がいかに辛くても楽しくても、だ。



府中に行くといつも思うのは、この街が実に財政豊かなのではないか、ということだ。道路整備が進み、豊かな並木道が続いている。広大な公園が整備され、駅周辺の賑わいも沿線では傑出している。美術館では市民の作品展も開催されていて、生涯学習センターの版画教室の作品などはなかなかの水準である。昔ながらの公民館活動かと思ったら、美術館も学習センターも、自治体の運営にしては驚くほど立派な設備である。(2015.2.20)










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