今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

457 野毛山(神奈川県)花纏い花のいかだで旅立たん

2012-06-26 20:21:41 | 埼玉・神奈川
その庭には、梢を広げる一株の古い桜があった。風があるとも思えないのに、花弁は絶え間なく枝を離れ、光の中を舞い落ちている。横浜の、丘の上の市営斎場である。孫を見送ったのだ。名もつかぬまま、一度も外の世界に触れることなく逝った彼は、小さな骨壺に納まった。それは掌に乗るほど小さいのだが、両親には何よりも重く大きい存在に違いない。私は密かに「大」と名付けてやった。大は、花を纏って天国に行ったのだろう。





息子夫婦は病院に戻るのだが、私は野毛山公園の入口で車を下ろしてもらった。少し歩いてみたくなったのだ。この公園からさほど遠くない大学で4年間を過ごした私だが、生活の基盤は東京にあったものだから、このあたりの地理は不案内だ。だから横浜の市街地と港を一望する眺めは、晴れ晴れとして新鮮だった。幼子を遊ばせている若い夫婦の家族写真を撮ってやると、とても喜ばれたけれど、大のことを考えてしまい、困った。



ペリーから開港を求められた江戸幕府が、東海道との往き来が不便な横浜村を「開港場」に選んだのは、その間に野毛山があって、港を隔離できたからだった。しかし横浜港の発展は著しく、「関内」に至近な野毛山は貿易商たちが競って豪邸を営む眺望の地となった。またその標高差を利用して、横浜に近代水道が敷かれる役割りを担ったし、関東大震災で街が灰燼に帰したあとは公園として整備され、横浜の震災復興記念の地になった。



そんな解説板を読みながら公園の小径を行くと、様々なグループが思い思いの場所で弁当を広げている。その様子は傍らの句碑「蕗のたうおもひおもひの夕汽笛」(中村汀女)によく似合う。梢の向こうに「みなとみらい」のランドマークタワーが頭をのぞかせているので、どこにいても方角を確認できる。横浜はいまや、全国2位の大都市である。不便な寒村に外国人を押し込めようとした幕府の重鎮たちは、さぞ驚いていることだろう。



しかしあの井伊掃部頭直弼はこれを見通していたかもしれない。強権で開国を推進した直弼の銅像が、野毛山北方の掃部山(かもんやま)公園に建っている。明治になって井伊家が山を買い取り、横浜港開港50年を記念して直弼の銅像を建てたのだという。ところが一夜にしてその首が切り落とされたとかで、政治決断の怨念の根深さは、いつの世も変わらない。とはいえ人間の感情など、100年も過ぎてみればどうということもない。



花に誘われて、息子が結婚式を挙げた伊勢山皇大神宮の丘を回り込んで歩き続け、掃部山にも登ってみる。ここも花の名所だということで、小径はどこも《花むしろ》である。さすがに歩き疲れて来たけれど、ここまで来たからにはと横浜駅まで歩くことにする。かつて東横線の駅があったはずの高島町は、駅が地中に入って空には高速道路網が縦横に延びている。しだいに風景は殺風景になり、その分、記憶の中の横浜になって行く。



翌日、井の頭池に行ってみると、水面は歩いて渡れるかと思うほどの《花いかだ》である。湧水に始まるこの池の水は、花に埋もれた堰から流れ出して神田川となり、高田馬場―江戸川橋―お茶の水と25キロほど下って隅田川に合流する。途中の江戸川橋界隈も花の名所で、もう一人の息子はそこで暮らしている。彼は弟夫婦の落胆を心配し、父親に連絡して来た。これからは花の季節を迎えるたびに、大を思い出すことだろう。(2012.4.12)




















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