妻のお供で国立(くにたち)に出かける。久しぶりの国立駅に降りると、駅は高架になってすっかり様変わりしている。それほど久しぶりということだ。洋裁が趣味の妻は、生地問屋や洋裁工房が余った布を処分するなどのセール情報をキャッチするのがうまい。それが今日は国立駅から北口徒歩8分ということで、引きこもりがちの私を散歩に引っ張り出したのである。高架下のショッピング街を抜けると、「ポッポみち」の標識が立っている。
レールの一部がモニュメントのように設置されているから、かつて鉄道が敷設されていた跡だとわかる。この先に鉄道総合技術研究所があるのだそうで、中央線からの引き込み線が研究所まで延びていたのだという。同じ中央線の沿線のわが家近くにも引き込み線の跡が2ヶ所あって、いずれも緑豊かな遊歩道に転用されている。引き込み線跡というものは、「どんな列車が何を運んでいたのだろう」と想像を刺激するところがあって、妙に懐かしい。
跡地を観察すると、列車は思いのほか狭い空間を走っているものだと気付かされる。この「総研線」の場合、研究所への車両の搬入などに使われていたようだが、住宅の軒先すれすれに運行されていたとはいえ、この程度の用地で大量の人や物資を運べるのだから、鉄道は極めて効率のいい輸送手段だと言えよう。ただ難点は街を分断して融通が利かないこと。そのため引き込み線の活用は次第に下火になり、都市部では絶滅に向かったのだろう。
妻をセール会場に送って、鉄道技研に行ってみる。国立駅からさほど離れていないのに、程なく地番は国分寺市になって「光町」とある。もしやと思った通り、「新幹線ひかり号」がこの研究所で開発されたので、それにちなんで町名が変更されたのだという。そして技研の正門前にドンと丸い鼻を突き出して、951型新幹線が鎮座している。1969年に試験車両として製作された技術開発車両だという。その車体が「新幹線資料館」になっている。
運転席に座ってみる。随分と窮屈なことにまず驚く。そして視界の狭さも思いがけない。この車両は開業前の山陽新幹線で、当時としては電車の世界最高記録である時速286キロを出したのだという。しかしそのスピードで狭い窓越しに凝視する世界はどんなものだろうと、運転士の逞しさを思う。1907年に帝国鉄道庁の鉄道調査所として創設された鉄道技研は、1959年に「国分寺町」に移転、光町のお屋敷街の中に広大な敷地を占めている。
駅に戻ると青森ねぶたのキャラバン隊がハネトを披露している。そこで電話が鳴った。妻の買い物が終わったのだろうと電話に出ると「あのー、お金ある?」。現金しか使えなくて全く足りないのだという。親切な女性が貸してくれて買うことはできたのだが、と歯切れが悪い。急いで引き返し、女性にお礼を言って戻る。おかげでこの日の歩数は7000歩を超え、私の「晩酌ライン」を突破した。この日ばかりは妻も、私の晩酌にはおおらかであった。
国立市は古くは「谷保」という、甲州街道沿いの小さな村だった。大正末期から林地の開発が進み、大学が進出して駅もできた。人口が急増し、戦後間もなく町政を敷くに当たって「やぼ」を捨て、国分寺と立川の中間ということで「国立」と新町名が造語された。それにしても安易な造語だと私は思うが、その後「文教地区指定」をめぐって市民討論を徹底するなど、優れた街づくりが成功したのだろう、今や「くにたち」はブランドに育った。(2022.11.13)
レールの一部がモニュメントのように設置されているから、かつて鉄道が敷設されていた跡だとわかる。この先に鉄道総合技術研究所があるのだそうで、中央線からの引き込み線が研究所まで延びていたのだという。同じ中央線の沿線のわが家近くにも引き込み線の跡が2ヶ所あって、いずれも緑豊かな遊歩道に転用されている。引き込み線跡というものは、「どんな列車が何を運んでいたのだろう」と想像を刺激するところがあって、妙に懐かしい。
跡地を観察すると、列車は思いのほか狭い空間を走っているものだと気付かされる。この「総研線」の場合、研究所への車両の搬入などに使われていたようだが、住宅の軒先すれすれに運行されていたとはいえ、この程度の用地で大量の人や物資を運べるのだから、鉄道は極めて効率のいい輸送手段だと言えよう。ただ難点は街を分断して融通が利かないこと。そのため引き込み線の活用は次第に下火になり、都市部では絶滅に向かったのだろう。
妻をセール会場に送って、鉄道技研に行ってみる。国立駅からさほど離れていないのに、程なく地番は国分寺市になって「光町」とある。もしやと思った通り、「新幹線ひかり号」がこの研究所で開発されたので、それにちなんで町名が変更されたのだという。そして技研の正門前にドンと丸い鼻を突き出して、951型新幹線が鎮座している。1969年に試験車両として製作された技術開発車両だという。その車体が「新幹線資料館」になっている。
運転席に座ってみる。随分と窮屈なことにまず驚く。そして視界の狭さも思いがけない。この車両は開業前の山陽新幹線で、当時としては電車の世界最高記録である時速286キロを出したのだという。しかしそのスピードで狭い窓越しに凝視する世界はどんなものだろうと、運転士の逞しさを思う。1907年に帝国鉄道庁の鉄道調査所として創設された鉄道技研は、1959年に「国分寺町」に移転、光町のお屋敷街の中に広大な敷地を占めている。
駅に戻ると青森ねぶたのキャラバン隊がハネトを披露している。そこで電話が鳴った。妻の買い物が終わったのだろうと電話に出ると「あのー、お金ある?」。現金しか使えなくて全く足りないのだという。親切な女性が貸してくれて買うことはできたのだが、と歯切れが悪い。急いで引き返し、女性にお礼を言って戻る。おかげでこの日の歩数は7000歩を超え、私の「晩酌ライン」を突破した。この日ばかりは妻も、私の晩酌にはおおらかであった。
国立市は古くは「谷保」という、甲州街道沿いの小さな村だった。大正末期から林地の開発が進み、大学が進出して駅もできた。人口が急増し、戦後間もなく町政を敷くに当たって「やぼ」を捨て、国分寺と立川の中間ということで「国立」と新町名が造語された。それにしても安易な造語だと私は思うが、その後「文教地区指定」をめぐって市民討論を徹底するなど、優れた街づくりが成功したのだろう、今や「くにたち」はブランドに育った。(2022.11.13)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます