今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

775 赤城(群馬県)湧玉の枯れることなし太古より

2017-07-18 05:36:51 | 群馬・栃木
関東平野の北端を塞ぐ形で、群馬県のほぼ中央にどっかり居座る赤城山は、標高こそ1828m(最高峰の黒檜山)とさほどでもないのだが、その広大な裾野は、富士山に次ぐ面積だというのは本当かもしれない。だから山麓には、今でこそ合併で数が減ったものの、かつては多くの町や村が、細かく境界を線引きしていた。そうした自治体の一つに「赤城村」があった。西麓の小さな村に過ぎないけれど、村名は山を代表する大きさである。



戦後10年ほどして二つの村が合併するに際し、赤城村という名称を新たに選んだ。山をご神体とする赤城神社が鎮座しているわけでもなく、厩橋(前橋)の城主が登拝する一の鳥居が建っているわけでもない。たまたまどの町村も「赤城」という名称を用いることを憚っていたことが幸いしたのだろう、小さな村が大きな名を得た。現在は利根川対岸の渋川市と合併し、渋川市赤城町勝保沢といった住居表示の中に「赤城」を残している。



ここで村名の由来を考えようというわけではない。勝保沢に歴史資料館があると知って出向いたのだ。「三原田」の項でも書いたが、私は若い頃、渋川市で6年間暮らした。その間、三原田遺跡が発掘中だったことや、この地で3代にわたって徳川の埋蔵金を掘り続けているご一家と親しくなったことから、しばしば赤城村に通ったものだ。しかしそれなのに、そのすぐ近くに「滝沢石器時代遺跡」という国の史跡があることは知らなかった。



「赤城歴史資料館」は滝沢遺跡の出土物を中心に、民俗資料なども展示する旧赤城村が設立した資料館だ。小さな村がよくこれだけの資料館を建てたと感心する。群馬県の遺跡ならほとんど見て回ったつもりでいた私なのに、関東で初めて縄文時代の住居跡や祭祀用の巨大な石棒が発掘された滝沢遺跡を知らなかったことは驚きである。ただ村による遺跡再調査が行われ、資料館建設につながったのは、私が群馬を去った後の事であった。



滝沢遺跡が最初に確認されたのは、1926年(大正15年)の内務省による発掘調査だった。いまならマスコミが大々的に報じる大発見だと思われるが、石標が1本建つだけの広大な草原となって保存されている。台地の裾では地元で「湧玉」と呼ぶ湧水が渾々と清流を生じ、地下の住居跡や祭祀遺構が縄文人とともに蘇っても違和感はなさそうだ。同時代、南西1キロほどの台地には「三原田遺跡」の大集落があったことが分かっている。



台地が果てる崖下には利根川が流れ、対岸は榛名山が迫り上がって行く。滝沢遺跡に立ってその風景を眺めながら、私は秋田の大湯環状列石遺跡を思い出している。地勢というか気配と言うべきか、遠く離れているとはいえ、二つの遺跡は実によく似ている。周囲に縄文の集落が点在する台地に、同じようなストーンサークルを造った彼らは、ここでどのような祭祀を執り行ったのだろう。東北と関東の縄文人の交流を思うと、心がトキメク。



滝沢や見立の集落が広がるこの一帯は、丘と谷が緩やかなカーブを描き、そこを道路がつないで行く。稲作中心の農業には適した土地とは言えないだろうが、家々の庭は手入れが行き届き、保育園からは水遊びに興じる園児の歓声が響いてくる。満ち足りた暮らしを偲ばせる、実に気持ち
の良い里なのである。だからだろうか、ここで続く人の営みは、連綿と1万年を超えている。赤城颪の厳しさに勝る、住み良い土地なのだろう(2017.7.13)











コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 774 赤岩(群馬県)七夕は雲... | トップ | 776 北橘(群馬県)出土する... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

群馬・栃木」カテゴリの最新記事