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533 魚沼(新潟県)残雪に名工の鑿軽やかに

2013-10-06 13:31:29 | 新潟・長野
《越後のミケランジェロ》の噂を聞いたのは、いつのことだったろう。その作品は雪深い里の、古い寺にあるということだった。友人のおかげで、代表作が残る魚沼市の永林寺と西福寺を訪ねることができた。誰が言い出したものか、ミケランジェロとはいささか喩えが大げさではあるが、《越後の甚五郎》くらいは言って構わないであろう見事な手跡が堪能できた。それは江戸から越後に移り、幕末を生きた石川雲蝶のことである。





手元に魚沼市の「石川雲蝶ガイドブック」がある。作品地図を眺めていると、38年間に及んだ雲蝶の越後生活が浮かび上がって来る。婿入りし、家庭を営んだ三条を中心にした新潟県央部と、関越国境の三国峠から流れ下る魚野川の川筋に、ゆかりの寺々が集中している。代表作は西福寺開山堂の天井彫刻と、永林寺の欄間天女像ということになろう。西福寺のそれは、葛飾北斎が小布施の岩松院に鳳凰図を描いた9年後の作である。





構図の雄大さや鑿さばきの鮮やかさから、大変な才能を持った彫師であったことは私にも分かる。ただ江戸期の過剰なまでの装飾様式は苦手なので、私に作品の芸術的価値を論ずる能力はない。私に興味があるのは、すでに江戸で頭角を現していた雲蝶が、なぜ越後にやって来て、70歳で没するまでこの雪国に安住したのか、ということである。越後入りの決め手は「終生、酒と鑿に不自由はさせない」という誘い文句だったというのだが。





伝説特有の誇張が交じっているとしても、雲蝶は世間の名声にこだわらない、さっぱりとした気性の人物だったように思える。石川流の彫物師として名字帯刀を許され、幕府御用勤めになっていたという解説もあるから、そのまま江戸で暮らせば、さらなる名声と富は約束されていただろう。それを振り切って雪国にやって来たのだから、江戸には居られない失態が生じたか、あるいは仕事を求められる場が生きる世界だと未練を断ち切ったか。



源太郎という相棒がいっしょだった。「三条といえば結構な鑿を作るところだぜ」「酒も美味いらしいしな」「頼まれたからにゃぁ行かなくっちゃな」などと笑いながら三国峠を越えたとしたら楽しい。比較しても始まらないが、彼らとは逆に、私は高校を卒業すると新潟から東京に出た。峠は急行「佐渡」に乗ってトンネルの中で通過した。新潟に何の不満も無かったのだけれど、自分の働き場はもっと広い世界で探してみようと考えていた。



私はそのまま東京で学生時代を過ごし職に就いたので、越後はしだいに遠くなった。32歳と、私よりずっと大人になって越後に来た雲蝶は、求められるまま鑿を揮い、婿に入り、越後の人になった。豪雪下の暮らしが苦にならなかったのだろうし、越後の気風と肌が合ったのではないか。口べたといわれる越後の人々だが、根は親切で温かく情が深い。生き馬の目が抜かれる江戸よりも、腰を据えて制作に励むにふさわしい土地だったのだろう。



本堂の軒先まで雪に埋もれた写真が、永林寺に架けてあった。境内はいささか乱雑に過ぎるが、こうした土地に、よくこれだけの堂宇が守られて来たものだと感慨を覚える。その功労は魚沼の人々にある。雲蝶の作に包まれて米づくりに励み、幾代もかけて日本一のブランド米を育てた。苗が元気に伸び始めた稲田の向こうに、巻機山が残雪を輝かせている。制作に疲れた雲蝶も、こうした魚沼の風光に癒されたに違いない。(2013.6.7)




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