私は新潟が故郷だから、県内に栃尾という街があることはもちろん知っていた。中越と呼ばれる地域の内陸部で、織物が盛んな土地だという記憶がある。しかし新潟市からは遠く、ついぞ行ったことのない街だった。佐渡からの帰り、友人に車で案内してもらった。私が子供のころは栃尾市といったが、いまは長岡市に編入されている。旧市街地は寂れが目立つものの、何といったらいいか、不思議な心地よさを覚える街の風情であった。
栃尾に行くことになったのは、魚沼の寺の「石川雲蝶が観たい」という私に、友人が「栃尾にもある」と回り道をしてくれたからだ。雲蝶については後に触れるとして、新潟県の内陸部には織物の街が連なっている。十日町・小千谷・塩沢は伝統的な「縮」「紬」「上布」、五泉・見附・栃尾は「ニット」などの合繊織物、というのが私の理解だ。しかしニットがどういう織物を指すのかも知らない私だから、正しいかどうか自信はない。
いずれにせよ広大な越後平野の周縁にあって、降雪量が半端ではない地域では、屋内生産が可能な織物は産業として適しているということだろう。そしておそらく(また私の推論になるのだが)、これら産地の出荷額は大きく減少して来ているのではないか。昭和50年ころに顕在化した繊維不況は、構造不況となっていまも続いているのだろうから。地方都市はどこも似たようなものだが、それが栃尾でも商店街の寂れに現れているのだろう。
そんな小さな街に、なかなか立派な美術館があった。刈谷田川を遡り、そこに合流する西谷川に沿って続く市街地の奥の高台に、中学校に隣接して白い瀟酒な美術館が建っている。長岡市栃尾美術館とあるけれど、旧栃尾市が市制40年を記念して設立したのだという。人口はすでに3万人を割り込んでいたと思われるけれど、美術館を持とうとした市民の意思は、どのような思いが込められていたのだろう。よくぞ決断したものだ。
美術鑑賞が好きな私は、訪ねた街にそうした施設があると、できる限り足を運ぶようにしている。そんな経験が増えたからか、展示内容や館内の雰囲気によって、その街の文化程度の幾ばくかが推量できるような思いになっている。たとえそれが市民会館の片隅に併設されている美術コーナーであるにしても、担当者が頑張り、それを後押しする組織があれば、自ずと鑑賞を楽しむ雰囲気は生まれて来るものだし、逆の場合も明白に現れる。
栃尾美術館は館内も心地よかったし、前庭からの眺めも素晴らしかった。山に囲まれた市街地が眼下に広がり、西の尾根には若き日の上杉謙信が雌伏した栃尾城址が望まれる。その晴れ晴れとした風景によって、私はすっかりこの街が好きになった。保育園児の散歩に合わせて美術館の丘を降りると、そこは石川蝶雲が、相棒の熊谷源太郎と8年をかけて腕を振るって飾り彫刻を残した秋葉神社の境内だった。奥の院は大切に鞘堂に覆われていた。
ずいぶん昔、法隆寺夏季大学に参加していた夜、NHKで大河ドラマ「天と地を」が放映された。宿舎の塔頭は関西のおじいさんたちが占めている。元服して栃尾城主となった謙信の勇姿に、みんな夢中に見入っている。しかし「栃尾ってどこだ?」と声が挙がり、唯一人の越後人である私が得々と説明すると、じいさんたちの輪ができた。しかし行ったことが無いのだから説明は曖昧だった。ようやく宿題を済ませた思いである。(2013.6.7)
栃尾に行くことになったのは、魚沼の寺の「石川雲蝶が観たい」という私に、友人が「栃尾にもある」と回り道をしてくれたからだ。雲蝶については後に触れるとして、新潟県の内陸部には織物の街が連なっている。十日町・小千谷・塩沢は伝統的な「縮」「紬」「上布」、五泉・見附・栃尾は「ニット」などの合繊織物、というのが私の理解だ。しかしニットがどういう織物を指すのかも知らない私だから、正しいかどうか自信はない。
いずれにせよ広大な越後平野の周縁にあって、降雪量が半端ではない地域では、屋内生産が可能な織物は産業として適しているということだろう。そしておそらく(また私の推論になるのだが)、これら産地の出荷額は大きく減少して来ているのではないか。昭和50年ころに顕在化した繊維不況は、構造不況となっていまも続いているのだろうから。地方都市はどこも似たようなものだが、それが栃尾でも商店街の寂れに現れているのだろう。
そんな小さな街に、なかなか立派な美術館があった。刈谷田川を遡り、そこに合流する西谷川に沿って続く市街地の奥の高台に、中学校に隣接して白い瀟酒な美術館が建っている。長岡市栃尾美術館とあるけれど、旧栃尾市が市制40年を記念して設立したのだという。人口はすでに3万人を割り込んでいたと思われるけれど、美術館を持とうとした市民の意思は、どのような思いが込められていたのだろう。よくぞ決断したものだ。
美術鑑賞が好きな私は、訪ねた街にそうした施設があると、できる限り足を運ぶようにしている。そんな経験が増えたからか、展示内容や館内の雰囲気によって、その街の文化程度の幾ばくかが推量できるような思いになっている。たとえそれが市民会館の片隅に併設されている美術コーナーであるにしても、担当者が頑張り、それを後押しする組織があれば、自ずと鑑賞を楽しむ雰囲気は生まれて来るものだし、逆の場合も明白に現れる。
栃尾美術館は館内も心地よかったし、前庭からの眺めも素晴らしかった。山に囲まれた市街地が眼下に広がり、西の尾根には若き日の上杉謙信が雌伏した栃尾城址が望まれる。その晴れ晴れとした風景によって、私はすっかりこの街が好きになった。保育園児の散歩に合わせて美術館の丘を降りると、そこは石川蝶雲が、相棒の熊谷源太郎と8年をかけて腕を振るって飾り彫刻を残した秋葉神社の境内だった。奥の院は大切に鞘堂に覆われていた。
ずいぶん昔、法隆寺夏季大学に参加していた夜、NHKで大河ドラマ「天と地を」が放映された。宿舎の塔頭は関西のおじいさんたちが占めている。元服して栃尾城主となった謙信の勇姿に、みんな夢中に見入っている。しかし「栃尾ってどこだ?」と声が挙がり、唯一人の越後人である私が得々と説明すると、じいさんたちの輪ができた。しかし行ったことが無いのだから説明は曖昧だった。ようやく宿題を済ませた思いである。(2013.6.7)
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