今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

532 山古志(新潟県)山に生き山を穿ちて山に生く

2013-10-05 11:04:30 | 新潟・長野
栃尾から山に分け入り、山古志村に入った。現在の長岡市山古志地区である。新緑が濃さを増し、山が夏の装いになりかける時節なのだが、峠のあたりから、緑が剥ぎ取られ土砂が剥き出しになっている山肌が目立つようになった。2004年の中越地震の爪痕であろう。9年を経てなお、傷跡は生々しい。それでも山は、いつかは再び緑一色になるのだろうが、そのころには人々の暮らしも、かつての穏やかな日々に戻っているだろうか。



道は上り下りし、カーブが続いた先にいくらか視界が開けて集落が現れる。山肌を除けば地震の痕跡は薄れ、静かな山村の生活が戻っているように見える。小学校跡地があって、真新しい住宅が建ち並んでいる。被災者の集団移転先なのかもしれない。「池谷小学校跡・三ケの子ここに学ぶ」の碑に「真心結んだ三ケの故郷は 雪にもたゆまず試練を越える」と校歌が刻まれている。三ケ(さんが)とは何だろうと調べると、地区名だった。



山古志の風景で名高い棚田を探して山道をさらに登る。ほどよい谷地には決まって棚田が営まれているが、周囲の緑にどこか馴染んでいない。地震で崩れ、築き直された棚だから、まだ草も生えていないのだろうか。あるいは田植えを終えたばかりの棚田とはこんな風情なのか。通りすがりの傍観者に過ぎない私は、能天気にそんなことを考えていたのだけれど、木籠(こごえ)地区に案内されて息を飲んだ。家々が泥に埋まったままではないか。





中越地震は、山間部における地震の恐ろしさを、山古志村で多発した「堰止め湖」が見せつけた。崩れ落ちた山が川を堰止め、流れの畔の集落が水没する。それはダム湖のようになって、決壊すれば下流の家々に鉄砲水となって襲いかかる。それを防ぐために学校が刳り貫かれ、応急の放水路にするといった荒治療が施されたのもこのあたりだ。その谷を見下ろす高台に新しい道路が整備され、埋もれた家や車が地震の証人になっている。





冬には4メートルの雪が積もり、外界から孤絶する山中で人々は米を育て牛を飼い、錦鯉を養殖して生きて来た。馬琴が『南総里見八犬伝』に「宇内の一大奇観」と書いた闘牛で連帯を強め、「雪にもたゆまず試練を越え」て来たのだろう。村を東西に貫く国道291号線は、最奥地の東部までよく整備され、車は真新しいトンネルを楽々と通過して外界へ出て行く。そのトンネルの隣りに、もう一つ小さな黒い口が開いているのは何だろう。



小松倉集落の人々が、人力で掘り進んだ877メートルのトンネル「中山隧道」である。「米や炭、病人さえも、険しい峠を越えて運ぶしか無かった小松倉の人々は、逆境に立ち向かおうと手掘りの隧道掘削を決断」したのだという。江戸時代の話ではない。昭和8年に「鍬立て」し、貫通したのは16年後の昭和24年。戦争も終わっていた。何ということだ! 私が生まれたころの新潟で、これほどのエネルギーが燃えていたとは!





「それにしても、なぜこれほど不便な地で暮らさなければならないのか」と思うのは、傍観的旅人の無意味な感慨である。人は生地を選べない。いかに厳しい環境の土地であろうと、「子々孫々の暮らしの安からんことを願い」山を穿つ親を見て育った児に「不便な地」などないのである。あるのは故郷への慈しみと、その暮らしをより充実しようとする意思だけなのだ。惜しむのは「古志=高志=越」の村名が消えたことである。(2013.6.7)







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