すでに還暦を過ぎたというのに、足を踏み入れたことのない土地が二つもある。47の都道府県で愛媛県と香川県だ。なぜ未だ行く機会がないのかと腹を立てていたところ、松山に行くことになった。かねて関心の街である、張り切らないはずがない。《坊ちゃん》なら「馬鹿にしていらあ」と啖呵を切るであろうほどあっけなく、飛行機は瀬戸内の島々をグーンと回り込んで着陸した。夜には学生時代のゼミ仲間と飲むことになっている。
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城が、ずいぶん高い丘の上に築かれていることに驚いた。築城は関ケ原の戦の2年後だというから、世の趨勢は決していただろうに、何とまあ険しい防御の地が選ばれたのか。麓の三の丸から登城する中・下級武士はさぞ大変だったろうな、などとくだらないことを考えた。
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《坊ちゃん》同様、県庁も見た、大通りも見た、兵営はないからアーケード街を歩いた。しかし《坊ちゃん》のように「二十五万石の城下町だって高の知れたものだ。こんな所に住んでご城下だなどと威張っている人間は可哀想なものだ」などと悪口は言わない。ただ、どこか鄙びを感じる。簡単に言えば「田舎っぽい」のである。
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戦災に遭ったのか、道路は広く区画され、そこをゴトゴトと路面電車が行き来している。街は県都らしい賑わいに満ち、立ち並ぶビルも時代相応である。だから「何が」と指摘することは難しいのだけれど、そうした「街の空気」が、人口50万人の街にしてはどうにもあか抜けていない、そんな具合に感じるのだ。
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とは言っても松山は、大いに魅力的な街である。城山というランドマーク公園を持っているし、県庁裏の庭園や洋館・萬翠荘は、どこにでもあるといった安直な規模ではない。そして何より漱石と子規である。愚陀佛庵に向き合っていると、新緑に染まって二つの文学精神がそこにいる錯覚すら覚えた。こんな街は滅多にない。
ゼミ以来の友人W君は、生粋の松山男児であるらしいが、私から見れば変わり者である。思想はかなり右に偏っていながら、堅い職業を選んでサラリーマンを全うした。どちらかというと左に傾きがちな私とは合わないわけで、彼から見ると私の思考は余りに凡庸でイライラさせられるらしい。だから飲むと議論が高じ、乱闘(手を出すのはもっぱら私なのだが)になる。
ところが付き合いが長続きしているのは、文学や歴史といった共通の関心事がある上に、自分とは相反する視点から物事を聞くことの面白さをお互いに感じているからだろう。だから「松山に行くぞ」と連絡すると、「案内は任せろ」と、すぐに返事が来るのである。
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それにしても伊予人は、「もちっと、ゆるゆる遣っておくれんかな、もし」などと歯応え不足の訛りを使いながら、根っ子は頑固で頑なのではないだろうか? 彼を観ているとそうに違いないと思えて来る。子規こそそうだったのだろう。だからこそ大した句は詠めなくとも、思想としての文学の革新を成し得たのではないか。
アーケード生産日本一の地場らしく、銀天街とか大街道という名の長いアーケード街が賑わっていた。腕章を巻いたおばさんたちが「自転車は降りて通行しましょう」と目を光らせている。案外、生真面目な気風の街なのかもしれない。(2009.4.28-29)
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