今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

1079 小山(栃木県)桜樹の一株ごとの街づくり

2023-02-04 16:42:22 | 群馬・栃木
小山駅からまっすぐ西に延びる「祇園城通り」は、小山市の都市軸なのだろう。3車線の車道の両側にはゆったりと歩道が設けられ、桜並木が続いている。ほどなく現れる「小山宿場通り(旧日光街道)」との交差点界隈は、かつては商店が密集する賑わいの中心だったようだが、大規模な再開発が実施され、今では18階建てマンションが聳えている。都市軸はやがて思川に突き当たる。この15分ほどの散歩で肌に感じるのは「街づくりの苦労」だ。



小山市は栃木県最南部の、人口16万7000人の街だ。栃木県は宇都宮市が人口の4分の1を超える51万人を集中させているのだが、小山市はそれに次ぐ規模になる。平安末期に興った小山氏が、戦国時代に滅亡するまでの400年間、関東屈指の勢力を張った地で、江戸時代以降は宿場町や水運の集積地として賑わう交通の要地なのである。だから私も幾度となく通過している。しかし立ち寄るのは初めてだ。新幹線なら東京から40分で着く。



思(おもい)川の堤防に立ち、深呼吸する。空気は乾いているが花粉はまだのようだ。写真でははっきりしないけれど、北西方向に白銀が連なっている。日光連山だろう。ひときわ高い峰は男体山に違いない。この眺望から、橋は観晃橋と名付けられた。何度も水害に流され、その都度、架け替えられてきた橋だ。市民が寄せる「思い」は一入なのだろう、銘板に「私たちが誇りをもって造りました」と、30年前の竣工時の作業員の名前が克明に刻まれている。



この一帯に中世・祇園城跡、小山評定跡、日光社参の将軍が宿泊した小山御殿跡が集積している。422年前の7月25日、徳川家康はここで軍議を招集、進軍先を会津・上杉から石田三成の西軍へと転進することで諸将を同意させた。この瞬間が徳川政権270年の安泰を決した「小山評定」であると、市は「開運の街」の旗を掲げている。自慢したい気持ちはわかるが、こじつけである。ただ数多の軍勢で埋まったその日の街を想像すると興奮する。



市役所前庭に「小山評定跡」の碑が建つ。しかし私が注目したのはその陰に隠れるように建つ「小山市・結城市 友好都市盟約記念」碑だ。茨城県結城市は小山市の東で境を接する。「盟約」は2014年10月2日に締結された。ともに市制施行60年になる年だ。842年前のこの日は、結城家の家祖・朝光が元服した日であり、結城市は「結城朝光の日」と定めているのだそうだが、朝光は小山家当主の3男であった。何やら中世を漂っている気分になる。



両市民の交流は現代も深い。小山市の結城市側には、「桑」「絹」「絹桑」などの地域が集中している。つまり小山は絹が盛んに産出され、農閑期には紬が織られてきた土地なのだ。ユネスコの無形文化遺産に選定されるまでになった「結城紬」だが、流通の有り様によっては「小山紬」と呼ばれておかしくなかったであろう。そんな両市がいっそう絆を深めていこうと盟約を結んだのだから結構なことだ。植樹された「枝垂れ桑」の成長が楽しみである。



結城との盟約は、この地域のもっと大きな街づくりの構想を含んでいるのかもしれない。関東大都市圏北部の新経済圏構想であってもいい。祇園城通りから思川の堤まで、ずっと桜並木が続く。それぞれ幹に「私はこの桜の里親です」のプレートが掛けられ、名前とともに「孫誕生記念」「米寿に向かって」などと彫られている。市民参加の街づくりだ。里親桜は2000本に達したというから、花の季節はさぞや艶やかな街になるのだろう。(2023.2.1)

























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